eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-11

一度じゃ分からん、タルコフスキー(一度でたくさん、タルコフスキー)

新宿で二度目の「アンドレイ・ルブリョフ」を見た。
とにかく強烈な印象の映画で、とくに教会の巨大な鐘を作るシーンが記憶に残っていたが、二度目に見ると、なかなかそのシーンが出てこない。
というか自分がストーリーの混同をしているのかと思って見ていたが、最後にやっぱり鐘を鋳造する場面が出てきて、記憶が誤っていなかったことが分かった。
そんなことはどうでもいいのだが、この映画では、泥にまみれた農奴の生活や、タタール人がロシア人と組んで村を襲うシーン、また教会がタタール人に打ち壊され、殺戮が繰り広げられる場面など、白黒の画面があたかもドキュメンタリー映画のような迫真性をもって迫ってくる。
最初に見たときは、その迫力にのまれて圧倒されるだけだったが、二度目になると圧倒されながらも、ある程度落ち着いて見ることができた。
構成としては、年代ごとの出来事を並べていくために断片的なエピソードが羅列されているかんじで、最後までなかなか全体像が見えてこないところがあるのだが、今回はアンドレイ・ルビュリョフが沈黙の行をとき、再び絵筆をとるのがよく納得できた。
ところが、Wikipediaでこの映画について読んでみたら、さらに驚くべきことがあった。

映画中に狂女が出てきて、主人公の人生にかかわってくるのだが、最初はまったくの精神薄弱的人格であるのが、途中でタタール人の妻になり、最後の場面では貴婦人のなりで騎乗している。
このへんのいきさつがよく分からなかったが、wikiで「佯狂の女」と記されている。詳細は以下の通り。
そもそも、本作の脚本では、女をюро́дивая(ユロージヴァヤ)と表現していた。この語について、落合東朗は次のように解説した。「東方キリスト教では、修行のために完全に孤独な生活を実現することをひとつの理想とした。そのために狂人をよそおって孤独を得るものがあらわれた。それを男性名詞ではユロージヴィ、女性名詞ではユロージヴァヤといい、佯狂とか聖愚者と訳されている。」
つまり、女は宗教的発心により狂者のふりをしていたのであって、まともであった。だからこそ最後の場面では貴婦人になってもおかしくはなかったわけである。
しかし、そういった文化的背景が分からないと、なんだかよく分からない女としか見えなかった。
どうも二度見たくらいでは分からないようだ。

ところで、佯狂といえば論語の狂接輿を思い出すので、引用だけしておく。
論語 微子第十八 5
楚狂接輿。歌而過孔子曰。鳳兮鳳兮。何徳之衰。往者不可諫。來者猶可追。已而已而。今之從政者殆而。孔子下欲與之言。趨而辟之。不得與之言。
楚の狂接輿、歌いて孔子を過ぐ、曰わく、鳳よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし。已みなん已みなん。今の政に従う者は殆うし。孔子下りてこれと言わんと欲す。趨りてこれを辟く。これを言うことを得ず。
https://kanbun.info/keibu/rongo1805.html
http://blog.mage8.com/rongo-18-05

そのあとで、「鏡」も見た。
これはタルコフスキーの自伝的映画といわれていて、たしかに子供時代のことなどが映像化されていたが、これはさらに断片的で、映像詩とはいえるが、一度見ればもう充分という印象を持った。
しかし、タルコフスキーに関心のない人にとって、タルコフスキーのほとんどの映画が、「断片的」で「やたらと水のシーンがある」「訳が分からない」映画で、一度見ればもうたくさんというように受けとめられているのではなかろうか。
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