eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-05

昭和天皇は「瘠我慢の説」を読んだだろうか。

福沢諭吉に「瘠我慢の説」という文章がある。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/46826_24771.html
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20111201/1322665564

これについては以前文章を書いたことがあった。http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-863.html
福沢は勝海舟と榎本武揚の功績を認めながらも、負けると分かっていても戦をすべき時があるし、旧幕臣が明治政府の高官になったりするのはほめられたものではない。瘠我慢して、新政府には奉職すべきではなかったというような話である。
これについて、勝、榎本それぞれに反応(儀礼的な返答をした=ほぼ無視)したというところで、この話は終わっている。

勝海舟に言わせれば、徹底抗戦せずに江戸を無血開城したからこそ、西欧列強につけ込む隙を与えずに政体を変革することができたわけで、国内が決定的に分裂するよりはましだったと言いたかったのではなかろうか。
その後の田舎侍(薩長)のおぼつかない政治を見捨てておけず、徳川家の名誉回復のため、また旧幕臣の軽挙妄動を防ぐ意味もあり、乗り掛かった舟ということで新政府に出仕したようである。
また、この文章が公開されたとき、すでに彼らは高齢であり、当事者同士での本格的な議論も起こらぬまま、それぞれ世を去っていった。

ところで、福沢の以下の文章を読むと、いろいろと言いたくなる。
「左れば当時積弱(せきじゃく)の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。これを典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり。」
(大意:当時、幕府に勝ち目がないのは、勝氏も自分(福沢)もよく理解していた。しかし侍の気風を守るためには、勝敗は度外視すべきである。しかし勝氏は幕府が負けるのを見越していたから、無用の犠牲を少なくするため戦う前に降伏した。死人が出たり、町が破壊されたりするのは一時のことに過ぎないのであるから、むしろ士風の維持の方が大事ではなかったか。)

文中「瘠我慢の士風」とある。
その「士風」=侍の気風を守るために江戸の町が焼ければ、侍以外の庶民が苦しむわけだが、それでいいのだろうか。これこそ「容易に断定すべき問題にあらざるなり」と言いたくなる。
また「殺人散財は一時の禍」とあるが、当事者にとっては死んでしまったらそれが全てなので「一時の禍」とはとても言えないだろう。
福沢はたしかに武士としては立派であろうが、それを他の人に押し付けたり巻き込んだりするのは承服しにくいことだと思っている。

ところで、仮定の話であるが、昭和天皇は福沢の痩せ我慢の説を読んだとしたら、どうだったろうか。
スケールの違いはあるが、江戸城無血開城と日中~太平洋戦争の無条件降伏は重なる部分があるようにも思う。
昭和天皇は、福沢のように「必敗を期して勝つの事例も少なからざる」と、本土決戦を考えただろうか(軍部はヤケクソ気味にそう考えたかもしれないが)。そうではないだろう。
ポツダム宣言、原爆投下後にも戦争継続すれば、犠牲者の増大は避けられない。
例えばその後の歴史を見れば、ベトナム戦争の北ベトナムのように本土決戦→ゲリラ戦に持ち込めば、国内の被害は甚大だろうが米軍は苦しむだろう。
しかし、昭和天皇はそれを避けたということのようだ。
つまり、士風ではないが「大和魂」のために人が死ぬことについて「殺人散財は一時の禍」とは考えなかったのではないか。

ありえないことではあるが、福沢が昭和20年に生きていたとしたら(そうならば105歳)、昭和天皇に「立国の要素たる瘠我慢の士風」を守るため、本土決戦を進めることになるはずである。
もしそうなっていたら、今の日本(というか日本国家自体)は存在していなかったのではなかろうか。

「痩我慢の説」は、いまだに論争を呼ぶ文章であり、さすがに福沢の文章はいまだに生命力を保っているのは素晴らしいことだと思う。
しかし昭和天皇と「痩我慢の説」を関係づけて考察したような文章は、なかなか見つけられなかったので、つたないながらも自分なりにまとめてみた。
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諸星大二郎とBurning Man

「Burning Man – Art On Fire」(玄光社)という本(写真集)を見ていたら、なんだか強烈に諸星大二郎のことが思い浮かんできた。

この本の内容を以下に引用する。
https://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=11600
「毎年8月の1週間、芸術的表現を賛美するために、何万人もの参加者がネバダ州の荒涼としたブラックロック砂漠に集まる。“プラヤ”と呼ばれるこの広大な荒地が、バーニングマンの会場である。世界じゅうから訪れる7万人を越す熱狂的な参加者が、そこにかりそめの街を創り出す。アートとコミュニティに捧げられた街を。参加者の多くは、自然の猛威をものともせず、人々を喜ばせ、刺激し、魅了し、驚かせるために、想像力溢れるアート作品を生み出す。1週間の終わりに、作品の多くは燃やされ、街は解体されて、圧倒的なイメージと忘れがたい記憶以外、痕跡はまったく残らない。『BURNING MAN ART ON FIRE バーニングマンアート・オン・ファイヤー』は、バーニングマンの素晴らしい作品を集めた公式アート集です。」(後略)

※1.バーニングマンについて
https://ja.wikipedia.org/wiki/バーニングマン
※2.諸星大二郎については、これが簡潔にまとまっている。
http://festy.jp/web/posts/6719

以前、テレビでこのアートイベントをとりあげていて、最後に巨大な人形が燃えるシーンが強烈であったので、この本を手にとってみた。
芸術としてみた場合、作品のレベル・内容は玉石混交だろうが、砂漠という舞台とそこにおかれた作品を見ていると、なんだか幻のように思えてくる(実際に、ほとんどの作品はそこで燃やされ、ごみも残さずに撤去されるそうだ)。

このなかで、砂嵐にかすむバーニングマン(巨大な人形)は、「カオカオ様」に見えてこないだろうか(本書27-28ページ)。

また、砂漠の中に立つ奇妙な建物や乗り物、インスタレーション等は、やはり諸星の漫画の中の風景が実体化したようにも見える。

諸星大二郎に、このイベントに参加してほしいなあ。
それとは別に、いつかぜひここに行ってみたい。あまりこういうことは思わない方なのだが。

バベルの塔(ブリューゲル)は、神の怒りがなくても崩れる。

先日、上野の都美術館でブリューゲルの「バベルの塔」(ボイマンス美術館所蔵)を見てきた。
http://babel2017.jp/
藝大でCG化した映像、およびそれを使った拡大模写版バベルの塔も見ごたえがあってよかった。

ところで、このバベルの塔の絵を見ていて気付いたのだが、この塔は、画面右側に河口もしくは港らしきものがあり、かなり水際まで土台部分が迫っている。
また、よく見ると画面下部中央右側に、塔内に入り込む水路らしきものが見える。
こんな水際に巨大な塔を建てたら地盤が軟弱で、じきに不等沈下を起こしそうである。
下部が傾いたら、ピサの斜塔のように全体が傾き、いずれは崩壊しただろう。
※と思ったら、似たようなことを考えた方がおられたのでURLをはります。
https://www.s-thing.co.jp/column/cat333/post_38.html

また、大友克洋が塔の内部(断面図)を描いているが、塔の構造を内部に空間のある円筒形で想定していた。
http://www.asahi.com/articles/ASK4761G7K47UCVL02M.html

塔本来の目的は高さを追求することにあるのだろう。
高さ自体によって、遠方の見張りであるとか、権勢の誇示などができる。
例えば日本の五重塔の内部空間は、使い道があるのだろうか。あまりなさそうな気がする。

しかし、ブリューゲルのバベルの塔の場合、あれだけ巨大な建築物であれば内部空間の活用を考えるかもしれない。現に作品では教会らしきものも描き込まれている(大友克洋)。
もし内部空間を使いたいとなれば、奥の方は日が差さないので照明が必要になるが、電気がない時代なので人工的な照明には限界がある。
となると、内部を空洞にすることにより建物の下や中まで、日が届くようにしそうではある(なんとなくローマのパンテオンの天井の丸窓を連想している)。

ちなみに大友克洋の断面図では、塔の内部に水路が入り込んでいた。大水や嵐のときには水が入り込んで、塔の躯体自体が相当の損傷を受けるだろう。
ということは、神の怒りがなくてもいずれ塔は崩壊する、かのようにブリューゲルは描いたのではないかと思ったりした。


ところで、この作品を見ていると、なんだか不思議な気持ちになってくる。
というのは、塔の中層辺りをみていると、どうにも立体感と現実感のある描写で、不思議な現実感がある。
その現実感は、額縁の向こう側にも、つまり絵の世界の中にも、こちら側とは違う別の世界が確かに存在しているという印象を持たせるものだ。
たとえて言えば、額縁を窓として、塔のある風景を見ているようなかんじだろうか。
絵であることを知りながらも、しかもあきらかに額縁の向こうにも世界の実在を感じさせるところが傑作のゆえんか。
会期もまだあるので、もう一度見たい気がする。

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