eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-08

デジタルカメラは、人の命を吸い取るか?

別役実の「馬に乗った丹下左膳」だったと思うが、写真を撮ることは「盗る」ことに通じ、その盗る対象は「命」であるから、昔の人は写真機の前に立つのを嫌がった、というようなことが書いてあった。
この本を読んだとき、アラーキーの「愛しのチロ」がヒットしていて、自分はこう考えた。荒木氏は、結局、陽子夫人の命をカメラで吸い取ってしまったのだな。しかし、猫は”A cat has nine lives. ”とか”Care kill the cat. ”というくらいで、死なないものの代名詞でもある。だから(?)、陽子夫人とチロの入れ替わりというのは避けられないものだったのだな、と考えた。

そこで考えたのだが、昔のカメラは命を吸い取ると思われたりしたのだが、
デジタルカメラの場合はどうだろう。やはり命を吸い取るようなものなのだろうか?
我ながら馬鹿な設問ではあるが、自分なりに考えてみた。
デジカメはやっぱり命を吸い取らないんじゃないかな。
このへん、他の人はどう考えているだろうか?
検索したけど、上手くヒットしなかった。
他の人の意見を聞いてみたい。

命を吸い取られると昔の人が考えた理由は、本物そっくりの似姿の像を人工的に作り出したからだろう。似姿にもそれなりの魂が宿るのは、「絵姿女房」の話にも片鱗が現れている。しかし、それはデジカメも同じことだな。

自分なりの理由を述べると、銀塩写真はおそらく錬金術の延長にあるが、デジカメはそうではないからだろう。
写真の歴史をごく大雑把に考えると、昔、カメラ・オブスキュラの画像を定着させたいと考えた人が、光に反応する物質を探し当て、そこからガラス乾板、そしてフィルムとなった。化学反応を利用したわけだが、化学の起源は錬金術にさかのぼる。で、錬金術はさらにある種の魔術にもつながる。
はかなく消えてしまうカメラ・オブスキュラの画像をなんとか定着させたいという執念は、魔術くらい使っても、ほんものと見まがうばかりの写し絵を作りたいということだろう。
そうなるとやっぱり命くらいは吸い取りそうだな。
別の言い方をすると、銀塩写真の背景にあるテクノロジーは、自然科学とも地続きであり、やりようによっては自分でも再現可能でないとはいえない。例えばガラス自体は古代エジプトから存在していたし、その上に塗る薬剤は、上野彦馬のように自製することもできなくはない(現実的には、牛骨を、土中に埋め、腐りはじめた頃とりだしてアンモニアを精製するなんてことは、ちょっとできないわけではある)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B9
http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/history6/history6.html

つまり銀塩写真のテクノロジーは、(ほぼ再現不可能ではあるが)ブラックボックスではない。その証拠に俺でも分かる。そして、錬金術から引き継いだ生々しさを保ちつづけている。それは、モノクロの焼付けをやったことのある人なら、現像液のバットの中で潜像が浮かび上がる瞬間を思い出せば、分かってもらえるのではないかと思う。
魔術性(錬金術と、本物そっくりの似姿を作ること)と同時に、ある種の身近さを併せ持つから、「命を吸い取られる」というような言説が出来たのではないだろうか。

しかしPCを前提にしたデジタルカメラはどうだろうか?
PCもブラックボックスであるが、それを構成するロジックは非常に論理的であるため、順を追っていけば理解可能とはいえる。一般的に言えば、ブラックボックスたらしめているのは、みんな自分で理解しようとしないからだろうね。
つまりPCは近代主義・理性主義の成果ではあるから、魔術性がない(薄い)ような気がする。
それと、デジカメで撮られた似姿は、本物のコピーがそこにあるという感じがしない。
むしろデータから生み出された画像であり、一度データ化されたものである(直接性ではなく、ある種の間接性がある、フィルムよりもワンステップ間接的という感じかな)からには置き換え可能という印象が否めない。もっと簡単にいうと「軽い」。
だから、「お葬式:カメラ付き携帯で最期の顔パチリ」という話になるんだろう。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060216k0000e040094000c.html

(以下、引用)
お葬式:カメラ付き携帯で最期の顔パチリ 困惑派・理解派

お葬式の際、亡くなった人の顔をカメラ付き携帯電話などで撮影する人が増えている。葬儀関係者には「人の死を悼む気持ちが荒廃している」と感じる人がいる一方で、「時代とともに葬儀も変わる」と受け入れる人もいる。あなたは、最期の顔を撮影されたいですか?

昨年7月、横浜市内の斎場。出棺前に花を詰め始めると、親族や友人5~6人がカメラ付き携帯で故人の姿を撮り始めた。同市の葬儀デザイナー、出口明子さんにとっては初めて見る光景だった。故人と生前から付き合い「本人の意思を尊重した葬儀」をサポートしただけに「注意すべきか」と迷ったが、親族が何も言わなかったので黙っていた。翌月、私的に出席した葬儀でも同じ場面を見た。

全国の葬儀社でつくる全国葬送支援協議会(総本部・東京都千代田区)の斎藤浩司理事長(34)は「月に1度は見ます」と話す。「中学生や高校生は『撮っていいの?』という雰囲気だが、30~40代の人は当然のように撮影する」と話す。香川県三木町の三木・長尾葬斎組合「しずかの里」職員、長尾鉄夫さん(55)も「20~30代の若い人が『記録に残す』という感じで撮る」と話す。

出口さんは「人を悼む気持ちが荒廃しているのでは、と気になる。亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくないはず。撮影の可否まで遺言を取ることも検討しなければ」と困惑。斎藤さんも「カメラが身近になり気軽に撮るのだろうが、心の写真を撮っておく(脳裏に焼き付ける)のが一番」と話す。

一方、長尾さんは「葬儀に対する考え方も時代とともに変化してきた。臓器移植が一般化し、遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄くなったのでは」と理解を示す。

メディア社会論に詳しい評論家・武田徹さんは「対象を撮影し、他者とともに確認しなければ“リアリティー”が感じられなくなっている。葬儀も焼香だけでは満足できず、故人との確かなつながりを持ちたいとの思いから撮影するのだろう」と分析。カメラ付き携帯などの普及で何でも撮影する風潮に加え、現代人の感覚や死生観の変容という社会背景を要因に挙げている。
(引用終わり)

携帯でなら撮れるが、いくら「軽い」といってもデジカメで撮るのは憚れるんじゃないかな。
さらに言えば、ヨーコ夫人の遺影はショッキングであったが、その理由は「よくぞ撮った」としか言いようがない、彼の写真家としての覚悟が感じられるからでもある。あれを見ると、自分なら撮れるだろうかと考えてしまうが、未だに答えが出てこない。

どうも上手くまとまらなくて、申し訳ない。
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