eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-11

あまちゃんの終わり方

NHKの朝の連続ドラマの話題です。
けっこういろいろと話題になっていますね。じぇじぇ、とか。たしかに面白い。
ちょっと前の番組を見ていたら、2009年3月というテロップが流れたり、ナレーションで何度か繰り返したりしていた。
このドラマの舞台は岩手県の三陸海岸の久慈市(そうはいってないが、琥珀の産地だし)であり、もちろん2011年3月11日の震災と津波で被害を受けている。
あと2年経つと震災が起こるわけだが、登場人物はだれ一人そのことを知らないで、それぞれの人生を生きているのを見ると、ドラマを見て笑いながらも、胸が苦しくなってくる。

こういう記事があった。

岩手が舞台、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」脚本担当の宮藤官九郎さん語る(産経2013.4.1)
「震災をフィクションの中に入れることは抵抗がありました。フィクションを楽しもうとする人にとってどうなんだろうと。悩みましたが、やらないのも嘘、それだけをやるのも嘘。それが自分の結論でした。
(中略)ドラマは大半は震災前で、後半に震災が出てきますが、それも含めて全体の26週の中で、東北に限らず元気になってもらえるような作品を作りたいと思っています。」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130313/ent13031308030002-n1.htm

たしか、初回のときの最初のほうで、主人公が坂を下って海の方へ行くシーンがあったと思うが、その右側(だったかな)に石碑がちょっと目立つようなかんじで写っていた。たぶん「ここより下に家を建てるな」というような津波の教訓を彫りつけた石碑ではないかと思うが、確証はない。


さて、このドラマ、後半では震災がとりあげられるという。どういうふうになるのか見当もつかないが、俺なりに考えてみた。
2011年には、主人公たちは高校を卒業している。番組を見ているとどうやら上京するようす。脚本の宮藤官九郎は、震災の時、東京にいたようで、自分を主人公にダブらせて地元を離れる設定にするのかもしれない(逆に、だからこそ地元にいるようにするのかもしれない)。
このへんから、俺の妄想だが、遠洋漁業に出ている爺さんは、震災の後に物資を山ほど積み込んで久慈に駆けつけるのだろう。また、種市君はダイバーになっているので、捜索のためにやはり戻ってくるのだろう。
スナックに集う面々の中にも、震災で命を落とす人が出てきそうで、なんだか見ているのが辛い。俺は見ていないが、木野花がマイクで話すシーンがあり、それが津波のときに避難を呼び掛けてそのまま亡くなった女性とダブるという話も聞いた。夫であるでんでんも漁協の組合長であり、最後まで避難誘導をしそうなタイプに見える。この夫婦は息子を海の事故で亡くしてるという設定もあいまって、そのように見えてきて仕方がない。

それにしても、このドラマがどのように終わるのか、なんだか心配でもある(勝手に心配しているわけだが)。
震災でたいへんな目にあったけど、みんな何とか頑張ってます、と終わるのかもしれないし、原発事故で海に潜るのが怖くなったとか言い出すのかもしれないし、2011年の3月11日午前中までで終わるのかしれない(それはないか)。
また、震災がなかった別世界のファンタジーとして、そのまま終わってくれても良いように思うが、そういうこともないだろう。

俺としては、こういう常識や人の思惑を越えた出来ごとがあった以上、当たり前ではない終わり方をしてもいいように思う。

例えば、川島雄三監督の「幕末太陽伝」(昔銀座並木座で見た)の終わり方は当初のプランでは、フランキー堺扮する居残り佐平次(肺病やみ=病弱だった川島監督と重なる)がスタジオを飛び出して、現代の町を走り去っていくというものだった。
※詳細は末尾にあり。

また、アンゲロプロス監督の「アレキサンダー大王」では、20世紀初頭の山賊(通称アレキサンダー大王)が死ぬとき、群衆に踏みつぶされるが、後には死体は見当たらずに大王の頭部の彫刻(トルソーみたいなもの)が残される。しかし、混乱の中、馬の背に乗せて逃がされた、おなじくアレキサンダーという名を持つ少年(山賊の娘が世話している―山賊の幼少期と重なる)が、忽然と現代のアテネの郊外に現われて終わる。
http://movie.walkerplus.com/mv11318/

NHKの朝のドラマで、この二つの映画のような無茶なことはできないと思うし、現代劇なので、過去から現代に飛躍することはできない(その逆はありそうだが)。
よくあるように、ドラマでは描写しにくいところはとばして、いきなり50年後の未来から過去を振り返るようなかたちで終わるというのもありそうではある。
しかし、クドカンには俺の予想もつかないような、そしてなにかを慰撫するような、あからさまではない控えめな希望がかんじられるような離れ業的エンディングをお願いしたい。
ほんとうにどのように終わるのかね。その終わり方は、あんがい世相に影響を与えるような気がする。

なんか、まとまりがつかないままだが、考えていることを書きとめておきたかった。


※「幕末太陽伝」の最後の部分、脚本段階では、主人公佐平次は海沿いの道ではなく、杢兵衛に背中を向けて走り始めると墓場のセットが組まれているスタジオを突き抜け、更にスタジオの扉を開けて現代(昭和32年)の街並みをどこまでも走り去っていくものであった。佐平次が走り去っていく街並みはいつかタイトルバックに登場した北品川の風景になり、その至るところに映画の登場人物たちが現代の格好をして佇み、ただ佐平次だけがちょんまげ姿で走り去っていくというものだったという。これは川島がかねてから抱いていた逃避願望や、それとは相反する形での佐平次に託した力強さが、時代を突き抜けていくというダイナミックなシーンになるはずだったが、現場のスタッフ、キャストからもあまりに斬新すぎると反対の声が飛び出した。川島が自らの理想像とまで見なしていた佐平次役のフランキー堺まで反対に回り、結局川島は現場の声に従わざるを得なかった(但し、フランキー堺は後に「あのとき監督に賛成しておくべきだった」と語っている)。
wikipediaより
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