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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2019-04

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自力と他力、および市民と大衆

「自力」というの、自らの修行によって悟りを得ること。一方、「他力」とは、自らを放擲して、阿弥陀の本願にすがること。
「市民社会」というときの「市民」というのは、社会の中で義務と責任、およびその範囲での自由を享受する立場であるが、これは教育等により自らしかるべき教養と徳を持っている(と期待されている)。なんとなく、古代ギリシャの都市国家につながる残響を感じる。一方「大衆」は、自ら判断することなく、デマに惑わされ、その場限りの判断で行動し、自らの責任をとろうとしない。これはローマ時代というよりも、現代の特性か。

こう並べて考えたとき、「自力」と「市民」というものに、ある種の類縁性を感じた。つまり、自らを恃みながら(傲慢に陥らずに)、あるべき姿を模索するという点である。ある意味では、強者である。
では、「他力」と「大衆」を並べたとき、どうであるか。自ら悟る力のない者は、傲慢さを捨て、仏にすがるしかないのであるが、大衆は傲慢さを捨てず、しかも仏ではなく、大衆扇動者にすがったりする。
阿弥陀とはいわぬが、よき導き手が必要なのかしれない。しかし大衆に理解でき、しかも
理性、知性、徳、判断力、実行力を併せ持つような人がいるのだろうか。もちろん完璧でなくてもよいのだが。
筒井康隆が、文学作品のあるべき姿として、表層にはエンターテイメント性を出しつつ、さらによく読むと、高度の内容も読み取れるという二重構造を語っていたが、政治においても同じといってもいいのだろうか。

と、ここまで考えたが、これは、大衆民主主義を否定しかねないことである。つまり、愚者も賢者も、国政における意思表示である選挙の投票において、おなじ1票しかもっていない。賢者は自己責任で判断すればいいが、愚者はしかるべき人の判断を待って投票したほうがいいということにつながりかねないが、それじゃ困るという気もするな。とはいえ、「自力」でできる人は限られている。
しばらく、この件について粘弄しようかと思う。
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