eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-09

「旅芸人の記録」再び

結局、北千住の東京芸術センターで最終日にもう一度「旅芸人」を見てしまった。
さすがに、同じ映画を3回も見るといろいろと考えるようになります。

まず分かったのは、アンゲロプロス監督には非常に鋭敏な時間感覚があるということ(みんな既にさんざん言ってますな)。時間感覚といっても、2つ以上の意味がある。
ひとつには時代的な歴史感覚。これは映画自体の全体構成に関わる。これについては後でもうちょっと書く。
もうひとつは、4時間近い上映時間内での、撮影および編集に関わるもの。例えば長回しのカメラワーク(途中でカットが変わらない)などであるが、これもさんざん分析されていますな。エイゼンシュタインのモンタージュ理論とはまったく逆の方向性で、これについて「ユリシーズの瞳」のなかで主人公の映画監督が旧友と交歓する際のセリフに「エイゼンシュタインに乾杯するが、彼からは嫌われた」と言って笑うシーンがある。多くのカットを繋げて映像を構成せずに、数分にわたってカットなしに一度に撮影するというもので、独特の息詰まるような緊張感があったりする。

ところで、「旅芸人」についての文章を読むと、ストーリー展開のなかで時代が前後し、分かりにくいというようなことが書いてある。最初見たときはそう思ったが、シナリオを読んだり時代背景を学んだりすると、あんがい分かりやすく整理されているように思っている。それについて、以下ちょっと書いてみる。
そのまえに主要な登場人物と役どころを書いておく。
旅芸人一座の座長であり父であるアガメムノン、不貞なる妻のクリュタイムネーストラー。クリュタイムネーストラーの愛人であり裏切り者のアイギストス。アイギストスとクリュネタイムネーストラーに復讐する、アガメムノンの長女エレクトラと弟オレステス。オレステスの親友でありエレクトラの夫となるピュラデス。これらはギリシャ神話の設定そのままである。これを頭に入れておくと話が分かりやすくなる

話を戻して、ストーリー展開上で分かりにくいのが、冒頭と最後のシーンがほとんど同じ(ただし時代が異なり、人物も入れ替わっている)であるというところだろう。
冒頭は1952年秋、エギオンという駅に旅の一座が降り立つ。駅から中央広場に向かって歩いて行くのだが、広場につくと時代は1939年秋にさかのぼっている。
そして、最後のシーンも冒頭とほとんど同じ画面でエギオンの駅頭に旅の一座が降り立っているが、時代は1939年秋に戻っており、冒頭と結末で時間が逆転している。
実はここを除外すると、他のシーンはほとんど1939年~1950年までの時系列にきちんと並べられている。
ただし冒頭の1952年と同じ時間に戻る場面がいくつかある。気付いたところでは、1941年正月にエレクトラがファランギスト党員と連れ込みホテルに入った後の場面から、1952年にピュラデス(この時点でエレクトラと夫婦になっているようだ)が、一座とホテルを出て港を散策する場面に飛んでいる①。また、1945年正月に共産党シンパと王党派がバーで歌合戦(文字どおりの)をした後、王党派が夜明けの街を歌いながら行進しているが、いつのまにか1952年のパパゴス将軍の選挙演説のシーンにつながっている②。ここは1952年のパパゴス将軍派は、戦後直後の王党派と本質的に変わらないことを示すための時代の跳躍だろう。

これを整理して考えると、以下のようになるのではないか。
映画の基本的時代設定は、1952年当時が映画での「現在」となっている。場所はエギオン。1939年にも一座はエギオンに来た。一見すると1952年と同じようにも見えるが、座員がかなり入れ替わっている。なぜそうなったのか、その理由を1939年までさかのぼって1950年までかけて説明するというのが、基本的時間の流れであろう。

さらにいえば、1952年のある一日の長い回想を映画にしたともいえるのではないか。
その一日をトレースすると、まずエギオンに到着した一座は広場を目指す。パパゴス将軍の選挙宣伝が喧しい。一行は途中である建物に入ったが、笑いながら出てくる。どうやら宿を間違えたらしい(広場に着く直前に時代は1939年に飛ぶ。ここから1941年までの話が始まる)。そして宿に落ち着いたら一行は港に向かい、また戻ってくる(②の場面)(その同じ道をドイツ軍の車両が走り去り、1942年に戻ったことが示される)。そして夜になると一座は「ゴルフォ、羊飼いの少女」を上演する(これは映画のオープニングの場面)。
ところで、一行が駅から広場に向かう途中に建物を間違えるのだが、これはアンゲロプロスからのヒントなのではないかと思う。つまり、いろいろ寄り道しながら話を進めますよという意図で、なくても良いような一場面を入れたのではないかと思う(考えすぎか)。
また、彼らが港に行く理由は、おそらくこういうことだろう。1939年に一座がエギオンに降り立ち広場のバールに入る。そこでピュラデスとアイギストスが国粋主義者の行進をきっかけに反目する。ピュラデスはアイギストスに密告されて港から刑務所に連行される。そこからアガメムノンの殺害、オレステスの死等、すべての話が始まる。連行されていく港はどうやらエギオンのようである(このとき、エレクトラやオレステス、詩人等が見送っている)。つまりここから、すべての話がはじまったので、1952年にエギオンに来た時、その記憶をたどり直すために港へ行ったのではないか。

では、最後になぜ1939年に戻って終わるのか。
これは、エレクトラの甥(妹はアメリカ人と結婚して、息子は残った)が成長して、かつてオレステスが演じた「ゴルフォ」の恋人役になる。このときエレクトラは「オレステス(とそっくりだ)」と言い、いつものようにまた芝居が始まる。つまり時間が円環構造になっているのではないかとも思のだが、この部分は自分なりに納得のいく考えがまだない。もう少し考えたいが、今都内でアンゲロプロスを上映しているところはないようで、禁断症状が出そうです。


参考にした図書
「アンゲルプロス 沈黙のパルチザン」ヴァルター・ルグレ(1996フィルムアート社)
「テオ・アンゲロプロス シナリオ全集」池澤夏樹(2004愛育社)
「アンゲロプロスの瞳―歴史の叫び、映像の囁き」若菜薫(2005鳥影社)


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