eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-05

オルセー美術館展2010「ポスト印象派」展

昨日は、夕刻より国立新美術館へ行った。乃木坂駅で降りると、直接館内に入れるので便利でした。
見に来たのは、オルセー美術館展2010「ポスト印象派」というもの。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどの作品が来ているというので行ってみたわけ。
だいぶ込んでいるという噂があり、20時まで開館する金曜日を狙ってみた。17時過ぎに行くと、ある程度すいている(というか混んでいない、という程度)。しかし、18時以降はまた込みだした。会社帰りの人が来るからね。

さて、作品ですが、印象派が出てきたとき、旧来の重厚で技巧的な作品を見てきた人からは、相手にされなかったというのが納得できます。今回はポスト印象派(昔は、後期印象派などともいったが)ですが、印象派の作品ももちろん来ている。やっぱり、全体に描き込みが少ないし、デッサンも下手っぽいし(わざと下手にやってる人もいるわけですが)、なんというか「油絵の具で描いたイラスト」的な作品がけっこうあるように思えて、当時の人からしたら、非常に違和感があったでしょう。以下、良かった作品についてメモ的に書いていきます。ご笑覧ください。

・モネ「日傘の女性」。薄塗り?の絵の具と風の吹いている感じがマッチして、好きな作品です。作者と女性との距離感が心地よい。
・モネ「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」。これは見る角度によって、たしかに光がさして見える。霧に浮かぶ太陽と水面の反射の具合がよい。
・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」。このへんの山の連作は名高いのだが、これまで良さがわからなかった。少し離れてみると、たしかに山が立体的に見えてくる。うまく言えないのだが、遠くにあるはずの山が、ものすごく存在感がある場合、近景や中景よりもせり出して見えるときがある。例えば、秋や冬の晴天の日、空気が澄んで視界が遠くまで広がるとき、遠くにあるはずの巨大な建築などが、みょうに近くに見えるようにかんじるときがあるが、その感覚に近いかも。不思議な絵です。でも、あんまり近寄って見ても面白くないんじゃないか(と他の方に言いたいが、言えません)。もう少し、他のサント・ヴィクトワール山の絵が見たいですな。
・セザンヌ「台所のテーブル(籠のある静物)」。これも不思議な立体感(実在感?)を感じる。とくに画面中央左の「壺」。パースが狂っているというか、あの角度で見えるのはおかしいだろうと思うが、みょうに生々しい。あの壺の中、なにが入れてあるんだろうね(空っぽなのは知ってるけど)。
・セザンヌ「ギュスターブ・ジェフロア」。知り合いの画商の肖像画とのこと。「サント・ヴィクトワール山」で、少し離れてみると良いことが分かると、この作品の立体感も良く分かる。というか、そのようにみると胸板厚すぎないか? それとも厚手のジャケットか?
・セザンヌ「セザンヌ夫人」。ぱっと見ると、ちょっと描きかけのようにも見えるくらいであるが、他人の頭の間からぱっと見えたりすると、妙に現実感がある。さすがにものを球体や円筒として捉えていただけのことはあるような立体感がある。
・ゴッホ「アルルのゴッホの寝室」。これって、ベッドやイスの存在感があるのだが、よくみると、この家具類、床から宙に浮かんでいるんではないか?この時点で、ご本人はだいぶヤバい状態なのではないかと思う。
・ゴッホ「自画像」。これは塗ったという面がなくて、全て絵の具を短い線で置いていっているが、あたかも人間が分子レベルに分解しそうな勢いである。点描の画家たちは、光学的知識を背景に、点で描くことによってものの姿を構築したわけだが、この作品では、(点描ではないが)短い線で絵の具を置くことによって、むしろ自己の分解を描いているようにも見える。
・ゴッホ「星降る夜」。これは面白い絵。見ていると絵の中の物語が妄想として浮かんできた。辻邦夫「十二の風景画への十二の旅」というわけではないが。その話はこんな話。
 ある画家が、女性(恋人?)と夜の街に散歩に出た。画家は、もともと視覚が尋常ではなく過敏であり、いろいろな光の変容があるとその場に立ちすくんでしまうようなところがあった。二人が散歩に出た夜は、空には星が瞬いており、画家は全天の星を感じることができるような感覚にとらわれていた。また、それに呼応するように川沿いのガス灯が光り、その光が水面に反射して、星、ガス灯、川面の反射の3つの光が互いに呼応しているようであった。画家はその光の光景に魅入られ、また、その光の源に近づきたい気持ちになった。ちょうど河口には二隻の船があり、画家にはまさしくこの船に乗って、光に近づくべきように思われた。もちろん、画家は狂人ではなかったので、船に乗ったところで、ガス灯のそばに行くのが関の山、星空には近づけないことは理解していたが、船に乗り込みたい気持ちを抑えるのが難しかった。画家は黙って、その場に立ちすくんでいたが、ただならぬ様子を感じ取った女性は、画家に手を差し出し、夜もだいぶふけたのだから今夜は帰ろうと話しかけた。画家はそれを聞いて正気に戻り、家に帰ったらこの光の様子をもう一度作品として再現しようと思った。
…というような話を妄想しました。
・ゴッホ「銅の花器のフリティラリア」。これは花よりも、銅製の花器のほうが気にかかる。たしかにこの花器は銅製だし、丸っこいという実感がある。
・ゴーギャン「レ・ザリスカン」。これは左奥に教会の鐘楼らしき建物、右手には並木があって、中央には、道とそこに2、3人の人の姿。脇に流れるのは川らしい。そう書けば普通の風景画のように思えるのだが、穏やかな絵になってもおかしくないのに、荒々しい、狂気じみたものが染み出しているように思える。とくに画面右側の燃えるようなオレンジの低木と、中央後ろの立木の色には、なんだか胸をざわつかせるものを感じた。
・ゴーギャン「牛のいる海景」。これ、手前の牛と後ろの船がなければ抽象画である。なんだかエロチックな印象です。なんでだろ。
・フェリックス・ヴァロットン「自画像」。これはすごく上手な絵です。でもこの人の他の作品は、みょうに平面的というか、意図した下手ウマ的かんじです。こういうストレートな絵のほうがいいように思うが。
・ピュヴィ・ド・シャバンヌ「貧しき漁夫」。この絵、すでに涅槃の世界である。祈る漁夫は、まだかろうじて現世にいるが、右手で遊ぶ子供二人と、地面に咲く花の様子はこの世のものではないようである。また、画面左上の海のようすは、みょうに光っていて、あちらに行くともう戻って来られないところのようである。スーラの作品に、この絵を画中画としているものがあったが、それくらいの強い影響を与える作品だと思う。
・クノップフ「マリー・モノン」。クノップフといえば幻想画と思ってしまうが、これは普通に見えるポートレート。ある種のソフトフォーカスレンズで撮影した写真のように、中央部の顔のところは、ピントが来ていて、あとはぼやけている。その中央部の顔の部分、非常によく書けていて、肌の感じなど現実のようである。そう思ってみると、なにも不思議なものは描かれていないのだが、全体としてみると、なにやら現実的ではないように見えてくる。知らない作品でしたが、好きになりました。

ところで、印象派およびポスト印象派の絵は、少し離れてみたほうがいいのではないかと思う。そんなに近寄っても、点々とか、筆のタッチしか見えません(笑。むしろ、少し離れて、全体の量感とかを感じ取ったほうがいいように思うが、混んでくると離れてみることができない(間に人がいるから)のがつらいです。
それとイヤホンガイドで説明を聞くばかりで、絵を自分の目で見ない人が多いのが気になる。本物を目の前にして、解説付きのテレビのように見るのはもったいないと思う。
これから行く人のご参考になれば幸甚に存じます(笑。
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