eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-11

不思議な一日(前編) 六田知弘写真展「宇宙のかけら」@御所市

大阪と御所市で六田知弘さんの故郷、御所市をテーマにした写真展があるので、先の日曜日に思い切って行ってみた。
http://gose-muda.jp/
けっこう交通費もかかるので、数週間迷っていたのだが、図録(があったとしても)で見ても、展示会場で見る写真にはかなわないし、御所市というのは特徴のある町だという話も聞いていたので、日帰りで行ってみることにした。

早朝、といっても7時の新幹線にこけつまろびつ飛び乗って、着いて来るは新大阪。中心地なる中之島に地下鉄で乗り付け、即ち大阪会場に這入った。
http://gose-muda.jp/osaka/
会場は地下鉄の駅の一部で、コンクリート打ちっぱなしのモダンな空間であった。

いくつか印象に残ったものを。
・杉?木立のうえに不思議な雲というかフレアがかかっている。撮影地は「高天」とある(その意味はあとで分かった)。
・蜘蛛の巣にかかった葉っぱと、蝶(パンフレットに使われている)。この蝶は蜘蛛の巣に捕らえられたか、それとも自由に舞っているのか、そこのところで解釈が大きく違うように思った(これはたまたま飛んできた揚羽蝶で、蜘蛛の巣にひっかかっていたわけではないとのこと)。
・金剛山と葛城山のパノラマ(5枚)。これは会場で見なくては意味がない。鳥が何羽か映りこんでいる。中央の峠らしきところの上に夕日が浮かんでいる。ある意味、宇宙的でもある。
・櫛羅(くじら)の滝。滝の全景を3枚の写真で構成している。一番下の写真は滝壺らしいものが写っていて、ここにも蝶が写りこんでいる。
・夜の葛城山頂。ススキの原のうえに、ぼんやりと浮かぶ雲。なんということもないが気になるところがある。
・風、水、空、地、火の縦位置5枚の組写真。大きいのでこれも会場で見ないと意味ない。
・高鴨神社の池。瑞々しい緑と水面。これもパンフレットに使われている(御所会場にもある―後述)。
・伏見 菩提寺の法起菩薩像。五眼の菩薩で、役の行者(役小角)に関係がある。ファインダーを通して、五つ目に対峙するのは俺はできないだろうな。
・櫛羅の滝。これも瑞々しさがあっていいかんじである。
詳述するときりがないので、あとは省略するが、御所の街並みを組み合わせた写真は、なんだかかわいいかんじであった。

全体の印象は、モダンな空間に、非常に風土性の強い写真群が展示されていて、とくに自然を写したものは、六田さんの他の写真(水ノ貌等)とくらべて、人との親和性が高いように思えた。やはり故郷だからだろうか。
虫や鳥が、いくつか写真に写りこんでいるが、あれは六田氏自身ではあるまいか、とも思った。

とりあえず交通費分の元はとれたという感もあり、御所市の資料をもらって、まずは退出。

向かいの大阪市立東洋陶磁美術館で「台北 國立故宮博物院―北宋汝窯青磁水仙盆」展も見る。この「人類史上最高のやきもの」といわれる北宋の汝窯を代表する青磁水仙盆の写真を六田さんが撮影しているので、これも見逃せない。ただし、ここの話を書くと収まらなくなるのでふれないが、この独特の青は「雨後天青」というらしく、雨の後の、雲の切れ間からこぼれるような青を目指したという。
ちなみに六田さんは、物撮りをするとき必ず触って、触感を確かめてから撮影するそうだが、まさかこの青磁水仙盆にも触ったのであろうか。
http://www.moco.or.jp/exhibition/current/?e=366

昼前に一通り見たので、大阪から御所市に向かうことにした。
※まだ不思議な話にはなりません。

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飯田橋くらら劇場

飯田橋の名画座、ギンレイホールのわきにポルノ映画館があって、でも人もあまり入っていなさそうだった。
先日通りがかったら、閉館したようだ。
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田中長徳さんのこと

先日、神田明神そばのギャラリーで田中長徳氏の写真展を見た。
若かりし頃のプラハの写真はモノクロであっても、色彩が感じられるようなはつらつとしたものであったが、近年のはなにか物憂げであった。
好きな写真家なので、ちょっと寂しくなりました。

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富山治夫さんのこと

写真家の富山治夫さんが亡くなった。

かなり以前、直接お話をうかがう機会があったので、そのことを思い出して書いてみる。
・富山治夫さんといえば「現代語感」が名高い。この時の執筆陣は、大江健三郎氏、安部公房氏、飯沢匡氏、井上光晴氏ら、錚々たるメンバーだった。
http://www.tomiyamaharuo.com/japanese/essay_tomiyama.html
執筆陣の文章に負けない写真を撮るために、毎回知恵比べをするような楽しみがあったそうだ。
この企画にはかなり力を入れて取り組んでいたということで、例えば、ライオンの写真を撮るため、襲われる危険性があるにもかかわらず(飼育員は大丈夫だと言ってはいるが)、車外に出て、かなり近寄って撮影したそうだ。
http://blog.canpan.info/tomiyama/archive/104
ここにご本人からの言葉があるが、直接お話ししたとき、広角レンズの画角から、どうしても車内からは撮れないはずだと思って質問したら、そのような答えが返ってきた。
・いろいろな写真集があるが、ちょっと面白いのが創価学会関係のもの。別に富山氏が学会員でもかまわないのであるが、そのへんを聞いてみたら、創価学会のギャラは異例に高額なのだそうだ。だから、依頼された仕事はきちんとこなし、ギャラをたくさんいただいて、自分の好きな写真を撮るという考えであったとのこと。それはそれでいいのではないかと思った。
他には石元泰博氏や立木義浩氏も、学会関係の写真集を撮影しているが、同じような考えなのだろう。
・若いときはなかなか苦労もあった(写真は独学)という。しかし、写真の腕は若いころから確かだったらしく、写真コンテストでは入賞してよく景品を手に入れていたという。
そのころはカメラメーカー主催?の写真コンテストが多く、賞品がカメラであることが多かったが、それらのカメラはすぐに売り払って、生活の足しにしたり、ほしいカメラの資金にしたという。
・デジタル写真については、かなり早い時期からかかわっていた。一口にデジタル写真といっても、何をもってそう言うのか等あいまいなところが多く、なにかの規約?ガイドライン的なものがあるべきというような話だった記憶がある。
・全体に、かなりダンディで若々しい感覚の方だった。ご自宅近くの北新宿を撮影した写真は、失礼ながらお年からは想像できないような非常にモダンなものだった。その時もかなりのお年だったが、現役感があって「最近は大家だとかいかぶられて仕事が少なくなって困る。依頼があれば、どんどん仕事は受けるのだが」などと言っておられた。

ご冥福をお祈りいたします。

写真展「火・風ノ貌」(六田知弘)について

写真家の六田知弘さんの「火・風ノ貌」展が、東京京橋の加島美術で開催されている。
http://www.muda-photo.com/topics/index.html#T160909-1
http://www.kashima-arts.co.jp/events/ka-fu_no_bo/index.html

この方の写真に非常に惹かれるものがあり、何度かここでもとりあげた。
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-847.html
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-848.html
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-851.html
また、加島美術では「水ノ貌」(2014)、「地・空ノ貌」(2015)と連続して展示しており、今回が一つの締めくくりになるかと思う。
※「地水火風空」の五元素をとりあげてきた。

先日、ギャラリートークのある日に合わせて見に行った。
六田さんの写真展では、見るたびにちょっと言葉にしがたい心の動きを得るのだが、今回は、ことさらにそうだった。
けれど心の動きに従って、なんとか言葉でトレースしてみよう。

まず1階の展示を概観する。大別すると火(炎)にかかわる写真群と、風にかかわると思われる写真群がある。
火にかかわるものを見ると、まず遠近感が失われる感覚があった。刀鍛冶の玉鋼?を鍛錬するときのモノクロ写真は、一見すると宇宙の星雲のようでもあり、ほむらとそのなかの火の粉のようにも見える。
極大と極小がひとつの写真から感じられて、めまいのような感覚があった。同じように暗闇のなかに赤い火が点在する写真(台湾の寺院の線香とのことだった)を見ていると、近いのか遠いのか、大きいのか小さいのかよく分からなくなる。
そのそばにある斜光線で浮かび上がるコケとその上の木の葉の写真を見ると、ごく小さいはずのものが鮮明に拡大されていて、ここでまた遠近感を失う。
また風に吹かれた後の草むら(カラー)を見ると、田舎で見慣れていたはずの風景なのに、なにか異界に通じるような気配を感じた。雨に濡れた木の芽(カラー)を見ても、知っているはずなのに、違和感があるような気がする。
果たして、火の写真と、風の写真は関係があるのかないのか、あればどう関係しているのか。よく分からないままに2階の展示を見た。
モノクロの温泉(湯気の立った池)の写真を見たときに、なにか、そこはこの世ではないような気がしてきた。
前方を歩く馬を後ろから見たモノクロ写真(しっぽが揺れていて、全体にぶれている)を見ると、この馬に導かれてこの世ならぬ世界に行ってしまいそうな気がする。
そう思って、改めて見ると、どの写真も何か異界を感じさせるように思えてきた。

「遠近法」perspectiveは、きわめて知性的な働きによるもので、その見方を採用することは理性的、論理的世界を生きることではないかと思う。また、perspectiveという言葉には、視野という意味合いもあり、目に映る事物、世界を理性的にある種の秩序によって再構築して理解するということではないかと思う。
しかし目に映るものは、ほんとうにそれだけなのだろうか。

遠近法が狂った世界にいったん入り込んで、そこから改めてまわりを見ると、いつも見ているものとは違う様相が現れてきた、ということを疑似体験させてくれるような写真ではないかと思えてきた。
「疑似体験」という言葉を使ったのは、普通の人はこういうことはできないし、できてしまったら社会生活が送れなくなるだろうから。理性によって構築された社会(養老孟司のいう脳化社会、というかどの社会も理性=logicによって構築されている)の約束事を離れたものは狂人といわれる。
しかし、今見ているものだけではない世界を垣間見ることができる瞬間があるのではないか。

六田さんに、ヒマラヤのシェルパと共に生活した際の写真をまとめた「ひかりの素足」という写真集がある。そのなかに、六田さんの言葉で「現地での生活は生と死の境界があいまいだ」(大意)という一節があった。
現実の薄皮を一枚剥ぐと、じつはそのような世界が広がっているのではないか。

家に帰る道すがら、このようなことに通ずる和歌があったような気がして、いろいろ考えていたが、それは鶴見和子の晩年の歌だった。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-273.htm

生と死のあわいに棲みていみじくも
       ものの相(すがた)のするどき気配

現実世界から一枚、論理というベールを剥ぐと、そこには生と死の境界があいまいな世界が広がっている。
本当はそれが真の姿で、それを論理で糊塗して日常生活を送っている。
この歌は、人間の考え(論理)によってとらえた世界(=日常の世界)以前の「前論理」の世界(生も死も同じレベルにある)を、通常の論理を超えた「超論理」でとらえた歌ではないか。
そこでは、事物、あるいは世界は固定化されたものではなく、おそらく現象として存在しており、気配としてとらえられるのみ、ということを言っているように思える。

この写真展に重なるものがあると思った。

新しいカメラ

これまで使っていたリコーGR(初代、2005年発売)がとうとう壊れて、GR2(2007年とのこと)を買ってきた。
しかし、買ってしばらくすると、レンズ内にホコリが入ったらしく、撮った映像にもはっきりわかるようになってしまった。
(どうもこれは、持病らしい)
いろいろ調べたら、掃除機でレンズ部分を吸引するというやり方が見つかって、強引だがやってみた。
概ね除去できたが、まだ残っていて、撮影時にちょっとブルーになる。
けど、いいカメラです。

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じつは友人にオリンパスXA(ストロボ付き)をいただいたが、これの持病のシャッターがきれない不具合があり、うれしいような悲しいような気持ちでR。

冬 世田谷ボロ市

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池袋 春先

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