eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2016-04

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荒木経惟「センチメンタルな旅」

荒木経惟の「センチメンタルな旅」が完全復刻された。
予約制だということだが、たまたま書店にあったので買ってみた。
原版になったのはアラーキーの手元にあった1冊だということで、表紙の縦位置の写真には、インクのかすれか汚れのようなものがついていた(印刷として表現されていた)。年月を経るうちに、いつの間にかついてしまった汚れなんだろう。

これまでは「センチメンタルな旅・冬の旅」で部分的にしか見られなかったので分からなかったのだが、思ったよりも町や水路の風景写真が多かった。
陽子夫人と新婚旅行に柳川に行ったはずであるが、途中で京都に一泊しているようだ。川沿いの中華料理屋のビル(東華菜館)が写っている。
旅程をたんたんを撮っているだけのような写真集だが、毎晩寝る前に、最初から最後までページを繰って見ている。

ところで、表紙を開いた最初の見開きに、アラーキーの写真家宣言が書かれている。内容は有名なので割愛するが、左手で書いたものだそうだが、それでも俺が右手で書いた字よりも読みやすかったので、へんなところだがちょっとショックを受けた。
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去年の帰郷

昨年帰郷してから1年たった。なかなか行けなくてさびしい思いをしている。

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2016042603.jpg 福島市あたりか

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常磐線の相馬市と浜吉田間の工事が進んでいた。

2016042604.jpg 相馬市内

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2016042611.jpg 相馬駒焼の登り窯

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2016042617.jpg 相馬-福島間の山越えのバスから

木々

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誕生日のケーキ

年をとって、自分の誕生日などどうでも良くなってきたのであるが、先日、何度目かの誕生日を迎えた日は、たまたま仕事が休みであった。
そのころ、母のいる施設へあまり行っていなかったので、いつもの休みのように、顔を出しに行ってみることにした。
たいてい手土産にお菓子を持っていくのだが、その日はなんとなくショートケーキを買ってみた。
母は元気そうで、いつものように自分の言った事もすぐ忘れる状態だった。曜日や月日の感覚もほとんどないので、もちろんその日が息子の誕生日だったことは分かりようもない。

母と二人でケーキを食べていると、誕生日に母とケーキを食べるのは30年ぶりくらいであることに気付いた。
学生時代も誕生日は長期休みの時期ではなかったので、実家で誕生日を迎えたわけではなかったから、このようなことは高校以来である。
だからといって、ケーキを食べながら涙をこぼしたわけではなかったが、いつもの味よりは少し複雑な風味が感じられるような気がした。

母が上京してから5年たったが、自分の誕生日に母に会えることにまったく気付かなかった。あとしばらくのあいだ、このような機会を楽しんでみたい。

共時的子供時代

「ぼのぼの」のサイン会があるというニュースを見つけて、今何巻まで出ているか調べたら、41巻まで出ているそうだ。1986年にスタートだからすでに30年か。
ぼのぼのの漫画世界は、ある一定の時間の枠の中だけで展開し、回想シーンなどはあるがぼのぼのが成長したりすることはない。
これはサザエさんやドラえもんも同じで、タラちゃんは永遠に幼稚園に入園できない。
ソシュールが言ったそうだが「共時性/synchronique」という言葉があって、言語研究の際、時間性/歴史性ではなく、ある時点での言語のあり方を研究する際にこの言葉を使う。
反対語が「通時性/diachronique」で、歴史的な変化などが考察される。
もしドラえもんが通時的な漫画であれば、のび太はいずれ中学生になり、ドラえもんへの依存から独立することになるだろうが、そうはならない、ということは、やはり共時的な設定の漫画だと言える。

こんなことを考えたのは、実家の隣のおばさんが亡くなったという知らせがあったからだ。
郷里の家の近所は同じ時期に家を建てた人が多かったようで、わりと仲良く付き合いがあり、春先などは近所で集まって花見をしたりしていた。隣家とは塀を建てても腰までの高さで、出入り口が切ってあって、よく行き来していた。
子供のころは、長いスパンの時間感覚がなかったせいか、そういう日々がずっと続くような気がしていたが、中学生になったあたりで、どうも人生はサザエさんのようにはいかないことが分かってきた。
そうはいうものの、進学の際に郷里を離れたせいか、頭のなかで思い描く実家の様子は昔のままで、隣のおばさんも多少年はとっても、いつまでも元気そうなふうに考えていた。
しかし、否応なしに時間は流れるもので、うちの母は震災を期に郷里を離れ、隣のおばさんも亡くなってしまった。
郷里にいたときの時間は、別枠の特別な時間になっていたのかもしれない。

子供向けの漫画やアニメが共時論的世界であるのは、やはりそれに実感があるからだろう。
平穏に暮らす子供にとっては、昨日と今日はあまり変化がなく、おそらく今日と明日はあまり変わらない。
そうではないことに気付いたときに子供時代が終わるのだろう。

もう数十年前に子供時代は終わったと思っていたが、いまだにその尻尾を引きずっていたことに気付かされた。

猫とか

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