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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2020-02

個人的には映画週間のはじまり。まずは「旅芸人の記録」から

今日(15日)は9:30から新宿バルト9で、アンゲロプロスの「旅芸人の記録」を見た。
これで何度目かは数えないと分からないが、見るたびに発見がある。
というか疑問がわき出る。きっとギリシャ語が分かって、さらに時代背景まで知らないと分からない部分も多いんだろう。
それでも、大事なところは十分に伝わってきていると思う。
だからだろう、映画館はけっこう人がはいっていたように思う。

明日は「アレキサンダー大王」。今日見た宣伝用の映像ではほとんど退色していなかったが、やはり上映用のプリントは、何回か見ているあの色がすっかり落ちたプリントなのだろうか。
一度ニュープリントで見てみたい。

アンゲロプロスのあいまに「ブリキの太鼓」(早稲田松竹1/18-24)も見たいので、時間のやりくりを考えないと。

今日「旅芸人」を見ていて気付いた点。
・冒頭のエギオン駅に一座が降り立つ場面。画面右後ろからバイクに荷台をつけたような車両が走ってくる。同じように最後のやはりエギオン駅(時代を遡っている)の同じ位置に、このときはバイクではなく馬が荷車をひいている。
・駅からホテルに向かう場面。途中でホテルを間違えてある建物に一座が入ってしまう。ちょどそのときパパゴス将軍を称揚する宣伝カーが走り去るのだが、一座はその車を直接は見ないでやり過ごしたかたちに見える。これはホテルを間違える=道から外れている=時流に合わせていないことによって、右派の台頭からかろうじて逃れる(だろう)ということを暗示しているようにも見える(勘ぐりすぎか)。
・エレクトラが、軍人と逢引する場面。以前はたまたま駅で出会ったのかと思ったが、それでホテルまで行くのは無理があるので不思議に思っていた。今回見ると、やはり以前からの知り合いで、軍人が休暇を取ったときに合わせて駅に行ったのだろうと思われる(見落としているかもしれないが、このことについて映画中で説明はされてないような気がする)。このとき、軍人は靴下以外全裸になるのだが、最初は局部を丸出しにしていて(上映版ではぼかし入り)、後で恥ずかしくなって前を隠す。このとき、男の局部の状態がどうなっているかはあんがい大事な意味があるような気がするのだが。例えば、最初は久しぶりに女性に合うので屹立していたのが、萎れるとか。または終始萎れっぱなしとか。見方によっては笑える場面になるのかしれないし、寒々しいような場面になるのかもしれない。いまだにこの場面が挿入されている意味がわからないので、いろいろ気になってしまう。
・母と愛人を暗殺する前に、ゲリラになった弟と仲間たちはバーの前を通り過ぎる。バーではバンドが最初はリリー・マルレーンを演奏しているが、次にジャズっぽい曲を演奏する。このときのリズムと管楽器の演奏のねちっこさが、いかにも米英が進駐してきたというかんじなのであるが、この曲をエレクトラの妹がアパートにいったん帰って、また進駐軍と出かけるために身づくろいをしているときに口ずさんでいる。どうも当時の有名曲なのだろうか。

弟オレステスがゲリラのまま投降せず、捕縛されるが、拷問に屈しないために死刑になる。その遺体を埋めるシーンで、参列した一座は埋葬されるオレステスを拍手を持って送る。
亡くなった若松孝二監督は、自分が死んだときに同じように送ってほしいと言っていて、葬儀の際はそのように送られた。
そんなことも思い出して、映画の葬儀のシーンでは、俺も拍手したい気持になった。

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早稲田松竹で「ブリキの太鼓」上映

以前から何度も見ているのだが、1月18日~24日まで早稲田松竹で「ブリキの太鼓」が上映される。ディレクターズ・カット版を見るのは初めてなので楽しみだ。
http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/2014/bagdadcafe.html

ところで、俺の小さな自慢。
以前、地下鉄有楽町線に乗ったら、斜め向かいの席に、わりと小柄な白人がいた。独特の顔つき、どこかで見たような顔だと思いながら家に帰った。
後で調べたら主人公・オスカルを演じた役者、ダーヴィット(デヴィッド)・ベネントDavid Bennentが、この時期に来日して演劇に出演していたことが分かった。劇場も有楽町線沿いだったのでまず間違いないと思っているのだが。

あらためて調べてみると、1991年、ピーター・ブルックの「テンペスト」(今はなき銀座セゾン劇場)のときのようだ。
http://homepage2.nifty.com/w-perc/theater.htm

ア、ア、アンゲロプロス祭

あまりの喜びと驚きで、ちょっとどもりました。
今年はほとんどアンゲロプロスを見ていないと思いながら上映館を探していたら、来年早々アンゲロプロス祭が開催されることが分かった。
仕事との兼ね合い、どうしよう。

場所は新宿バルト9。毎日9:30からのモーニングショー。東映の大英断に感謝しきれない。
http://www.cinra.net/news/2013/12/09/211100.php

《「エレニの帰郷」公開記念 アンゲロプロス監督回顧上映(レトロスペクティブ)》
1/14(火) 「エレニの旅」
1/15(水) 「旅芸人の記録」
1/16(木) 「アレクサンダー大王」
1/17(金) 「シテール島への船出」
1/18(土) 「霧の中の風景」
1/19(日) 「エレニの旅」
1/20(月) 「こうのとり、たちずさんで」
1/21(火) 「狩人」
1/22(水) 「ユリシーズの瞳」
1/23(木) 「蜂の旅人」
1/24(金) 「永遠と一日」

【全作品35㎜フィルム上映】
09:30より1回上映。1000円均一。
http://www.h2.dion.ne.jp/~mizurin/joho3.htm

「旅芸人の記録」「アレクサンダー大王」「狩人」「ユリシーズの瞳」は必見。とくに「狩人」は未見なので外せない。
「霧の中の風景」「シテール島への船出」「エレニの旅」「こうのとり、たちずさんで」「永遠と一日」はその次くらいか。
「蜂の旅人」はたぶん見ない。

早稲田松竹、「塀の中のジュリアス・シーザー」と「ローマ法王の休日」

先日、早稲田松竹で、タビアーニ兄弟監督「塀の中のジュリアス・シーザー」とナンニ・モレッティの「ローマ法王の休日」を見てきた。

「ジュリアス・シーザー」は、前日に原作となっているシャークスピアの「ジュリアス・シーザー」を読んでいたので、だいぶ楽しめた。内容は、ローマの実際の刑務所にいる服役者が教養講座として演劇を行うのだが、今回の作品はシェークスピアの作品。それを本物の囚人が演じる。撮影も刑務所のなかで行われたようで、よく実現できたなと思う。
しかし、タビアーニ兄弟ならば、もっと素晴らしい映画になったはずという気もしている。古典を題材に現代を撮るような作品なのであるが、シェークスピアの作品中の登場人物と、演劇をする囚人のキャラクターや犯罪に至るまでの過去の人生がもっと重なるような(ちょっとは触れているが)、そういった重層性を構築できたのではないかと思う。まあ「旅芸人の記録」を引き合いに出して考えているわけですがw。
演劇をする囚人たちの異様な迫力は、ちょっと他にはないもので、なおさら惜しいように思った。でも見て、損はしない。

もう一本のモレッティ「ローマ法王の休日」は、見て損をしたというレベルの作品。俺はけちなので、よほど詰まらないものでも元を取ろうと思って、出来るだけ楽しもうとしているが、これは無理だった。
設定としては、新しいローマ法王を選定するが、新法王が重圧に耐えかねて逡巡するというお話。撮影場所もバチカンの内部風のところだったりして、教会がそうとうにサポートしているのではないかと思う。サン・ピエトロ広場の映像などは、バチカン当局の許可がなければまず撮影できなさそうである。
そう思うと、新法王が就任をためらうというのは、いかにも罰あたり的で、よくバチカン周辺?が許したものだとも思ったが、そこまでの話である。
エピソード的に、枢機卿といえどもわがままを言ったり、中庭でバレーボールをしたりと、いろいろとくすぐりはあるが、どれも断片的である。チェホフの「かもめ」のセリフや演劇の場面、チェホフ役者が錯乱するなど、どうも「かもめ」をベースに作品が作られているようだが、しかし、結末で新ローマ法王が「自分はふさわしくない」といって終わるあたり、いかにも消化不足のように思う。
というのは、これは一種の法王の「人間宣言」みたいなものだが、日本人ならば昭和天皇の人間宣言を知っているので(キャンディーズの「普通の女の子になりたい」も一緒にしたらまずいか?)、カトリック的にはスキャンダラスなほどの出来事だろうが、何をいまさら、という気もする。
また、自分にその任にふさわしくないかどうかは、カトリックの人であれば、自分が決めることではなく神の思し召しであろうから、自ら辞任を申し出るような発想がありえるのか、ちょっとへんな感じもする。
図らずも法王に選ばれて、その任に苦しんで(まだ始まっていないのに)止めてしまうというのは、枢機卿に選ばれるほどの人の人物造型としては違和感がある。

ナンニ・モレッティの映画はいくつか見ているが、ときどきくすぐりがくど過ぎて悪ノリにしか見えないときがある(イタリア人的にはちょうどいいのでしょうが)。今回のバレーボールの場面はそんなかんじ。

彼の「ジュリオの当惑」(新米神父の苦闘物語、けっこう感動する)という映画が好きなのだが、やはりいろいろいっても熱心なキリスト者なのだろう。
テレビでドキュメンタリー作品を作るとき、「貶し三分のホメ七分」というそうだ。少しは貶しておいたほうが、ホメの部分の説得力が増すという意味だという。
この作品は、バチカンに象徴されるカトリック教会について、ちょっとは貶しながらも、こんなに偉い人もじつは人間味あふれる親しみやすい人たちなのですよ(だから、スキャンダルが噴出しても、これまでどおり信者でいてね)というように見えて仕方がなかった。
この映画も素材は良いのだから、もうちょっと練り込んで作ってほしかった。
まあしょせん異教徒には分からんのです、ということかもしれないけどな。

今年最後の「旅芸人の記録」

12月29日~1月4日まで、キネカ大森で「旅芸人の記録」を上映している。
今年の見納めとして、さっそく行ってきた。
結局今年は4回見たかな。
何度見ても良いのだが、さすがに今年はこれでもう良いかもw
今回の上映は途中で休憩が入るので、ちょっと楽かもしれない。
といいつつやはり4時間近くあるので大変ですが。

さて今回の上映は、今年亡くなった若松孝二監督に捧げたものだという。
以下引用。

“ギリシャの巨匠、テオ・アンゲロプロス監督、事故で急死” のニュースが流れたのは2012年1月24日。テオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」を敬愛していた若松孝二監督も、2012年10月に突然の事故で逝ってしまいました。生前、若松監督は「俺も『旅芸人の記録』のように拍手で送って欲しい」と発言されていました。葬儀の際、最後の旅立ちはこの映画のワンシーンに倣った万雷の拍手が湧き起こったそうです。今回は追悼を越える意を込めて上映いたします。


「旅芸人の記録のように拍手で送って欲しい」というのは、エレクトラ(主人公、だろうな)の弟オレステスが山にこもってゲリラ戦を続けていたが拘束され、拷問によって転向を迫られたが拒み、最後は死刑になる。
その亡骸を旅芸人の一座が埋葬するとき、みんなが拍手で送る。芝居が終わったときのように。そのことを指しているのだと思う。

若松監督の映画は、勉強不足で一本も見ていない。
しかし、昨年のNHK教育「ようこそ先輩」に出ているのを見て、感ずるところがあった。
原発事故の映画を撮って欲しかったな。




園子温「希望の国」

昨日、この映画を見てきた。場所は新宿ピカデリー、70人くらいは入っていた。
内容の詳細は、他のところで見てもらうとして、いろいろ思ったことを思いつくままに。
※ストーリーにも触れるので、未見ならばこの続きは読まないほうがいいと思います。
公式サイトはこちらです。http://www.kibounokuni.jp/

見ている最中は、何度も涙がこぼれて困った。顎のへんまで幾筋も流れた。脱水症状になったので、帰りに新宿駅地下のベルクによって、ちょっと酒飲んでから帰った。
涙がこぼれたのは、あんがいなんでもないセリフのところで、でも、一番のところは若い恋人どうしが、恋人の女性の実家があったはずの、しかし津波の跡しか残っていない場所で「おーい」「おーい」と無人の雪原に何度も呼びかけるところには参ってしまった。その直前のでんでん扮する父親が、原発近くらしいこの女性の実家に、息子が一緒に行くところで「お前はいい男だ」と言う場面も、なんでこんなところで胸が詰まるのか、よく分からないのだが。

主人公である夏八木勲と大谷直子の夫婦については、言葉がまだまとまらない。大谷直子は認知症である設定だが、うちの母もそうなので、いろいろなものが重なってきて落ち着いて考えることができない。あの不安そうな目つきは真に迫る。それにしても、だれもいない雪原で夫妻が盆踊りを踊るシーンは歴史に残るだろう。

設定についていえば、原発事故が起きる「長島県(架空)」は「長崎」+「広島」だろうか。ただ、長崎県の近くには玄海原発(佐賀県)があることも思い出される。
※あとで監督のインタビューを読んだら、長崎+広島+福島であるそうだ(文藝春秋本誌)
また、大家直子扮する母親のなかでは盆踊りが大切な思い出となっているが、福島第一原発の隣の南相馬市は相馬盆歌だろう。うち(相馬市)のあたりのことを考えると、おそらく録音など使わず生演奏だろうし、いろいろな曲をやるのではなく1曲だけで延々何時間も踊り続けるはずで、だからこそ盆踊りの記憶が強いという設定になったのではないか。
※もっとも園監督がこのことをどの程度知っているか分からない。しかし取材の際にそのように(今年はみんなそろって例年のように盆踊りができないのがさびしい等)言う人もいただろうと思われる。双葉郡については良く分からないが。
また、その盆踊りが炭坑節になっているという設定は、長崎県→九州北部→炭坑との連想によるものかもしれない。
http://www.youtube.com/watch?v=7UWGPbkJLJI
同時に、炭鉱ということで福島県浜通りの常磐炭鉱も思い出す。
http://www.youtube.com/watch?v=ybLSq8gw5aw
それにしても、大谷直子の手ぶり足ぶりとセリフで炭坑節を覚えてしまった。
掘って 掘って また掘って
担いで 担いで 眺めて 眺めて
前に 前に 切って ちょちょんがちょん
というところです。

ストーリーは、被災者の体験を取材し、整理して、一つのお話にまとめ上げたというように思える。だから、一つ一つのエピソードに生々しさがある。逆にいえば、エピソードを統合する器としてのストーリーともいえる。

撮影自体は、浜通りの立ち入り可能地区(南相馬市あたり)で撮影した部分が多いように見えた。ところどころ大熊町とか、福一原発前の映像も入っていた。また若夫婦が避難するのはつくば市あたりだろうか。あのへんもホットスポットがあるらしい。
※埼玉県寄居市という地名も後で目に入ってきた。

この映画、映像が美しいという評価がある。確かにそうだが、おれからいえば、撮影地である浜通りが美しいのではないかと思う(低い山並みが阿武隈山脈に見えるので)。園監督はその美しさをそのまま上手に切り取ってくれたように考えている。不貞腐れた若い役場職員のセリフではないが「俺にだって俺なりの郷土愛はある」から、そう見えるだけかもしれないが。
それと今年前半はアンゲロプロスを見ていたが、地震と津波の被災地に雪が積もっているシーンなど、長回しということもあって、「旅芸人」などを思い出した。
また、最後のほうで夏八木夫妻の庭の木が燃え上がるが、タルコフスキー「サクリファイス」最後の家が燃えるシーンと子供が木のそばで寝そべるシーンが重なった。

ところで、最大の問題は、この「希望の国」というタイトルをどう解釈するか、ということである。
映画の冒頭、牛舎のシーン(だったかな)から、タイトルもなしに始まり、タイトルは一番最後に出てくる。そこの意味をどう考えるか。
最後の場面では、放射能恐怖症になっていた若夫婦の妻(妊娠中)が、さらに安全な場所を目指して移動する車中で、防護服を脱いでしまう。そして、途中の浜辺で別の子連れの若夫婦と出会うのだが、その時、夫の線量計が警告を出す。夫は「大丈夫かな」と言い、妻は「愛があれば大丈夫よ」という。このやり取りを三度くらい繰り返す。そしてタイトルがここではじめて現れる。
監督のインタビューでは、この部分、以下のように語っている。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121019/ent12101915060019-n4.htm

映画に希望があるかといえばよく分からない。自問自答しながらカメラを回していた。決して希望を感じさせる映像はないのだが、それでも小さな希望の芽を託したくて、いずみのセリフをしたためた。「陳腐で短絡的に聞こえるかもしれないけれど『愛があれば大丈夫』ってね」

この答えがどの程度監督の考えを語っているのかは分からない。ほかに考えがあるのか、それともこれだけなのか。
俺なりに考えると、映画中、福島原発事故の後に長島原発がメルトダウンした以上、日本中もう逃げ場はない(それを裏付ける産婦人科のセリフがある)。残されたものは、もう愛しかない。しかし愛で放射能障害を乗り切れるとはとても思えない。けれども残された希望はそれしかないという状況(たぶん絶望的でもあるのだが、ただちに人が死ぬわけでもないという曖昧な状態)を、「そのような希望しか残っていない国」という意味で「希望の国」と言っているように考えてみた。



先日相馬市の実家に帰ったら、10年以上実らなかった柿の実が今年から300個近くなった。
家族は去年のピカのせいだろうと言っている。
その柿をさんざん食べてきました。

「旅芸人の記録」再び

結局、北千住の東京芸術センターで最終日にもう一度「旅芸人」を見てしまった。
さすがに、同じ映画を3回も見るといろいろと考えるようになります。

まず分かったのは、アンゲロプロス監督には非常に鋭敏な時間感覚があるということ(みんな既にさんざん言ってますな)。時間感覚といっても、2つ以上の意味がある。
ひとつには時代的な歴史感覚。これは映画自体の全体構成に関わる。これについては後でもうちょっと書く。
もうひとつは、4時間近い上映時間内での、撮影および編集に関わるもの。例えば長回しのカメラワーク(途中でカットが変わらない)などであるが、これもさんざん分析されていますな。エイゼンシュタインのモンタージュ理論とはまったく逆の方向性で、これについて「ユリシーズの瞳」のなかで主人公の映画監督が旧友と交歓する際のセリフに「エイゼンシュタインに乾杯するが、彼からは嫌われた」と言って笑うシーンがある。多くのカットを繋げて映像を構成せずに、数分にわたってカットなしに一度に撮影するというもので、独特の息詰まるような緊張感があったりする。

ところで、「旅芸人」についての文章を読むと、ストーリー展開のなかで時代が前後し、分かりにくいというようなことが書いてある。最初見たときはそう思ったが、シナリオを読んだり時代背景を学んだりすると、あんがい分かりやすく整理されているように思っている。それについて、以下ちょっと書いてみる。
そのまえに主要な登場人物と役どころを書いておく。
旅芸人一座の座長であり父であるアガメムノン、不貞なる妻のクリュタイムネーストラー。クリュタイムネーストラーの愛人であり裏切り者のアイギストス。アイギストスとクリュネタイムネーストラーに復讐する、アガメムノンの長女エレクトラと弟オレステス。オレステスの親友でありエレクトラの夫となるピュラデス。これらはギリシャ神話の設定そのままである。これを頭に入れておくと話が分かりやすくなる

話を戻して、ストーリー展開上で分かりにくいのが、冒頭と最後のシーンがほとんど同じ(ただし時代が異なり、人物も入れ替わっている)であるというところだろう。
冒頭は1952年秋、エギオンという駅に旅の一座が降り立つ。駅から中央広場に向かって歩いて行くのだが、広場につくと時代は1939年秋にさかのぼっている。
そして、最後のシーンも冒頭とほとんど同じ画面でエギオンの駅頭に旅の一座が降り立っているが、時代は1939年秋に戻っており、冒頭と結末で時間が逆転している。
実はここを除外すると、他のシーンはほとんど1939年~1950年までの時系列にきちんと並べられている。
ただし冒頭の1952年と同じ時間に戻る場面がいくつかある。気付いたところでは、1941年正月にエレクトラがファランギスト党員と連れ込みホテルに入った後の場面から、1952年にピュラデス(この時点でエレクトラと夫婦になっているようだ)が、一座とホテルを出て港を散策する場面に飛んでいる①。また、1945年正月に共産党シンパと王党派がバーで歌合戦(文字どおりの)をした後、王党派が夜明けの街を歌いながら行進しているが、いつのまにか1952年のパパゴス将軍の選挙演説のシーンにつながっている②。ここは1952年のパパゴス将軍派は、戦後直後の王党派と本質的に変わらないことを示すための時代の跳躍だろう。

これを整理して考えると、以下のようになるのではないか。
映画の基本的時代設定は、1952年当時が映画での「現在」となっている。場所はエギオン。1939年にも一座はエギオンに来た。一見すると1952年と同じようにも見えるが、座員がかなり入れ替わっている。なぜそうなったのか、その理由を1939年までさかのぼって1950年までかけて説明するというのが、基本的時間の流れであろう。

さらにいえば、1952年のある一日の長い回想を映画にしたともいえるのではないか。
その一日をトレースすると、まずエギオンに到着した一座は広場を目指す。パパゴス将軍の選挙宣伝が喧しい。一行は途中である建物に入ったが、笑いながら出てくる。どうやら宿を間違えたらしい(広場に着く直前に時代は1939年に飛ぶ。ここから1941年までの話が始まる)。そして宿に落ち着いたら一行は港に向かい、また戻ってくる(②の場面)(その同じ道をドイツ軍の車両が走り去り、1942年に戻ったことが示される)。そして夜になると一座は「ゴルフォ、羊飼いの少女」を上演する(これは映画のオープニングの場面)。
ところで、一行が駅から広場に向かう途中に建物を間違えるのだが、これはアンゲロプロスからのヒントなのではないかと思う。つまり、いろいろ寄り道しながら話を進めますよという意図で、なくても良いような一場面を入れたのではないかと思う(考えすぎか)。
また、彼らが港に行く理由は、おそらくこういうことだろう。1939年に一座がエギオンに降り立ち広場のバールに入る。そこでピュラデスとアイギストスが国粋主義者の行進をきっかけに反目する。ピュラデスはアイギストスに密告されて港から刑務所に連行される。そこからアガメムノンの殺害、オレステスの死等、すべての話が始まる。連行されていく港はどうやらエギオンのようである(このとき、エレクトラやオレステス、詩人等が見送っている)。つまりここから、すべての話がはじまったので、1952年にエギオンに来た時、その記憶をたどり直すために港へ行ったのではないか。

では、最後になぜ1939年に戻って終わるのか。
これは、エレクトラの甥(妹はアメリカ人と結婚して、息子は残った)が成長して、かつてオレステスが演じた「ゴルフォ」の恋人役になる。このときエレクトラは「オレステス(とそっくりだ)」と言い、いつものようにまた芝居が始まる。つまり時間が円環構造になっているのではないかとも思のだが、この部分は自分なりに納得のいく考えがまだない。もう少し考えたいが、今都内でアンゲロプロスを上映しているところはないようで、禁断症状が出そうです。


参考にした図書
「アンゲルプロス 沈黙のパルチザン」ヴァルター・ルグレ(1996フィルムアート社)
「テオ・アンゲロプロス シナリオ全集」池澤夏樹(2004愛育社)
「アンゲロプロスの瞳―歴史の叫び、映像の囁き」若菜薫(2005鳥影社)


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映画月間の終わり

5月に早稲田松竹でアンゲロプロスの「旅芸人の記録」を見て以来、数年ぶり(20年ぶり?)の映画月間が始まってしまった。
まずは、早稲田松竹で「旅芸人の記録」(大傑作)、同じく早稲田松竹でフェリーニ「8 1/2」「青春群像」(あまり期待していなかったがフェリーニも良かった)。
北千住の東京芸術センターに場所を移してアンゲロプロス「アレクサンダー大王」(傑作)、「シテール島への船出」(印象に残る)、「蜂の旅人」(いまいち)、「霧の中の風景」(けっこう思い出す)、「こうのとり、たちずさんで」(傑作の一歩手前)、「ユリシーズの瞳」(凄い、結局2回見た)、「永遠と一日」(少年が良い)、もう一度「旅芸人の記録」(これが今回の見納めか)。結局「狩人」はまだ見ていない。残念です。
渋谷のユーロスペースで「アレクサンダー大王」(しつこいね俺も)、「エレ二の旅」(最後の作品か?)。勢い余ってタルコフスキーの「ストーカー」「サクリファイス」「ノスタルジア」と見てきた。
3ヶ月で17本というのは、特別な映画好きではない俺にとっては異常な本数ではあるが、以前も同じようなことをしたことがある。
最初はマルクス兄弟の日本での版権切れによる最終上映で日本で見られる映画はほとんど見たはず(どうも「オペラは踊る」「マルクス一番乗り」「マルクス兄弟珍サーカス」「マルクスの二挺拳銃」「マルクス兄弟デパート騒動」「我輩はカモである」らしい。http://www010.upp.so-net.ne.jp/tatsuroo/marx/index.htm)。
次がナンニ・モレッティが同じく版権切れの作品でこのときは2、3本か(「ジュリオの当惑」が好き)。

「旅芸人の記録」は現代版アガメムノン物語なので、関係するギリシャ悲劇をいくつか読んでみた。
「ユリシーズの瞳」は、オデッセイが下敷きになっているのでトロイア戦争の本を読んだりしたが、長くて読み切れなかった。
それとはべつに、ギリシャの近現代史に関するものをいくつか読んでみた。

ひょっとすると「旅芸人の記録」はもう一度くらい見るかもしれない。
この映画のサントラ盤はすでにないようなので、youtubeから音声のみ吸い上げて私家版のサントラを作って聴いております。
ヤクセンボーレ!

※1分30秒あたりから見てください。

タルコフスキー「ノスタルジア」

先日の「ストーカー」に続いて、「ノスタルジア」を見た。
開場30分前に行ったのだが、すでにチケット番号は80番台だった。ずいぶん混んでいます。北千住のアンゲロプロスなら10分前に行っても空いているのに。

さて、有名な映画であり、いろいろな人がいろいろなことを語っているので、自分なりの感想を少し。
タルコフスキー自身でもある主人公(アンドレイ)が、現実世界にいるときはカラーの映像、夢もしくは幻想の世界の場合はモノクロの映像となる。しかし、音楽や効果音はカラーとモノクロ画面の両方にかかったりしている場合もあったような。モノクロの幻想シーンもカラーのシーンも美しいです。

ところで、タルコフスキーは、祈りというものは、ひざまずいてただ祈るだけでは足りないと考えていたのではないか。とくに世界を救おうというような気違いじみたことを祈る場合には、たとえ狂人と思われようと何か大事なものを賭けなければならない。

ドメニコという人物がいて、狂った世界から家族を守ろうとして何年も家族と一緒に家にこもった。一般的に見れば妄想による一種の監禁ともいえる。
アンドレイはそのドメニコから祈りを託された。温泉のなかをロウソクを消さずに歩ききると世界が救済されるという。実際にそうするのはいかにも難しそうであるが、完全に不可能というわけではなさそうでもある。が、ドメニコは一度も成功していない。
アンドレイは何度か失敗したあとに成功するが、極度の緊張のせいか心臓発作(直前に薬を飲むシーンで暗示されている)で倒れる。生死は定かではないが、モノクロ画面の世界に移行したので、おそらく死んだのだろう。
そのころ、ドメニコはローマで演説をするが、世に受け入れられぬ預言者として、焼身自殺をする。
アンドレイとドメニコの祈りは結局命を賭したものとなった。
この祈りというテーマは、「サクリファイス」から続くのだろう。

ヴェンダースに「パリ、テキサス」という映画があるが、そのなかで妙に心に残っている場面がある。1人の男が高速道路上の橋の上でこの世の終わりを叫んでいるのだが、誰も耳を傾けない。しかしその様子は必死で、なんだか胸を打つ。狂人めいてはいるが言っていることも実はそんなに狂ってはいない。その男とドメニコが重なって見えた。
※ちなみにこのドメニコ役のエルランド・ヨセフソンは、アンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」でも重要な役を演じています。

実家の相馬市に中村神社というところがあり、そこの案内の額に「祈りは行動の最たるものである」(詳細は忘れたが大意はこんなふうだった)とあった。
アンドレイもドメニコも、そしてサクリファイスの主人公も、一見単なる愚行のような、しかし内実においては真剣な(命がけともいえる)祈りを行うのであるが、この言葉と重なり合うように感じた。

タルコフスキー「ストーカー」

現在、渋谷のユーロスペースで、タルコフスキー特集をやっている。「ノスタルジア」「サクリファイス」「ストーカー」と見るつもりで、まずは日程がちょうどあったので「ストーカー」を見に行った。
前回この映画を見たのは25年くらい前、高田馬場だったか。その時は風邪気味のため、また長時間の映像も相まって、朦朧としながら見ていた。あまりはっきりした記憶はなく、悲惨と奇跡、真実とそれに対する疑念、それらがないまぜになって、画面的には常時水が滴っていたような漠然とした印象しか残らなかった(が、それにしては強烈な印象ではあった)。
最近、アンゲロプロスの映画を見続けてきたせいか、長時間にもかかわらず最後まで眠らずに見ることができたw

「ストーカー(Stalker)」というタイトルの意味は「密漁者」だそうである(「狩猟管理人」という意味もあるようです)。
改めて見てみるとあんがい分かりやすい。説明的でもあるし図式的でもある。
「zone」と呼ばれる禁域に潜入する人物が3人。物理学者と作家、それと案内人である。どうも物理学者と作家の対話を聞いていると「科学」と「詩(芸術)」を象徴する人物らしい。では、役立たずで世渡りのできない案内人(主人公なのだろうな、やはり)は何者であるかと考えると、発言から察するに「宗教者」のようである。宗教者であるがゆえに世俗のことに疎いという設定なのだろう。
この案内人は陋屋に住んでいるのだが、妻と娘がいる。この娘は足が不自由らしいが、最後の場面で特殊な能力を持っていることを示す。この娘は頭にスカーフを巻いているのだが、その様子がロシアのイコンのようでもあり、なんだか聖なる存在のようである(そのためか特殊な能力をみせる前後に、騒音に交じってベートーベンの「喜びの歌」がかぶったりする)。陋屋で暮らす様子が、キリストが馬小屋で生まれた故事を思わせたりする。では、zoneからついてきた黒犬はなんであるか(冥府からつかわされた番犬-ケルベロスに近い存在、それともタルコフスキーが犬好き?)とか、言い始めると細々あるわけですが。

それもそうなのであるが、この案内人が住む地域のすぐそばに原発がある(スリーマイル島の原発のような冷却塔が見えている)という設定自体が、意図的なのか偶然なのかわからないのだが、予言的であるように思えた。

とはいえ、全体としてはキリスト教的背景が強調されている点、また図式的=分かりやすいため、以前見たほどの異様な感銘はなかった。とはいえこの映画の3時間はそれほど長くは感じない。
まあ異教徒がなに偉そうに言っているんだというご意見も御座いましょうが。

ところで、画面の質であるが、モノクロ部分(セピア色)の部分はとくに画面が汚くて、細部が良く見えなかった。カラーの場面は発色が鮮やかなのでそれに救われるせいか、それほど画面の粗が目立たない。例えて言えばVHSの映像をデジタルテレビで見たときのような画面の粗さがあった。後で見ると「デジタルリマスター」とあった。
字幕付きの上映フィルムが劣化してるので仕方がないのかもしれないが、なんだか味気ないものではあった。
画面に「雨降り」があったり、ノイズ、退色があったりしてもスクリーン上ではフィルムで見たいものです。
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