eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-08

荒木経惟と「歌物語」

「歌物語」とは、三省堂の辞書によれば、以下の意味になる。
・平安前期の物語の一種。特定の歌を核として、それにまつわる物語を展開したもの。また、そのような短い物語・説話を集めた作品。「伊勢物語」「大和物語」など。

 これから書くことは、すでに誰かが書いていたようにも思うが、考えがまとまってきたので書いてみたい。

 歌物語を、さらに考えると、「歌」を核に、その前後のいきさつが「地」の文章で書かれたものといえると思う。さらにこの歌の対象、もしくは歌の作者は、ある種の聖性を持っていると考えられる。源氏物語などはそうなのではないか。光源氏自身が聖性をもった存在であり、それが歌を詠む。その相手は女性であるが、やはり普通の女性ではなく、どこかに聖性を帯びている。また、女性というもの自体が、そもそも聖性を持っているともいえる。天照大神が女性であることを見れば分かる。
※国文の専門家の人から見たら笑われるだろうか。

アラーキーの写真集を見ると、風景写真のページの後に、ヌードが出てきたりする。また、エッセイ集でも地の文の中に写真が入ってきたりする。これを考えると、前者の場合、風景は「地の文」であり、ヌードは「歌」にあたる。風景描写の後に、感情のきわまりである「歌」が詠まれるわけだが、それがアラーキーの場合はヌード(もしくはヨーコ夫人とかの女性像)になっている。また、風景は女に会うまでの「道行」であるともいえる(これは本人も言っていたような気がする)。
後者の場合、地の文にあたるものがまさしく文章となっており、歌にあたるものが写真となっている。

意識しているか否かは不明だが、日本古来の文芸の伝統の上にアラーキーの写真があるのだ。人気の理由のひとつには、それがあるのかもしれない。
同時にこうも言える。
アラーキーに写真を撮られることは、歌物語の主人公になることでもある(登場人物というべきかも知れないが、たとえば源氏のなかの多くの女性たちは、その段ではやはり主人公だといえるだろう)。つまり、それは撮られることによって(かつて持っていた)聖性を取り戻すことでもある。だから撮られたいんだろうな。そして、そのヌードは扇情的でなくてもかまわないのだ。なぜなら、それが目的ではないのだから。

もうちょっとまとめたいが、とりあえずここまで。
意見あればなんか書いてくれ。
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