eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-05

創造的?誤読

先日、タブッキの追悼文を書いていたときに、自分の誤読をひとつの材料にして文章をこさえた。
じつはこのとき、今道友信先生とやりとり(といえるか心もとないが)を思い出していた。

今道先生はいまは体調の関係でご自宅で執筆の日々を過ごされている。それ以前は、中央公論社の古典読書セミナーを主宰されていて、ときどき参加させていただいた。
ある回のとき、先生はこういうことを話された(以下、大雑把です)。

美について考えるとき、このように考えることができる。

           犠牲→人格美
          /
       自由→藝術美
      /―効果→技術美
   必然→自然美
  /
雑多な感覚所与

ところで藝術美は、本来見ただけで分かるはずであるが、やはり学ばなければ分からない美もある。例えばキュビズムをはじめて見た人はなかなか分からないが、説明を受ければ(=理性的にとらえなおせば)その良さが分かる。またそのような美に接することによって、ものの見え方が変わる場合もある。例えば、昔「25時」(著者コンスタン・ヴィルジル・ゲオルギュ)という小説が評判になったが、そのなかに、ナチスの強制収容所に連行される際、トラックにむちゃくちゃに詰め込まれて、手や足があっちこっちから飛び出てキュビズムの絵のようであった、という文章があった…云々。

という話であった。私はその「25時」という小説が気になり、図書館で取り寄せて(けっこう古い本でした)読んでみたが、「キュビズムの絵のよう」という表現はなかった。

その次の回の始まる前に、私はよせばいいのに、この小説にはそのような表現はなかったようですよと言って、該当箇所のコピーを渡した。先生はそのとき何も言わなかったが、セミナーが始まると、
「これから人格美の例として、私の受けた感動をもとにして、記憶だけでホメロスによるイーリアス中の、アキレウスについての場面を話したいと思います」と言って、語りだした。
「ギリシャのアメガムノンの振る舞いに怒り、アキレウスはテントに引きこもる。しかし、友人パトロクロスが敵の総大将へクトールに負けてしまう。
アキレウスとパトロクロスは乳兄弟で親友であった。アキレウスは怒り、へクトールを倒した。そして戦車に死骸をくくりつけ走り回った。死体がぼろぼろになった。へクトールの父・徳に優れた人物であるプリアモスが、夜一人でアキレウスの陣営を訪ねた。
「私はプリアモスだ」「ご老人、どうぞ中へ。あなたの息子を殺したのだから、さぞかし憎かろう」「戦いだから、どちらか一方しか生き残れないのは仕方がない。しかし正式の葬式を出してやりたい。二三日、戦いを休んで、子を葬りたいが、亡骸をいただけないか」(じつはへクトールの首を取って、アガメムノンのところへ行けば大功績であった)。「貴殿は、誇りを知る武将だと思って、このようにやってきた。たとえ一瞬でもいいから国民とともに弔いたい」「私はパトロクロスが討たれた以上、戦わないわけにはいかなかった。亡骸はお返ししよう。戦いを10日止めて、国葬の礼を尽くされるがよかろう。責任を持ってそうするので、あなたもそれを守ってもらいたい。ところで、戻るにあたり、誰か人をつけようか」「敵陣には覚悟の上でやってきた。敗将に従者はいらない」
アキレウスは、プリアモスが帰っていくのを見守った。不心得者がプリアモスを討たないように。」
そしてこう付け加えられた。
「今のホメロスの詩は、正確ではないが、かつて受けた感動をもとにその場面を想像して語ったものです。想像力で思い出せば、かつての英雄たちのいきいきとした姿を思い浮かべることができる」。
これは、私の浅薄な行為に対しての先生のある種の解答だったようにも思うが、この件について直接はお話ししなかったので定かではない(けれど、私の心の中ではそうなっている)。

そういえば、角川書店版の坂口安吾「堕落論」には面白い註がついていて、安吾は記憶だけで書いているので、引き合いに出している事柄や物語などは、実際とはかなり違うものが多い、等と書いてあった。けれども、安吾のなかではそのような記憶であったのだろうし、もし正確を期すために調べ物をしながら書いていたのでは、あの勢いは生まれなかったろうと思う。ちなみにいまでも「堕落論」や「不良少年とキリスト」「ぐうたら戦記」等を読み返している。元気が出ます。

また、フランスの実存主義者、サルトルあたりもカフェで文章を書いていたので、けっこう記憶違いが多いらしい(サルトルは読む気がしなくて、よくわかりません)。

いまでこそ、ネットで検索しながら、事実に基づいた文章が書けるだろう。でも、記憶が自分の頭の中で醸成され形が変わっていくほうが、どれだけ価値があるか分からない。正確さなら検索すれば満たせる。しかし新たな想像力をもって創造的誤読をし、なんらかの新たな価値を生み出せるなら、そちらのほうがいいのではなかろうか。思えば今道先生が25時という小説で描いたイメージは、ピカソの戦争画に通ずるところがあって、それはそれで間違ってないようにも思う。

思い込みが強くて、記憶力が弱い私は、このように思っていたりするのです。
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