eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-08

ネット情報の真贋力をつけるためには

ネット情報というのは玉石混交、「嘘を嘘と見抜けないでは楽しめない、云々」と言われている(ひろゆき?)。

では、その真贋を見分ける力はどこでつけるか?
自分の場合、これまでの経験(ある程度の教育、またこれまでの仕事も含む)とそれなりの読書、その他により、それなりに力は持っている(と思いたい)。

ところで、偽物を見分ける力をつける最も良い方法は、本物を見ることであるそうな。骨董商が、真贋を見分ける力をつけるために、上野の博物館に行くという話を読んだことがある(作品社の随筆集「嘘」のなかの誰かの文章だった)。本物ばかり(もしくは非常にできの良い偽物)を見ているうちに、贋物を見ると、なんか違和感を感じるようになるらしい。これも嘘かもしれんがなんとなく説得力のある話。

では、ネット情報にばかりに接している人はどうなるだろうか。一つの玉と十の石が混じっているところで、骨董商の場合のような力をつけることは可能だろうか。ちぃーとばかり難しいように思う。そう思うので、子供が小さいうちは、家庭にパソコンを持ち込まないようし続けようと思っている。 というところで、以前mixiに貼っておいた本の抜書きを転載しようと思う。内容については「ちょっと古いと思うが」等と生意気なことを書いているが、改めて考えると意味があるね、やっぱり。

以下、抜書きです。

『世界コミュニケーション』
東京大学出版会 2002
ノルベルト ボルツ, Norbert Bolz, 村上 淳一

今となっては少し古いが、一時は参考になった。
以下、自分なりに興味があったところだけを抜粋。興味と時間がある方は読んでみたらどうでしょう。

「はしがき」
・世界コミュニケーションとは、時間をとらえるために空間を放棄することである。p3
・副作用のない作用はない。逆機能のない機能はない。呪い(アナテマ)のない主題(テーマ)はない。対象による裏切りを経験をしないですむ人工物はない。P7
・現代の人間は、多くのオプションがあるという重荷にあえいでいる。かれらにとっての現実は、つねに選択が強いられるということなのだ。p7
・世界コミュニケーションが開いてくれる豊富なオプションに対応できるだけの時間を、われわれは持っていない。誰でも任意の相手とコミュニケーションできるという状態は、注意力の限界を超える。あまたの可能性の世界は恒常的な時間不足をもたらし、それらの可能性がわれわれの注意を惹こうとして犇めくことになる。p7
・情報が氾濫するマルチメディア社会においては、「付加価値」とは情報を減らすことに他ならない。p8
・問題なのは、まだ知らないということではなく、あまたの情報が入り乱れているということなのだ。p8

「Ⅰ ニューメディアの後に何が来る?」
差異を大切に
・「問題は混乱にあるのであって、無知にあるのではない」。p75

「Ⅱ知識社会における進路どりの問題」
法と信頼
・ネットワークで重要なのは、所有ではなくアクセスである。p90
・われわれは常時、先が読めない状態で生活しており、パイロットや外科医や職人や投資コンサルタントのような他人に-何をなすべきかよく心得ているだろうと信じて-絶対的な診断を任せるしかないのである。現代の生活においては、増大する無知を信頼によって埋め合わせるしかない。P103
・われわれの推察によれば、経済における<ブランド>は、将来、前近代社会においてさまざまの<価値>が果たしていた機能を果たすことになるであろう。p108

知識のリスク
・画像が現実を正直に写しているという信仰は、写真という技術とともに始まったものである。その技術の発見者フォックス・タルボットは、この技術を、なんと「自然の鉛筆」と名付けたものだ。自然が自分自身を記録する-但し写真として。この信頼が、ディジタルの画像技術によって根底から揺るがされることになる。P111
・生活のほとんどすべての状況において、十分な情報を手にすることは、コストと時間がかかりすぎるのである。P111
・情報にはコストがかかる。お金ばかりでなく、何よりも時間がかかる。したがって情報は高くつくから、いつも不完全な情報しかないということになる。P112
・理解しなければならないままで利用しなければならない知識が増えていく。私の知識は増えるが、私の無知の増え方はもっと速い。P113
・今日一番重要な知識は、何が知らないでいいことかを、知ることである。P115
・われわれは混乱しているだけで、無知であるわけではない。P116
・肝心なのは、喋り続けることの喜び喜び、繋がっていることの幸せ、つまり「社会性の喜悦」である。P120
・女性は組織を会話として理解するから、協力はコミュニケーションによって基礎づけられるということを、男性よりも良く理解する。P120
・物質とエネルギーの世界は男たちの世界であったが、コミュニケーションとデザインの世界は女たちの世界になるだろう、と。P121

知識の未来、未来についての知識
・情報は、意味と無意味を区別しない。情報は、メッセージの価値の大小を問わない。P122
・情報を用いる(そして楽しむ)ことができるためには、いろいろな予備知識、すなわち文化についての予備知識、つまり教養の余剰性が、必要なのだ。情報は知識ではない。知識は、情報という媒質(メディウム)に形式(フォルム)を与えるものである。P123
・人間は知識社会の障害物である。具体的には、人間はさまざまの情報を並列処理することが出来ない。提供される情報の98%が、無意識に処理されてしまうと見積もられている。人間の意識は1秒に40ビットしか処理できない。だから意識は、情報を抹消し、食いつぶしてしまうしかない。P124
・金銭のように(権力や愛もそうだが)シンボルによって一般化されたコミュニケーションメディアは、予見できない未来の問題が解決可能であるという安心感を、現在すでに与えてくれる。それは、確実性の等価物であり、そのおかげでわれわれは、情報や予測なしでやっていける。世界の確実性を保障するのは、もはや神ではなく金銭なのだ。不安のない生活が保障されるわけではないが、未来の不安が姿を変えて、いま金銭を扱うリスクの問題になる。(中略)金銭は、未来のための配慮という機能を持つ。金銭を扱うことは、つねに「未来の取引」である。そして、未来を手中にするには、金銭を扱うしかないのだ。P131
・つまり、金を儲けることは集中的に未来を配慮するということであり、金銭とは「計画できる未来」なのだ。どんなことが起ころうとも、金さえあれば何とかなる。金銭は、普遍的な問題解決者である。P132

「Ⅲ 歴史の幸福な終焉」ユートピアのパラドクス
ユートピアのパラドクス
・将来生ずるかもしれないと心配される損害は、実は今すでに損害を-憂慮の重荷として-及ぼしている。P157
・だから、21世紀の諸組織は、「卓越性」という幻影の今日における後継者である持続性という幻影を追いかけるのではなく、立ち直りのデザインをもつことになるだろう。P163
・ミスによってこそイノベーションがはじまる。実はミスこそ未来との遭遇なのだ。P163
・うまくいっていればいるほど、予見されなかったことに対応する能力は弱まる。適応は適応力をそこなう。
未来を予言したいなどと思わずに、「複雑性を抱きとめる」のが、まだしも理性的であろう。P164

命名された世界、陳列された世界
・いま経済の媒体になっているのは、さまざまの感情の市場である。P176
・消費の未来は、そうして付加価値に、すなわち「物語価値」に懸かっている。ある人間の個性の場合でも、あるブランドの核心の場合でも、また、ある企業のカルチャーに関わる場合でも、人々はストーリーを語ることによって、意味を生み出す。P176
・意味づくり(センス・メーキング)は、全体像を描ければつねに成功する。差異化が進んだシステムの一体性をシンボル化するために単純化を最も徹底したのものが、まさに、システムの名前なのだ。P176
・つまり、自分で何らかの名前を名乗らないかぎり、他人によって命名されることになる。P177
・「最も純粋な価値は、名声だ」P178
・名声は名前を通じて得られる。たとえばシンポジウムが成功を収める(名声を高める)ことを保証する物として、有名人を招待する。P179
・ブランドは、商品を、市場の無名性から卓越させる。名前は真似することができない。名前は、「いわば特許として認められたブランド観念」を示すのだ。P180
・「人格の押印」としてのブランドネーム-それは、ブランド技術の理想形に他ならない。商品は、名前によって人格化される。そのことが、信頼を生み出し、品質を保証する。P180
・すなわち、マーケティングの世界は、目的と必要性の世界ではなく、呪術と呪物崇拝(フェテイシズム)の世界である。ブランドはトーテムの紋章(エンブレム)に他ならない。とりわけ高級ブランドは、商品に呪術的な地位を与えるように見える。そして、ブランドの価値をトーテム的なものと見るということは、結局、ブランドネームこそが重要だということである。P181
・ブランドネームは、何を約束するのだろうか?第一義的には<品質の確かさ>であろう。P182
・文化の個性(アイデンティティ)は、比較によってはじめて成り立つ。P184
・神話と同様に、博物館は、不確定性を克服する一つの形式である。それは、物事を説明する形式ではなく、さまざまの歴史物語に織りなされてしまうような形式である。博物館とは、さまざまの歴史から成る稠密なネットワーク、存在の根拠の無さという深淵の上に張りめぐらされたネットワークである。それは、要するにセーフティーネットなのだ。P184
・その問題(「意味の危機」)を学問という道具によって解決することは出来ないが、芸術という道具を借りれば何とかなるだろう。周知のように、どんな絵画もストーリーを語る。そして意味を生み出せるのhが、良い物語に接した場合だけである。P184
・どんな一体感(アイデンティティ)も、何らかの歴史物語という形式をとる。P185
・メディアとコンピュータ-テクノロジーの進化は、人間の処理能力を顧慮されずに遂行されている。(中略)われわれは人間の尺度を超える世界中のデータを<人間の顔をした図式>で選択することによってのみ、生きていける。P185
・だが、博物館は、巨大な記憶以外の何でありえるのか? ひょっとすると、驚嘆の場所なのではないか? だとすれば、未来の博物館は、古い事物に対してたえず新しい文脈をアレンジするイノベーション装置という姿をとるのかもしれない。P192

美的ユートピア
・美なるものの瀆神性には、真なるものの不快性が対置されうる。ソクラテスは醜男だが、真理を語る。P194
・20世紀の現代美術は、美を完全に放棄し、これを<挑発>によって置き換えた。P197
・芸術は、知覚とコミュニケーションの差異を架橋する。芸術は、コミュニケートできないものを、美的に脱目的化された知覚としてコミュニケートできるようにする。P201
・芸術作品も、言葉と全く同様に、意識(心的システムとしての人間)とコミュニケーション(システムとしての社会)を連結する-ただし言葉を使わずに。この連結は、言葉による連結よりも緩やかである。P201
・芸術に特徴的なコミュニケーションが知覚によって行なわれる以上、どんな芸術作品にも、「否定しがたい社会性」が成立するのだから。P201

IV 人工性のなかで生きる
意味づくりとしてのデザイン
・デザインとは技術の解釈学だ、ということもできよう。P217
・オトル・アイヒャーによれば、ますます見知らぬものになっていく世界へと投げ出されているのが現代の人間だ、と言う。昔の人々は、生活の指針をもっと容易に見出すことが出来た。今では、どんな答えも与えられていない。だから、問うことを学び、答えを見つけていくトレーニングをすることが、決定的に重要なのである。P217
・ものを使用するということは、もはや思いどおりに使えるということでなくなって久しい。(中略)われわれは、理解できないものを利用するために、それに服従する。P219
・ユーザーにやさしいというのは、はっきり言えば、構造的複雑性における機能的単純性ということ、つまり、使い勝手はいいが理解は困難、ということだ。到底理解できないという惨めな気持ち、ついていけない難解な論理、こういったものを隠しているのが、知的な(インテリジェント)製品なのである。P220
・使用するのに理解は要らなくなった。いま知的なデザインと言われるのは、人工物(アーティファクト)の使用法が自己説明的である場合である。P220
・ユーザーに親切だというのは、われわれの無知を癒す<技術のレトリック>である。P220
・現代の人間は、多くのオプションによって負担過重になっている。現実とは、つねに選択が強制されている状態のことなのだ。だから、現代の人間にとって、現実はもはや自明ではない。その自明性喪失そのものが、すでに自明になっている。P221
・デザインは、人間が生きていく意味のある人工環境を創ってくれるものなのだ。P221
・われわれは、現代世界の超複雑性と不透明性から出発した。至る所で、パラドクスと多義性が待ち構えている。(中略)人々は、新しい情報テクノロジーに圧倒されて、すべてを無知に由来するかのように解しがちである。けれども、意味を求める問いに情報をもって答えることは、不可能なのだ。この本の主題は、「問題なのは混乱であって、無知ではない」ということにある。P225
・一方では高度に複雑な世界、他方ではますます足りなくなっていく注意力、この両者は、意味を人為的に構成することによって媒介される。意味が、システムによって世界と媒介されるのである。デザインに特殊なのは、含蓄豊かな体験としての意味の創出である。(中略)デザインは、さまざまに区別によって意味を表出する。デザインは、世界を開示する媒体である。言い換えれば、デザインは進路どり(オリエンテーション)を生み、またそれ自身が進路どりである。デザインは意味の問題の解決なのだ。P225

不確実性に曝されて
・人間と人工的なもの-このテーマに及ぶ範囲は、論理的に言って、そのモデルである<神と世界>というテーマと同様に広大である。P226
・到底理解できないという惨めな気持ち、ついていけない難解な論理を覆い隠すことが、デザインのインテリジェンスなのだ。こうして、使用するために理解することは必要でなくなる。P227
・「人間は、人工的なものの神である」。ただし、人間は、不幸せな神なのだ。P227
・はっきり言えば、人々は、自分自身が生み出したものに不信感を持っている。その背景として、現代においては複雑性と不確定性と人工性が解きがたく結びついていることが漠然と感じられるからである。P228
・世界が表象であり展示でもあるということは、生は多くのオプションから成るということを示唆する。しかし、われわれはそれぞれ、一個の生しか持たない。そもそも、私にとって存在する唯一の<まとまり>は、私が有するこの一個の生なのだ。これで判るように、すべてのリソースのなかで最も乏しいのが、寿命である。P233
・目は、毎秒2ギガバイトを(意識へと)伝送する。しかし、意識は毎秒40ビットしか処理しない。だから意識は情報を大量に廃棄せざるをえない。(中略)なお、知覚(パーセプション)と統覚(アパーセプション 意識された知覚)の比率は、およそ十万対一だとされている。P234
つまり、不確定性に曝されてもやっていけるようにする。正常(ノーマル)だということは、<耐えていける>ということを社会的に構成した表現である。P236

身体の復権?
・自我とか、自分自身とか、人格の個性とかいうものが何であるのか、誰も知らない。だから、人々は、守り、養い、手入れすることのできるゆえに、自らの身体を頼りにする。P234
・もう一度、最も重要な基本テーゼを要約しておこう。21世紀の経済と社会は、コンピュータとテレコミュニケーションと「仮想現実」によって、特徴づけられる。このニューメディアの世界において、人間の身体には、「ウェットウェア」という侮蔑的な呼称しか残されていない。実際、われわれの社会が、機能するためにも、身体も、身体が<今ここにいる>ことも、ますます意義を失っていくのだ。肝心なのは、<いつでも連絡がとれる>ことであって、居合わせることではない。機能であって、実体ではない。
われわれはすべて、そのことを日々認めざるをえないのであるが、それに耐えていけるためにはだいしょうが必要である。わらわれの仮想文化が、同時に身体崇拝の文化になるのは、そのためだ。人間の身体は、魔法をかけられて、意味の舞台になる。P244
・いま自分の身体の手入れに励む者は、身体を、崇拝の中心、生の意味の舞台にしているのだ。だから、化粧品を売っているのはもはやドラッグストアではなく、神殿である。P250
・「年老い、生き足りて」死ぬというアブラハムの幸せほど、われわれにとって遠くなったものはない。子をもうけること、つまり家族の永続は、生きる意味としての説得力を失って久しい。他方、生きる意味如何という問いに対して宗教が与える回答も、もはや説得力をもたない。死は、腹立たしいことになる。それは、もはや、より良き世界への入り口ではないのだ。死者はまた、もはや自分の子において生き続けるわけでもない。より良き社会のための尊い犠牲と感じながら死ぬことも、今となってはもうできない。P252

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