eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-07

「かぎられた財産のイメージ」について

「ファウスト伝説 悪魔と魔法の西洋文化史」(溝井裕一 文理閣2009)を読んでみました。

このなかで書かれている、「かぎられた財産のイメージ」(image of limited good)という考え方が面白い。というか自分の考え方とほぼ同じである。

以下、本文中128~154pを適宜引用(じつはこの本の著者が引用しているところを更に引用している部分もある)

アーレント=シュルテはつぎのように述べている。

その背後には農村社会で普及していた「財はその総量が一定である」という概念があった。自由にできる土地および土地の収穫や畜産物などは限度があり、それに応じて財の総量は一定であるということが体験から知られていた。この社会では人より多くの物を手に入れた人は、その分、誰かに損害を押し付けたことになる。つまり、増産は他人の減産の上に達成した行為であった。要するに、ある人の富は他の人の貧困を引き起こしたことになる。
(『魔女にされた女性たち』野口芳子ほか訳)
(※中略)
(*)「かぎられた財産のイメージ」(image of limited good)は、アメリカの人類学者ジョージ・フォスターが、1958-1963年にメキシコの農村でおこなったフィールドワークを踏まえてとなえたもの。かれは、農耕社会に生きる人びとには、農耕地、健康、権力といったあらゆるタイプの財産がかぎられた量しかないと考える傾向があるとした。この考え方では、一部の者が多くの財産を占有することは、他人に犠牲を強いることになる。
(※中略)

すでに述べたとおり、近世ヨーロッパの農耕社会では、共同の財産や健康は、つねに一定量であり続けると想定されていた。すなわち、誰かが裕福になるということは、おなじ共同体の誰かが貧乏になるということであった。裕福になることは、誰かから富を吸いとるということであり、悪徳だったのである。

引用終わり

あまり細かく検証はしないが、農村という限られた社会の中で、生産技術の進歩もあまり望めないのであれば、このような考え方に行きついても不思議ではない。誰かが(理不尽なほど?)多くを得れば、割をくう者が出る。農業にかぎらず、栗の木があったとして、誰かが実を独り占めすれば、他の者が得るものはなくなる。
 この状態を脱却するには、技術革新によって生産量自体をふやす以外に方法はない。では、がんばりましょうというのが、近世~近代までの流れといったら言いすぎか。

ところで、じつはお金に関しても、同じような感覚がある。実際に社会に流通する貨幣の量は、一定なのではなかろうか。貨幣量が多すぎればインフレ、少なすぎればデフレとなるので、通貨当局は経済の実態に合わせて、貨幣量を調整しているようである(このへん、新聞とテレビから得た漠然とした印象に基づいている)。ということは、ある特定のところに富が偏在すれば、お金が足りなくて困る人が出てくる。まして、本来流通して遍在すべき貨幣が、長期間偏在(=滞留)していれば、貧富の差が固定化し、社会の活力が失われるだろう。
同様に、「農村という限られた社会」といいながら、現代では、世界自体が有限のものであるという認識がある。地球自体が小さな農村と変わりはない。そこでは様々な資源、自然環境、その他のものにおいて、すべての「よきもの=good」は量が一定である。日本で紙を大量消費すれば、熱帯雨林と寒帯の森林が消滅するわけで、必ず誰かがツケを払わなければならない。
というよりも、そのツケは巡りめぐって自分のところに戻ってくるというのが、現代社会のように思える。安いコットンの服を買うと、ロシアの綿花畑が水を大量に消費するので、カスピ海が干上がる。カスピ海が消滅すれば、砂漠が広がり、耕作地も減る。となると、食料生産が減り、日本のような輸入国は飢餓に苦しむ(かもしれない)。

現代というのは、あらたな中世~近世を迎えつつあるのかな、と。
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