eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-02

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あいまいなセルフポート・レイト

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タルコフスキー「サクリファイス」を見たら、「アンドレイ・ルブリョフ」が見たくなった。

2011年の震災後、はじめて「サクリファイス」を見てみた。
この映画は世界の終末の話で、ミサイルが飛び交う描写があり、核戦争が起こったらしいことが分かる。
主人公は、世界の破滅を避けるべく何とか奇跡を起こそうとし、「魔女」とうわさされる女により、時間を巻き戻そうとする。どうやらそれは成功したらしく、しかしその代りに主人公は捧げものをしなければならない。
そういえば、主人公はアンゲロプロスの映画にも出てたな。

2011年の震災は、核戦争ではなかったが原発事故が起こり、俺にとってはサクリファイスの内容と非常に重なる部分がある。
それもあって、今回のタルコフスキー特集では、この映画を見るのがためらわれた。
しかし、上映時間に合わせたようにたまたま時間が空き、それにもなにか意味があるのではないかとも思え、見ることにした。

見た感想であるが、映画自体にケチをつけるつもりはない。しかし、この主人公には魔女/マリア(聖母でもあるか?)がいたので、世界は救われた。では魔女がいない俺(もしくは我々)はどうすればいいのだろうか。
魔女を探すべきであろうか(というか宗教的救済のことを言っているわけだが)。
それとも奇跡は起きないと思い定めるべきか。
しかし先日の福島原発二号炉の探索ロボットのニュースを見ても、およそ奇跡でもなければ廃炉は難しいだろう。
人間はそもそも活動できない放射線量であるが、ロボットさえ満足に使えないのであれば、何をもって廃炉を進めるのか。

そんなことを考えていたら、先日見た「アンドレイ・ルブリョフ」を思い出した。
あの映画の最後で、鐘作り職人の息子が巨大な鐘を鋳造するのだが、じつは父親から鐘作りの秘訣は教わっていなかった。
しかし見事にやり遂げて、泥の中に倒れ伏し「親父は肝心なことは何も教えてくれなった」と泣くその息子に、アンドレイは「お前は見事にやり遂げたのだ。お前は鐘を作れ、俺は絵筆をとる」と語りかける。
この鐘作りのことが、どうも頭から離れない。
今回の原発事故の収束と廃炉は、誰もやり方を知らない。チェルノブイリに比すべき事故であるが、あそこはとりあえず巨大なカバーを掛けた状態になっているだけである


実際のところ、誰も何も分からないのであるが、それでも廃炉を成功させなければ未来はないだろう。
そこで、ほぼ徒手空拳で鐘を作った息子の姿(とそれを助ける民衆)が、これからの廃炉作業にダブってくる。
もうタルコフスキー映画特集は終わってしまうので、「アンドレイ・ルブリョフ」を今回再度見るのは難しいのだが、なんとか近いうちにまた見たいものだ。

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一度じゃ分からん、タルコフスキー(一度でたくさん、タルコフスキー)

新宿で二度目の「アンドレイ・ルブリョフ」を見た。
とにかく強烈な印象の映画で、とくに教会の巨大な鐘を作るシーンが記憶に残っていたが、二度目に見ると、なかなかそのシーンが出てこない。
というか自分がストーリーの混同をしているのかと思って見ていたが、最後にやっぱり鐘を鋳造する場面が出てきて、記憶が誤っていなかったことが分かった。
そんなことはどうでもいいのだが、この映画では、泥にまみれた農奴の生活や、タタール人がロシア人と組んで村を襲うシーン、また教会がタタール人に打ち壊され、殺戮が繰り広げられる場面など、白黒の画面があたかもドキュメンタリー映画のような迫真性をもって迫ってくる。
最初に見たときは、その迫力にのまれて圧倒されるだけだったが、二度目になると圧倒されながらも、ある程度落ち着いて見ることができた。
構成としては、年代ごとの出来事を並べていくために断片的なエピソードが羅列されているかんじで、最後までなかなか全体像が見えてこないところがあるのだが、今回はアンドレイ・ルビュリョフが沈黙の行をとき、再び絵筆をとるのがよく納得できた。
ところが、Wikipediaでこの映画について読んでみたら、さらに驚くべきことがあった。

映画中に狂女が出てきて、主人公の人生にかかわってくるのだが、最初はまったくの精神薄弱的人格であるのが、途中でタタール人の妻になり、最後の場面では貴婦人のなりで騎乗している。
このへんのいきさつがよく分からなかったが、wikiで「佯狂の女」と記されている。詳細は以下の通り。
そもそも、本作の脚本では、女をюро́дивая(ユロージヴァヤ)と表現していた。この語について、落合東朗は次のように解説した。「東方キリスト教では、修行のために完全に孤独な生活を実現することをひとつの理想とした。そのために狂人をよそおって孤独を得るものがあらわれた。それを男性名詞ではユロージヴィ、女性名詞ではユロージヴァヤといい、佯狂とか聖愚者と訳されている。」
つまり、女は宗教的発心により狂者のふりをしていたのであって、まともであった。だからこそ最後の場面では貴婦人になってもおかしくはなかったわけである。
しかし、そういった文化的背景が分からないと、なんだかよく分からない女としか見えなかった。
どうも二度見たくらいでは分からないようだ。

ところで、佯狂といえば論語の狂接輿を思い出すので、引用だけしておく。
論語 微子第十八 5
楚狂接輿。歌而過孔子曰。鳳兮鳳兮。何徳之衰。往者不可諫。來者猶可追。已而已而。今之從政者殆而。孔子下欲與之言。趨而辟之。不得與之言。
楚の狂接輿、歌いて孔子を過ぐ、曰わく、鳳よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし。已みなん已みなん。今の政に従う者は殆うし。孔子下りてこれと言わんと欲す。趨りてこれを辟く。これを言うことを得ず。
https://kanbun.info/keibu/rongo1805.html
http://blog.mage8.com/rongo-18-05

そのあとで、「鏡」も見た。
これはタルコフスキーの自伝的映画といわれていて、たしかに子供時代のことなどが映像化されていたが、これはさらに断片的で、映像詩とはいえるが、一度見ればもう充分という印象を持った。
しかし、タルコフスキーに関心のない人にとって、タルコフスキーのほとんどの映画が、「断片的」で「やたらと水のシーンがある」「訳が分からない」映画で、一度見ればもうたくさんというように受けとめられているのではなかろうか。

子供にゃわからんタルコフスキー、もしくは人生はメロドラマ

新宿でタルコフスキー特集を上映している。
http://www.ks-cinema.com/movie/tarkovsky/

さっそく土曜日に行って、「ノスタルジア」と「惑星ソラリス」を見てきた。
「ノスタルジア」は何度目だろうか。
今回気付いたのは、天井の落ちた廃墟の教会をよく見ていると、非常にシンプルな装飾(というよりは装飾性を排除している)ところが、六田知弘さんの写真にあった、シトー会の教会(ル・トロネ修道院等)に似ているように見えた。
http://muda-photo.com/gallery/citeaux/

調べてみると、イタリア中部のシエナのそばにある「サン・ガルガーノ修道院」というそうで、やはり清貧を旨とし、虚飾を排すシトー会の建物であった。
http://www.tabitoscana.com/s.galgano.html

それは良いとして、「ソラリス」は数十年前に見たっきりで、なんとなくモノクロっぽいような、首都高速の映像が目に残るような映画だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%82%BD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9
しかし大人になってから見てみると、SFの枠組みを使いながら中身はまったくのメロドラマで、そこが格別に良かった。
ソラリスという不思議な惑星の作用で、亡くなった妻(らしきもの)がよみがえり、主人公は激しく感情移入してしまう。宇宙飛行士であり科学者である主人公は、それが妻であるわけはないことは理解しているのだが、感情は抑えられない。
そのあたりが、失われたものへの悔恨とか執着とか愛惜とかが入り乱れて、やっぱり子供のころはそのへんが分からなかったなー、とつくづく思った。
それと記憶ではかなりモノクロ映像が多かったように覚えていたが、改めて見ると、タルコフスキー得意の水の映像や、鮮やかな緑に目をとられた。
また、未来都市のイメージとして使われた東京の首都高速の映像であるが、いま見ると昔の町の様子が見られて、なんだか懐かしいばかりだった。
ちなみに、ノスタルジアの場合は、回想シーン等現実ではない場面はモノクロになるようであるが、ソラリスの場合は、回想と現実と幻覚が入り乱れるような趣であるが、モノクロになる場面は、回想ではなくて夜または暗くなったという意味のようである。
ちなみに疑似夜景の技法については、「アメリカの夜」というトリフォーの映画の開設に詳しい。
※タイトルの『アメリカの夜』(フランス語の原題「La Nuit américaine」の和訳)とは、カメラのレンズに暖色系の光を遮断するフィルターをかけて、夜のシーンを昼間に撮る「擬似夜景」のこと。モノクロ時代に開発されハリウッドから広まった撮影スタイルであるため、こう呼ばれた。英語では "day for night" と呼び、この映画の英語タイトルも「Day for Night」となっている。映画のカラー化により使えるシーンが減少し、機材やフィルムの感度が上がって夜間撮影が難しいものではなくなった現在では、この撮影方法はほとんど使われないことになっているが、丁寧に見ていればときどき見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%A4%9C#.E6.A6.82.E8.AA.AC

そういえば、アンゲロプロスも壮大ではあるが、けっきょくはメロドラマだった。だからこそ良かったのではないかと思う。

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ラスコー洞窟は狭かった(展示的に)。

先日、上野の科学博物館で開催中の「ラスコー洞窟展」へ行ってきた。
http://lascaux2016.jp/

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途中で、上野公園内の正岡子規記念球場を通りがかり
 春風や まりを投げたき 草の原
という句を見て、また名前である「昇」から「野球(のぼーる)」という雅号をつけていたこともあって、「正岡野球(まさおか のぼーる)」をひねって「さまおか のぼーる→Summerおか のぼる→夏岡野球(なつおか のぼる)」という自分用の雅号を思いついたが、野球に関心がないことを思い出して不採用とした。使いたい方がおられればご自由にどうぞ。


寄り道はこのくらいにして、久しぶりに科学博物館に入った。
当時の生活を説明するいろいろな発掘物やレプリカがあったわけだが、さて肝心の復元されたラスコー洞窟はどうかというと、案外コンパクトにまとめられていたのだった。
傑作と呼ばれる壁画が実物の洞窟を模した壁面に、原寸大で書かれているのだが、それが8面くらいあったろうか。たしかに見ごたえがあるが、若干もの足りなさもあった。
たしかにそれぞれの壁画には圧倒されるが、圧倒的なほどの量はなかった。
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さて、解説のなかに、しばらくぶりに再刊された「身振りと言葉」の著者、ルロア・グーランの言葉があった。
簡単にいうと、動物たちの描かれかたにある種のパターンが出てきていて、それはすでに一種の記号であり、そこから文字まではあまり距離がないということか。
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売店方面に出たら、休憩所にこの掲示があった。休憩所では互いに迷惑をかけないようにしましょう、というような内容であったが、どうもこの恐竜がお辞儀しているように見える。
たしかにこの種の掲示物では、ヘルメットをかぶった人がお辞儀をしたりしているが、それと同じ意趣なのだろうか。
ちょっと不思議なかんじではあった。
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