eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-10

掲示板にて

以下、ほとんど自分の感情の落ち着けどころを得るために書くので、読み飛ばしてください。

先日、写真・カメラに関する掲示板で、(憶測だが)精神的に不安定に思える人と、屁理屈の捏ねくらべをしてしまった。言い訳だが、そのときちょうど風邪気味で、あまり判断力がなかったため、上手く対応できなかったな。

発端は「ドイツ写真って良いかなあ。 ドイツ写真やってるやつって頭弱いやつ多い気がするけど。」という書き込みに対して、俺がresしたこと。
そもそもドイツ写真とはなにかという定義もせずに話しを進めるあたり、俺も頭が弱い(もっとも、これは竹橋の近代美術館の写真展について、ということが前提になってはいる)。
それに対して、また書き込みがあるわけだけれど、一つ一つの書き込みには深読みすれば、意味があるような、ただ、俺とのやり取りと発言内容の変化を見ると、結局何を言いたい分からないという発言であった。
しまいには、「月産100本だから、余計なお気遣いは無用ですw 」「今週は数ヶ月ぶりにインターネッツというものを徘徊しているのです」「おれは偉い」等と言い出したので、どうも、本来相手をすべき人ではなかったのかもしれない(というか、俺がおちょくられているだけかもしれないが)。

発言が断片的であり断定的であること、それと前後の脈絡がないこと、しかし、その根拠は薄弱というか相手に理由がわかりにくいということ、感情が安定しないこと(書き込みからみてだが)、発言の際のハンドルネームを何度か変えること(名無し→鼠→ほそきかずちゃん)からみて、ある種の人格の持ち主ではないかと想像した。
「普通に生きられない人たち」(磯部潮)という本を以前読んだのだが、そこに出てくる例に似通っているところが無きにしも非ず。また、自分の身内にも、その種の者がいるが、それとも似通っているように感じる部分があった。

ここからは、検証も出来ないことを書くので不快と思った方は飛ばしてほしいのだが、その種の人格の持ち主は、ある意味、すごく魅力的なのだ。おそらく発言しているときは、全身でそう確信して書いているであろう。それがある瞬間、異様な迫力と説得力を持つように見せるが、しかし、持続するものではない。
だから、コンテキストを重視する対話などの場合には、最終的には無意味というか、場面ごとの印象は残るが全体的な意味ではまとまった意味のない発言となってしまう。
つまり、自分の世界が強すぎるから、またそれを確信し(すぎ)ているから、対話、コミュニケーションが成り立たちにくいのだな。
しかし、部分的には非常に光るものがあるので、つい周りの者がかかわってしまう。
例えば、少し抜き出すと「絶えず自分を自分から引き離し続けるための契機」「捏造された「本気」に安易によりかかってしまう」「写真は言語とは別の仕方で自己の存在を確証する方途」(←これには俺も賛成だな)「写真は言語により捨象されない、言葉の前段階的な像」(←これも賛成だな)「ニンゲンは生きていくためには線引きをせずにはいられない。 あなたはわたしとの間に独善的に境界を策定し、わたしを抑圧し排除しようとする」「否定的な反応をあらかじめ相殺可能なポジションに立ち、自己の尊厳を保とうなどというヤツに写真を撮る資格はないでしょう」(←正論)「被写体に向ける眼差しを自身にも向けているのか」(←そのとおり)。なんだか写しているだけでも輝いている言葉だな。
一方「ぼくはベッヒャーなんてとっくに越えてるよ」「どの世界も偏差値高い奴は少ないけどなーw 」「おれは偉い」、その他の唐突な一言の書き込みなどを見ると、どうも通常の人の理解を超えている、もしくはその範疇にないように感じられる。

でも繰り替えし言うように、魅力的な部分も多いので、つい引きずりまわされて見たくなるのだな。
正直言うと、この人が撮る写真、ちょっと見てみたい気がする。ひょっとすると天才かもしれないし。

なんか、ここまで書いて、やっと落ち着いた。まったく自分の気持ちを落ち着けるためだけに書いた文章だな、ふー。読んでくれた方には申し訳なく思います。
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