eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

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2017-05

原発事故と「時間」の問題

「時間の問題」というと、ふつうなら、もう終局的状況が目の前にあり、あとわずかで破滅してしまうというようなときに使う言葉である。
もちろん、東京電力による福島第一原発事故については、残念ながらそのように考えざるを得ない部分が多くある。
しかし、今回はその意味ではなく、原発事故の本質は「時間」にかかわるところにあるのではないかと思い、二点ほど考えた。ただし、以前「歴史学とインターネット」という文章に書いたことと重なる部分がある。

以前、山本夏彦だったろうか、ある本を読んでいたら「百年などほんの一昔前」と書いてあった。たしかに、30年前に80歳過ぎで亡くなった祖母が生まれたのが110年前で、そう思えばそれほど遠くない過去である。漱石の作品もおよそ100年たったが、いまだに生き続けているし、そういう意味では漱石はまだ死んではいない。

さて、先日、相馬野馬追を見たときに、「1000年の伝統を誇る伝統の行事」という言葉があった。行事としては途中途切れた時もあっただろうが、1000年というのは人間が把握できない時間的長さではない。
また、ローマにはパンテオンというドーム状の建物がある(行ってみたら、天井の真ん中に穴が開いていてびっくりした)。Wikipediaによれば、紀元118年から128年に掛けて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって建てられたものだそうで、建てられてから2000年ちかくになるが、いまでもふつうに観光客が入っている。
ということは2000年というのも、人間の想定できる時間であろう。

ということは1000年という時間は、人の一生よりは充分に長いが、歴史として考えればそれほど長い時間ではない。3月11日の地震は1000年に一度の規模であったというが、東京電力はそれを原発事故のいいわけにしている。曰く「1000年に一度の地震と大津波は想定外だった(ので、事故を起こして会津を除く福島県を壊滅させても仕方がなかった)」。しかし、既に報道されているとおり、869年の貞観大地震は311の震災と同じような規模だったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87
原発というのは、万一事故が起これば取り返しがつかないことは、チェルノブイリ事故以来分っていたはずである。また、日本は地震国であり、海岸部はたびたび津波に襲われているのは常識を持つ者であれば誰もが知っている。
たかだか1000年程度の時間感覚も持たずに、半減期20000年を超える(2000年ではないよ)プルトニウム等を扱おうというのは正気の沙汰ではない。
http://cnic.jp/modules/radioactivity/index.php/23.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB
※ちなみに「半減期」は、不安定な状態にある放射性物質が半分だけ安定するという意味で、全部安定状態になるには、その倍の時間がかかるそうです。

やはり、原子力を推進した役人、学者、政治家というのはバカのトライアングルであったか。それとも学校の勉強はできたが、歴史について我がこととして考えるという知性が欠如していたか。そうでなければ、1000年程度のスパンにもかかわらず「想定外」等という恥知らずな言葉が出るわけはない。
さらにいえば、原発事故がなかったとしても、使用済み燃料の問題は解決していない。農耕が始まって20000年くらいたっているらしいが、それと同じスパンで核廃棄物の管理が可能であろうか。およそ正気であれば考えられないことである。

さらにもう一つ、原発事故と時間の関係について。
原発事故の恐ろしさは、「ただちには影響がない」という今年の流行語大賞候補を待つまでもなく、人体への影響が遅行性であることだ。チェルノブイリでも、4、5年たったころから、子供の甲状腺障害や、白血病、癌などの問題が出てきたという。
目の前で原発が爆発し、ただちに人がバタバタ倒れたら、非常に分りやすいし、それに対する方策も素早く行われたろう。遅行性であるからこそ、勝間和代の「原発事故では人は死んでない」という発言が出てくるわけだ。
http://www.youtube.com/watch?v=Dr0cNaeNhkE
しかしこのビデオを見ると、いまだに胸がむかむかするね。勝間という人は後で謝ったようだが、5年たったときに、またこのビデオをご本人に見てもらいたい。

この件に関連して少し話ずれてしまうが、気になることを書いておく。放射性物質の人体への影響へ遅行性ではあるが、社会的死者(原発事故からおこった問題によって死に追い込まれた人)はずいぶんな人数になるのではないかと思っている。
自殺した相馬市の酪農家のような方はほかにもいるのではないかと思う。自殺まで行かなくても、故郷から切り離され、仕事を奪われ、生きる気力を無くして衰弱して死に至った方もいるであろう。また双葉郡、南相馬市の病院や老人養護施設から避難した先で亡くなった人は何人いるだろうか。しかしこれらの人の数は、なかなか表面化しにくいであろう。言い換えれば、「原発事故が直接の原因」となって「ただちに」亡くなった方は、勝間会計士がいうように「いない」のであろう。しかし、どうやってカウントすればいいのか分らない「原発事故がなければ死ななかったはずの人」の数は、それほど少なくはなかろうし、これからも増えるだろう(収束していないのに、減るはずがない)。

人体への影響が遅行性であることは、老人にとってはむしろ救いである。10年後に癌になる可能性がアップしても、いま70歳の人が、80歳に癌に罹患してもあきらめがつく。しかし、年少者の場合、罹患後の人生は長い。
また、重要なことであり何度書いても足りないが、放射性物質は遺伝子に作用し(だから原発の近くは四葉のクローバーが多いといわれている)、とくに成長期(胎児も含む)の子供~青年に大きな影響を与える。なぜなら成長期には細胞分裂が活発であり、遺伝子は細胞分裂する際に中心的役目を果たす。正常に細胞分裂が出来ないと、悪性新生物(つまり癌)が生じたりする。書き方が大雑把すぎるが、だから線量の高いところからは子供を早く逃がさないといけないわけだが、それが実施されていない。これは科学者が想定すべきであった1000年というスパンではなく、5年、10年、20年という人の一生のなかの時間である。そして、汚染された土地に住む限り、次の世代も影響を受ける。これも一人の人間の寿命のうちで把握できる時間である。

原発事故とは、この二つの種類の時間に対してどのように理解し、対応していくか、というところに本質があるのではないかと思う。つまり、長大な半減期について考え続けることを止めないというレベルと、日常生活で、東京電力がまき散らした放射性物質とどのように向き合うかというレベルの二つを生きていくことなのではないかと思っている。


ところで、除染について考えてみると、除染可能なところは今後の作業次第でなんとか元の生活に近いもの戻るかもしれないが、福島第一原発周辺の浪江、小高、大熊等は人が戻れるレベルまで除染可能なのだろうか。除染不可で、もう戻れないとしたら、その土地に人が生きてきた時間(歴史)は無意味なものとなる。その土地が、これまで住んできたようになるまでに要した時間は、古くから人が住みついた土地ならば数千年、戦後の開拓地でも数十年はかかっている。その時間の積み重ね=人間の営みの集積が、3月11日以後の原発事故で一瞬にして無意味になったとして、その償いはどう考えるべきか。金で時間は買えない。営み=生命の積み重ねである、人の生きてきた土地を殺したのであれば、本来ならば等価のもので償わなければならないはずだが、原発を推進した科学者、政治家、東京電力(の具体的な個人―現在と歴代の幹部社員たち)に、その覚悟はあるだろうか。

以上、気持ちが先走ってうまくまとまらなかったが、いまはこのようにしか書けなかった。次はもうちょっとうまく伝わるように書いてみたい。


【追記】
以上、くだくだ書いたが、簡単にいえばたかだか1000年というスパンさえ想定できない自民党政権、通産省、御用学者、東京電力が、どうして1万年単位の放射性廃棄物を扱えると考えたのか、矛盾があるとは感じなかったのか、そこが分からない。やっぱり愚かだったのだろうか。それならば、それを認めて謝るべきである。実際そうした人たちもいる。
一方、人の一生は短い。
その二つの時間について自分なりに整理して考えることが必要だと思ったので書いてみた。
他の方のお考えがあれば、それも聞いてみたいです。

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