eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-05

園子温「希望の国」

昨日、この映画を見てきた。場所は新宿ピカデリー、70人くらいは入っていた。
内容の詳細は、他のところで見てもらうとして、いろいろ思ったことを思いつくままに。
※ストーリーにも触れるので、未見ならばこの続きは読まないほうがいいと思います。
公式サイトはこちらです。http://www.kibounokuni.jp/

見ている最中は、何度も涙がこぼれて困った。顎のへんまで幾筋も流れた。脱水症状になったので、帰りに新宿駅地下のベルクによって、ちょっと酒飲んでから帰った。
涙がこぼれたのは、あんがいなんでもないセリフのところで、でも、一番のところは若い恋人どうしが、恋人の女性の実家があったはずの、しかし津波の跡しか残っていない場所で「おーい」「おーい」と無人の雪原に何度も呼びかけるところには参ってしまった。その直前のでんでん扮する父親が、原発近くらしいこの女性の実家に、息子が一緒に行くところで「お前はいい男だ」と言う場面も、なんでこんなところで胸が詰まるのか、よく分からないのだが。

主人公である夏八木勲と大谷直子の夫婦については、言葉がまだまとまらない。大谷直子は認知症である設定だが、うちの母もそうなので、いろいろなものが重なってきて落ち着いて考えることができない。あの不安そうな目つきは真に迫る。それにしても、だれもいない雪原で夫妻が盆踊りを踊るシーンは歴史に残るだろう。

設定についていえば、原発事故が起きる「長島県(架空)」は「長崎」+「広島」だろうか。ただ、長崎県の近くには玄海原発(佐賀県)があることも思い出される。
※あとで監督のインタビューを読んだら、長崎+広島+福島であるそうだ(文藝春秋本誌)
また、大家直子扮する母親のなかでは盆踊りが大切な思い出となっているが、福島第一原発の隣の南相馬市は相馬盆歌だろう。うち(相馬市)のあたりのことを考えると、おそらく録音など使わず生演奏だろうし、いろいろな曲をやるのではなく1曲だけで延々何時間も踊り続けるはずで、だからこそ盆踊りの記憶が強いという設定になったのではないか。
※もっとも園監督がこのことをどの程度知っているか分からない。しかし取材の際にそのように(今年はみんなそろって例年のように盆踊りができないのがさびしい等)言う人もいただろうと思われる。双葉郡については良く分からないが。
また、その盆踊りが炭坑節になっているという設定は、長崎県→九州北部→炭坑との連想によるものかもしれない。
http://www.youtube.com/watch?v=7UWGPbkJLJI
同時に、炭鉱ということで福島県浜通りの常磐炭鉱も思い出す。
http://www.youtube.com/watch?v=ybLSq8gw5aw
それにしても、大谷直子の手ぶり足ぶりとセリフで炭坑節を覚えてしまった。
掘って 掘って また掘って
担いで 担いで 眺めて 眺めて
前に 前に 切って ちょちょんがちょん
というところです。

ストーリーは、被災者の体験を取材し、整理して、一つのお話にまとめ上げたというように思える。だから、一つ一つのエピソードに生々しさがある。逆にいえば、エピソードを統合する器としてのストーリーともいえる。

撮影自体は、浜通りの立ち入り可能地区(南相馬市あたり)で撮影した部分が多いように見えた。ところどころ大熊町とか、福一原発前の映像も入っていた。また若夫婦が避難するのはつくば市あたりだろうか。あのへんもホットスポットがあるらしい。
※埼玉県寄居市という地名も後で目に入ってきた。

この映画、映像が美しいという評価がある。確かにそうだが、おれからいえば、撮影地である浜通りが美しいのではないかと思う(低い山並みが阿武隈山脈に見えるので)。園監督はその美しさをそのまま上手に切り取ってくれたように考えている。不貞腐れた若い役場職員のセリフではないが「俺にだって俺なりの郷土愛はある」から、そう見えるだけかもしれないが。
それと今年前半はアンゲロプロスを見ていたが、地震と津波の被災地に雪が積もっているシーンなど、長回しということもあって、「旅芸人」などを思い出した。
また、最後のほうで夏八木夫妻の庭の木が燃え上がるが、タルコフスキー「サクリファイス」最後の家が燃えるシーンと子供が木のそばで寝そべるシーンが重なった。

ところで、最大の問題は、この「希望の国」というタイトルをどう解釈するか、ということである。
映画の冒頭、牛舎のシーン(だったかな)から、タイトルもなしに始まり、タイトルは一番最後に出てくる。そこの意味をどう考えるか。
最後の場面では、放射能恐怖症になっていた若夫婦の妻(妊娠中)が、さらに安全な場所を目指して移動する車中で、防護服を脱いでしまう。そして、途中の浜辺で別の子連れの若夫婦と出会うのだが、その時、夫の線量計が警告を出す。夫は「大丈夫かな」と言い、妻は「愛があれば大丈夫よ」という。このやり取りを三度くらい繰り返す。そしてタイトルがここではじめて現れる。
監督のインタビューでは、この部分、以下のように語っている。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121019/ent12101915060019-n4.htm

映画に希望があるかといえばよく分からない。自問自答しながらカメラを回していた。決して希望を感じさせる映像はないのだが、それでも小さな希望の芽を託したくて、いずみのセリフをしたためた。「陳腐で短絡的に聞こえるかもしれないけれど『愛があれば大丈夫』ってね」

この答えがどの程度監督の考えを語っているのかは分からない。ほかに考えがあるのか、それともこれだけなのか。
俺なりに考えると、映画中、福島原発事故の後に長島原発がメルトダウンした以上、日本中もう逃げ場はない(それを裏付ける産婦人科のセリフがある)。残されたものは、もう愛しかない。しかし愛で放射能障害を乗り切れるとはとても思えない。けれども残された希望はそれしかないという状況(たぶん絶望的でもあるのだが、ただちに人が死ぬわけでもないという曖昧な状態)を、「そのような希望しか残っていない国」という意味で「希望の国」と言っているように考えてみた。



先日相馬市の実家に帰ったら、10年以上実らなかった柿の実が今年から300個近くなった。
家族は去年のピカのせいだろうと言っている。
その柿をさんざん食べてきました。
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