eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

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2017-06

オギュスタン・ベルク(Augustin BERQUE)先生講演抄録 東北大学シンポジウム 大震災と価値の創生より

・東北大学 公開シンポジウム「大震災と価値の創生」 
http://www.tohoku.ac.jp/japanese/newimg/pressimg/tohokuuniv-press20120227_03.pdf
・日時:2012年3月9日(3月10日も開催)
・場所:東北大学川内北キャンパスマルチメディア教育研究棟

・基調講演 Augustin BERQUE(オギュスタン・ベルク)先生
・演題「災害、世俗性、ものの哀れ これから日本の風土性は?」
・3月9日(金)13:30~15:00(14:30から質疑応答)


0.野家啓一氏によるベルク先生の紹介
・Augustin BERQUE 先生は1942年生まれ
・13年前に宮城大の教授(1、2年?)。その間、東北大でも半年ほど講義を持った。
・311以降も来日し被災地を回り、新聞に寄稿。宮城県・村井知事とも対談。
・その対談の中で「景観10年、風景100年、風土1000年」という言葉があった。景観は10年で変わるし、風景は100年あれば様変わりするが、風土は1000年続く、という意味である。
・今回は1000年に一度という災害(震災・津波)に襲われたが、それがわれわれの風土にどういう影響を及ぼすかについても先生にお聞きしてみたい。
※その他、経歴的な紹介あり。

1.ベルク先生 講演概略
・「風土性」という言葉は和辻哲郎から始まる。
・「風土」は1935年に刊行された。その冒頭に、「風土とは、人間存在の構造契機」とある。非常に難しい概念である。
・もう少し簡単に言い換えると、風土性は人間と自然との関係であり、歴史を通じて現れる一緒の「趣(おもむ)き」である。
・趣とは面白い言葉。中国六朝期の画家・宋炳の 「画山水序」の文章で、「至于山水質有而趨霊。山水に至っては質(=かたちの意)は有にして、霊に趣く」とある。物理的形態がありながら、而して霊に趣くという意味。そこから、「趣き」という言葉を使うようになった。※趣く→趣きの関係。
・何故、風景は人の魂に趣くか。風景は価値と意味を持っているから。
・風土は、モノというだけではなく人間との関係がある。いわばコト。モノ→コト→コトバ。
・モノがコトに働きかける。逆に、コトがモノに働きかける。物理的形態と心が、通い合いを行う。これを「通態(つうたい)」と名づけた。
・そこには主体と客体の区別はありえないで、具体的に一緒になっている=通態的に一緒になっている。これは近代の世界観とは違う。
・通態性は、モノに意味と趣き、価値を与える。
・その価値付けを、詳しく考えると4つのカテゴリーがある。二つはpositive、二つはnegativeなものである。
・positiveな二つ。
①有用性 ものは何かを実現させる資源でもあるresource
②楽しい、愉快、快いもの
・negative
③制約、邪魔をするもの
④危険、リスク
・風土のなかにこれらの四つの面がある。四つのカテゴリーの中に風土が存在している。

・与えられた環境が、人間以前にまず存在している。それはそれなりの質を持っていて、われわれの世界の土台となっている。土台は「主題」の位置にある。
・主題のとらえ方は「述語的」である。「述語的にとらえる」ところに、現実が現れてくる。
・categoryとはアリストテレスに遡り、「述語」という意味。モノについて言われる「解釈の仕方」のこと。
・主題(Subject)と述語(Predict)の間に現実があわられている。
・例えていえば、土台(subject)とは文字通り「下にあるもの」=ヒュポケイメノン(ヒュポ+ケイメノン 下に置かれたもの、基体、subjectum)。
・それについて語ることが「述語P」
・述語とは、言語的なものとしてだけではなく、「ものごとのとらえ方一般」のこととして考えている。
・では人は、どのように土台である自然をとらえているか。
・「土」は自然、地球、大地。「風」とはその「土」をどういう「風」にとらえるかということ。つまり、雰囲気、文化、人の生きている世界のこと。あわせて「風土」
・「風土」は1935年に出版されたが、そのなかに1928年の論文も入っている。ちょうどそのころ、1934年に出版された本の中でユクスキュル(Jakob Johann Baron von Uexküll)が同じようなことを考えていた(ユクスキュスルは自然科学者で動物行動学を専攻)。
・和辻は人間を取り上げ、文化論の次元を語っており、一方、ユクスキュルは動物を取り上げ、生命の次元で語っているため、語っている水準が違うが、やはり相同する(homological)ものがある。
・和辻は、「風土」の1行目でこう書いている。「環境は自然学の対象となるもので客観的であり、風土は人間の主体性が前提であるという違いがある」。
・ユクスキュルによれば、生物一般のレベルで「与えられた環境Umgebung」があるが、その中で各生物(種)は、それをもとにして特有の「Umwelt」を持っている。
・その種は、その種に最適な、一番適当な環世界を持っている。風土についても同じことが言える。
・それを一番完璧にあらわしたのがプラトン。ティマイオスで「コスモスは一番大きく、一番良く、一番美しく、一番完璧なものである」と語っている。
・コスモスは、本当にそんなに良いのか、positiveな価値だけを持っているのか。ユクスキュルから考えれば、一番人間らしいのがコスモスなのだから、人間にとって一番良い。
・では、negativeな価値はどうなったか。忘れ去られていた。無視された。
・その例として、山元健吉の歳時記の文章「歳時記はひとつの秩序(コスモス=秩序)の世界なのだ。それは真であり美であり世界である」。
・日高敏隆「動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない」。しかしこのタイトルはちょっとおかしいところがある。動物はそれぞれがそれなりの世界を持っており、イリュージョンではない。世界はイリュージョン・幻影ではない。これはまた別の話なのでここまでとする。
・筑波 常治「米食・肉食の文明」1969。日本の風土は諸外国に比べると災害もあるが問題にならないほどである。
・どうしてこのように考えるか。災害を忘れるから。怖いからこそ忘れたい。
・しかし、ある種にとっては最悪の条件であっても、その種にとっては最適になりうる。人間も同じ。日本は災害が多いが、そこに生きる日本人にとって一番住みよい風土になる。
・和辻の風土の定義に戻るが、「風土は人間存在の構造契機」。契機とは力学的momentのこと。
・人間は二重性を持つ。一方は「人」、もう一方は「間・あいだがら」。二つ合わせて「人間」になる。
・私(ベルク先生)は、風土性を「メディアンスmédiance」と翻訳した。meditasは「半分」の意味。つまり半分は「個人」で、もう半分は「社会・風土」。二つあわせて「人間」になる。
・人類学者によれば、人間の出現は、ひとつの霊長類としての動物が、身体機能を外部化したからである。ひとつは技術体系、もうひとつは象徴体系として外部化した。しかし、この二つはもとは身体の中にあった=同じ存在者に属している。つまり人の中にあった。
・これを「風物身体」と呼んでいる。つまり「風土」。和辻はこれを言っている。風土は人間の存在の一部であり、人間存在にかかわっている。我々は風土の中に自己了解している。風土は人間の肉体でもある。そこに「あいだがら」としての我々自身を見出す。
・風土性の研究において、自然と人間との間にいくつかの類型がある。日本人の特性としては「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」と和辻は語って、台風に比較している。ただしこれは環境決定論ではない。
・どの社会、どの風土にもいえることであるはずだが、とくに西洋近代では、人間存在の契機を無視しようという態度が現れた。17世紀以降にはっきり現れた。科学革命など。
・その例としてインドヨーロッパ語の「人称代名詞」。たとえば「I」はどの状況でも、どこへ行っても変わらない。Iのidentityは変わらない。状況とは関係ないものとしてある。あきらかに風土性、構造契機の考え方とは違う。
・近代日本語文法は、西欧語文法を無理に取り入れただけであって、「わたくし」を人称代名詞というが「I」と「わたくし」は使い方がまったく違う。「I」はいつでもどこでも「I」を使わなければならない。「わたくし」は、場合によっては使えるが、別の場合には使えない。それは人称代名詞とはぜんぜん違うものである。
・人称代名詞は、それ自体として存在している。環境や状況に左右されない。それをはっきり言ったのがデカルトのcogito。「われ思う故に我ありCogito ergo sum」、この場合の「われ」はどの場所、どのものにも関係なしに存在している。日本人の自己表現とは根本的に違う
・Iは主観・subjectの中心。一方、「わたし」は状況や関係によって別の表現にかわる(おれ、ぼく…)。また場合によっては表現されない。
・俳句を例に取ると、

 風鈴の小さき音の下にいる

ここでは誰が風鈴の下にいるのか言わない。「私がいる」とは言わない。誰がいるのか?もちろん話し手がいるはず。ここで最初に出てくるのは「状況」。
・西欧語の場合は「主体」、日本語の場合は「状況」が最初に出る。日本語は状況に敏感である。
・日本語では主語がはっきりしない、という批判がある。しかし、意味がない批判である。主語がないかわりに非常にはっきりしているのは、状況・季節、つまり風土がはっきりと存在している。
・万葉集でも、そのほうが非常に高く評価されている。「ものによせておもいをのぶるうた寄物陳思歌」では、ものが人間の思いをあらわす。本居宣長「もののあわれ」。あはれはどこから出るか、人の心から出る。同時にものに心がよせられる。通態的な関係がある。
・ものは人の心を表すことができる。
・例えば、東北大震災の後に残った、陸前高田の一本松。あの松は人に希望を与え、励ます。どうして一本の松にそれが可能か。ものに寄せて思いをあらわすということから考えれば、一本の松が人の思いをあらわしているから。また日本の歴史において松は特別なもの、松竹梅、能舞台にもあらわれる。
・それが今回は風土の中にあらわれた。伝統的風土のあり方は、いまだに続いている。

・これからどうなるか。近代においては特別な人間が現れた。つまり「個人」が出現した。
・「個人」は風土性を認めない、無視する。自分だけが自分として存在しようとする。これが近代文明全体を特徴付けている。特に経済は、これが元になっている。風土性を無視し、風土性と一緒に生きてきたもの(風物詩)を客体化し、つまり主体とぜんぜん違うものとし、主体から離れた。一種の「機械」として見始めた。生命をshareしたものとしてみない。
・風土は機械論的環境に還元されてしまった。このような存在論は近代合理主義であり経済学のイデオロギーの土台となっている。
・風土の価値は、人の心との共通の価値を持っていたが、経済から見ると、「数えられる」ような「量的な」「価格視」になった。
・英語の慣用句で「What gets counted gets done.数えられるものは実行できる→計量化できないものには意味はない」というものがある。このような世界では、(計量化しきれない)陸前高田の一本松はありえない。
・原則としてはありえないのであるが、近代人もやはり人間なので、じつは風土性という存在構造を基盤としている。しかしそれを見ようとしない、無視している。そういう世界観が問題になっている。
・震災以後はっきりでてきた批判(以前からあったものではあるが)として、近代的個人は自分としてしか存在していない。自分が死んだらもう終わり。ハイデガーも同じことを言っている。人間は「死に向かう存在」であるというが、実は矛盾している。存在は外に出ている(Da-sein ※Daは「そこに」、seinは「ある、いる、存在する」)。外に出ているということは風土に出ている。同時にDa-seinは死んだらもう終わりで、越えられない制限としての死を意味する。
・和辻はこれを根本的に否定した。ハイデガーの「死に向かう存在」から「生に向かう存在」として人間存在をとらえた。
・なぜなら、「人」は死んでも「間・あいだがら」は残る。名前、作品、仕事、人間関係は社会的に生き残る。
・陸前高田で亡くなった人は一本松に象徴されて、生き残った人はその松に守られている。残念ながら松は枯れるがクローン化されて生き残こる。
・このような生そのものの価値が重要である。つながり、支えあい、助け合い、人間のあいだがらを主張している。
・これからは、人間同士の「あいだから」がもっと大切になる。もっと深く、土台の、生命そのものが大事になる。
・たとえば、福島原発の事故について、放射能は何年も続き、controlできない。未来の子孫に残すしかない。
・何故こうなったか。それは近代的な個人的世界観による。個人は死んだら、すべてと無関係になる。つまり子孫は関係ないというエゴイズムによるものである。
・倫理学的に考えれば、これは悪である。このような悪は近代世界の特徴のひとつ。
・しかし、今の世界がいつまでも続くわけではない。つまり持続不可能な世界である。
・何故か。基本的な人間の価値に反している。基本的な価値とは真善美のこと。
・まず今の世界は真に反している。生態学的に見れば、今の生活は地球の生態圏をオーバーしている。
・次に善に反している。世界はどんどん不平等になっている。貧富の差。過疎化(日本もフランスも)、人間がその土地に居なくなるような世界が続くはずがない。
・そして美に反する。殺風景な世界、風景を殺す世界。
・根本的な人間の価値観・真善美に反する世界、それを変えなければならない。これから地元の人が風土に合わせて創造しなければならない。あわせて新しい価値観を創造しなければならない。自分の歴史を踏まえて、これからの歴史的偶然性にそれがあらわれるであろう、必ずあらわれる。それだけはいえる。
・何故なら、詩人ヘルダーリンの言葉にこうある。言葉を少し変えているが「危ない風土にこそ、救いになるものが生える」。だから、すでに救いになるものが生えてきているのではないだろうか。
※「危険のあるところ、救うものもまた育つ」(ヘルダーリン)

2.質疑応答
・質問1:福島原発事故の被災地の人は、土地から切り離されて生きなければならない状態になっている。風土、歴史性、土=下にあるものから切り離された。新たな土地で暮らすことになるのだろうが、移住は実際に可能なのか。またその際に何を心がけなければならないか。
・ベルク先生:人間は移民の歴史を持っている。明治時代に北海道に移民した人たちは、北海道に新しい風土を作った。それは新しい土地に独特に創造的にあらわれた。しかし、以前の風土とのつながりはあった。一番は稲作。北海道では稲作は不可能であり禁止されていたが、それでも農民は努力して半世紀の間に稲作を可能にした。人間にはどこに行ってもどんな状況におかれても、創造性があるから、移民してそこに新たな風土を生みだすことは必ず可能である。もちろんかなり時間がかかるだろう。

・質問2:人間は進歩し、近代主義に染まると、風土を破壊する。科学は進歩したが精神は貧しくなり、風土は荒廃した。それの象徴が原発事故ではないか。原発を建てる代わりに町にホールを建てたり図書館を作ったりしたが、一時的なものに過ぎず、埋め合わせになるわけではなかった。このへんについてどうお考えか。
・ベルク先生:自分はもう70歳なので、現場に行って住みながら考えることはできない。どうしても理念的話になってしまい申し訳ない。近代は、人の歴史のなかのあるひとつの段階である。近代人は抽象的な存在である。つまり具体的な風土的な基盤から、自分の存在を抽象した。だから自然と乖離している。やはり超克しなければならない。何故か。
・近代的世界観では、世界は持続不可能になった。現代は殺風景であるのと同時に殺風土的でもある。世界中が同じ傾向があり、その反発が表れているのが現在の状況である。

・質問3※省略
・質問4:真善美以外に「聖」をあげていないのは、どうしてか。
・ベルク先生:四つのカテゴリーのなかにも聖は入っていない。資源resourceについては、ブラフマンは聖が生きることのリソースになっている。制限・制約については、神聖さは制限になることもある。真善美についてはそれぞれが聖になりうる。科学にとって真はひとつの聖(一番高い価値)である。普通の人にとっては真実は大きな価値がある。侵してはいけないことをしない=善というのは聖である。美はたくさんの例がある。いま仙台に来ている尾形光琳はおかしてはいけない聖なるものである。聖はすべての価値にかかわるものという位置づけで考えている。

・質問5:ある種が、いかに最悪な環境に見えても、結果としてその種にとって最適の環世界に「なる」という話があった。ところで「なる」というのは自動詞である。そうさせる=「なる」というその力はなにか。
・ベルク先生:時間によって動く関係というものがある。動物の場合は「進化」。種と環世界が同時に進化する。主体の環境化と環境の主体化はおこり、お互いにだんだんと「適当」になっていく。それが「なる」である。人間もそう。人間は世界を作るが、作った世界の影響も受ける。たとえば、日本人は季節に敏感だから俳句を作ったりする。同時に俳句や歳時記によって、敏感になるというところもある。歴史の結果として敏感になっている。
(質疑終了)


・講演後に直接お聞きした話:福島原発事故の被災地から、別の土地に移っても風土の再生は可能である。ただし形は違って、新しい形になるだろう、環境への働きかけを行えば、そのリアクションもあるのでそれが反映される。浜通りの土地(土)から切り離されても、「風」は手元に残る。「人間」のたとえでいえば、個々の「人」ではなく、そこに通い合う「間・あいだがら」の部分が重要。これを新しい土地に持っていき、またそこに風土を作る。だから、コミュニティの維持が鍵となる。
※以下、私の感想をまじえて。
・以前のコミュニティがあれば、これまでの人間関係のなかに祭りも生き残るだろうし、文化も残る。そのコミュニティによって環境に働きかけて風土としていく。ということは、集落ごとに移転していない被災者(住宅)は重大な危機にあるともいえる。集団移転の前に、部落集落単位で生活できるよう、早急に引越しをしなければならないのではないか。そうしないと、孤独死、自殺はなくならない。

かなり駆け足でまとめたため、ところどころ分かりにくいところもあると思う。原因は私自身が理解しきれていないからだろう。しかし、今だからこそ、この土地だからこそ聞くべき、大きな意味のある講演だった。

※東京での講演抄録は毎日新聞に掲載されていた(3/27付け朝日にも記事があったが扱いは小さかった)。
http://mainichi.jp/select/weathernews/archive/news/2012/03/16/20120316ddm003040071000c.html コンパクトにまとまっているので引用させていただきます。

毎日新聞 2012年3月16日 東京朝刊より引用

(引用開始)
再生への提言:東日本大震災 生命優先、近代越えよ=仏国立社会科学高等研究院教授、オギュスタン・ベルク氏


東日本大震災から1年後の3月11日、宮城県女川町を訪れた。生命の源だった水田は泥の河原のようだった。がれきの山は第二次大戦後の欧州の風景を思い起こさせた。

 福島の事故で原発が安全でないことが分かった。我々は放射能を制御しておらず、子孫に残すほかない。環境の点からだけでなく、倫理学の立場からもいけないことだ。原発は生命を犠牲にしている。

 現代文明の限界が示されているのだ。資本主義は自然の資源を奪い、人間を道具のように使っている。行き過ぎると人間は機械の奴隷になる。

 日本は明治以来、特に高度成長時に地方を国策のために利用してきた。新自由主義の政策は都市の空洞化をもたらし、国民を養う役割を農業からはぎ取った。日本語に「殺風景」という言葉があるが、風土を殺す「殺風土」だ。

 日本は新福祉国家か新自由主義国家かの岐路に立っている。だが、国策として原発を続け、復興でも大企業優先の方針は変わっていない。

 「開かれた復興」と言うが、開かれているのは国内外の大企業に対してだけだ。土地は人間存在の一面であり、大企業にまかせるわけにはいかない。コンクリートの復興を行っても人間は戻らない。

 40年前に開発反対の住民運動が起きた時には日本列島の自然の限界が感じられた。今は地球の自然が限界に達している。反原発運動は地球規模で文明を救う運動であり、今後、広がっていくと思う。

 人間は一人では生きられない。和辻哲郎(1889~1960年)は「人間」を個人的次元の「人(ひと)」と社会的次元の「間(あいだ)」に分けた。危機で日本人は生命の大切さを感じ、人間同士の連帯、間柄である「絆」が明らかになった。

 今の原発政策に地方の住民は参加していない。住民は「人間の生命を優先しろ」と主体的に要求すべきだ。人間の基本的な価値観である真、善、美を実現するため、今こそ、機械論に基づく近代主義を乗り越えなければならない。【聞き手・福島良典】

==============

 ■人物略歴

 元日仏会館フランス学長(84~88年)。69歳。


(引用終わり)
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