eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

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2017-07

植田正治の写真する幸せ/喜び                (旧タイトル)近来稀に見る愚書評 北澤憲昭氏による「植田正治のつくりかた」 朝日新聞2013.12.15読書欄

12月15日付朝日新聞読書欄の「植田正治のつくりかた」(青幻舎)についての北澤憲昭氏による書評の内容が余りにひどくて、笑いつつ怒ってしまった。
この人がどういう人かは詳しくは知らないが、美術評論を生業としているらしい。しかし写真のことはあまり語らないほうがよかろうかと思う。
書評というよりも、むしろ植田正治の写真自体に対する評論という傾向が強いのであるが、あらかじめまとめると、この人は写真作品をある図式に従ってとらえることはできても、内容については考えが足りないということになるだろう。

違和感を持った部分を概略抜き出す。
・「つくる」の語は写真になじまない。写真は本来「とる」ものだから。真を狙う写真の在り方を害するニュアンスがある。
→写真を芸術として考えていた植田は、当然のことながら「作品」を「つくる」ことを大事にしていた。芸術としての写真を考えるならば、当然ながら「作品」を目指すわけで、そこには必ず「つくる」要素がある。
※写真は本来「とる」ものというが、写真を「とる」という言い回しについての考察は別役実が面白いものを書いている。また、必ずしも「写真」は「とる」という言葉と結びついていなくても可能である。

思うにこの人、昔風のスナップ信仰(土門拳に代表される絶対非演出のリアリズム写真)が強いようであるが、写真(photograph)が必ずしも「真を狙う」ものでないことは、写真史から見ても明白である。
そもそもphotograph=photo(光)+graph(絵)、つまり「光の絵(画)」という単純な意味の言葉を、日本でかってに「写真」と翻訳してしまっただけで、「光画」(という本もある)には、「真を狙う」という意味はもともとない。
http://hikari.halfmoon.jp/manager/photo-tec/manager_tec.php
だからこそ、写真黎明期のタルボットに「自然の鉛筆」とか、「太陽の鉛筆」(東松照明)というタイトルの写真作品があるのだ。つまり、絵筆や鉛筆のかわりに光で画を描いたから、このようなタイトルがつけられている。
ということは、北澤氏の最初の文章は写真史からしても正しくない。たしかに芸術であるということは「真」を狙うものではあるが、「とる/つくる」ということが対立関係にあるようなレベルで、芸術としての写真が展開されているわけではない。

・写真の現状ではPCなどで「つくる」要素が強くなったことが、「つくる」写真家である植田正治が再び注目されるゆえんである。
→たぶんPCとかデジカメの普及と、植田正治の写真が注目されることは関係がない。
PCがなくても、昔から写真の修整や捏造はいくらでも行われてきた。身近なところでは写真館の肖像写真は、いかに上手に修整するかということが勝負である(たぶん今でも)。国家的な捏造では、戦争中の日本の国策雑誌「FRONT」での戦車や軍艦の水増し写真がよく知られている。だいたい、スティーグリッツあたりがストレートフォトグラフィを提唱したのは、それ以前の写真では非常に手の込んだ修正・作画のなされていたことに対する反発であった。
それくらいの修正・捏造・改変はPCやデジカメがなくても充分可能であり、これまでもみんながやってきたことでもある。ということで、ここの一節も「ちょっとピンボケ」である。

・代表作「パパとママとコドモたち」は、家族を撮ったものなのに、人物配置の間の取り方は、いたってクールで空々しい。ぬくもりの関係であるはずの家族の真を、演出が台無しにしているかに見える。
→構成はクールではあるが、べつに空々しくない。台無しにもなっていない。目ん玉ついてんのかね、この人。家族が現在でも「ぬくもり」の関係であるかどうかは異論もあろうが、それはさておき、実際にこの写真を見れば「空々しさ」とはまったく逆の、ここではないと書かれている「ぬくもり」を感じる。
それはそうだろう。写真を撮る父(パパとは呼ぶことはなかったらしい)が、子供や愛妻と一緒に画面に入り込んで、しかも写っている家族は、それを(父親の道楽として?)しょうしょう草臥れながら受け入れている。これは、相互に信頼関係がなければ撮れない写真である。その信頼関係は家族関係に裏打ちされているのだから、そこにあるものを「ぬくもり」といっても差し支えないだろう。
尤も北澤氏はこの文末に「かに見える」等と書き、あらかじめ反論に対する準備はしている「かに見える」。

・しかし、写真を撮ること/撮られることの「非日常性」、また現代家族の在り方を思えば、空々しさこそリアルである。異化によってリアルさが捉えられている。
→写真に関する「非日常性」とはいうが、むしろ現代は写真が氾濫しすぎること、非日常性が失われていることこそが問題だろう。事故現場に出会っても、人を助けずにスマホで撮影する人がおり、また葬式の納棺の際に携帯でぱちりとやるのはどうかという議論も読んだことがある。そこまでいかなくても、かつてないほど多くの人が日常的に写真を撮っている。こんなに映像が氾濫してどうするのかね。
植田自身は「カメラを向けられたら緊張するのが当たり前で、それこそが自然であり当然である(大意)」といっている。この発言の背後には、カメラを意識していない(かのような)写真こそ、自然な写真であるという通念があって、植田正治はそれに異を唱えたのであろう。
北澤氏についていえば、「日常性」に紛れ込ませることを重視(その究極が絶対非演出のスナップ)してきたこれまでの写真の在り方が、究極まで進んだ(通俗化、大衆化した)のが現在の状態なのに、いまだに撮影すること/されることを「非日常性」で捉えるのは、やはり現代に生きていないように思う。
むしろ写真における「非日常性」の復権こそが重要である。そこで撮影すること/されることを強烈に意識させる大型カメラが今更ながら使われたりするのだろう(リチャード・アベドン、杉本博司も)。
また、北澤氏が植田正治の写真をとおして逆説的にリアルに感じられるという「現代家族の空々しさ」という言葉も、ずいぶん紋切り型な言葉で、具体的には何を示しているのかよくわからない。上述したように、北澤氏の書いていることはここにいたるまでに既に破綻していると思うので、ここでの結論めいた文章は、なにも言っていないに等しい。

「異化によってリアルさが捉えられている」というが、そもそも「異化」とはなにか。
話すと長いが、ロシア語「オストラニーニェОстранение」の翻訳語である。日常にありふれた、もう意識にのぼらなくなるようなレベルになってしまった事物を、改めてそのもの本来のものとして認識するための表現の考え方である。シクロフスキーかはたまた水野忠夫先生だったかは忘れたが、このような例があげられている。曰く、ドアノブをまわすという行為は、あまりに日常的に繰り返されているので、もう意識に立ち上らない=一種の自動化が起こっている。同じように、日々のさまざまな行動等も同じ自動化される傾向にあり、つまり人は日々自動化された生を生きているだけで、一日一日のそれぞれを意味あるものとして生きているわけではない。そのような生を再生させるものとして芸術があるという考え方である(ちょっと大雑把すぎで、他の定義にふれなさすぎではあるが)。
北澤氏の文脈で「異化」→「リアル」なものと捉えるというからには、異化によって「一般的にはそう見られているが、実際はそうではない真の」姿を示すことで、そこから現実が見えてくるといいたいのだろうか。
そこで北澤氏の文章を試みに言い換えてみる。
「植田の写真は家族写真であるが、本来の写真が持つはずの自然さ(→真)を「とった」ものではない。クールな構成を「つくる」ことよって、(見かけとは違う)家族の空々しさを結果的に示している。この空々しさは、現代の家族の在り方を思い出させる。「つくる」ことによって、逆説的に「空々しさ」という「リアルさ」が「とられている」のだ」となるだろうか。
でもそうでないことは、これまでに述べてきた。

以上のように、細かく読んでいくと、ある種の通俗的一般通念的図式を、具体的な作品・作家に当てはめてみたらこうなりました、というような書評になっている。この本自体はほめていはいるようだが、朝日新聞の編集者は、このレベルの書評はむしろ出版社への営業妨害となるので、掲載を考えるべきではなかったかと思う。

さて、先日、東京ステーションギャラリーで「植田正治のつくりかた」展を見てきた。その前には、恵比寿の写真美術館で「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ-写真であそぶ-」を見てきた。

北澤氏の揚げ足取りだけではさびしいので、植田正治についてこれまで考えてきたことをまとめてみる。わりと素朴なレベルの話です。

植田正治の写真を見ると、胸の中がなにか暖かいもので満たされていることに気付く。それは何によるものかと考えると、写真家と、写されている人・ものとの関係が親しいということがある。植田氏は「アマチュアの特権として、撮りたいものしか撮らないし、撮れない」と言っていて、撮りたいもの=自分が関心があり、おなじ風土に暮らすというつながりがあり、結局は自分が好きであるということが基本にある。好きなものと自分との間柄やその距離感は、相手によってさまざまであったろうが、やはり自分と相手が近しいということが、その関係を複写した写真として作品化されており、見ている者(例えば私)もその関係性にわが身を代入するので、親密さからくる暖かさが感じられるのではないかと思う。
また、なにかさびしげなところがある。ひとつには、東京ではなく地元鳥取県で独立独歩の活動を続けたというある種の傍流としての意識があったかもしれない(自ら望んだことではあるが)。また、鳥取という土地柄(人口密度は低そうである)、風土性からくるさびしさもあるだろう。それ以上に感じられるのは、写真の作品作りは基本的に個人でやるものだから、そこからくる孤独感(とある種の全能感)があるように思う。この例えが良いのか自信がないが、バンドは一人ではできないが、写真なら一人でできる、という意味でのさびしさである。写真ではチームプレーはあまりやらない(もちろん他のジャンルでもそういうものは多い)、一人でするものだから、という意味である。あんまりさびしくないか。

それと画面構成を重視した作品群であるが、あれはいったい「空々しい」ものであろうか。
植田氏の作品の場合、画面構成=被写体の配列にリズムがある。ではリズムとは何かと考えると、それぞれのものが関係しあっているということがある。ひとつの音だけではリズムは生まれない。複数の音が連なることによりリズムとして認識される。画面上にある種のリズムをもって、人やものがそれぞれに配置されているのであるが、そのリズムが心地良いということは、その画面を構成するそれぞれの関係が心地良いということでもある。ということは、少なくとも画面内には空々しさはない。そして、その心地良いリズムを作り出した撮影者と被写体の関係もおそらくは心地良いもの(緊張感もあるのだが)ではなかったかと思う。
構成するということは知性の働きであり、近代性→モダニズムにつながり、そこからクールさにつながる。知性的であるということは冷静であり、激情ではなかろうが、情熱的でないということにはならない。クールであることは冷たさではない。そこを間違えると北澤氏のようになる。
つまり植田正治の画面構成された写真はクールで、温かみもあり、ユーモアも感じられ、なによりモダニズムの香気がただよいスタイリッシュである。つまりかっこいい。これが結論である。

また、「童暦」のように構成的ではない写真作品も非常に素晴らしくて、けっきょく植田正治はストレートな写真も撮れるし、構成的な写真も撮れるような人だったということになる。

いろいろ書いたが、その根本にあり、すべてを包み込んでいるのは、植田氏がよくいう「写真する喜び(幸せ)」である。この写真する喜びがすべてに先立ってあり、そこから生まれたものはやはり喜びに満ちている。
植田正治が写真と嬉々として戯れるようすを見ていると、やはりまわりの人もなんとなくうれしい気持ちになる。そんなかんじが、植田正治の写真の根底にあると思う。

先にあげた北澤氏の書評では、最後の部分で「植田正治は「つくる」ことが「とる」ことであるという逆説。植田正治の「つくる」が一筋縄ではないというゆえんである」等といっているが、そうではない。植田正治はおそらく「つくる」と「とる」はあまり区別がなくて、その前にある「写真する喜び」一筋のひとなのであって、それからすべてが発している。それが分からなかったので見誤ってしまったのだろう。
とはいえ、北澤氏のおかげで植田正治の写真について改めて考えることができて、若干感謝もしております(これほんと)。


さて、次回の写真評論は、「ジョセフ・クーデルカ パノラマ写真により世界視座を再構築するこころみ」の予定です、なんつってな。予定は未定www



とか言いながら、年明けに追記。
東京ステーションギャラリーに見に行ったとき、「砂丘モード」シリーズのデザイン案というか印刷指定の一歩手前のようなプリントがあった。
たしかこのへんの作品の原型になったものだと思う。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/6a/39b7f4e12747187ff582059b7e2afc95.jpg
これは、パノラマ風に広がった砂丘を背景に、スーツを着た男たちの小さな写真が切り抜かれて、いいバランスで配置されて(貼り付けられて)いた。どうもこの手の写真は合成したものもあったようだ。べつにパソコンが普及する以前でも、印刷所に頼めばそうとうの合成はやってくれた(しかし高額でもあった)。

そこで改めて考えてみた。
アラーキーがNHK日曜美術館で植田正治について話したとき、「妻のいる砂丘風景」という写真について語っていたのを思い出した。↓これですな。
http://www.tokinowasuremono.com/artist-d27-uedashoji/imagelarge/ueda_02_tuma-iii_small.jpg
曰く、植田写真はどこか不思議なところがある。例えばこの写真では奥さんの影が他の人物とは別の方向に流れているが、こんなことはあるのだろうか(大意)。
さらにいうと、右下隅の和装の奥様の写真の頭部の歪み方が以前から気になっていた。広角レンズでの歪みならば、歪曲の向きが逆になるような気がする。また髪の毛のあたりの影?の付きかたもちょっと不自然に見える。
さらに見ると、男性3人の像もなんだか平板に見える。
これはひょっとして、複数の人物像をプリントの段階で合成したものではなかろうか。詳しい方がいたらご教示いただきたいところである。よろしくお願いします。

【2014.6.15再追記】
本日、NHK教育の日曜美術館で植田正治の再放送を見て、気付いたことがいくつかあったので追記。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2013/1201/index.html

「童暦」中の「小さな工場」という作品。もともとのネガには、左右に建物があるのだが、それはプリントの際になくしてしまって、かわりに紙で山並み風のものをつくって貼ったという。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/41/025c2782755519c22c14b4bddb7222b4.jpg
http://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/053f3b694c9ae4aff9b1d28f8902c7ad

上にも書いたことではあるが、砂丘モードのタキシードの男性が切り抜かれてバランスよく貼りこんであったのと、同じである。
けっこうプリント時に遊んでいたのだろう。
そう思うと、やはり「妻のいる風景」の右下隅の植田夫人は、影の方向が違うところから見て、これも別のプリントを貼りこんだのではないかと思う。

それと植田氏が使っていたパノラマカメラはリンホフテクノラマらしい。手持ちで撮影していたが、雑にすると水平が出ないはずである。作品はきちんと水平が出ているので、基礎的テクニックは、そうとうしっかりしていたのだろうと思う(当たり前か)。
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