eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2016-09

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写真展「火・風ノ貌」(六田知弘)について

写真家の六田知弘さんの「火・風ノ貌」展が、東京京橋の加島美術で開催されている。
http://www.muda-photo.com/topics/index.html#T160909-1
http://www.kashima-arts.co.jp/events/ka-fu_no_bo/index.html

この方の写真に非常に惹かれるものがあり、何度かここでもとりあげた。
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-847.html
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-848.html
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-851.html
また、加島美術では「水ノ貌」(2014)、「地・空ノ貌」(2015)と連続して展示しており、今回が一つの締めくくりになるかと思う。
※「地水火風空」の五元素をとりあげてきた。

先日、ギャラリートークのある日に合わせて見に行った。
六田さんの写真展では、見るたびにちょっと言葉にしがたい心の動きを得るのだが、今回は、ことさらにそうだった。
けれど心の動きに従って、なんとか言葉でトレースしてみよう。

まず1階の展示を概観する。大別すると火(炎)にかかわる写真群と、風にかかわると思われる写真群がある。
火にかかわるものを見ると、まず遠近感が失われる感覚があった。刀鍛冶の玉鋼?を鍛錬するときのモノクロ写真は、一見すると宇宙の星雲のようでもあり、ほむらとそのなかの火の粉のようにも見える。
極大と極小がひとつの写真から感じられて、めまいのような感覚があった。同じように暗闇のなかに赤い火が点在する写真(台湾の寺院の線香とのことだった)を見ていると、近いのか遠いのか、大きいのか小さいのかよく分からなくなる。
そのそばにある斜光線で浮かび上がるコケとその上の木の葉の写真を見ると、ごく小さいはずのものが鮮明に拡大されていて、ここでまた遠近感を失う。
また風に吹かれた後の草むら(カラー)を見ると、田舎で見慣れていたはずの風景なのに、なにか異界に通じるような気配を感じた。雨に濡れた木の芽(カラー)を見ても、知っているはずなのに、違和感があるような気がする。
果たして、火の写真と、風の写真は関係があるのかないのか、あればどう関係しているのか。よく分からないままに2階の展示を見た。
モノクロの温泉(湯気の立った池)の写真を見たときに、なにか、そこはこの世ではないような気がしてきた。
前方を歩く馬を後ろから見たモノクロ写真(しっぽが揺れていて、全体にぶれている)を見ると、この馬に導かれてこの世ならぬ世界に行ってしまいそうな気がする。
そう思って、改めて見ると、どの写真も何か異界を感じさせるように思えてきた。

「遠近法」perspectiveは、きわめて知性的な働きによるもので、その見方を採用することは理性的、論理的世界を生きることではないかと思う。また、perspectiveという言葉には、視野という意味合いもあり、目に映る事物、世界を理性的にある種の秩序によって再構築して理解するということではないかと思う。
しかし目に映るものは、ほんとうにそれだけなのだろうか。

遠近法が狂った世界にいったん入り込んで、そこから改めてまわりを見ると、いつも見ているものとは違う様相が現れてきた、ということを疑似体験させてくれるような写真ではないかと思えてきた。
「疑似体験」という言葉を使ったのは、普通の人はこういうことはできないし、できてしまったら社会生活が送れなくなるだろうから。理性によって構築された社会(養老孟司のいう脳化社会、というかどの社会も理性=logicによって構築されている)の約束事を離れたものは狂人といわれる。
しかし、今見ているものだけではない世界を垣間見ることができる瞬間があるのではないか。

六田さんに、ヒマラヤのシェルパと共に生活した際の写真をまとめた「ひかりの素足」という写真集がある。そのなかに、六田さんの言葉で「現地での生活は生と死の境界があいまいだ」(大意)という一節があった。
現実の薄皮を一枚剥ぐと、じつはそのような世界が広がっているのではないか。

家に帰る道すがら、このようなことに通ずる和歌があったような気がして、いろいろ考えていたが、それは鶴見和子の晩年の歌だった。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-273.htm

生と死のあわいに棲みていみじくも
       ものの相(すがた)のするどき気配

現実世界から一枚、論理というベールを剥ぐと、そこには生と死の境界があいまいな世界が広がっている。
本当はそれが真の姿で、それを論理で糊塗して日常生活を送っている。
この歌は、人間の考え(論理)によってとらえた世界(=日常の世界)以前の「前論理」の世界(生も死も同じレベルにある)を、通常の論理を超えた「超論理」でとらえた歌ではないか。
そこでは、事物、あるいは世界は固定化されたものではなく、おそらく現象として存在しており、気配としてとらえられるのみ、ということを言っているように思える。

この写真展に重なるものがあると思った。

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新しいカメラ

これまで使っていたリコーGR(初代、2005年発売)がとうとう壊れて、GR2(2007年とのこと)を買ってきた。
しかし、買ってしばらくすると、レンズ内にホコリが入ったらしく、撮った映像にもはっきりわかるようになってしまった。
(どうもこれは、持病らしい)
いろいろ調べたら、掃除機でレンズ部分を吸引するというやり方が見つかって、強引だがやってみた。
概ね除去できたが、まだ残っていて、撮影時にちょっとブルーになる。
けど、いいカメラです。

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じつは友人にオリンパスXA(ストロボ付き)をいただいたが、これの持病のシャッターがきれない不具合があり、うれしいような悲しいような気持ちでR。
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