eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-09

ものと情報の続き

昨日、仕事中に60センチくらいの高さのところから、背中から落ちたので体が痛い。そのときは頭を打っていないかどうか心配だったが、どうやら大丈夫だった。でも、なんか、肩とか痛いな。いまひとつ仕事に乗り切れぬまま、こんな時間になってしまったので、「ものと情報」について、さらに愚見をば。

まぁ、以下、書き飛ばしたもんです。軽く読んでください。

で、まず「もの」について考える。
「もの」とはなにか。まず、「ものそのもの」は認識可能か?カントによればどうやら不可能らしい。読んでないが、純粋理性批判で、そういってるそうだ。例の「コペルニクス的転換」というやつ。ひらたくいうと、人の目に見えるようにしか、もの、ひいては世の中、世界は見えない、ということ。例えば、赤外線フィルムというのがあるが、赤フィルターをつけてこのフィルムで写真を撮ると、独特の映像になる。人の目に赤外線が見えれば、その写真のように見えるはずだが、いつもはそうは見えていない。それは人の体の機能としてそうなっていないから。このへん、聞きかじりだが、ユクスキュルが書いているとのこと。
で、「ものそのもの」を認識できるのは、人の次元では無理。人を超えたもの、といえば神とかか?そこはわからんな。
つまり「もの」は人との関係性の中にはじめて存在する、と言い切ってみる。ここでいう「関係性」には、生物学的に持っている機能の面と文化的な面があると思うが、ここに深入りすると、一生かかるから深入りしない。

一方、日本文化の面から「もの」を考えてみる。
古語で「たま」というのがあるが、これは「たましい」に通じ、霊的、神的なものを指す言葉だと言う。「たま」より少し霊格が低いものとして「もの」があるそうで、このへんは折口信夫あたりから受け売り。「もの」とは霊的存在らしい。
霊的というと大げさだが、「もの」は「ものそのもの」として、無人の荒野に転がっていては、「もの」として成立することはなく、人とのかかわりの間に「意味」あるものとしてかかわる場合に、はじめて、ある「もの」として認識されるのではないかと思う。

飛躍があるが、結論として、「もの」とは、広い意味での認識と、現実の具体的な存在の両方の間に位置するものと考えてみた。
認識とは、この場合、五感と思考の両方にまたがっている。具体的なそれ(ものとなる前の何か)を五感を使って認識し、それを自分とのかかわりのなかで「なにものかとして」(ここで思考が係わる)認識する。
ということは、五感で感じられれば「もの」かいな。例えば「におい」はものだろうか?違うよな。「音」はものだろうか?これも違う感じだ。「味」わうためには、やっぱり口に入れるものがあるだろう。やはり、五感の中でも触覚と視覚に係わるように思える。
一方「情報」については、まだあまり考えていない。でも「もの」ではなくて、においでも音でも味でもなく、そして何かを伝えるものというくらいで考えている。「伝える」といえば、当然ながら、message、media、contextの三要素に付いては最低考えなければならないが、あっさりと割愛。言いたいことは、例えば、新聞も情報だが、新聞という「もの」があるではないか、という突込みに対し、あれは新聞の情報を載せるmediaであって、その証拠に、昨日の新聞は、古新聞という名前に変わる。また物質的に言えば、新聞「紙」ともいう、とだけ書いておく。情報についてはまだ勘弁してくれ。

で、やっと昨日の話しにたどりついたが今日も雨降り、なんか疲れたな。
俺の考えでは、情報がいくら世界を駆け巡っても、なかなか幸せになれないんじゃないのか、ということ。人が生きるのに役立つ「もの」は誰が作るのか?結局誰かが体を動かさないと、そういうものは出来ない。古くからの言い方をすれば、第1次産業、第2次産業がないと生きていけないだろ。さらに話を進めると、中沢新一的に言えば、大地に働きかける以外に人はものを作り出すことは出来ない。それがなくて情報だけが行き交ってなにが生まれるというのだろう。
ちと話がずれるが、癲癇の本質は一言でいえないようなのだが、あるとき脳波が通常とは違うパルス?があらわれて、それが脳全体、もしくは部分に広がり、その結果、身体もそれに付随してしまうことのようらしい。誤っているかと思うが、俺には脳の中であるパルスだけが異常に増幅されてしまい、それが脳の他の部分にも及んでしまうようなイメージがある。
情報も似たような部分を感じる。実体を伴わない情報(ものから派生する情報ではなく、情報から生まれた2次、3次情報とか)が世界を駆け巡り、その情報で行動を判断し、実行する。なんか、ネットの株取引のようなかんじだな。
話がずれました。

で、ネットで買う音楽だが、あれはいったいなんだろう。
まず「音楽」について考えないといけないね。エリック・ドルフィーが言ってるけど、「音楽は聴いた途端、空気のなかに消えてしまう。もう二度と取り出すことはできない」。音楽は本質的にはライブだけが音楽であろう。ではライブの際には、音楽だけが存在するのだろうか。そんなことはないわけで、祭りの一部だったり、演劇の一部だったりする。また、当然ながら演奏者もいるわけで、現実の音楽は聴覚だけに訴えかけるのではない。しかし、レコードになると、聴覚以外の部分が、かなりの部分削ぎ落とされるから、それを補完するためジャケットなどの視覚情報に訴えていたのだろう。って、これ、俺の卒論だな。小島先生お元気ですか?

ネットで音楽を買うということは、LP、CD等に残っていた視覚情報の残骸すらも削ぎ落としたという面があるだろう。つまり「音楽」そのものだけを楽しむということかな。しかし一方ネット上には、あふれんばかりの映像がある。動画も静止画もね。つーことはだ、やっぱりネットで音楽を買っても、それを補完するものも同時にたやすく入手できるということか。ネット上から収集すれば、最初についていたジャケット以上の映像を楽しむことが出来る。それによって、手に取れる「現物」は手元にないけれど、それに非常に近い感覚が生まれているのかもしれない。とは言うものの、新しいiPodは映像もあつかうらしい。なんか今書いた事情に通じるものを感じる。
とはいえね、記憶している媒体が壊れたら、はいそれまでよ。CDもLPも傷がついたら同じだが、それでも壊れた現物は手元に残っている。データは壊れれば、それでおしまい。擦り切れたLPを見て懐旧の情にひたるなんてことは、アナクロニズムだから、誰もやらんかも知れんな。とはいえ、そのぼろぼろのLPは、新しく買ってきた同じLPとは中身が同じでも、その人にとっては全く別物だ。このへん、デジカメとフィルムカメラの論争に似ているかもしれん。

で、結論が必要だろうか。それはまた考えよう。
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