eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-07

「911から1年たったが…」抄録2(2002/10/07~2002/10/10)

「911から1年たったが…」抄録1(2002/09/11~2002/02/26)に続いて、抄録の2をまとめてみた。

02/10/07
(略)9/11テロについてのシュットクハウゼンの発言を思い出しました。
彼は、あのテロについて「未曾有の芸術作品だ」と発言したとかで、物議をかもしました。
中沢新一の「緑の資本論」にある「シュトックハウゼン事件」を読むと、 シュットックハウゼン自体はテロを別に賛美しているわけではなく、悪意あるマスコミに発言を抜粋されて、わざと発言を捻じ曲げられたということです。

しかし、世の中のある一定数の人はシュトックハウゼンと同じように考えたと私は思うので、真相を知る前でも、彼はある意味で勇気のある発言をしたように思いこそすれ、彼を非難する資格を持つ人は非常に少ないのではないかと思いました。

続く

02/10/08
地味に続いておりますが。

私の卒論はロシアフォルマリズムに関連したことを書いたものでした。
簡単にいうと、日常生活はどんどん「自動化」するから、何かで生き返らせないといけない。たとえばそれは芸術である、という考え方です。(乱暴すぎ、かつ自分流の曲解もあるかもしれん)
これは詩的言語についての考察で、「異化」などと言う言葉もあります。

そこから考えると、ビルに激突する飛行機の映像は、まさしく日常生活にショックを与えたのは確かです。
そう考えれば、ショットックハウゼンの意見(誤報に近いのだが)は、いかにも誰かが言いそうではあるな、と思ったのでした。

まだ続く。

02/10/09
まだまだ続いております。

>>上記については、以下のURLがまとまっています。
http://faculty.web.waseda.ac.jp/kawasaki/kougi114.htm ※リンク切れ
とはいえ、私はロシア文学専攻ではありません。

以上について、かいつまんでいうと、芸術の目的は日常生活を生き返らせることなのですが、とはいえ、そのために、他の人を犠牲にしていいわけでない。

ここで写真の話にたちかえると、私にとって写真とは日常生活を改めて認識しなおすこと、日常生活にとりまぎれてしまった、ものそのものの姿を、カメラという機械の目によって改めて見ることだろうと思います。
普段は先入観を持ってものを見ているが、カメラ自身にはそれはない。
ただ何に注目するかという意味では、撮影者の意思とものに対する先入観はあるが、撮影された写真には撮影者の思惑以外のものが写りこんでいる。
撮影する自分と、出来た写真を見る自分には微妙なずれがあり、そのずれから、自分の日常に対して新たな見方が出来る=日常を認識しなおす、ことが日常を生き返らせることにつながると私は考えております。

読む人もいないようですが、行きがかり上、どんどん続けていきます。


02/10/09
つまり、そのずれが異化につながっているのではないかと考えております。
しかし異化だけを追及すると、日常にはないものを追求したくなる。
それを追いかけていくと戦場に行くことになるかもしれません。
また、日常にはないことを見たいという欲望・ニーズは世の中に確実にある。
それと同時多発テロの映像を何度も映すのは、似たようなものではないかと思います。

ところで、港千尋氏が、テロをテーマにした彫刻「落ちる女」の展示が撤去されるなら、ビルに飛行機が激突する映像のほうがもっと問題ではないかと言っていたようです。
これには同意出来るところと、出来ないところがあります。
ニュース自体は以下URL
http://www.japandesign.ne.jp/EXPRESS/020925/w03.php ※リンク切れ


ビルと飛行機の激突映像を繰り返し流すことは、私も書いたとおり、一種の道義的な退廃だと思います。
しかし、写真を見る限り、「落ちる女」は生々しすぎて、やはり許容しがたい人は多いと思います。 時間が経ち、テロ事件が歴史の一部にならない限り、ごく普通の人が見れば苦痛でしょう。 作者はその苦痛を狙ったのかもしれませんが、だれもがそれに耐えられるわけではないと思います。
苦痛が強すぎて作品を見てもらえないならば、作者が伝えたかったこと(があれば)も伝わらないわけで、そのへんは、作者も考えようがあったようにも思うのです。
だから、展示を撤去したロックフェラーセンターを責めることは出来ないと思います。

「歴史の一部になる」「苦痛が薄れる」ということは、記憶が薄れ当事者ではなくなるということでもあり、事件の風化に他ならないのは分かっているのですが。

この件については情報が少ないので、ここで止めます。



02/10/10
ところで、以下の文章は、なかなかうまく言い表すことができないので、補足します。
> 自分の日常に対して新たな見方が出来る=日常を認識しなおすことが
> 日常を生き返らせることにつながる
これについては、撮影しようとするものを探すこと自体が、日常を見直すことにもなっていることを付け加えるべきでした。
私の場合は、面白いな、美しいな、なんか分からないけど心が惹かれるな、というものを撮影することが多いです(もちろん記録的な意味合いの写真を撮ることもあるのですが) 。

別の言い方をすると、写真を撮影することと、幸せを追求することはつながっているのではないかと言いたいわけです。
ちょっと飛躍があるか?
幸福の定義は出来ませんが、自分が自分らしくあることや、日々をいきいきと過ごしていけるということも幸福のひとつではないかと思います。
大分前に「小さな物語」と書きましたが、それが充実していることも幸福のひとつではないでしょうか。
となると、アラーキーの「幸福論」をどうしても思い出してきます。(植田正治の「小さい伝記」もうかんできますが、詳しく見ていません。)
9/11のテロ事件が、なぜかアラーキーに辿り着いてしまいました。

が、私なりの結論は一応出たかな、と思います。

さらに補足すると、幼い子どもというものは日々変わっていきます。
すると日常も日々驚きがおこり、生き返ります。
(昨日と同じ今日がまたやって来たとは思わない)
子どもが生まれてから、しみじみそう感じるようになりました。
それが、これまで書いたことの裏打ちになっています。

なんだか全体に飛躍が多いような気がしますが、ひとまずここで終わります。
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