eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-08

二宮尊徳とグラミン銀行

この方の名前を出したところ、やたらと検索されるようになったので、「IKD信夫」と表記を変えさせていただきました。2006.11.8
※「苛 政 猛 於 虎 也」という検索でこのページにたどりついた方、むしろ以下を見てください。http://kanbun.info/koji/kasei.html


FACTAの阿部重夫の文章
を見ていたら、
IKD信夫氏の文章
が紹介されていた。

そこでIKD氏のblogを見ていたら、「高利貸しが最貧国を救う」というタイトルで、グラミン銀行が紹介されていた。
「高利貸し」という言葉に違和感を持ったが、同じように感じた人が居て、トラックバックで以下のように指摘されていた。

(以下引用)
高利貸しと他称するには (名無しさん@お金いっぱい)
2006-10-15 17:36:19

従来の常識では、バングラデシュのような最貧国で金融を行うことは不可能だと考えられていたが、グラミン銀行は無担保で、年利20%という高金利であるにもかかわらず、返済率は99%だ。

外務省: 最近のバングラデシュ情勢と日本・バングラデシュ関係
最近のバングラデシュ情勢と日本・バングラデシュ関係
(5)GDP成長率:5.4%(2005年度暫定値)
(9)インフレ率:6.5%(2005年度)
貸し出し金利20%は日本では高利貸しと揶揄できても、インフレ率6.5%の国で高利貸しと言ってしまえるかどうかは微妙な気が。
(引用終わり)

これについて、IKD氏は、「まあこのタイトルは冗談だったんだけど、「はてな」では爆発的に受けたようですね」などとお茶を濁して答えているが、まぁ、あまり誠実な感じではない。

他人を「高利貸し」呼ばわりするのは、なかなか出来ないことと思うが、どうやらIKD氏は有能ではあっても、ある種の慎重さ?はあまりお持ちでないのかもしれない。



さて、グラミン銀行について以前から思っていたのだが、どうしても二宮尊徳のことが思い出される。たしか、グラミン銀行の融資相手は女性が多かったようなはずであるが、二宮尊徳も出資する場合、夫だけではなく夫婦で面接したという。これについて、「尊徳は女好きだから、他人の女房を見たがるのだ」と揶揄されたそうだが、尊徳は「その家の奥さんを見なければ、安心して出資できるかどうか分からないのだ」と答えたというのを読んだことがある。この辺の感覚は互いに似ているように思うのだが、資料を揃えて読み込んでからでないと、きちんと論証できない。その代わり、しばらく前に二宮尊徳について考えたことを簡略にまとめたことがあるので、それを載せておこうと思う。


「古典について」
(前略)
 先日、二宮尊徳の文章を読みました。中央公論社版「日本の名著」シリーズですから、文語体ではありません。このなかの「報徳記」は富田高慶、「二宮翁夜話」は福住正兄という尊徳の高弟がそれぞれ著したもの、「三才報徳金毛録」は尊徳と弟子の共著のようです。
 二宮尊徳というよりは、幼名の二宮金次郎のほうが有名かもしれません。金次郎といえば学校の片隅にある、薪を背負いながら寸暇を惜しんで本を読むという例の銅像を思い出します。もっとも物好きな人が調べたところでは、最近の小中学校では人気がなくて、この銅像自体がないそうです。「芝刈り 縄ない、わらじを作り、(中略)手本は二宮金次郎」という歌があったくらいで、尊徳の一般的なイメージは刻苦勉励、真面目一点張りのあまり面白みのない人物としてとらえられているように思います。実際の尊徳は、身長約6尺(182センチ)、体重25貫(94キロ)、足のサイズは26.5センチという、現代でもけっこう堂々たる体格で、当時なら相当の大男だったでしょう。どうも幼少のころの「金次郎」のイメージとはだいぶ違います。
 
私が尊徳の本を手にとった理由は、勝海舟の「氷川清話」を読んでいたら、「二宮尊徳には、一度会ったが、いたって正直な人だったよ。だいたいあんな時勢には、あんな人物がたくさんできるものだ。時勢が人を作る例は、おれは確かにみたよ」と書いてあったからです。これだけならば、「あぁ、そうか」と思うだけですが、なんだか「あんな時勢」というところが妙にひっかかりました。
 というのは、尊徳の活躍したのは幕末期で、小田原藩・日光神領(日光東照宮の土地)等の荒廃した農村の立て直しをするわけですが、それら諸藩の状況をあげてみると、「多額の借金」「生産の不振」「労働人口の減少」等、まるで現在の日本のような状況です。
それらの土地では、天明の大飢饉による飢餓、死亡、逃散で人口が半分以下に減り、田畑は荒廃し、収穫は3分の1以下に減るという大惨状でした。文化文政年間に多少持ち直したところに、今度は天保の大飢饉が起こり、元の木阿弥になってしまいました。
困窮状態の藩に限らず、幕藩体制も相当危うくなっており、それをさして海舟は「あんな時勢」といっているのでしょう。
ところで、2005年末で日本の国債発行残高が538兆円になり、一方、税収は44兆70億円だということです。私は、経済とか数字とかは、いたって苦手なのですが、国債というのは国の借金のことでしょうから、単純に計算すると、収入に対して約12倍の借金があるということになります(もっとも単なる借金ではなくて「意味のある借金-実り豊かな将来を作る投資のための借金」だと思いたいのですが)。先ほどあげた「多額の借金」は国債の発行残高、「生産の不振」は中国に押される製造業、「労働人口の減少」はNEETおよび社会の少子高齢化と考えれば、なんだかどこかで聞いたよう話ばかり。現代も尊徳の時代の状況に似ているな、と思って本を手にとったのでした。
もっとも私は「経済」のことはまったく疎く、「経世済民」といわれたほうがまだ分かるという程度です。「経世済民」といえば、「世を治め、民の苦しみを救うこと」ですから、それならば私にも理解できます。

 さて内容について、ごくかいつまんで言えば、尊徳の考えは「至誠」「勤労」「分度」「推譲」という言葉にあらわしても良いように思います。このなかで、「分度」「推譲」というあまり聞いたことのない言葉の説明をします。「分度」とは、まず収入の総額を算出し、実際の生活をその総額よりも小さくして暮らすということ。簡単に言うと、実際の収入に生活をあわせろということで、仕法(農村復興)を行う際にはその土地柄等を綿密に実地調査し、数年間の平均生産量を計算した上で、収入を想定していたそうです。そして収入を目いっぱい使って暮らすのではなく、そこから少し余らせておく。その余った分を公共、というよりはともに暮らす仲間のために使う。これを「推譲」というそうです。個人の生活の場合も同様で、その一家が借金を抱えている場合には、まず、低利で融資して借金を整理してやり、そこから「分度」によって生活を立て直す。余った分を持ち寄って、互いに低利で融資しあったりしたそうです。一方では藩主に年貢の取りすぎや歳費(とはいわないか)の使いすぎをいさめたり、枡の大きさを統一したりと、行政側にも努力をもとめたということです。
 尊徳のやっていることを見ると、目の前の共同体(一番小さなものは「家」)をどうやってマネジメントするか、というところから始まっているように思います。そして自分とコミュニティを切り離さずに考えるというのは、現代でも通用する考え方だと思います。私自身で言えば、自分の小遣いを「分度」し、それを次の世代や社会に「推譲」しなければならないのですが、やってみるとその「分度」からしてむずかしいのが実際のところです。
しかし、尊徳は、その仕法によって社会が平安になったあとは、どのような社会実現すべきだと構想していたのだろうと考えると、少し分からなくなります。神仏儒をそれぞれ引き合いに出したりして理想的な社会を説いていますが、いまひとつ具体的なイメージがわきません。確かに「国家盛衰の根元」とか「治国の要道」というような記述はありますが、たいていの場合、エピソードを元に自分の考えを語るというもので、それほど体系だっているようには読めませんでした。尊徳に、それ以上の構想はなかったといえるのかもしれません。あえて言えば、そのあたりが二宮尊徳の限界なのかもしれませんが、一方で、リアリストでもある彼は、そんな平安な世の中はなかなか実現しないし、また実現しても長続きしないよ、と考えていたようにも思うのです。

話がとびますが、先日、たまたまモンテスキューの「法の精神」を読みました。そのなかで「政治的自由は穏和政体にしか見いだせない」とありました。モンテスキューによれば、一般的に民主制>共和制>君主制の順に、自由があるように思われている。つまり、さまざまな種類の政体があって、その種類のなかには自由な政体もあるというふうに思われがちであるが、間違っている。実際はその政体ごとにそれぞれの(それなりの)自由がある。しかし政治的自由は、権力が濫用されない穏和政体の中にしか存在しない、ということを言っております。そして「権力を持つものはすべて、それを濫用する傾向があることは、永遠の体験である」ということから、有名な三権分立論が出てくるわけです。「穏和な政体」にこそ、政治的自由があるとモンテスキューは言っておりますが、二宮尊徳はどうでしょうか。尊徳は政治的自由よりも経済的自立を重視しているように思います。さらに言うなら、農村経済と商業経済の矛盾および封建体制の矛盾に苦しみながらも、明確な社会変革の意識はなかったと思います。ただし、「苛政は虎よりも猛し」(礼記)という言葉は当然知っていたでしょう。彼自身、当時の政治体制では自らの手腕を振るいきれないと感じていたことは確かですが、かといって別の政体を構想していたようでもない。いってみれば政体の種類は問わないが、穏和な政体を望み、そこで平安な社会が実現すればよい、というところでしょうか。しかし現実にはそれですらなかなか難しいのだよ、というのが彼の認識だったようにも思います。言い換えれば、何とか普通に暮らせるところまでは自分がやるから、そこから先は別の人が考えてくれ、と言うことかもしれません。亡くなる少し前に「余が足を開け、予が手を開け。予が書簡を見よ、予が日記を見よ、戦戦兢兢深淵に望むが如く、薄氷を踏むが如し」という言葉を日記に残しているそうですが、矛盾を抱え込みながらも自らの為すべきことをしてきたという実感がこもった言葉のように思います。
※モンテスキューについては、法と国家、市民の関係、freedomとlibertyの違い、個人と市民の違いなどふれておかなければならない事柄があるのですが、ここでは割愛します。

おそらく、古典のよさというのは、「時間」に耐えて生き残ってきたということから来るものがあるのではないかと思います。とりあえず、私よりも長生きしているのは確かです。二宮尊徳の文章などいまどき物好きしか読まないかもしれません。また、「今の常識」から見ると、おかしなことをいっているかもしれません。しかし、ここで言えるのは、「今の常識」も時代が経てば、「昔の常識」になり、未来の人から見れば「なんだか変なことを言っているな」ということになるかもしれません(というかおそらくなるでしょう。例えば15年前、携帯電話がこれほど普及するとはNTTも考えていなかったから、めぐりめぐって、電話加入権が問題になるわけです)。
しかし、一方で、時代時代の「常識」を超えて、読む価値を持つ古典が実際にあるということ、この二つは頭の隅っこにでも入れておいたらいいのではないかと思います。
(後略)
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