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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2020-02

養老孟司はなぜ終わったか、

とか書いてみたが、もちろん全然終わっているわけもなく、苗字のとおり長生きしそうで、そういえばご母堂は95歳で亡くなるまで現役の医師であった。もともと長生きの血筋かもしれない。
さて、タイトルはたんに自分の興味がうすれてきたというだけの話です。失礼なこと書いてすみません。

ところで、いつのころからか養老氏の著作に手が伸びなくなってきた。以前は新刊が出れば、一応手にし、雑誌に記事が載れば立ち読みくらいはしていた。
こうなった理由は、自分が変わった(歳をとった)からかもしれず、養老氏のほうが変わったからかもしれず、もちろん万物流転が世の習い、双方変わってしまったから接点がなくなったのかもしれない。

ただ、なんとなくこんな風にも思っている。
養老氏は、もともと非常に優秀な方であろうが、時代や社会環境によって、医学のなかでも非常に地味らしい解剖学の世界に入った。
簡単にいえば、生まれながらの天賦の才のわりには、不遇であったのかもしれない。
しかし、そのような人が毎日骸骨と向き合い、memento mori(死を忘るな)と考えていれば、やはり苦し紛れに何かを考え、表現するだろう。それが当初の著作の素晴らしさにつながったのではないか。遅咲きではあったが、最初からしっかりとした花を咲かせていたと思う。
しかし、大学を離れ、社会時評のような発言が多くなるにつれて、面白さがうすらいできたような気がしている。
大学や解剖学教室、ご遺体の解剖のような現場を離れ、手を動かしながら考えるということが減ってしまったのだろうか。また、死者の位置から、生者の世の中を逆照射して見るような独特の視点が魅力であったのだが。

原発事故に関連していえば、以前こう書いている。
けっきょくなにも言っていない。週刊新潮8月11日号 養老孟司×中川恵一対談
また、こういうことも書いている。
養老孟司という人

まあ、この人に原発事故のことをきくのは筋違いなのだろう。むしろ、もともと好きな虫の世界に没入していたいのかもしれない。
ところで原発事故後に、北大のこのような研究がある。
http://www.hokudai.ac.jp/news/140320_pr_agr.pdf
概要は
・福島県の高線量地域で,虫こぶを作るワタムシ(アブラムシの仲間)の2種に,2012 には高頻度の死亡と形態異常を検出。
・しかし,2013 年には,2種類とも健全な個体の割合が前年より増加し,集団の回復の兆しを把握した。

養老氏はオサムシがお好きだったかと思うので、阿武隈山地の谷ごとのオサムシの変異でも調べてもらったほうが、原発事故の影響をより深く考えてくれるかもしれない。

鷲田清一「パラレルな知性」(2013 晶文社)

鷲田清一はときどき読むが、それほど印象は残らなかった。しかし「パラレルな知性」(2013 晶文社)を読むと、いろいろと考えるところがあったので、抜書きをつくってみた。
以下は、適宜抜き出したもの。

・フクシマの原発事故がわたしたちに迫ったのは、もはや未来は白紙ではないということだ。未来はわたしたちの前に茫洋と広がる不定のものではなく、すでに「汚染されている」。そのことを勘案したうえでこれからの行動を決める、そういう事態にいまわたしたちは置かれている。
「トランスサイエンス時代の科学者の責任」 2011秋

欲望のこうした変容は、村上の描いているように(※小説「ラブ&ポップ」)時間感覚の変容を伴う。時を未来から現在へ流れ来るものとしてではなく、現在から過去へ流れ去るものとして感じるというセンスである。(中略)
「右肩上がり」の時代はそうではない。高度成長期以降、産業はすべて時を先駆しようとするものだった。プロジェクトの立ち上げから、そのためあらかじめなす利益(プロフィット)の見込み(プロスペクト)の計算、事業の計画(プログラム)、生産(プロダクション)工程、販売促進(プロモーション)、そして約束手形(プロミッソリー・ノート)による支払い、事業の進展(プログレス)の確認とその後のスタッフの昇進(プロモーション)というぐあいに、生産から営業まで、プロスペクティブとでもいうべき前傾姿勢で事にあたってきた。「先に」とか「予め」「前もって」を意味する接頭辞「プロ」がついた行動の、見事なまでのオンパレードである。先にトレンドを捉え、先に事業を起こした者の勝ち、というわけだ。
「工学離れの深因」(2011秋)


ドイツに留学中のフランス人の知り合いからも、いくつか興味そそられる話を聞いた。リセの必修科目「哲学の学級」のこと、上級公務員を養成する大学院では卒業要件として「哲学」の論文提出が義務づけられていることなど。公務員試験になぜ「哲学」が?…と訊けば、どうしてそんなことを訊くのかという表情でこんな答えを返してきた。「よい社会、一人でも多くの市民が幸福になるような社会を目指して働く公務員が、『よい社会』とはどのようなものか、『幸福』とは何かについての定見をもたなければ社会はめちゃくちゃになるじゃないか」というのである。
「知のパラレルキャリア」(2011夏)


1「教養」を失った専門家
いまから七〇年ほど前に、スペインの思想家、オルテガ・イ・ガゼットが大きく変貌しつつある西欧社会のありようを「大衆の反逆」と名づけ、専門性の意識というものが深く抱え込む錯誤について、きわめて厳しい批判をおこなった。ここでいう「大衆」とは、いうまでもなく「大衆社会」の「大衆」であるが、注意する必要があるのは、その典型として批判の矛先を向けられているのが、「市民」という大衆ではなく、むしろそれまで(そして当時もおなじく)精神的貴族とみなされていた知的専門職、とりわけ科学者と行政官僚だということである。
 科学者に向けての言葉はとくに辛辣であり、「今日のもっとも『教養』ある人びとが、信じられないほど歴史的無知に陥っている」としたうえで、オルテガはいう。「(一八九〇年代に)歴史上前代未聞の科学者のタイプが現れた。それは、分別ある人間になるために知っておかなければならないすべてのうち、一つの特定科学だけしか知らず、しかもその科学のうちでも、自分が積極的に研究しているごく小さな部分しか知らないという人間である。そして彼は自分が専門に研究している狭い領域に属さないいっさいのことを知らないことを美徳と公言し、総合的知識に対する興味をディレッタンティズム〔物好き、素人芸〕と呼ぶまでになったのである」(『大衆の反逆』、神吉敬三訳)と。
「専門性」という名のもとにサイエンティスト(ビューロクラート)は自己の限られたレパートリーのなかに閉じこもる。他の領域、つまりじぶんが無知である領域にまで発言するのは越権としてみずからに禁じる。裏返していえば、他の領域の専門家をじぶんの専門領域に受け容れようとしない。こうした「自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間」がはびこりつつある。そのような種族の人間は、かつて「選ばれた人間」がおのれに課していた「自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自らすすんでそれに奉仕する」という使命をもはや内に感じることはない。そのような凡俗な人が社会を牽引している。「もはや主役はいない。いるのは合唱隊(コーロ)のみである」。そうオルテガは警告した。
「専門家と市民のカルチャーギャップ」(2006春)


学問がすぐに何の役に立つかは考えなくてもよいと、わたしはおもう。けれども、それがだれの役に立つかはつねに考えておく必要がある。幾分かは恵まれたじぶんの才能を他の人のために使うのは、「名代」という言葉にもあるように、「代わりをやって」と何かを託され、それを引き受けることである。そしてだれかに当てにされているという感覚は、なによりも研究の励みになる。
「だれかの代わりに」(2013冬)

大学の学問は私利のためになされるものではない。(中略)
 学術が市民からの一定の信頼を得、一定の国家予算がそれらに投入されてきたのは、学術が国家ならびに市民にとってある「普遍的」な価値を生みだすものと認められてきたからである。「普遍的」というのは、いかなる政治的立場や利害関係にも与することなく、私的利害を超えて「客観的な真理」を追究しているという共通了解が成り立っているということである。
「<代弁>という仕事」(2011春)


何年か前に、大宅映子さんが、ある私学での講演で、文学部という組織を次のように定義しておられた。「死ぬと分かっていて、なぜ人間は生きていけるのか、 その根源的理由を考えるのが、文学部というところだ」、と。
 人文学というもののすばらしい定義だとおもう。思想も芸術も宗教も、人が「死ぬと分かっていても生きようとする」その理由を探求するところに生まれた。思想や芸術はその理由をさまざまな流儀で表現し、歴史学はそういう(広い意味での)表現の歴史を、政治や経済を含めて考察してきた。
「実業」、つまりは行政や産業活動にかかわる人たちは、それぞれのやり方で、「幸福な社会」をもたらそうと働く。が、そもそも「幸福」とは何かという吟味なしに、慣例や流行に従って活動することほど危険なことはない。舵なしで進むことにほかならないからだ。そういう舵となるフィロソフィーをもたない官僚や企業人が国際社会で信用されなくなっているのも、当然といえば当然のことである。
「実学・実業という虚像」(2007年春)


(前略)わたしがここで考えてみたいのは<技術>としての教養というものである。ただしここでいう「技術」とはテクノロジーのことではない。むしろギリシャの哲学者たちが「テクネー」の名で呼んだ知恵に近いものである。
 古代ギリシャ哲学の碩学、田中美知太郎は『哲学入門』という著作のなかで、哲学は「知の知」である以上に「技術の技術」であるとして、次のように述べている。

〔生活の実際につながりをもつ以前の〕知は、まだ知ではないわけです。医学の知識は、病をいやし、健康をもたらすのであり、建築の知識は、家をつくる。病を治さぬ医学の知識、家をつくることのできぬ建築の知識というようなものは、無意味だということになります。哲学のためには、このようなつながりが必要なわけで、そのためには哲学の求める智も、単に知られるものについてだけ考えられる知ではなくて、知る者を医者にし、建築家にする、ひとつの力としての知でなければならないでしょう。これらは、技術として存在しています。哲学は、それらの技術の技術でなければならないのです。

 この記述に強く含意されているのは、哲学とは知の使用にかかわる技術だということである。それは「見る」こと(理論)と「つくる」こと(製作)の中間にあってそれらを結びつけるもの、つまりは第三の技術としての「使用」にかかわる技術だということである。ここで「使用」の技術とは、「目的と手段をつなぐ技術」のことであり、わたしたちの行いの最終目的は、「そのために他のすべてのことがなされる」こととしての「幸福」なのであるから、そこから、哲学は、「『何のために』、『何を』ということが、いろいろに考えあわされる、大きなつながりのうちで、人を動かし、物を動かすこと」としての《政治》の技術をもふくめて、「最上の道」、最善の工夫を求める技術」であるといえる。田中はプラトンに従ってそう述べる。そして、科学・技術がその本来の目的を逸脱し、それを使いこなすはずのわたしたちを逆に支配し、統制するようなものに反転している現代にこそ、そうした「技術の技術」としての哲学がふたたび呼び戻されなければならないというのである。知の「すべてに気をくばる」ものとして。
(中略)むしろ何が人の生の真の目的かをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げていく技としての「哲学」である。(中略)それをわたしたちはここで、「教養」と名づけたいとおもうのである。
 そうすると、「教養」は高みから時代の社会を眺めるものではなく、時代の社会のなかに深く潜り込もうとするものであると言ってもよい。

 そういう視点から、わたしはいわゆる教養教育は、高年次になるほど不可欠なものになると考えている。

 人が学ぶのは、わからないという事態に耐え抜くことのできるような知性の体力、知性の耐性を身につけるためではないのかと言いたいくらいである。そういう知性の耐性を高めるジムナスティックスこそが、いま「教養教育」には強く求められているようにおもう。
「知性のジムナスティックス―大学における教養教育をめぐって」(2011冬)

 思考というものがわたしたちのうちにまずあって、それからそれが言葉にされるのではない。逆に、たいていの思考というものは、なにかよくわからないままぼそっと口にすることで、あるいは文字に書き起こすなかで、おのずと形をとってくる。言葉には思考をまとめるはたらきがあるのだ。
(略)ガブリエル・マルセルという哲学者は、「もし言葉をもたなかったら、人はじぶんが襲われている感情がどういうものか、わからなかっただろう」と書いている。
「イメージ・リテラシー」(2009年夏)

子育てについても似たことが言えるとおもう。子供に対して大人ができることは「育てる」ことではたぶんない。そこで暮らせば、人として勝手に育ってゆく、そういう場を「地域社会」として子どもたちのためにそっと用意できているかどうかというのが、その地域の成熟を測る尺度となるのではないだろうか。
「Can I help you?」(2012年冬)

(略)この「代わり」の二様、前者を<代替>、後者を<代理>と呼んでみよう。するとこの二つは、ふつう「部分」と訳される「パート」という語の二つの意味に対応することが見えてくる。
 パートという語からは、だから、パーティション(分割)とパーティシペーション(参加)という、対極的な二つの語が派生してくる。
「パートの二つの意味」(2013年春)


(略)自立というのは本当に他の人に頼らずにすむこと、つまり「依存」(ディペンデント)ではなく、「独立」(インディペンデント)であるというこというのだろうか。ちょっと考えればわかることだが、他人にまったく依存しないで生きていけるような人は存在しない。(略)とすれば、「自立」とは、いざとなったらいつでも支えあうことのできる(インターディペンデント)人的ネットワークをきちんともちえていることをいうのではないか。
「私的なもの」をめぐって(2010年冬)

ある日、もっとも年配の参加者が最後にぽつりと口にしたことばが忘れられない。司会をしていた大学院生がまとめに窮しているときに、そのご老人が口をはさんだ。「まとめんでいい。知り合いでもない孫のような歳の子とこんなに長く『家族とは何か』ということをまともに話しあったということだけで満足や」。
カフェという集い(2010年夏)

 ジャーナリズムは、ヨーロッパの近代社会の勃興期に、上流階級、支配階級の社交の場であるサロンに対抗して、中産階級の市民が、職業や階層を離れて「市民」として出会い、語り合う場であるコーヒーハウスでの自由な言論から生まれた。そこからさらに、市民による公論の形成を支えるコミュニケーションの媒体として発展してきた。その歴史を忘れたとき、メディアは耳をつんざく拡声器以上のものではなくなる。
「政治」と「政局」(2008年秋)

 柳田國男がはるか昔に予言したように、近代社会では、貧困という共通の運命に共同であたった「共同防貧」の仕組みが消えて。平均ではより豊かになれども個々の貧しい人は「説くに忍びざる孤立感」のなかでそれにさらされる「孤立貧」の時代がやってくる。
「われわれは公民として病みかつ貧しいのであった」と柳田はその著「明治大正史世相篇」を結んでいるが、彼がそれによって訴えたのは、いかなる困窮にあっても人を孤立させてはならないという一事にあった。
勤労感謝の日に(2008年秋)


新聞には「聞」という字が含まれている。「きく」である。「きく」には、「聞く」「聴く」はもちろん、さらに「訊く」という意味がある。そして「香を聞く」「利き酒」という言葉にも見られるように、嗅いで、味わって調べるという意味もある。
「時代に”添い寝”するのではなく」(2009年夏)


 明治以降、とりわけ戦後は復興から高度成長、高度消費、バブルと急激な右肩上がりが続いてきた。この急カーブの右肩上がりの時代のなかで生まれ育った人びとが、今の六〇代半ばあたりから七〇代、日本のトップを担っている世代だ。わたしは、「ああ、この人たちは未来世代のことを考えない人たち」なのだなとつくづく感じている。なぜなら、右肩上がりの時代には、どんな深刻な問題も技術の進歩によって必ず次の世代が解決してきたらからである。
 しかしながら、定常時代、停滞時代には、ひとたび大災害が起これば食べてゆけなくなるという事態が起きうる、だから昔は、孫の世代、ひ孫の世代が飢えないように蓄えておくことがあたりまえだった。
 ところが、右肩上がりの時代が骨の髄まで滲み込んでいる人びとは、きっと次の世代が何とかするだろうと信じて疑わない。そのぶん、未来の世代のために蓄えたり節制したりということをする必要を感じない。歴史のなかで、今の日本のトップ世代ほど、未来世代のことを考えずに生きてきた世代は珍しいのではないか。
 逆にいえば、このたびの震災によってわたしたちはこうしたことにやっと気づかされた。たとえば、現下の国債の増え方はだれが考えても異常だ。それを放置できてきたのは、いずれだれかが何とかするという発想があったからだ。現在さえフル回転させておけば、いずれどうにかなるだろうという感覚だ。これは個人的なエゴイズムというよりも、社会全体にある”頑張っていたら何とかなる”という空気だろう。七〇〇兆円をはるかに超える国債残高は、それを物語って余りある。
「「右肩下がりの時代」をどう生きるか」(2012年冬)

そのため(多文化共生)に必要なのは、対話である。ただし、それは「ディベート」ではなくて「ダイアローグ」としての対話だ。
 ディベートとダイアローグの違いについて、平田オリザさんが、大要次のようにわかりやすく教えてくださったことがある。
“ディベート(討論)においては、対話の前と後でじぶんの考えが変わったら負けだ。逆にダイアローグでは、対話の前と後でじぶんの考え方。感じ方が少しも変わっていなかったら、対話した意味がない“と。
「聴く力」と「待つ力」(2009年秋)

いとうせいこうの高校時代

先日、人から聞いた話。
高校時代のいとうせいこう、名前はふつうに正幸という名前だった。
真面目で、ずば抜けて成績が良いわけではなかったが、常に一定の成績(100点満点でいえば85点くらい)をキープするようなタイプで、難しいテストでクラスの平均点が下がっても、彼だけは一定の点数をとっているような学生だったという。
しかし、どうしたわけか、高校2年生のときにまったく似つかわしくないと思われる応援団に入ったので驚いた。
おそらく、優等生タイプである自分を変えたかったのではないかと、その時かんじたそうだ。

なんとなく、人柄が知れる話だと思って聞いていた。

いとうせいこうの、その後の活躍はよく知られるところだが、「妄想ラジオ」は読んでおきたいな。

早稲田古本市 今回の戦績

早稲田大学で古本市をやっていると聞き及びまして、とりあえず行ってみました。
以前は正門のすぐ内側にテントが出ていたのだが、今年は建築工事をやっているので、大隈さんの銅像のさらにうしろのほうでやっておりました。

まずはテント内を物色。あまり目ぼしいものはなさそうだが、目を凝らすと(乱視&老眼なので)、「アンゲロプロス 沈黙のパルチザン」(ヴァルター・ルグレ フィルムアート社 1998)が1,200円であった。すかさず購入。
この本はほとんどないか、あっても高価です。amazonだと最安値で3200円くらい。
とりあえず1勝です。
この古本市、あんがい掘り出し物があって、以前、鬼海弘雄の「やちまた」も見つけた。
期間中にもうちょっといろいろ探したいですな。


ということで、後日また行ってきました。
収穫は、荒木亨先生「木魂を失った世界のなかで―詩・ことば・リズム」(朝日出版)を1,000円で見つけた。
というか、荒木先生の本は訳書も含めてなかなか見かけないので、値段はいくらでもいいのだ。
それと、阿部謹也「自分のなかに歴史をよむ」(ちくま)。これは機会があれば若い人のぜひ読んでもらいたい。
写真関係の掘り出し物が見つけられなかったのが残念だが、次回が楽しみです。

別に古本屋さんと対決しているわけではないが、なんとなく狩りのような気分が毎回あって、なんでかこのような書き方になってしまった。

いがらしみきお「ものみな過去にありて」(仙台文庫2012)

この本を読んでいたら、はじめて知ったことがあった。そうか、いがらしみきおは難聴だったのか。
彼独特の、世界とのそぐわなさについて少し分かった気がした。文中にもあったが、4コママンガでもけっこう怒っていたものな。
それにしてもけっこう音楽が好きだったことは作品から知っていたが、だいぶ大きな音で聴いていたのだろうか。山下トリオなんか、大きな音で聴いたらいい気持ちだったろう。

ところで、「本へ」という題の文章に、「物語」についてなるほどと思ったところがあったので引き写す。

(前略)図式としてはこうです。人間→言葉→物語→本→いろんなもの。これが人の世の流れじゃないでしょうか。「本」はいらない、人間→言葉→物語→いろんなものだとする人もいるでしょうが、それでもいいです。問題は物語なので。では物語とはなんなのかというと、震災と津波で家族とあらゆるものを破壊されてしまった人が、もう土台しかなくなった自分の店に行ってみると、誰かが瓦礫のなかから拾ってくれた商売道具が置いてあった。それを見てその人は「ここでまた店をやれってことだと思ってー」と気持ちを決める。これが物語というものです。
なにもなくなってしまった自分の店の前に商売道具だけがポツンとおいてあった。それを見たとき、その人の中にあった物語が起動したわけです。その物語はその人の中にいつか埋め込まれていたものでしょう。たぶん本によって。または本から作られたいろんなものによって。
物語は人の行くべき道を示したり、逆に苦しみや悲しみももたらします。家族を失くした悲しみ、それも物語りだし、その悲しみを救うのもたぶん物語でしょう。そしてほとんどの物語はまず本に書かれてあるのです。(後略)

しみじみと良い本です。

ついでにひとつ。鬼海弘雄の写真集「persona」についてふれた文章があった。やっぱり見ている人は見ているんだな。

古本屋との3連戦、1勝1敗1分

以前ほどではないが、ぽつりぽつりと古本屋で品定めしているのが好きだ。先日探していた本を見つけたので、このところの勝敗結果を考えた。
というのも、古本屋と客というのは一種の真剣勝負(笑)で、店主の値付けと、そこから漏れた本を探す客とのせめぎ合いが醍醐味である、って別に「せどり」をやっているわけではない。

まずは、近所に最近出来た古書店の店頭に100円コーナーがあり、古い「太陽」が出ていた。予感があって何冊か見てみたら、荒木経惟の「さっちん」が収録された号が出ていた。これでまずは「1勝」。うれしくて、会計のときに「これはほんとはもうちょっと高いはずですよ」と口が滑ってしまったが、店主は苦笑していた。

次に、アンゲロプロスの映画を見た後、北千住のB・Oをのぞいたら写真家・故吉田元(周はじめ)さんについての記事がある「フォトコンテスト」誌があった。大きいメディアで吉田さんを取り上げた記事は数えるほどしかないが、そのなかでもこれは大きいほうであった。
http://betsukai-onsen.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_3147.html
http://betsukai-onsen.cocolog-nifty.com/blog/files/syuu_hazime.pdf
値段は600円。古い写真コンテストの本など実質的に読みたい人など居らぬので100円でも高いように思うのだが、この本は探すとないもので、とりあえず買ってきた。「1敗」です。

今週の話であるが、古い「太陽」を買った古書店に入ったら、棟方志功没後1年にでた「グッドバイ棟方志功」(講談社)が600円。これは適正価格で「1引き分け」。この本は、苦闘時代(笑、いまも別に好転したわけではないが)に、当時出入りしていた乃村工藝社の書庫で繰り返し見ていた本である。あんまり見ていたので本がバラけてしまった(乃村工藝さん、すみません)。あの当時はこの本が大きな救いだったな。
この本で棟方が墓碑について語っている部分があって、次の部分が好きである。

驚いても  オドロキきれない
喜んでも  ヨロコビきれない
悲しんでも カナシミきれない
愛しても  アイシきれない
結局、無限なんですよ。

というわけで、表題の通り1勝1敗1分で、戦績としてまあまあ満足しちょります。

創造的?誤読

先日、タブッキの追悼文を書いていたときに、自分の誤読をひとつの材料にして文章をこさえた。
じつはこのとき、今道友信先生とやりとり(といえるか心もとないが)を思い出していた。

今道先生はいまは体調の関係でご自宅で執筆の日々を過ごされている。それ以前は、中央公論社の古典読書セミナーを主宰されていて、ときどき参加させていただいた。
ある回のとき、先生はこういうことを話された(以下、大雑把です)。

美について考えるとき、このように考えることができる。

           犠牲→人格美
          /
       自由→藝術美
      /―効果→技術美
   必然→自然美
  /
雑多な感覚所与

ところで藝術美は、本来見ただけで分かるはずであるが、やはり学ばなければ分からない美もある。例えばキュビズムをはじめて見た人はなかなか分からないが、説明を受ければ(=理性的にとらえなおせば)その良さが分かる。またそのような美に接することによって、ものの見え方が変わる場合もある。例えば、昔「25時」(著者コンスタン・ヴィルジル・ゲオルギュ)という小説が評判になったが、そのなかに、ナチスの強制収容所に連行される際、トラックにむちゃくちゃに詰め込まれて、手や足があっちこっちから飛び出てキュビズムの絵のようであった、という文章があった…云々。

という話であった。私はその「25時」という小説が気になり、図書館で取り寄せて(けっこう古い本でした)読んでみたが、「キュビズムの絵のよう」という表現はなかった。

その次の回の始まる前に、私はよせばいいのに、この小説にはそのような表現はなかったようですよと言って、該当箇所のコピーを渡した。先生はそのとき何も言わなかったが、セミナーが始まると、
「これから人格美の例として、私の受けた感動をもとにして、記憶だけでホメロスによるイーリアス中の、アキレウスについての場面を話したいと思います」と言って、語りだした。
「ギリシャのアメガムノンの振る舞いに怒り、アキレウスはテントに引きこもる。しかし、友人パトロクロスが敵の総大将へクトールに負けてしまう。
アキレウスとパトロクロスは乳兄弟で親友であった。アキレウスは怒り、へクトールを倒した。そして戦車に死骸をくくりつけ走り回った。死体がぼろぼろになった。へクトールの父・徳に優れた人物であるプリアモスが、夜一人でアキレウスの陣営を訪ねた。
「私はプリアモスだ」「ご老人、どうぞ中へ。あなたの息子を殺したのだから、さぞかし憎かろう」「戦いだから、どちらか一方しか生き残れないのは仕方がない。しかし正式の葬式を出してやりたい。二三日、戦いを休んで、子を葬りたいが、亡骸をいただけないか」(じつはへクトールの首を取って、アガメムノンのところへ行けば大功績であった)。「貴殿は、誇りを知る武将だと思って、このようにやってきた。たとえ一瞬でもいいから国民とともに弔いたい」「私はパトロクロスが討たれた以上、戦わないわけにはいかなかった。亡骸はお返ししよう。戦いを10日止めて、国葬の礼を尽くされるがよかろう。責任を持ってそうするので、あなたもそれを守ってもらいたい。ところで、戻るにあたり、誰か人をつけようか」「敵陣には覚悟の上でやってきた。敗将に従者はいらない」
アキレウスは、プリアモスが帰っていくのを見守った。不心得者がプリアモスを討たないように。」
そしてこう付け加えられた。
「今のホメロスの詩は、正確ではないが、かつて受けた感動をもとにその場面を想像して語ったものです。想像力で思い出せば、かつての英雄たちのいきいきとした姿を思い浮かべることができる」。
これは、私の浅薄な行為に対しての先生のある種の解答だったようにも思うが、この件について直接はお話ししなかったので定かではない(けれど、私の心の中ではそうなっている)。

そういえば、角川書店版の坂口安吾「堕落論」には面白い註がついていて、安吾は記憶だけで書いているので、引き合いに出している事柄や物語などは、実際とはかなり違うものが多い、等と書いてあった。けれども、安吾のなかではそのような記憶であったのだろうし、もし正確を期すために調べ物をしながら書いていたのでは、あの勢いは生まれなかったろうと思う。ちなみにいまでも「堕落論」や「不良少年とキリスト」「ぐうたら戦記」等を読み返している。元気が出ます。

また、フランスの実存主義者、サルトルあたりもカフェで文章を書いていたので、けっこう記憶違いが多いらしい(サルトルは読む気がしなくて、よくわかりません)。

いまでこそ、ネットで検索しながら、事実に基づいた文章が書けるだろう。でも、記憶が自分の頭の中で醸成され形が変わっていくほうが、どれだけ価値があるか分からない。正確さなら検索すれば満たせる。しかし新たな想像力をもって創造的誤読をし、なんらかの新たな価値を生み出せるなら、そちらのほうがいいのではなかろうか。思えば今道先生が25時という小説で描いたイメージは、ピカソの戦争画に通ずるところがあって、それはそれで間違ってないようにも思う。

思い込みが強くて、記憶力が弱い私は、このように思っていたりするのです。

アントニオ・タブッキ「レクイエム」風のレクイエム

ここに来れば、あなたに会えると思っていましたよ。

そうだね、と彼は言った。ここは誰にでも開かれている場所だからね。まあ掛けたまえ。

私はあなたの作品のそれほど熱心な読者ではないかもしれませんが、それでも、あなたの小説を読んだおかげでリスボンまで行きましたよ。

そう言ってもらえるとうれしいね。それでリスボンはどうだったかね。

私はまず美術館に行きました。「緑の窓の夢」というカクテルを飲むためです。

ほう、そうかい。で、どうだった? 彼はいたずらっぽい目をしながら言った。

あなたはとんだくわせものですね。いや、むしろあなたの虚構の毒にやられたのかもしれない。私は美術館に入って、まず案内図を見ました。barはあるだろうか。しかし案内板には部屋ごとの展示について書いてあるだけで、くわしいことは分かりませんでした。私は日本人である以上、やはり最初に南蛮屏風を見に来ました。いや、そうではないな。入口のそばにあるから行っただけで、ほんとうは『聖アントニウスの誘惑』を見たいと思ったのです。ボスの作品はすばらしかったが、そこにはあなたの小説にあったような細部を拡大して描く複写画家はいませんでした。これはまあいい。私は妻に言いました(夏休みで妻と旅行中だったのです)。どこかに洒落たbarがあるはずだ、そこで少し休もう。
飛行機を乗り継ぎリスボンに着いたばかりで妻は疲れていたのです。私は、妻を椅子に座らせてレストランに行ってみました。そこには休暇中のアメリカ人学生がたくさんいました。むしろ学生食堂風でした。ここではカクテルは出ない。私はそう思って、他の階を見てまわりました。この美術館はそれほど大きいものではありません。私はようやく、あなたの虚構を真に受けてしまったらしいことに気付きました。

君はもうちょっと注意深く小説を読むべきだったね。他の料理も、現実にあるものと虚構のものが同じように書かれているだろう。それはポルトガル語からイタリア語への訳注に出ていたはずだが。

ええ、おっしゃるとおりです。そして、私は妻になじられました。だから小説好きは駄目なのだと。妻は、ヴェンダース監督の『リスボン物語』を見たので、私のリスボン旅行に賛成したのです。妻にいわせれば、文字による虚構よりも映像による虚構のほうが「罪」が少ないということです。この「罪」という意味は私にはまだ分かりませんが。

例え妻であっても女性は永遠の謎だね。でも、君たちのけんかの原因になったのだったら申し訳なく思う。

いや、そんなことはありません。彼女は『リスボン物語』の舞台になった町、とくに教会に行ければそれでいいといっていましたので、けっして気を悪くしたわけではないのです。




ところで、私はあなたのあまりよい読者ではない、と言いましたね。そのことを話したいと思うのです。

それは、いわゆる日本風の言い回しだろうか。わざわざ来てくれたわりには失礼な言い方かもしれないね。

そういうつもりはないのです。
つまりこうなのです。私は『レクイエム』のビリヤードのシーンが好きで、人と話をするとき、よく取り上げていました。私はあなたが亡くなったことを知って追悼の意をもってこの小説を改めて読みました。そしてアレンテージョ会館で主人公がビリヤードをする場面で驚きました。わたしのなかでこのシーンは、こうなっています。
勝負相手のボーイ長が最初に突いた球筋が巧妙で、次の球の突き方は非常に難しいものとなっている。主人公は追いつめられており、勝負に勝つためには、盤面に散らばった球をひとつの脈絡あるものとしてとらえなおし、次の球筋を見いださなければならない。それはこれまで体験してきた様々なこと、自分にとっては筋道があるのだが説明しにくいこと―それは他人から見れば単に脈絡がない羅列にすぎない―を貫く、見えざる道筋を発見することと同じで、それができてはじめて主人公は、自分の人生を肯定できるし、その後のことに進める。そして主人公は奇跡的に成功する。
でも作中で主人公がプレイするのはおそらく四つ球です。アメリカ風の球の数が多いゲームは粋ではないというセリフがある。しかし私の思い描いていたゲームはよく考えるとナインボールです。そして私は過去に重点を置いて考えましたが、主人公はこの困難なゲームを乗り越えることが、イザベラに会うという困難を克服すること、つまりこれから先のことと重ねられている。だから、私はまったく誤読していて、あなたの作品を好き勝手に改変して、じぶんの話をしていたにすぎないのです。いったいどこを読んでこうなったのでしょうか。

君の誤読も面白いといえばいえる。でもそれはもう私の小説ではないね。

だから、もし良かったらこう思ってください。私はあなたの作品世界を自分なりに読み、さらにいえば生きた。その証拠に、あなたの小説が私の鼻面をつかんでリスボンまで連れていったのです。そして私なりの別の作品が、もう一つ出来てしまったと。




それにしてもリスボンというのは首都というには少しさびしい町ですね。なぜ、あなたはイタリアから移ったのでしょうか。あなたが教師をしていたシエナもよい町でしたのに。じつは、リスボンに行く前にシエナに寄ってきたのです。カンポ広場のそばにうまい魚料理の店がありました。ということは、私はそれほどわるい読者ではないようですね。

リスボンに移った理由は、もちろんペソアに魅かれたからだ。でも、それだけではない。
最後のファシストであるサラザール政権は、1945年以降も続いた。サラザールの最後の数年間は小説よりも奇妙なものであった。ちょっと小説にしたいほどでもある。その間の植民地戦争で、ポルトガルは1970年代になってやっと戦後を迎えたようなものだった。私は1943年の生まれだ。戦後の風景が幼いころの記憶と重なったという部分もある。また、サピア・ウォーフの学説を知っているだろう。

ええ。使う言語によって、ものの考え方は変わりえるという説ですね。

簡単すぎる要約だが、まあそういうことだ。私の書きたいものはイタリア語ではなく、ポルトガル語が一番ふさわしいことが分かったからね。では、私が書きたいものとはなんだろうか。社会性が強い作風だといわれることもあり、それはたしかなのだが、それにもまして、いま、ここにないものを愛惜するという感情が強いらしい。それを書くための言葉としてふさわしいのがポルトガル語だった。

「いま、ここにないものを愛惜する」という言葉がありましたね。そのことと、あなたの作品のなかにある鎮魂の気配は関係があるのでしょうか。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それは読者が決めることだよ。




ところで君は日本のどこの出身かね。無理だとは思うが、消息を知りたい人がいるんだ。

私もその話をしようと思ってここに来たのです。私の故郷は日本の東北部です。去年の地震では大きな被害があったところです。幸い身内に被害はありませんでしたが。

そうかい。大変な経験だったろう、どういう言葉を言うべきか私には分からない。で、私に知らせたいことってなんだろう。

あなたの「レクイエム」の翻訳者がどこに住んでいるかご存知ですか。

スズキさんのことかね。彼は日本の北部センダイに暮らしていると聞いたことがあったので、地震に関係があったのか心配だったのだ。

そうです。スズキ氏は東北地方の仙台という町に住んでいます。この町も、とくに海沿いの地域は津波で壊滅的な被害を受けました。彼は内陸部に住んでいたので無事でした。
しかし、この町は、電気、ガス、水道がしばらく途絶え、復旧するまで時間がかかったそうです。私の知人がたまたま彼を知っていので、間接的に彼が無事であることが分かりました。そのことを伝えたいというのが、今回ここに来た理由の一つでした。

そうか彼は無事か。ほんとうに良かった。
君はリスボンの大地震について知っているだろう。1755年11月1日、リスボンは直下型の地震に襲われた。母なるテージョ川は逆流し町を襲った。火災は都市を焼き尽くすまで6日間燃え続け、7日目安息日を迎えたかのようにやっと火が収まった。そして私はイタリア人だ。地震の怖さは知っているつもりだよ。
当時、この地震によって知識人は深刻な影響を受けた。ひとつには創造主である神は必ずしも人間の側に立つものではないこと。もうひとつは、やはり人間は自然には太刀打ちできないということ。たぶん、今回の地震も、それまでの世界を支えていた思想がもう通用しないことを意味するだろう。ただ、それについて言い表す言葉はまだ生まれていない。
そして原発の爆発事故。私は黙示録の世界が出現したと思っている。これは世界史に残る事件だ。想像力は、自分の知人がそこに居ることによって、はじめて実際に活動しはじめる。スズキ氏との関係が紐帯となり、今回の地震と原発事故について考えをまとめたいと思った。ただ私にはこのことについて十分に考え、書く時間はもうなかった。




ところで『フェルナンド・ペソア最後の三日間』という作品がありますね。あれは美しい作品だと思います。私もあなたの最後の三日間について考えてみましたが、なんだかコメディになってしまいましたよ。いいや、コメディだと三日間は長すぎる、「最後の三十分」でしょうか。

それはちょっと聞いてみたいな。私は、教会に響き渡る荘厳な音楽よりも、俗っぽい小唄端唄を好むほうだから。

そういってもらえるとうれしいな。あなたはマルクス兄弟というコメディアンを知っていますか。

知っているとも。私の幼いころは、イタリアでも知らぬ人がいないくらいの人気があった。

では『オペラは踊る A Night at the Opera』という映画をご存知ですか。

いや、どうだったろうか。詳しくは覚えていない。

この映画のなかで有名なシーンがあるのですが、兄弟がもぐりこんだ客船の船室に、いろいろな人がやってきてだんだんぎゅう詰めになってくる。最後に女性が船室のドアを開けると、なかから全員が雪崩をうって溢れ出すというものです。
同じように、あなたが最後を過ごす病室をペソアとその分身である詩人たちが訪れる。でも、お互いに話し込んで誰も帰ろうとしない。その会話は文学的でもあり、俗っぽくもある。そのうちにあなたの作品中の人物も集まりだす。『夢のなかの夢』にでてくるラブレーやランボーまで現れて議論する。マヤコフスキーとチェホフが人妻との報われぬ恋について話し合ったり、フロイトはペソアの精神分析をしようとして、しかし寝椅子がないので、ペソアをあなたのベッドに割り込ませようとする。フロイトは申し訳なさそうに聞いてきます。
タブッキさん、死の床についているときに恐縮ですが、少しベッドを詰めてもらえませんか。
なにしろペソア/Pessoa(ポルトガル語のperson)のpersonaを診ようとするのでややこしい話になる。でも、みんなペソアの分身であり、あなたの創造した人物でもある。あなたは拒むことはできない。だんだん病室は人でいっぱいになってくる。そして最後に「煙草屋」が現れる。すると水兵姿のあなたの父が気まぐれに煙草を買おうとする。あなたは若き日の父にこう言います。父さん、あなたは咽頭癌で死ぬことになるんだから、煙草なんてやめてください。そういって無理に父から煙草をひったくろうとするのをきっかけに、人混みが崩れて全員病室からこぼれてしまう。そして、あなたはご臨終。ペソアとその分身、登場人物に囲まれながら、ともに地上から去っていく。

いやはや、とんでもない話だな。怒るべきか笑うべきか。ひとつ質問があるがいいかい。

ふざけすぎましたかね、なんでもどうぞ。

このあと、この連中はどこに行くのだろうか。天国かそれとも地獄か、さあどっちだろう。

この人たちは、やはり虚構という毒に犯されているので、まっすぐ天国に行くことはできないでしょう。ではどこに行くか。この場面はcomedyでもありますが、文学的にはdivine(聖なるもの)であるとも感じられます。『The Divine Comedy』といえばダンテの『神曲』のことですね。だからまずは地獄門から入って、でもそれほどの罪は犯していないからすぐに煉獄に行くのでしょう。そしてさまざまな遍歴を繰り返すのです。それにあなたは旅が好きだから、苦ではないでしょう?
そして、たぶん500年くらい後の文学史には、こう書かれています。
・アントニオ・タブッキ。20世紀のポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの「異名」のひとつ。散文小説を書く際に用いられた。社会性と抒情性を兼ね備えた作風で知られる。代表作『レクイエム』等。

ほう、ちょっとおもしろいね。いったいどうしてこんな奇妙なことを考えたのかね。

それはあなたの「こわれた小説」もしくは「できそこないの物語、決着のつかない物語」を読んできたから、私の頭もこわれたのです。つまり私なりにあなたの小説を生きるということはこういうことなのです。あなたがペソアの作品を生きたように。

そうかい。ありがとう。君の設定では、我らはいつになったら天上界に行けるのか分からないように思うのだが、文学史の話は少しおもしろかった。なにか救いがあるようで、私の趣味にもあう。作中の登場人物にも愛情をかけるのが私の主義だからね。
ところで、そろそろ夜が明けそうだ。君も帰る時間じゃないのかい。





カーテンを開けるとまだ桜は散っていなかった。
ときは春、今年は満開になってから寒さがもどったので、花が長持ちしているようだ。別れ際に、さようならと言うべきだったか、それとも、おやすみなさいがふさわしかったか。
でも、私は今はこういいたい。みなさん、おはよう。
そして、古いカメラEOS-RTに、今年で生産中止になるフィルム「リアラ」を詰めて出かけよう。

 行く春をリアラで撮りて惜しみおり

タブッキ先生、さようなら。


・アントニオ・タブッキ Antonio Tabucchi、1943年9月23日 - 2012年3月25日


※以下、タブッキに関する書き込み
・アントニオ・タブッキが亡くなった。
・聖アントニウスの火、もしくはタブッキはミスったかw
・アントニオ・タブッキ「レクイエム」

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アントニオ・タブッキが亡くなった。

http://facta.co.jp/blog/archives/20120327001081.htmlを見て、驚いた。
亡くなったのは3月25日、火曜日あたりの朝刊に出ていたらしいが気がつかなかった。

今日は、なにもする気がなくなりました。
でも亡くなった場所が、彼の愛するリスボンだったとのことで、少し慰めになるような気がします。
それにして68歳とは若すぎる。これからが本領を発揮する年代だったろうに。
さびいしいです。


ところで、タブッキ氏の訃報をうちでとっている朝日新聞で見た記憶がなかったので、再度見直したら、26日朝刊の海外欄に小さく掲載されていた。あんまり記事が小さいので気づかなかったようだ。記事の内容も通信社レベルのものでちょっとおそまつな扱い、さびしい、というか、やる気あるのか、この新聞社。普通に社会面に掲載されるべき人だが。

阿Q正伝のタイトルについて

魯迅の有名作品ですが、何とも妙なタイトルですな。とくに魯迅のファンでもないのに以前から不思議だと思っていたが、中国語で見てもなんとも変だそうで、魯迅自身も作品冒頭で、長々と解説している。

で、作品中に孔子や論語の話題が良く出てくる、というか阿Qは儒学者崩れなので、彼自身が良く引用する。
ところで、孔子の名は「孔丘」とも書く。「丘」の字は、中国での発音は知らぬが、現在日本では「きゅう」と読む。阿Qの「阿」の字は「~ちゃん」というような意味らしいので、阿Qは「Qちゃん」というあだ名となる。じつはQ=(孔)丘で、そのへんをからかったあだ名なのではないかと考えてみた。

「阿Q」という名前について調べてみると、Qは辮髪の頭を横から見たところという説がある。なるほど。
http://cheng2489.iza.ne.jp/blog/entry/1085890/
また、筧武雄という方の書いたものを見ると、「魯迅先生の本当の命名の意図は、Qすなわち丘(qiu)、つまり丘仲尼(孔子)を指しているのではないかと私は勝手に解釈している」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2004&d=0709&f=column_0709_001.shtml
なるほど。

ところで「阿」という接頭語?は、この場合、人を少々馬鹿にしている感じであるが、似たような語感のことばとして発音は違うようだが「亜」という字を思い出した。この場合「亜Q」は「亜丘」となり、亜流の孔子という意味に曲解することもできるような気がする。たしかに阿Qの発言は、そんなかんじのものが多い。

浅学非才の我なれば、誰か教えてくださらんかのぅ。
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