eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

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2017-04

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六田知弘「水ノ貌」2

前回は興奮して見ていたから、ちゃんと見ていなかったのだろう。今回は2回目なので落ちついてみることが出来た。その分、ひどく疲れた。
一方、2階の展示会場の片隅にある田んぼの写真と浜辺の写真を見るととても落ち着く。何故だろうか。
おそらく人為のあるものを撮影しているから、人間味が感じられるからか。
ひるがえって考えると、それ以外の写真は自然がむき出しになっていて、だから直面すると疲れるのだろうか。
またも六田さんと話す機会があって、作家本人も1階にいると疲れるから2階で話をしようということになった。以下、まとめ切れないので、断片的に書き綴ってみる。

・六田さんによると、今回は写真が売れてないそうだ。たしかに、個人の家には置きにくいと思う。とくに狭い日本家屋では難しいのではないだろうか。金満家のアメリカ人富豪の家ならば、ちょうど良さそうではある(なんとなく、若冲で有名なプライス氏の家の様子を思い浮かべたりしている)。
購入するとしたら、美術館等のコレクションとしてではなかろうか。そういえば六田さんは、国立西洋美術館で初めて写真展をやった人ではある。
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/past/2007_207.html


・さて、今回の写真はよくみると怖い、だから田んぼの写真等を見ると落ち着くという話をした。
1階の写真はもちろんそうだが、2階の写真も一見美しく、きれいなものが写っているようだが、どうもそれだけではない。
それはなにか。
実は2階の美しい写真も、やっぱり剥き出しの自然である。だからよく見ると怖くなってくる。日本人の思う自然は、たいてい里山的自然であって、それは自然と人間の合作のようなものである。そうでない自然にはなじみがないのではないか。

また、こういう風にも考えられる。たいていの写真は、ある種の意図のもとに撮影する。見る側はその意図を読み取って鑑賞する。
今回は、その意図が分からない。読み取れない。だから居心地が悪い。不気味で怖い。見ていて対応に困る。
やっぱりあまり売れなさそうである。


・抽象性と具象性について。
前回見てから家に帰って反芻していたら、なぜかマーク・ロスコを思い浮かべた。川村美術館で見たロスコは抽象画といわれているが、実際には非常に具体的で生々しい。じっと見ていると画面がうごめいてくるので驚いた。
今回の写真展はちょうどその逆のようでもある。具体的なものが写っているはずだが、生々しさの反面、現世のものとはちょっと違う次元にいってしまったような印象を受けた。

・六田さんの話では、写真家以外に日本画家、抽象画家が見に来たそうだ。
ある人いわく、写真でここまで出来るのかと漏らしたそうである。またある人いわく、今回の作品は、世間よりちょっと前に行ってしまっている。だから今のところ、ついてこられる人がいない。しかし、大きく前に進みすぎているわけでもないので、いずれ追いついてくるだろう。

・カメラ=機械の目という特性について。
六田さんが撮影しているときは、冷静さとトランス状態が両立している。トランス状態だけでは写真は撮れない。
そして意図を持たずに撮影しているという。例えば美しい風景を撮ろうとか、荘厳な瀧を撮ろうとかは考えない。意図があると、それに写真が制約される。むしろそれを逃れて撮りたい。
そうすると、ジャンル分けできないような、見た人が意図をつかめないような、撮影者の思惑を超えたような(もともと意図を排除しようというわけであるが)、機械の目が写しとった、対象がむき出しになった写真が出来上がる。
撮影のときは、ただ対象に向き合うだけ、それ機械の目で写しとるだけである。以前は、無心になろうとして、かえって考え込んだりしていた。今はひらきなおって、そのまま撮影している。それが今回の写真につながっている。


・石の写真を撮影するときは、清めの塩を持っていく。やはりなにかがあるらしい。霊的なものか?

・宗教性。具体的な宗教や宗派ではないが、ある種の宗教性がかんじられる。

・雪の写真を見ると、撮影していたときの音を思い出すという話であった。他の写真でも撮影したときの音を思い出す。それはなぜか。
俺の考えでは、たぶん「切り取った」写真ではないからではないか。たいていの写真(とくに風景)は、美しい部分を切り取って、意味付けして提示する。
しかしそれをやらない。対象に向き合ったとき、いちばんそれがそれらしくあるところで撮影する。切り取ろうという意識ではないから全体性(の余韻)が残っている。
だから撮影者は映像から音を聞き、見る人は、全体として写っているので、写っている個別のものを取り出して、名付けられない。

・意図と制約。
人はたいてい見たいものだけを見ている。機械の目は、それとは別にただ前にあるものを写しとるだけ。それをそのまま提示すると見る側は困惑する。
だから、ふつう撮影するときはある種の意図をもったうえで撮影する。その意図を見る側は読み取って、その写真を了解する。
しかしそうではない場合どうなるか。
それが今回の写真。
撮影者の意図自体が写真を制約する。撮影者個人の制約、日本文化の制約、そういった二重三重の制約が、撮影者にも見る側にもある。
六田さんは、それとは無関係に、機械の目の特性に素直に従って撮影したい。以前はいろいろ考えすぎてなかなか難しかったが、今は出来ている。

・機材と写真の関係
今回の写真はデジタルだから撮れた部分がある。
フィルムだとやはり制作費(フィルム代、現像代等)を考える。そうなると、1枚1枚を無駄にしないため、画面の隅々まで完璧にコントロールする。
しかしデジタルカメラはフィルム代がかからないので、完璧にコントロールしようという意識が薄くなる。
つまり、フィルムであれば意図したものを完璧に撮ろうとするが、デジタルでは、そうではなく、何も考えず(フィルム代も考えず)、どんどん撮っていくことができる(思う存分、気が済むまで撮影するのでしょうな)。その結果、意図を超えた写真が生まれてくる
とはいうものの、数打てば当たる式でやっているわけではない。
20年間、時事画報社(私もそこにいたことがある)でカチッとした写真を撮る訓練をして鍛えられたからこそ、無作為、意図なしであっても、作品として成立するものが撮れるそうだ。
(そう思うと、俺自身は、緊張感を保つためにフィルムで撮ったほうがよさそうである。デジカメだと、手軽さが先にたってなんとなく弛緩した写真になってしまっているような気がする。)

たぶん、もう1回くらい行くだろう。何回も行くのはちょっと恥ずかしい気もするが。
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