eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-05

早稲田松竹、「塀の中のジュリアス・シーザー」と「ローマ法王の休日」

先日、早稲田松竹で、タビアーニ兄弟監督「塀の中のジュリアス・シーザー」とナンニ・モレッティの「ローマ法王の休日」を見てきた。

「ジュリアス・シーザー」は、前日に原作となっているシャークスピアの「ジュリアス・シーザー」を読んでいたので、だいぶ楽しめた。内容は、ローマの実際の刑務所にいる服役者が教養講座として演劇を行うのだが、今回の作品はシェークスピアの作品。それを本物の囚人が演じる。撮影も刑務所のなかで行われたようで、よく実現できたなと思う。
しかし、タビアーニ兄弟ならば、もっと素晴らしい映画になったはずという気もしている。古典を題材に現代を撮るような作品なのであるが、シェークスピアの作品中の登場人物と、演劇をする囚人のキャラクターや犯罪に至るまでの過去の人生がもっと重なるような(ちょっとは触れているが)、そういった重層性を構築できたのではないかと思う。まあ「旅芸人の記録」を引き合いに出して考えているわけですがw。
演劇をする囚人たちの異様な迫力は、ちょっと他にはないもので、なおさら惜しいように思った。でも見て、損はしない。

もう一本のモレッティ「ローマ法王の休日」は、見て損をしたというレベルの作品。俺はけちなので、よほど詰まらないものでも元を取ろうと思って、出来るだけ楽しもうとしているが、これは無理だった。
設定としては、新しいローマ法王を選定するが、新法王が重圧に耐えかねて逡巡するというお話。撮影場所もバチカンの内部風のところだったりして、教会がそうとうにサポートしているのではないかと思う。サン・ピエトロ広場の映像などは、バチカン当局の許可がなければまず撮影できなさそうである。
そう思うと、新法王が就任をためらうというのは、いかにも罰あたり的で、よくバチカン周辺?が許したものだとも思ったが、そこまでの話である。
エピソード的に、枢機卿といえどもわがままを言ったり、中庭でバレーボールをしたりと、いろいろとくすぐりはあるが、どれも断片的である。チェホフの「かもめ」のセリフや演劇の場面、チェホフ役者が錯乱するなど、どうも「かもめ」をベースに作品が作られているようだが、しかし、結末で新ローマ法王が「自分はふさわしくない」といって終わるあたり、いかにも消化不足のように思う。
というのは、これは一種の法王の「人間宣言」みたいなものだが、日本人ならば昭和天皇の人間宣言を知っているので(キャンディーズの「普通の女の子になりたい」も一緒にしたらまずいか?)、カトリック的にはスキャンダラスなほどの出来事だろうが、何をいまさら、という気もする。
また、自分にその任にふさわしくないかどうかは、カトリックの人であれば、自分が決めることではなく神の思し召しであろうから、自ら辞任を申し出るような発想がありえるのか、ちょっとへんな感じもする。
図らずも法王に選ばれて、その任に苦しんで(まだ始まっていないのに)止めてしまうというのは、枢機卿に選ばれるほどの人の人物造型としては違和感がある。

ナンニ・モレッティの映画はいくつか見ているが、ときどきくすぐりがくど過ぎて悪ノリにしか見えないときがある(イタリア人的にはちょうどいいのでしょうが)。今回のバレーボールの場面はそんなかんじ。

彼の「ジュリオの当惑」(新米神父の苦闘物語、けっこう感動する)という映画が好きなのだが、やはりいろいろいっても熱心なキリスト者なのだろう。
テレビでドキュメンタリー作品を作るとき、「貶し三分のホメ七分」というそうだ。少しは貶しておいたほうが、ホメの部分の説得力が増すという意味だという。
この作品は、バチカンに象徴されるカトリック教会について、ちょっとは貶しながらも、こんなに偉い人もじつは人間味あふれる親しみやすい人たちなのですよ(だから、スキャンダルが噴出しても、これまでどおり信者でいてね)というように見えて仕方がなかった。
この映画も素材は良いのだから、もうちょっと練り込んで作ってほしかった。
まあしょせん異教徒には分からんのです、ということかもしれないけどな。
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