eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

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2017-04

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あまちゃん 社会に開かれた物語

あまちゃんが今日で終わりました。残念だけど、ちょうど良いタイミングでもある。
さて、以前あまちゃんの終わり方についての妄想を書いたが、実際の終わり方はあれで良かったと思う。
最後のほうで、主人公アキと親友ユイがまだ復旧していない線路の先にあるトンネルに向かう。かつてそのトンネル内でユイは3月11日の大震災を経験し、トンネルの向こうには津波の惨状が広がっていた。
そのトンネルの向こうに、あらためて今度は二人で向かうのだが、トンネルの向こう側が逆光になって真っ白になり何が映っているか分からない映像になっている。

さて、トンネルの向こうには何があるのか。
それは現実の世界であり、未来だろう。
トンネルのこちら側は物語の世界であって、限りなく現実を踏まえているが、あくまでもフィクションである。
※物語は2008年の時点から始まって、次第に時間が現実に近づき、最終回では2012年の7月まで追い付いている。これが2013年でないのは、物語/フィクションと現実を明確に分けるためだろうが、しかし見ている方としてはまるで2013年の夏の出来ごとのように見ていた(俺はね)。普通であれば、最終回(2012年時点)の1年後、つまり今の主人公たちはなにをしているだろうかと自然と想像されると思うのだが、そう思わせないのは、フィクションと現実の線引きが絶妙であるからだろう。

では、トンネルの向こうに何が見えたか。
それは、見る側にゆだねられた、と見るのは穿ちすぎかもしれないが、そう思った。
つまり小説でいう「オープンエンド」である。これは作品の結末は明確にされておらず、判断は読者にゆだねられるという形式である。しかし、たいていの場合、著者は結末を文中で暗示しているので、読者は何を想像してもいいというわけではなく、やはり作者の手のなかにいるといってもよい。
例をあげると、意外にも漱石の中期、後期の作品はこの形式が多く「彼岸過迄」「こゝろ」あたりはそうである。「こゝろ」など、主人公が汽車に飛び乗って手紙を読むのはよいが、さてそれからどうするのかは、どこにも書かれていない(が、それは漱石の仕掛けをきちんと読めば分かるはず、なのだが、いろいろ意見があるようです。俺は熊倉千之先生の説をとる)。

以前書いたように、アンゲロプロス「アレクサンダー大王」では、最後に時間を100年間飛び越して、現代のアテネの町に登場人物がたどり着く。川島雄三「幕末太陽伝」では、本来ならば主人公が現代の町に飛び出して終わる(はずであった)。
あまちゃんの場合も同様で、フィクションの2012年から、たぶん現実の現代に飛び出して終わる。しかし、現実の現代がどうなのかは具体的には描写しない。つまり、この現実の世界がどうなるかは、見ている側の意志によって、どのようにも変わりえる。だから愛すべきアキちゃんとユイちゃん、北三陸町の人々を「現実と地続きのフィクションの世界で」幸せにするかどうかは、見ているあなたたち(視聴者)にもかかっているのだよ、という製作者の意図があると深読みしてみた。
物語をハッピーエンドにするか否かという点において、見る側も物語に参加している。そういう意味で、社会に開かれている物語ではないかと思った。

また、フィクションの世界と現実の世界の間に、震災を体験したという共通基盤があるということも、開かれていると思わせる一因ではないかと思う。面白いことに、あまちゃんは東日本では人気があったが、西日本では通例よりも人気がなかったそうだ。方言の問題もあるだろうが、震災を一緒に体験したか否か、というところもあったのではなかろうか。

ところでトンネルの次の場面では、オープニングにも出てくる堤防を2人が走っているシーンであった。ということは、トンネルの向こうを見てきて、また戻ってきたのか。
そんなにちゃんと見ていなかったので(とばした回もけっこうあるし)、トンネルと袖が浜の位置関係がはっきりしないのであるが、トンネルの手前に海女クラブのある袖が浜があり、トンネルはその先になっているようである。
https://www.nhk-ondemand.jp/share/pickup/interview_archives_asadora.html
http://compression-modelling.com/production.html
いずれにせよトンネルの向こうは、あまちゃんの世界とはまた別であることが示されているとは思う。

ちなみに、NHKに井上剛プロデューサーの言葉が載っていた。
(劇中歌「潮騒のメモリー」の歌詞に宮藤官九郎が込めた思いとして)「来てよ、その“火”を飛び越えて」というのは、多分「来てよ、その“日(3.11)”を飛び越えて」。「また東北に来てね」ということだと思います。
http://www1.nhk.or.jp/amachan/special/0928_3.htmlなるほど、そうかもしれないね。

いろいろ考えさせられて、希望もないわけではなくて、いろいろ困難な出来事も起こるけれども、見ているとやっぱり元気が出てくるドラマでした。
見ていて良かったな。
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