eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-09

北山修の「共視論」から

北山修の「共視論」のなかの、 田中優子(法政大教授)の文章を読んでいたら あることを思いついた。
江戸時代の芝居絵(浮絵)、浮世絵では、絵を見る人と、絵の中の人が地続きの感覚があったということだ。だから、絵のなかの人物が枠外に出て行こうとしたりする。
たとえば、安藤(歌川)広重「はねたのわたし弁天の杜」では、画中の視線の持ち主と、絵を見る人の視線は重なり合っている。
(説明下手だな)。
見ようによっては、28ミリくらいでスナップしているかんじでもある。

また、木村伊兵衛「板塀 秋田にて」
これはまさしく、木村氏の視点によって馬が通り過ぎていくのを、共に見ているような印象を受ける。

まぁ、グダグダ書いても仕方ないので、飛躍があるけど大事と思うところだけ書いていく。

写真論で「窓派」「鏡派」とかがあるが、どちらも、撮影する主体が前提されている。
その主体は、当たり前だが基本的には撮影者であり、
それが対象とどう対峙のするかという点での違いに過ぎない。
つまり「窓派」の場合は、「我」「撮る」「外部世界」。
「鏡派」は、「我」「我を表象する対象」「撮る」。(ちょっと違うかな)
http://www.syabi.com/topics/t_10anniversary.html

でも木村氏なんかは違うんじゃないか。
というのは、「我」のところに「写真を見る人」を代入可能な余地が大きいように思える。
例えば、子規の「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という俳句には主語がない。
読み人は子規だが、そこに読者が入り込んでも一向に構わない。
また、放哉の「咳をしても一人」も同様だ。

木村氏の写真では、木村氏という主体が、どう対象を見たか、ということもあるが、木村氏という主体の位置に、写真を見る者が立てる写真のように思える。
つまり「共視」という立場だ。
思えば、隅田川の花火大会の写真では、物干し台に立って見物する人が写しこまれているが、あれは二重に共視の構造を持っているのではないか。
つまり、物干し台の人と共に見る木村氏、さらにそれを見ている今の時代の人。これは、小林清親「両国花火之図」と非常に似た構造である。


だから、共視だけが写真の見方・考え方ではないのだが、自分にとっては非常に大事だと思える。

そこで、かなり昔の話だが、2chのスレッドで
> マグナムの9/11の写真展(「マグナムが撮ったNY 9.11」)をやっていたが、
> なぜか見に行かなかったな。
> 何故だか自分でもわからない。
> マグナムがらみの写真展はたいてい行くのに。
と自分で書いていたことに帰っていく。

やはり、俺の立場では、マグナムの写真家の視点と、自らを共にすることはできなかったのだな。
その理由は、合衆国が世界史の中でどのようなことをしてきたのかを知っていたため、911で亡くなった人はまことに気の毒であるとは思うけれど、かといって、それを無垢のものが受けた悲劇というふうには考えられなかったからだと思う。
共視できないものを感じていたので、見に行かなかったのだと、今では思う。

さて、2chのスレでは02/09/11以来、ずいぶん長い間、ぽちぽちと書きつづってきたが、一応の答えが出てきたようだ。

例えば、桑原甲子雄氏の写真は、自分にはまさしく共視すべき写真である。
それは憂鬱を抱えながら、町を散歩するときだけは自由人である一人の人間という、今の自分とほぼ変わりがない立場の撮影者の写真でだからである。

この項の結論としては、自分でも、他者にとって共視できうるような写真を撮りたく思う。

そしてもう一言、複製が前提されている写真というもの自体が、そもそも共視的な意味合いを持っていたのではないか、とも思う。

最後のほうは、もう少し掘り下げるかもしれない。
とりあえず、こんなところまで。
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