FC2ブログ

eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2020-04

Glenn Brancaが亡くなっていた。

5月13日に亡くなっていたそうだ。一度ライブで体験したかった。
Glenn Branca - Lesson No.1 for Electric Guitar

こういう映画もあるんでしょうな ホドロフスキー賛江-3

早稲田松竹ホドロフスキー祭の最後というわけで、「サンタ・サングレ」と「ホドロフスキーの虹泥棒」の2本立てを見た。
いろいろ見方はあると思うが、「虹泥棒」は、破綻寸前のストーリーを無理やり体裁を整えたかんじで、悪くないが、特別面白いわけでもなかった。
というか、特異な設定なので、いつか面白くなるだろうと思ったらそうなる前に終わったというか。
べつにホドロフスキー風味を期待していたわけではないが、そうでなくても、もうちょっとストーリーを整理したらよかったのではないかと思う。
最後の場面は救いはあるけどね。
見どころとしては、貧民集えるパブのおやじがイアン・デューリーで、これがはまり役だった。もともとパブロックから出てきた人なので、役柄にぴったりだった。
しいていえば、パブのハウスバンドをブロックヘッズにしたら、個人的には傑作になったんだが。

「サンタ・サングレ」は、予想以上によくできた映画。
ストーリーも卓抜で、設定もホドロフスキーらしさがあふれているわりに、破綻なく(というか普通の映画よりは設定自体相当破綻しているが)、結末にむけてお話が進んでいく。
起承転結がはっきりしています。
とはいえ、最後の場面、普通に逮捕される=現実(世俗)世界に引き戻されるように思えるが、もうちょっと飛躍があってもよかったような。

というわけで、6本見たが、今のところ「エンドレス・ポエトリー」がいちばん好みだった。勢いあまって、ホドロフスキーのタロットの本を借りてきたが、考えてみると、タロットカードも持っていないので、これは図書館にすぐに返そうと思う。

2 be a 69, not to 66 6月9日はロックの日

6月9日は、ロックの日。2 be a 69, not to 66(中版カメラではない)なので、いちおう「天国への階段」を聴いておいた。
どちらかといえば、GOGO7188の「こいのうた」のほうがロックなかんじがする。

それにしても、半年前から、新宿のイシバシ楽器で売れ残っていた70年代のムスタング。白ボディ、メイプルネック、黒ピックガード、マイクがEMGに換装、というのが8万円代で売っていた。どうも人気がないらしく7万代に落ちてきて、もう少し落ちたら、買おうかと思っていたら、売れていた。
ロックの日は、特別割引があったそうだが、空しい。

詩の話 ホドロフスキー賛江-2

引き続き、ホドロフスキー映画の話を。
今回初めてみた「エンドレス・ポエトリー」はかなり気に入った。併映は「リアリティのダンス」で、これも良かったが、前者のほうが好きである(というか、結局エンドレス・ポエトリーは2回見た)。
ちょっと驚いたが、主人公をはじめ、いろいろな役柄でホドロフスキーの息子(複数)が出演していて、家内制手工業のような映画作りだと思った。

それは良いとしてどうもホドロフスキー自身は、一義的には自分は詩人だと思っているようだ。
では詩および詩人とは何だろうか。日本ではそれほどではないが、たいていの国では文芸の最高峰が詩であり、詩人の社会的存在は意味が大きい。
日本の場合は、定型詩(俳句、短歌)は案外にしぶとくて、人気も実作者も少なからずある/いる。ただし、社会的影響力は必ずしも大きくないような印象がある(とはいえ、人の心に入り込んで、思わぬ時に影響する)。
現代詩(定型的リズムがないものと言えばよいか)はどうだろうか。
人気のある詩人もいて、ときどき話題になるが、文芸の最高峰という位置づけではなかろう。
しかし世界レベルでは、(俗っぽい例ではあるが)ノーベル文学賞はけっこう詩人に授与されている。

まあ、そのへんは別にいいのであるが、なぜ詩が重視されるのだろうか。
ホドロフスキーを例に考えると、詩として口から出た、日常の言葉とは違う、一連の言葉は、単なる言葉の意味の連なりと音の響きの連続ではなく、かなり実体感のあるもののようだった。
詩を黙読するのは、ナンセンな話で、そもそも音の響きが現実世界に放たれ、それが相手に届いて特別な意味を生ずる。
映画を見ていると、詩は詩人の口から語られ、聞き手に届き、確実に相手(という現実)を変えるもののようであった。さらに言えば、そのまま現実世界に働きかける=世界を変える力があるという確信があるようであった。
むしろ、そのような確信を持つ者だけが、詩人となる資格を持つのだろうか。
ホドロフスキーの場合、まず詩の世界があり、それを現実化すると、ある場合には映画になったというように見た。
つまり、詩という特別な言葉による一種の世界創造である。こうなると、旧約聖書の創世記を思い出す。
神が「光あれ」と言えば、光があるようになった。そのあとも、「神は言われた」という言葉とともに、空ができたり、植物ができたり、月ができたり、動物ができたりする。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html
詩人の言葉=詩は、それを再現とまではいかなくても、それをなぞる力、もしくは再度世界を生まれ変わらせる力を持つ、という含意が共有されているのではなかろうか。

ちなみに、歌、音楽、踊りのシーンもふんだんにあり、ホドロフスキーはかなり関心があるのだろう。
これは当然のことで、詩があれば自然と歌が生まれ、歌があれば音楽とダンスがはじまり、それだけでも日常とは別の世界がその場で生まれる。
そういえば、若きホドロフスキーが友人たちと別れてパリに旅立つときに歌う歌(僕は船で旅立つ、云々)は、チリあたりでは有名な曲のようで、別の映画(「サンタ・サングレ」だったかな)でも、歌われていた。
いろいろ書いたが、「エンドレス・ポエトリー」は何度でも見たい。
こんなことを思いついたのは、やはり早稲田松竹で先日見た、ジャームッシュの「パターソン」がやはり詩と詩人についての映画だったので、いろいろ考えてしまった。しみじみとした、いい映画でした。
http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/2018/jarmusch2018.html
ちなみに、このときの併映は、Iggy Popの「Gimme Danger」で、彼の詩がシンプルなのは、子供時代に見ていたテレビの司会者が「ファンレターは20語以内にしようね」というのを今でも守っているからとか言ってたな。

で、「リアリティのダンス」は、ユダヤ移民のお父さんは苦労しすぎて性格が歪んだが、幼少期のホドロフスキーもとばっちりで苦しんだ(でも、それによって現在のようになった)という話でした。
早稲田松竹で見たときは、たまたま「エンドレス・ポエトリー」、「リアリティのダンス」の順番で見たが、密接につながっている映画なので、先行作である「リアリティのダンス」から見たほうが、より楽しめると思います。

カルト映画は時代を乗り越えるか(ちょっと無理っぽかった) ホドロフスキー賛江-1 

早稲田松竹でアレハンドロ・ホドロフスキー特集をしていて、30年ぶりくらいで「エル・トポ」と「ホーリー・マウンテン」を見た。
この2本は、映画版諸星大二郎などと呼ばれることもあり、いわゆるカルト映画といわれているようだ。
当時はそれなりにショッキングだったり、意図が分からないなりに意味ありげだったりしたシーンが、いま見てみると「あるよね、これ」という印象となってしまっていた。
もちろん、当時は十分に常軌を逸した、これまで見たこともないような映画だったのだろうが、先達者の悲しさか、自らが切り開いた世界に他の映画が追い付いてしまって、もともとのものがかえって陳腐化してしまうという悲劇?に陥っているように見えてしまった。
「エル・トポ」を俺のようなおじさんが見ると、最初は子連れ狼、途中はブルース・リーが謎のアジトで順番に敵を倒す映画(ドラゴン危機一髪?)のようで、でもここでライバルを倒す手口が卑怯なのが面白い。その後、地下の洞窟に暮らす人々との出会いは、手塚治虫「火の鳥」黎明編のようである。で、洞窟と地上の町をつなぐトンネルを作るところは「恩讐のかなたに」のようである。最後に自ら身を焼くところは、ベトナム戦争に反対した僧侶を思い出す。
このように、他の作品等を連想しながら見てしまう自分が悲しいのであった。

「ホーリー・マウンテン」は、キリストになり損ねた青年(マグダラのマリア風の女性もいる)が狂言回し的な役回りで登場するが、彼は途中で離脱する。他の登場人物は、どうもホドロフスキーの故国チリのピノチェト政権下の成功者たちを思わせ、それはいまだに他の国にも続いている通俗的にして普遍的な腐敗した人間像として描かれている。
とはいえ、青年が導師に出会って、自分の大便を錬金術風に金にかえるなど、「あるよね、こういうの」という感は否めない。

ということで、いまでも面白いとはいえ、さすがに時代を乗り越えられない部分も多々感じられたのだった。

Windows10でwindows updateしたらOffice2013が不調になった件について

例によって、というのが枕詞につくくらいwindowsの定期updateはちょくちょくトラブルを引き起こすのであるが、今回けっこう苦しんだので、書き留めます。
どなたかの参考になれば幸いです。

DELLのデスクトップPC(7→10に更新済み)を使用していたが、今年初めの大規模update1709でつまづいた。
自動的にインストールするが、完了せず、元に戻るというのを夜毎に繰り返すので、自動更新を延期したまま使っていた。
他のマシンで、update1803でつまづいたが、「クリーンブート」するとうまくいく時があるとのことで、それを実施、成功。
これを踏まえて、DELL機をクリーンブートし、1709を適用したら無事成功。そのまま1803に自動的に進んだ。
1803終了とのことで、PCを操作しようとしたらHDDが100%使用になり、作動が重い。
いろいろやってみたが、改善せず。
とりあえず、wordを起動したところ「作業ファイルを作成できません。環境変数 TEMP の設定を確認してくださいのエラー」とか言い出した。ksg
ちなみにexcelは通常通り起動した(が、後で試みたらエラーメッセージを吐いてたな)。Outlookはwordと同じ。
つまり起動するが操作できない(wordの場合は、ファイルは開いても保存できなかった)。

解決策を探すと、まれによくある事象らしい。
すなわち対策を施す。いろいろやったが、これがうまくいった。理由はわかりません。
http://s-zenba.blog.so-net.ne.jp/2016-06-06 より引用しております。ありがとうございます。

1. Internet Explorer の一時ファイルの場所を再指定する。
→これだけ?では効果なし。
2. レジストリ エディター regedit.exe を用いて、以下のキーの Cache エントリーのデータ設定をし直す。
→効果あり。具体的にはこんな感じでした。
①まず、ここまで開く。↓
HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion
\Explorer\User Shell Folders
②chacheを開く。ここで「値のデータ」をよく見ると、ユーザーフォルダーのユーザー名指定がなぜか他のユーザー名になっていた。例えば、
C:\Users\taro\AppData\Local\Microsoft\Windows\INetCache のはずが、
C:\Users\jiro\AppData\Local\Microsoft\Windows\INetCache になっていた。
さっそくjiroをtaroに入力しなおしたところ、問題が解決した。
なんでユーザー名が入れ替わったのか、原因はよく分からんが、これで良しとしました。

ちなみに、問題発生時にいろいろ確認したところtaroでログイン時に問題は起きていたが、jiroでログイン時には問題なく起動していた。
ユーザーフォルダーの再構築を先行しようと思ったが、けっこう手間なので、まずは上の書いたやり方で試みました。

じつは、このやり方にたどり着くまで、
・クリーンブート→解決せず
・上書きインストール→解決せず
・ユーザーフォルダー再構築→解決せず。ドメインユーザーなので、いろいろわからん状態になって失敗。
・直前に作っておいたシステムイメージからのHDD復旧
→クリーンブートからやり直ししてまた失敗
というわけで、2,3日苦しみました。

こういうことに苦しむのは、なんだか馬鹿らしいわけではある。

二種類の「氷川清話」

勝海舟の座談をまとめた「氷川清話」という本がある。
坂口安吾の堕落論あたりに、父の勝小吉「夢酔独言」とともに書名が出ていて、最初に読んだのは角川文庫版だった。のちに講談社学術文庫版を読み、このなかで江藤淳やら松浦玲やらが、先行本(角川版のようだ)を不正確だとかなり攻撃していた。
俺もその通りだと思っていたが、最近古本でまた角川版を手に入れて読んでいたら、ある考えに至った。
勝は人気(じんき)、呼吸、気合を重んずる。となると、正確さを重視した講談社版よりも、(おそらくは勝自身も調子こいて語ったと思われるものの名残がある)角川版のほうが、間違いが多くても勢いが感じられて、なにやら本人の気分が伝わってくるようで面白い気がしてきた。
もともと、勝は福沢に攻撃されたりするくらいで、いろんな方面からいい加減な奴だと揶揄されてきたわけで、その勝の言葉に正確さを求めても、あんまり意味がない。
たしかに、角川本は編著者の意図による改編もあって問題は多いのだが、そもそも勝自身がほらふき気味だったことは、当時の読者も心得ていたところもあったのではないか。
となると、正確さよりも、勝の息遣いが感じられるような、より生々しさのある角川本も捨てがたい。というか、角川本では勝部真長(かつべ みたけ)のわりと感情的な評伝がなかなかの読み物だったりする。
ということで、また角川本を読み飛ばしている。
困ったことがあると手に取りたくなる本です。

浅草を散歩

ちょっと時間があいたので、浅草まで足を延ばしてみた。
かなりの人出。神谷バーの2階でいつものように電気ブランとビールを飲もうと思ったら満席だった。
浅草寺にお参りし、早田カメラをのぞいたりして時間を潰していったら、いい塩梅にすいていた。
隣の和服姿のおじさん2人が席を立った後のテーブルの上に、割りばしの包み紙で作った鶴の箸置きが置いてあった。
着物姿といい、なんとなくそれらしい好ましいかんじであった。

そういえば、先日来た時には、となりのおじさん2人がお酒を飲みながら定食を食べていたが、ご飯に手を付けていない。
で、お店の人を呼んで、カレールーだけ(実際にはカレーライスを頼んで、ライス抜きにしてもらったようだ)もらって食べていた。
なんだか楽しそうだったな。
(というか、となりで急にそういう交渉をしだしたので、ちょっと見てしまった)

世界中から善男善女が集いて、この日も浅草は賑やかでした。

20180403asakusa03.jpg

20180403asakusa01.jpg

20180403asakusa02.jpg

20180403shunjuku01.jpg これは新宿

小さくて美しい本

先日、横浜美術館で石内都展を見てきた。
なかなか言葉にしがたいのだが、行ってよかったと思う。けっして自分から写真集を買おうと思ったりするタイプの写真家ではないのだが、今回は行かなくてはならないという気持ちがあり、多少無理して時間を作ったが、行って正解だった。

横浜美術館のグッズ売り場に行くと、関連する写真集など、さまざま置いてあった。見ていると、lixil出版の「背守り」という本があった。
しばらく前だが、これをテーマにした展示があるという記事を見て、行きたいと思ったまま忘れていたことを思い出した。
手にすると、写真展で魅かれた半纏の写真があり、それがどういう意図のものであるか記されていた。というか、この展示の写真は、石内都が撮影したものだった。
さっそく買って帰ったが、美しく、内容も切々たるものがあり、解説も充実していて、とてもいい本です。めぐり合ってよかった。

このへんを見ていたら、似たような小さな本を思い出した。
アラーキーには名作写真集がいろいろあるが、なぜか好きなのが河出書房新社の「花の町」である。解説は田村隆一で、これがまた良い。

共通点は、おれが好きな本であること以外、あまりないが、どちらもしみじみとしたいい本だと思っている。
機会があれば、多くの人に手にとってもらいたい。

まずは第二会場に入るべし。迷わず行けよ、行けばわかるさ。「仁和寺と御室派のみほとけ」@国立博物館

上野の国立博物館でやっている「仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝-」がことのほかよかったので、書いてみる。
というのは、仕事の同僚がたいそう誉めていて、しかも見る際のアドバイスまでいただいたのだが、それが有益だったので共有したいと考えた。
会期の終わりが迫っているので、かなり混むことも予想されるが、そのアドバイスは
「まずは第二会場に入るべし。迷わず行けよ、行けばわかるさ」。
国立博物館の平成館2階は左右に会場が分かれているが、第1会場は後回しにしても良い。というのは、第2会場にまみゆべきほとけがあまた御座しますゆえ、第1会場の誰かがなんぞしたというようなことはすっ飛ばすのがよろしい。時間と体力が余ったら、第1会場に戻ると良い。

第2会場に入ると、仁和寺観音堂の諸仏(この言い方でいいのか?)がずらりと並んでいて、そこで善男善女が、狂ったように写真を撮っている。ここは撮影可のゾーンなので、それも良いのだが、シャッター音がうるさくてかなり気が散る。それでもほとけさまに手を合わせている人もいて、これぞ濁世というか末法というか、此岸と彼岸の対比を見せつけられる思いがする。
ところが、この後は撮影禁止になるのであるが、その直前に写欲を使い果たすのだろうか、わりと落ち着いた雰囲気になっている。まあ人は多いけど、そのなかに自分も含まれているわけで、他の人のことは言えない。
ほとけさまを見て、何を感じるかはその人次第であるが、甘美、崇高、峻厳、優美、素朴、そういうものにまみえることができたという喜びがあった。

ところで、やはり大阪・葛井寺の千手観音様について、やはりふれておきたい。
これは会場でも最後の方にあって、力尽きてこれにちゃんと向き合えないと、もったいないと思う。
この千手観音様は、普通は象徴的に40本の手で千本あることにするそうだが、文字通り手が千本ある。その手は衆生を救う手のはずであるが、見ているうちに、むしろ救いを求める人々の手にも見えてきた。
千本の手があるということは、それだけ多くの人を救うという意志であり、またそれだけ多くの手段を持つということでもあろう。
しかし、ひるがえって見れば、千本の手を以て救うべき悲惨がこの世に充満しているわけでもある。
だから、じっと見ていると、千本の手は、観音様の背後から救いを求める手のようであり、観音様はすべてを理解したうえで、さらに祈りを為そうとしているような、なんとも言えない表情であった。崇高というよりも、為すべきことの果てしなさ向き合おうとする意志を感じるような、無理に言葉にすれば峻厳というようなお顔に見えた(左斜め前から見た印象です)。
ただし、そういうふうに感じない人も多かろうと思う。というのは、売店で売っている写真では、そのようには見えないからだ。
それと、ほとけさまのお顔を拝見するときは、正面、右から、左から、と見比べてみると面白い。見る方向によって、かなり印象が違うときがあります。
心に残ったもの、いくつか。
・阿弥陀如来坐像および両脇侍立像(観音菩薩 勢至菩薩):甘美という言葉が浮かんだ。ほっこりします。
・吉祥天立像:なんかいいですね。一木造。
・文殊菩薩坐像:理知的であり、意志的であるように見えた。
・悉達太子坐像:隣の人が「顔を見ると涙を流しているように見えないか」と連れに人に行っているのが聞こえた。たしかにそう見える。
・釈迦如来像:宮城県龍寶寺から来た。なんとなく山仕事したり、海で船方やっているおんつぁん(おじさん)のような風貌。じっさいにこういう人がいそうだ。
・菩薩坐像:神奈川龍華寺で近年発見されたという。なんとも優美。天平美人といったら不敬であるか。
・大日如来坐像:大阪金剛寺。なんとなくだが、宇宙の生い立ちをしっているようなお顔。俺のなかでは、第1会場の曼荼羅と対になっている。
・千手観音菩薩坐像:徳島雲辺寺で、眼病治癒の霊験があるという。たしかにちょっと上に向けたお顔が、目の見えない人のしぐさに見える気もする(スティービー・ワンダーとか)。知っているかぎりでは、顔が上向きのほとけさまは、あまり見たことがないので、そのような印象を持った。

ほかにもいろいろ見るべきであるが、書ききれないのでここまでとする。

出来ればもう一度行きたいが、ちょっと時間的に難しそうだ。
今日は、横浜美術館で石内都展を見てきたので、無理だった。明日は早稲田松竹でジャームッシュの映画を見る予定。もっと前から段取りしておけば、余裕があったんだが。
人気ブログランキングへ

«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

     

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

鰻犬堂

鰻犬堂