eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2014-10

原平さんのおねしょ

赤瀬川原平さんが亡くなった。
しばらく前からアサヒカメラの連載が再掲載ものになっていたので、つまり新規に原稿を書くことができない状態だったので、あまり容体が良くないだろうとは思っていた。
そのせいか自分の心の準備ができていたらしく、それほどのショックはなかったが、しみじみとさびしい。
尾辻克彦名義で「父が消えた」という作品があったり、なんとなくこの方もいずれふっと消えていくような予感があった。

この方については、いろいろと考えるところがあって(というかファンで)、1995年に名古屋市美術館で開催した「赤瀬川原平の冒険 脳内リゾート開発大作戦」をわざわざ新幹線で見にいったこともある。


ところで、以前から気になっていたことがある。赤瀬川氏は、中学生になってもおねしょが治らず、畳を何枚もダメにしたと自分で書いている。その気になってみると、身近な人もふくめて、おねしょの上りが遅かった人に共通する点が何かあるような気がしていた(「身近な人」には、俺自身も含まれるわけだが…)。

そこでちょっと調べてみると、こんな話があった。
脳科学者はかく稽う【澤口俊之のオフィシャルブログ】
【10/01/03】坂本龍馬の脳は遅延発達?
抜粋すると、
「脳の発達が遅いことを「遅延発達(delayed-development)」というが,これはネオテニーとほぼ同義である。そして,遅延発達する脳をもつ人ほど知的能力が高い。「超知能」をもつ人は,普通の知能をもつ人よりも5歳ほど脳の発達が遅いのである。
そして--これが重要なことだが--,遅延発達が起こる主な脳領域は前頭連合野である,ということだ。しかも,好奇心や社会性,そして未来志向性に深く関わる脳領域で遅延発達は顕著である。

おしっこをガマンできるのは,霊長類ではヒトだけがもつ高度な脳機能で,そのセンターは前頭連合野内(外側下部)にある。したがって,全てではないとしても,おねしょが治るのが遅い人の前頭連合野は遅延発達である,ということができる。」
http://toshi-sawaguchi.life.coocan.jp/blog/2010/01/100103.html

つまり、おねしょが治るのが遅い人は頭が良い(ほんと?)という結論であり、その例として坂本龍馬があげられている。

この科学的?見解はちょっと言い過ぎな気もするが、それでも、おねしょで悩んだことがある人はあまり声高に語らないような印象がある。またなんとなく思慮深いような気もする。
その理由を自分なりに考えると、肉体が精神を裏切ること(おねしょするのが嫌なのに、ああ今日もまた…)を毎朝経験するうちに、自己を省みるようになるからではないか、と思っているのだが。

俺としてはおねしょの治りが遅かった著名人のリストを見てみたい。
その筆頭に赤瀬川氏が来てもいいように思う。

なんかふざけたような文章ですが、帰ったら赤瀬川氏が激賞していたKodak Retinaのシャッターを切ろうと思う(俺のは3c)。
追悼空シャッターとでもいうべきか。
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六田知弘「水ノ貌」3

若い友人H君と加島画廊へ。最終日間近、これで3回目。
H君と前日に、特定の宗教をさすのではないが、しかし現実を超越したなにものかがあって、特定の宗教・宗派ではない「それ」をどう名付けるべきか、という話をしていた。
ところで、現実を超越してしまうと、現実世界からは把握できなくなるのであるが、美というものは現実を超越しつつありながら、現実にとどまっていて認識可能なものである。
今回の六田さんの写真には、それに通ずるものが現れているのではないかという話をしたら、見に行きたいということになり、一緒に出かけた。

加島画廊にいったところ六田さんがおられて、若い友人と3人で話したのだが、以下記憶に残るところを。例によってまとまりはないが。
私見では今回の写真では、現実に具体的に存在するものをストレートに撮影しただけなのに、その背後というか、対象以外のものの気配まで写り込んでしまっている気がするという話をしたら、六田さんが、今回写真を見に来た人のなかに「拝み屋さん」がいて、写真を見ながら「ここにも、あそこにもカミサマが写っている」と言っていたそうだ。とはいえ六田さん自身は別にオカルト的なものを狙って撮影したわけではない。
でも、画廊の入り口には盛り塩がしてある、といっていた。帰るときに見たらたしかに盛り塩があった。

では、カミサマ的なもの、異界に属するものについてはどうか。
六田さんの最初の写真集「ひかりの素足」はネパールで撮影で撮影したものだが、そこでの生活では、日常生活と異界が継ぎ目なくつながったような生活であった。そのなかに入りこんだ生活をおくるうちに、異界が近しいような感覚になったそうだ。そのなかでハシシをつかったときに見た夢の話が出てきた。

※以前、このblogに書いたような気がしたが、確認するとまだだったので、概要を書いておく。
六田さんがネパールのとある村に入って生活しながら写真を撮影しているとき、ハシシを進められたことがあった。ハシシの服用にはタバコにして吸うやり方と少量を食べるやり方があるそうだが、そのときは食べる方法で服用したらある夢を見た。
その夢では、地平線のかなたまで白い紙が広がっていて、自分は一本の鉛筆もしくはパステル様のものになっている。
そのなかで六田さんは、なんらかの真理を悟っていて、それを白い紙の上に自らの体=鉛筆を使って描いている。しかし描いているうちに自分の体は磨り減ってしまうことは分かっているが、描き続けることをやめることが出来ない、という夢だったそうだ。ちなみに、そのとき書いていた字は思い出せない、ひょっとして梵字のようなものだったかもしれない、というはなしであった。

そういえば、加島美術の入り口のウインドウには、梵字の写真があったが、それに通ずるものだろうか。

六田さんはロマネスク教会の写真を撮っているが、西欧中世のものを撮影する際はゴシックよりロマネスクを好むという。ゴシックの時代になると、すべてが秩序付けられており、怪物など異界に属するもその整然とした秩序になかに位置づけられ、組み込まれてしまう。
ロマネスクの写真では素朴な彫刻(怪物もふくむ)が面白いという声があるが、素朴な造形のおもしろさだけを狙っているのではない。フランスの田舎に行くと、キリスト教国のはずではあるが、いまだにあの手の怪物の類するものが家の中にあったり、生活のなかで仄見えたりする。ロマネスクの教会を見ると、怪物と人間が地続きで存在していることがわかる。混沌としているようであるが、そこが魅力である。
フランスの田舎では、じつはその混沌とした渾然としたところの生活が残っている。つまり生活のなかに、怪物に通じるような、理性主義や近代主義的ではない、それらに切り落とされてきたものごとがまだ生きている。
それが一種の豊かさにつながっているのではないか。事実、フランスでは田舎に若い人が多い。例えばパリなど都市部ですごしてた人たちが、やはり田舎のほうが豊かである、魅力的であるということで帰ってくるということがある。
都市は、基本的にはいわば理性主義がかたちになったものであろうが、そうではない原理が田舎には残っているということであろうか。

その後、六田さんから、杉本博のプラチナプリントの写真展をやっているので、見てきたらいいといわれて、銀座のギャラリー小柳に行った。
しかし、写っている対象からすると、あまりプラチナプリントである必要はないと思われた。
とはいえ、水平線のシリーズが3枚あり、じっと見ていると、海のかなたの異界にひきこされそうな印象を持った。

その後、加島画廊に戻ってきて、六田さんと少し話をして帰った。
本当は、そのとき小さな写真を買いたかったのだが、やはり貧乏なのでお金を動かす決心が出来なかった。その写真は、蜘蛛の巣を撮影したもので、8万前後だったか。
写真は引き伸ばす際に、どのような大きさにも出来るのであるが、やはり内容に応じて適切なサイズがあると思う。
この蜘蛛の巣の写真は、サイズは小さかったが、このサイズに見合う内容で、しかもある種の小宇宙のような印象もあり、家に帰った後も頭から離れなかったのだ。

けっきょく同行したH君の思った感想はよく聞けなかったので、分からなかった。

六田知弘「水ノ貌」2

前回は興奮して見ていたから、ちゃんと見ていなかったのだろう。今回は2回目なので落ちついてみることが出来た。その分、ひどく疲れた。
一方、2階の展示会場の片隅にある田んぼの写真と浜辺の写真を見るととても落ち着く。何故だろうか。
おそらく人為のあるものを撮影しているから、人間味が感じられるからか。
ひるがえって考えると、それ以外の写真は自然がむき出しになっていて、だから直面すると疲れるのだろうか。
またも六田さんと話す機会があって、作家本人も1階にいると疲れるから2階で話をしようということになった。以下、まとめ切れないので、断片的に書き綴ってみる。

・六田さんによると、今回は写真が売れてないそうだ。たしかに、個人の家には置きにくいと思う。とくに狭い日本家屋では難しいのではないだろうか。金満家のアメリカ人富豪の家ならば、ちょうど良さそうではある(なんとなく、若冲で有名なプライス氏の家の様子を思い浮かべたりしている)。
購入するとしたら、美術館等のコレクションとしてではなかろうか。そういえば六田さんは、国立西洋美術館で初めて写真展をやった人ではある。
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/past/2007_207.html


・さて、今回の写真はよくみると怖い、だから田んぼの写真等を見ると落ち着くという話をした。
1階の写真はもちろんそうだが、2階の写真も一見美しく、きれいなものが写っているようだが、どうもそれだけではない。
それはなにか。
実は2階の美しい写真も、やっぱり剥き出しの自然である。だからよく見ると怖くなってくる。日本人の思う自然は、たいてい里山的自然であって、それは自然と人間の合作のようなものである。そうでない自然にはなじみがないのではないか。

また、こういう風にも考えられる。たいていの写真は、ある種の意図のもとに撮影する。見る側はその意図を読み取って鑑賞する。
今回は、その意図が分からない。読み取れない。だから居心地が悪い。不気味で怖い。見ていて対応に困る。
やっぱりあまり売れなさそうである。


・抽象性と具象性について。
前回見てから家に帰って反芻していたら、なぜかマーク・ロスコを思い浮かべた。川村美術館で見たロスコは抽象画といわれているが、実際には非常に具体的で生々しい。じっと見ていると画面がうごめいてくるので驚いた。
今回の写真展はちょうどその逆のようでもある。具体的なものが写っているはずだが、生々しさの反面、現世のものとはちょっと違う次元にいってしまったような印象を受けた。

・六田さんの話では、写真家以外に日本画家、抽象画家が見に来たそうだ。
ある人いわく、写真でここまで出来るのかと漏らしたそうである。またある人いわく、今回の作品は、世間よりちょっと前に行ってしまっている。だから今のところ、ついてこられる人がいない。しかし、大きく前に進みすぎているわけでもないので、いずれ追いついてくるだろう。

・カメラ=機械の目という特性について。
六田さんが撮影しているときは、冷静さとトランス状態が両立している。トランス状態だけでは写真は撮れない。
そして意図を持たずに撮影しているという。例えば美しい風景を撮ろうとか、荘厳な瀧を撮ろうとかは考えない。意図があると、それに写真が制約される。むしろそれを逃れて撮りたい。
そうすると、ジャンル分けできないような、見た人が意図をつかめないような、撮影者の思惑を超えたような(もともと意図を排除しようというわけであるが)、機械の目が写しとった、対象がむき出しになった写真が出来上がる。
撮影のときは、ただ対象に向き合うだけ、それ機械の目で写しとるだけである。以前は、無心になろうとして、かえって考え込んだりしていた。今はひらきなおって、そのまま撮影している。それが今回の写真につながっている。


・石の写真を撮影するときは、清めの塩を持っていく。やはりなにかがあるらしい。霊的なものか?

・宗教性。具体的な宗教や宗派ではないが、ある種の宗教性がかんじられる。

・雪の写真を見ると、撮影していたときの音を思い出すという話であった。他の写真でも撮影したときの音を思い出す。それはなぜか。
俺の考えでは、たぶん「切り取った」写真ではないからではないか。たいていの写真(とくに風景)は、美しい部分を切り取って、意味付けして提示する。
しかしそれをやらない。対象に向き合ったとき、いちばんそれがそれらしくあるところで撮影する。切り取ろうという意識ではないから全体性(の余韻)が残っている。
だから撮影者は映像から音を聞き、見る人は、全体として写っているので、写っている個別のものを取り出して、名付けられない。

・意図と制約。
人はたいてい見たいものだけを見ている。機械の目は、それとは別にただ前にあるものを写しとるだけ。それをそのまま提示すると見る側は困惑する。
だから、ふつう撮影するときはある種の意図をもったうえで撮影する。その意図を見る側は読み取って、その写真を了解する。
しかしそうではない場合どうなるか。
それが今回の写真。
撮影者の意図自体が写真を制約する。撮影者個人の制約、日本文化の制約、そういった二重三重の制約が、撮影者にも見る側にもある。
六田さんは、それとは無関係に、機械の目の特性に素直に従って撮影したい。以前はいろいろ考えすぎてなかなか難しかったが、今は出来ている。

・機材と写真の関係
今回の写真はデジタルだから撮れた部分がある。
フィルムだとやはり制作費(フィルム代、現像代等)を考える。そうなると、1枚1枚を無駄にしないため、画面の隅々まで完璧にコントロールする。
しかしデジタルカメラはフィルム代がかからないので、完璧にコントロールしようという意識が薄くなる。
つまり、フィルムであれば意図したものを完璧に撮ろうとするが、デジタルでは、そうではなく、何も考えず(フィルム代も考えず)、どんどん撮っていくことができる(思う存分、気が済むまで撮影するのでしょうな)。その結果、意図を超えた写真が生まれてくる
とはいうものの、数打てば当たる式でやっているわけではない。
20年間、時事画報社(私もそこにいたことがある)でカチッとした写真を撮る訓練をして鍛えられたからこそ、無作為、意図なしであっても、作品として成立するものが撮れるそうだ。
(そう思うと、俺自身は、緊張感を保つためにフィルムで撮ったほうがよさそうである。デジカメだと、手軽さが先にたってなんとなく弛緩した写真になってしまっているような気がする。)

たぶん、もう1回くらい行くだろう。何回も行くのはちょっと恥ずかしい気もするが。
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