eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2013-12

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早稲田 すず金

久しぶりにすず金に入ってみた。
ちょっとお日様の力が弱まっていたので(このときは冬至前)、元気をつけるのに鰻でも食ってみるかと。
平日なので、昼過ぎるとそれほど混んでいない。

俺ももうけっこういい年なので許されるだろうと、はじめてお酒も頼んでみた。
肝焼きはすでに売り切れ、残念也。
お酒は「金婚」だったかな。あまり聞いたことがない。寒いので燗でお願いしてみた。
お新香を肴にまずは一杯。はじめて飲んだお酒なので味のことは云々できないが、おいしくいただきました。
お店のご主人と奥様が、もうしばらくしたら金婚式くらいかなと思ったり。

お酒をゆっくりめに飲んでいたら、予想に反してすぐに鰻が出てきた。いつもは30分くらいはかかるのです。
お酒を飲み終わったころに、鰻にうつる予定だったのですこしくパニックを起こしたが(嘘)、しばし考え、まずは鰻を食べることにした。
山椒をふりかけまずは一口。以前より高くなったので気軽に食べられなくなったが、やはりおいしい。
もともと食べるのは早いし、おいしいものだからなおさら食が進んで、すぐに無くなってくる、かなしい。

そこで、お酒を飲んでみた。鰻の味のあとにお酒が入って、それも悪くないです。
そのまま鰻はあっという間に終わってしまい、鰻の残り香を肴に、残ったお酒を飲んだ。

小一時間の小宴はあっというまに終わり、今回の組み立てを反省する。
やはり開店後すぐに来て肝焼きを頼み、お酒を飲みながら鰻が焼きあがるのを待つ。鰻と一緒だとお酒一合はちょっと多い気がするので、連れがほしい。飲み終わったころに鰻が出てきて、さくっと食べて、すぐに外に出る。
たぶん風がちょっと冷たくて、いい気持のはずだ。

なんか、また行きたくなってきた。
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ア、ア、アンゲロプロス祭

あまりの喜びと驚きで、ちょっとどもりました。
今年はほとんどアンゲロプロスを見ていないと思いながら上映館を探していたら、来年早々アンゲロプロス祭が開催されることが分かった。
仕事との兼ね合い、どうしよう。

場所は新宿バルト9。毎日9:30からのモーニングショー。東映の大英断に感謝しきれない。
http://www.cinra.net/news/2013/12/09/211100.php

《「エレニの帰郷」公開記念 アンゲロプロス監督回顧上映(レトロスペクティブ)》
1/14(火) 「エレニの旅」
1/15(水) 「旅芸人の記録」
1/16(木) 「アレクサンダー大王」
1/17(金) 「シテール島への船出」
1/18(土) 「霧の中の風景」
1/19(日) 「エレニの旅」
1/20(月) 「こうのとり、たちずさんで」
1/21(火) 「狩人」
1/22(水) 「ユリシーズの瞳」
1/23(木) 「蜂の旅人」
1/24(金) 「永遠と一日」

【全作品35㎜フィルム上映】
09:30より1回上映。1000円均一。
http://www.h2.dion.ne.jp/~mizurin/joho3.htm

「旅芸人の記録」「アレクサンダー大王」「狩人」「ユリシーズの瞳」は必見。とくに「狩人」は未見なので外せない。
「霧の中の風景」「シテール島への船出」「エレニの旅」「こうのとり、たちずさんで」「永遠と一日」はその次くらいか。
「蜂の旅人」はたぶん見ない。

鷲田清一「パラレルな知性」(2013 晶文社)

鷲田清一はときどき読むが、それほど印象は残らなかった。しかし「パラレルな知性」(2013 晶文社)を読むと、いろいろと考えるところがあったので、抜書きをつくってみた。
以下は、適宜抜き出したもの。

・フクシマの原発事故がわたしたちに迫ったのは、もはや未来は白紙ではないということだ。未来はわたしたちの前に茫洋と広がる不定のものではなく、すでに「汚染されている」。そのことを勘案したうえでこれからの行動を決める、そういう事態にいまわたしたちは置かれている。
「トランスサイエンス時代の科学者の責任」 2011秋

欲望のこうした変容は、村上の描いているように(※小説「ラブ&ポップ」)時間感覚の変容を伴う。時を未来から現在へ流れ来るものとしてではなく、現在から過去へ流れ去るものとして感じるというセンスである。(中略)
「右肩上がり」の時代はそうではない。高度成長期以降、産業はすべて時を先駆しようとするものだった。プロジェクトの立ち上げから、そのためあらかじめなす利益(プロフィット)の見込み(プロスペクト)の計算、事業の計画(プログラム)、生産(プロダクション)工程、販売促進(プロモーション)、そして約束手形(プロミッソリー・ノート)による支払い、事業の進展(プログレス)の確認とその後のスタッフの昇進(プロモーション)というぐあいに、生産から営業まで、プロスペクティブとでもいうべき前傾姿勢で事にあたってきた。「先に」とか「予め」「前もって」を意味する接頭辞「プロ」がついた行動の、見事なまでのオンパレードである。先にトレンドを捉え、先に事業を起こした者の勝ち、というわけだ。
「工学離れの深因」(2011秋)


ドイツに留学中のフランス人の知り合いからも、いくつか興味そそられる話を聞いた。リセの必修科目「哲学の学級」のこと、上級公務員を養成する大学院では卒業要件として「哲学」の論文提出が義務づけられていることなど。公務員試験になぜ「哲学」が?…と訊けば、どうしてそんなことを訊くのかという表情でこんな答えを返してきた。「よい社会、一人でも多くの市民が幸福になるような社会を目指して働く公務員が、『よい社会』とはどのようなものか、『幸福』とは何かについての定見をもたなければ社会はめちゃくちゃになるじゃないか」というのである。
「知のパラレルキャリア」(2011夏)


1「教養」を失った専門家
いまから七〇年ほど前に、スペインの思想家、オルテガ・イ・ガゼットが大きく変貌しつつある西欧社会のありようを「大衆の反逆」と名づけ、専門性の意識というものが深く抱え込む錯誤について、きわめて厳しい批判をおこなった。ここでいう「大衆」とは、いうまでもなく「大衆社会」の「大衆」であるが、注意する必要があるのは、その典型として批判の矛先を向けられているのが、「市民」という大衆ではなく、むしろそれまで(そして当時もおなじく)精神的貴族とみなされていた知的専門職、とりわけ科学者と行政官僚だということである。
 科学者に向けての言葉はとくに辛辣であり、「今日のもっとも『教養』ある人びとが、信じられないほど歴史的無知に陥っている」としたうえで、オルテガはいう。「(一八九〇年代に)歴史上前代未聞の科学者のタイプが現れた。それは、分別ある人間になるために知っておかなければならないすべてのうち、一つの特定科学だけしか知らず、しかもその科学のうちでも、自分が積極的に研究しているごく小さな部分しか知らないという人間である。そして彼は自分が専門に研究している狭い領域に属さないいっさいのことを知らないことを美徳と公言し、総合的知識に対する興味をディレッタンティズム〔物好き、素人芸〕と呼ぶまでになったのである」(『大衆の反逆』、神吉敬三訳)と。
「専門性」という名のもとにサイエンティスト(ビューロクラート)は自己の限られたレパートリーのなかに閉じこもる。他の領域、つまりじぶんが無知である領域にまで発言するのは越権としてみずからに禁じる。裏返していえば、他の領域の専門家をじぶんの専門領域に受け容れようとしない。こうした「自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間」がはびこりつつある。そのような種族の人間は、かつて「選ばれた人間」がおのれに課していた「自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自らすすんでそれに奉仕する」という使命をもはや内に感じることはない。そのような凡俗な人が社会を牽引している。「もはや主役はいない。いるのは合唱隊(コーロ)のみである」。そうオルテガは警告した。
「専門家と市民のカルチャーギャップ」(2006春)


学問がすぐに何の役に立つかは考えなくてもよいと、わたしはおもう。けれども、それがだれの役に立つかはつねに考えておく必要がある。幾分かは恵まれたじぶんの才能を他の人のために使うのは、「名代」という言葉にもあるように、「代わりをやって」と何かを託され、それを引き受けることである。そしてだれかに当てにされているという感覚は、なによりも研究の励みになる。
「だれかの代わりに」(2013冬)

大学の学問は私利のためになされるものではない。(中略)
 学術が市民からの一定の信頼を得、一定の国家予算がそれらに投入されてきたのは、学術が国家ならびに市民にとってある「普遍的」な価値を生みだすものと認められてきたからである。「普遍的」というのは、いかなる政治的立場や利害関係にも与することなく、私的利害を超えて「客観的な真理」を追究しているという共通了解が成り立っているということである。
「<代弁>という仕事」(2011春)


何年か前に、大宅映子さんが、ある私学での講演で、文学部という組織を次のように定義しておられた。「死ぬと分かっていて、なぜ人間は生きていけるのか、 その根源的理由を考えるのが、文学部というところだ」、と。
 人文学というもののすばらしい定義だとおもう。思想も芸術も宗教も、人が「死ぬと分かっていても生きようとする」その理由を探求するところに生まれた。思想や芸術はその理由をさまざまな流儀で表現し、歴史学はそういう(広い意味での)表現の歴史を、政治や経済を含めて考察してきた。
「実業」、つまりは行政や産業活動にかかわる人たちは、それぞれのやり方で、「幸福な社会」をもたらそうと働く。が、そもそも「幸福」とは何かという吟味なしに、慣例や流行に従って活動することほど危険なことはない。舵なしで進むことにほかならないからだ。そういう舵となるフィロソフィーをもたない官僚や企業人が国際社会で信用されなくなっているのも、当然といえば当然のことである。
「実学・実業という虚像」(2007年春)


(前略)わたしがここで考えてみたいのは<技術>としての教養というものである。ただしここでいう「技術」とはテクノロジーのことではない。むしろギリシャの哲学者たちが「テクネー」の名で呼んだ知恵に近いものである。
 古代ギリシャ哲学の碩学、田中美知太郎は『哲学入門』という著作のなかで、哲学は「知の知」である以上に「技術の技術」であるとして、次のように述べている。

〔生活の実際につながりをもつ以前の〕知は、まだ知ではないわけです。医学の知識は、病をいやし、健康をもたらすのであり、建築の知識は、家をつくる。病を治さぬ医学の知識、家をつくることのできぬ建築の知識というようなものは、無意味だということになります。哲学のためには、このようなつながりが必要なわけで、そのためには哲学の求める智も、単に知られるものについてだけ考えられる知ではなくて、知る者を医者にし、建築家にする、ひとつの力としての知でなければならないでしょう。これらは、技術として存在しています。哲学は、それらの技術の技術でなければならないのです。

 この記述に強く含意されているのは、哲学とは知の使用にかかわる技術だということである。それは「見る」こと(理論)と「つくる」こと(製作)の中間にあってそれらを結びつけるもの、つまりは第三の技術としての「使用」にかかわる技術だということである。ここで「使用」の技術とは、「目的と手段をつなぐ技術」のことであり、わたしたちの行いの最終目的は、「そのために他のすべてのことがなされる」こととしての「幸福」なのであるから、そこから、哲学は、「『何のために』、『何を』ということが、いろいろに考えあわされる、大きなつながりのうちで、人を動かし、物を動かすこと」としての《政治》の技術をもふくめて、「最上の道」、最善の工夫を求める技術」であるといえる。田中はプラトンに従ってそう述べる。そして、科学・技術がその本来の目的を逸脱し、それを使いこなすはずのわたしたちを逆に支配し、統制するようなものに反転している現代にこそ、そうした「技術の技術」としての哲学がふたたび呼び戻されなければならないというのである。知の「すべてに気をくばる」ものとして。
(中略)むしろ何が人の生の真の目的かをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げていく技としての「哲学」である。(中略)それをわたしたちはここで、「教養」と名づけたいとおもうのである。
 そうすると、「教養」は高みから時代の社会を眺めるものではなく、時代の社会のなかに深く潜り込もうとするものであると言ってもよい。

 そういう視点から、わたしはいわゆる教養教育は、高年次になるほど不可欠なものになると考えている。

 人が学ぶのは、わからないという事態に耐え抜くことのできるような知性の体力、知性の耐性を身につけるためではないのかと言いたいくらいである。そういう知性の耐性を高めるジムナスティックスこそが、いま「教養教育」には強く求められているようにおもう。
「知性のジムナスティックス―大学における教養教育をめぐって」(2011冬)

 思考というものがわたしたちのうちにまずあって、それからそれが言葉にされるのではない。逆に、たいていの思考というものは、なにかよくわからないままぼそっと口にすることで、あるいは文字に書き起こすなかで、おのずと形をとってくる。言葉には思考をまとめるはたらきがあるのだ。
(略)ガブリエル・マルセルという哲学者は、「もし言葉をもたなかったら、人はじぶんが襲われている感情がどういうものか、わからなかっただろう」と書いている。
「イメージ・リテラシー」(2009年夏)

子育てについても似たことが言えるとおもう。子供に対して大人ができることは「育てる」ことではたぶんない。そこで暮らせば、人として勝手に育ってゆく、そういう場を「地域社会」として子どもたちのためにそっと用意できているかどうかというのが、その地域の成熟を測る尺度となるのではないだろうか。
「Can I help you?」(2012年冬)

(略)この「代わり」の二様、前者を<代替>、後者を<代理>と呼んでみよう。するとこの二つは、ふつう「部分」と訳される「パート」という語の二つの意味に対応することが見えてくる。
 パートという語からは、だから、パーティション(分割)とパーティシペーション(参加)という、対極的な二つの語が派生してくる。
「パートの二つの意味」(2013年春)


(略)自立というのは本当に他の人に頼らずにすむこと、つまり「依存」(ディペンデント)ではなく、「独立」(インディペンデント)であるというこというのだろうか。ちょっと考えればわかることだが、他人にまったく依存しないで生きていけるような人は存在しない。(略)とすれば、「自立」とは、いざとなったらいつでも支えあうことのできる(インターディペンデント)人的ネットワークをきちんともちえていることをいうのではないか。
「私的なもの」をめぐって(2010年冬)

ある日、もっとも年配の参加者が最後にぽつりと口にしたことばが忘れられない。司会をしていた大学院生がまとめに窮しているときに、そのご老人が口をはさんだ。「まとめんでいい。知り合いでもない孫のような歳の子とこんなに長く『家族とは何か』ということをまともに話しあったということだけで満足や」。
カフェという集い(2010年夏)

 ジャーナリズムは、ヨーロッパの近代社会の勃興期に、上流階級、支配階級の社交の場であるサロンに対抗して、中産階級の市民が、職業や階層を離れて「市民」として出会い、語り合う場であるコーヒーハウスでの自由な言論から生まれた。そこからさらに、市民による公論の形成を支えるコミュニケーションの媒体として発展してきた。その歴史を忘れたとき、メディアは耳をつんざく拡声器以上のものではなくなる。
「政治」と「政局」(2008年秋)

 柳田國男がはるか昔に予言したように、近代社会では、貧困という共通の運命に共同であたった「共同防貧」の仕組みが消えて。平均ではより豊かになれども個々の貧しい人は「説くに忍びざる孤立感」のなかでそれにさらされる「孤立貧」の時代がやってくる。
「われわれは公民として病みかつ貧しいのであった」と柳田はその著「明治大正史世相篇」を結んでいるが、彼がそれによって訴えたのは、いかなる困窮にあっても人を孤立させてはならないという一事にあった。
勤労感謝の日に(2008年秋)


新聞には「聞」という字が含まれている。「きく」である。「きく」には、「聞く」「聴く」はもちろん、さらに「訊く」という意味がある。そして「香を聞く」「利き酒」という言葉にも見られるように、嗅いで、味わって調べるという意味もある。
「時代に”添い寝”するのではなく」(2009年夏)


 明治以降、とりわけ戦後は復興から高度成長、高度消費、バブルと急激な右肩上がりが続いてきた。この急カーブの右肩上がりの時代のなかで生まれ育った人びとが、今の六〇代半ばあたりから七〇代、日本のトップを担っている世代だ。わたしは、「ああ、この人たちは未来世代のことを考えない人たち」なのだなとつくづく感じている。なぜなら、右肩上がりの時代には、どんな深刻な問題も技術の進歩によって必ず次の世代が解決してきたらからである。
 しかしながら、定常時代、停滞時代には、ひとたび大災害が起これば食べてゆけなくなるという事態が起きうる、だから昔は、孫の世代、ひ孫の世代が飢えないように蓄えておくことがあたりまえだった。
 ところが、右肩上がりの時代が骨の髄まで滲み込んでいる人びとは、きっと次の世代が何とかするだろうと信じて疑わない。そのぶん、未来の世代のために蓄えたり節制したりということをする必要を感じない。歴史のなかで、今の日本のトップ世代ほど、未来世代のことを考えずに生きてきた世代は珍しいのではないか。
 逆にいえば、このたびの震災によってわたしたちはこうしたことにやっと気づかされた。たとえば、現下の国債の増え方はだれが考えても異常だ。それを放置できてきたのは、いずれだれかが何とかするという発想があったからだ。現在さえフル回転させておけば、いずれどうにかなるだろうという感覚だ。これは個人的なエゴイズムというよりも、社会全体にある”頑張っていたら何とかなる”という空気だろう。七〇〇兆円をはるかに超える国債残高は、それを物語って余りある。
「「右肩下がりの時代」をどう生きるか」(2012年冬)

そのため(多文化共生)に必要なのは、対話である。ただし、それは「ディベート」ではなくて「ダイアローグ」としての対話だ。
 ディベートとダイアローグの違いについて、平田オリザさんが、大要次のようにわかりやすく教えてくださったことがある。
“ディベート(討論)においては、対話の前と後でじぶんの考えが変わったら負けだ。逆にダイアローグでは、対話の前と後でじぶんの考え方。感じ方が少しも変わっていなかったら、対話した意味がない“と。
「聴く力」と「待つ力」(2009年秋)

弦の足りない弦楽器

先日、いつものようにこちらを見ていたら、「Brushy One String」という記事が出ていた。
弦を1本だけ(4弦かな)だけ張った生ギターで歌うビデオであった。



これを見ていたら、いろいろと思いだした。
この人はリズム感が良く、1本の弦だけでも十分に伴奏が成立しているのだが、楽器が下手な俺は、いろいろと悪あがき的実験をして、へんなオープンチューニングやら、普通ではやらないような弦の張り方をしていた時期があった。
いろいろと他のミュージシャンを研究したのだが、みなさん、勝手気ままに自由にやっていた。
有名というか、わりと普通のところでは、キース・リチャーズの5弦ギターというのがある(オープンチューニングらしい)。有名なので割愛。

俺が気にいっているのは、B-52’sのリッキー・ウィルソン(デビューしてしばらくしたら亡くなってしまった)。たしか3弦と4弦を張っていなかったはず。リズムというかリフ中心に弾くのに良かったのだろう。かっこいいです。




ベースだとMorphineのマーク・サンドマン。1弦と2弦だけのベースギターをスライドで弾く。たぶん他に例はない。このバンドの他のパートはドラムとバリトンサックスでやたらと低音重視であった。この人も既に亡くなっている。




ちょっと違うが、ビートルズの名曲「Black bird」は、ポールがインドにいるとき、1弦の切れたギターで作曲したという話(伝説?)がある。




究極の楽器は弦の張っていない琴(無弦琴―陶淵明)らしいが、ここまで来るとやりすぎだろう。弦が張っていないからこそ、無限のイマジネーションが働いて、音楽を楽しむことができるという。
似たような話で中島敦「名人伝」では弓の名人が
「見えざる矢を無形の弓につがへ、滿月の如くに引絞つてひようと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如くに落ちて來るではないか」。
つまり究極の名人は弓がなくても鳥を射ることができたが、弦のない弦楽器では音楽はたぶん作れないのではないと思う(胴を叩いたらむしろ―パーカッションというべきだろう)。
俺が凡人だからそう思うのかもしれないが。

植田正治の写真する幸せ/喜び                (旧タイトル)近来稀に見る愚書評 北澤憲昭氏による「植田正治のつくりかた」 朝日新聞2013.12.15読書欄

12月15日付朝日新聞読書欄の「植田正治のつくりかた」(青幻舎)についての北澤憲昭氏による書評の内容が余りにひどくて、笑いつつ怒ってしまった。
この人がどういう人かは詳しくは知らないが、美術評論を生業としているらしい。しかし写真のことはあまり語らないほうがよかろうかと思う。
書評というよりも、むしろ植田正治の写真自体に対する評論という傾向が強いのであるが、あらかじめまとめると、この人は写真作品をある図式に従ってとらえることはできても、内容については考えが足りないということになるだろう。

違和感を持った部分を概略抜き出す。
・「つくる」の語は写真になじまない。写真は本来「とる」ものだから。真を狙う写真の在り方を害するニュアンスがある。
→写真を芸術として考えていた植田は、当然のことながら「作品」を「つくる」ことを大事にしていた。芸術としての写真を考えるならば、当然ながら「作品」を目指すわけで、そこには必ず「つくる」要素がある。
※写真は本来「とる」ものというが、写真を「とる」という言い回しについての考察は別役実が面白いものを書いている。また、必ずしも「写真」は「とる」という言葉と結びついていなくても可能である。

思うにこの人、昔風のスナップ信仰(土門拳に代表される絶対非演出のリアリズム写真)が強いようであるが、写真(photograph)が必ずしも「真を狙う」ものでないことは、写真史から見ても明白である。
そもそもphotograph=photo(光)+graph(絵)、つまり「光の絵(画)」という単純な意味の言葉を、日本でかってに「写真」と翻訳してしまっただけで、「光画」(という本もある)には、「真を狙う」という意味はもともとない。
http://hikari.halfmoon.jp/manager/photo-tec/manager_tec.php
だからこそ、写真黎明期のタルボットに「自然の鉛筆」とか、「太陽の鉛筆」(東松照明)というタイトルの写真作品があるのだ。つまり、絵筆や鉛筆のかわりに光で画を描いたから、このようなタイトルがつけられている。
ということは、北澤氏の最初の文章は写真史からしても正しくない。たしかに芸術であるということは「真」を狙うものではあるが、「とる/つくる」ということが対立関係にあるようなレベルで、芸術としての写真が展開されているわけではない。

・写真の現状ではPCなどで「つくる」要素が強くなったことが、「つくる」写真家である植田正治が再び注目されるゆえんである。
→たぶんPCとかデジカメの普及と、植田正治の写真が注目されることは関係がない。
PCがなくても、昔から写真の修整や捏造はいくらでも行われてきた。身近なところでは写真館の肖像写真は、いかに上手に修整するかということが勝負である(たぶん今でも)。国家的な捏造では、戦争中の日本の国策雑誌「FRONT」での戦車や軍艦の水増し写真がよく知られている。だいたい、スティーグリッツあたりがストレートフォトグラフィを提唱したのは、それ以前の写真では非常に手の込んだ修正・作画のなされていたことに対する反発であった。
それくらいの修正・捏造・改変はPCやデジカメがなくても充分可能であり、これまでもみんながやってきたことでもある。ということで、ここの一節も「ちょっとピンボケ」である。

・代表作「パパとママとコドモたち」は、家族を撮ったものなのに、人物配置の間の取り方は、いたってクールで空々しい。ぬくもりの関係であるはずの家族の真を、演出が台無しにしているかに見える。
→構成はクールではあるが、べつに空々しくない。台無しにもなっていない。目ん玉ついてんのかね、この人。家族が現在でも「ぬくもり」の関係であるかどうかは異論もあろうが、それはさておき、実際にこの写真を見れば「空々しさ」とはまったく逆の、ここではないと書かれている「ぬくもり」を感じる。
それはそうだろう。写真を撮る父(パパとは呼ぶことはなかったらしい)が、子供や愛妻と一緒に画面に入り込んで、しかも写っている家族は、それを(父親の道楽として?)しょうしょう草臥れながら受け入れている。これは、相互に信頼関係がなければ撮れない写真である。その信頼関係は家族関係に裏打ちされているのだから、そこにあるものを「ぬくもり」といっても差し支えないだろう。
尤も北澤氏はこの文末に「かに見える」等と書き、あらかじめ反論に対する準備はしている「かに見える」。

・しかし、写真を撮ること/撮られることの「非日常性」、また現代家族の在り方を思えば、空々しさこそリアルである。異化によってリアルさが捉えられている。
→写真に関する「非日常性」とはいうが、むしろ現代は写真が氾濫しすぎること、非日常性が失われていることこそが問題だろう。事故現場に出会っても、人を助けずにスマホで撮影する人がおり、また葬式の納棺の際に携帯でぱちりとやるのはどうかという議論も読んだことがある。そこまでいかなくても、かつてないほど多くの人が日常的に写真を撮っている。こんなに映像が氾濫してどうするのかね。
植田自身は「カメラを向けられたら緊張するのが当たり前で、それこそが自然であり当然である(大意)」といっている。この発言の背後には、カメラを意識していない(かのような)写真こそ、自然な写真であるという通念があって、植田正治はそれに異を唱えたのであろう。
北澤氏についていえば、「日常性」に紛れ込ませることを重視(その究極が絶対非演出のスナップ)してきたこれまでの写真の在り方が、究極まで進んだ(通俗化、大衆化した)のが現在の状態なのに、いまだに撮影すること/されることを「非日常性」で捉えるのは、やはり現代に生きていないように思う。
むしろ写真における「非日常性」の復権こそが重要である。そこで撮影すること/されることを強烈に意識させる大型カメラが今更ながら使われたりするのだろう(リチャード・アベドン、杉本博司も)。
また、北澤氏が植田正治の写真をとおして逆説的にリアルに感じられるという「現代家族の空々しさ」という言葉も、ずいぶん紋切り型な言葉で、具体的には何を示しているのかよくわからない。上述したように、北澤氏の書いていることはここにいたるまでに既に破綻していると思うので、ここでの結論めいた文章は、なにも言っていないに等しい。

「異化によってリアルさが捉えられている」というが、そもそも「異化」とはなにか。
話すと長いが、ロシア語「オストラニーニェОстранение」の翻訳語である。日常にありふれた、もう意識にのぼらなくなるようなレベルになってしまった事物を、改めてそのもの本来のものとして認識するための表現の考え方である。シクロフスキーかはたまた水野忠夫先生だったかは忘れたが、このような例があげられている。曰く、ドアノブをまわすという行為は、あまりに日常的に繰り返されているので、もう意識に立ち上らない=一種の自動化が起こっている。同じように、日々のさまざまな行動等も同じ自動化される傾向にあり、つまり人は日々自動化された生を生きているだけで、一日一日のそれぞれを意味あるものとして生きているわけではない。そのような生を再生させるものとして芸術があるという考え方である(ちょっと大雑把すぎで、他の定義にふれなさすぎではあるが)。
北澤氏の文脈で「異化」→「リアル」なものと捉えるというからには、異化によって「一般的にはそう見られているが、実際はそうではない真の」姿を示すことで、そこから現実が見えてくるといいたいのだろうか。
そこで北澤氏の文章を試みに言い換えてみる。
「植田の写真は家族写真であるが、本来の写真が持つはずの自然さ(→真)を「とった」ものではない。クールな構成を「つくる」ことよって、(見かけとは違う)家族の空々しさを結果的に示している。この空々しさは、現代の家族の在り方を思い出させる。「つくる」ことによって、逆説的に「空々しさ」という「リアルさ」が「とられている」のだ」となるだろうか。
でもそうでないことは、これまでに述べてきた。

以上のように、細かく読んでいくと、ある種の通俗的一般通念的図式を、具体的な作品・作家に当てはめてみたらこうなりました、というような書評になっている。この本自体はほめていはいるようだが、朝日新聞の編集者は、このレベルの書評はむしろ出版社への営業妨害となるので、掲載を考えるべきではなかったかと思う。

さて、先日、東京ステーションギャラリーで「植田正治のつくりかた」展を見てきた。その前には、恵比寿の写真美術館で「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ-写真であそぶ-」を見てきた。

北澤氏の揚げ足取りだけではさびしいので、植田正治についてこれまで考えてきたことをまとめてみる。わりと素朴なレベルの話です。

植田正治の写真を見ると、胸の中がなにか暖かいもので満たされていることに気付く。それは何によるものかと考えると、写真家と、写されている人・ものとの関係が親しいということがある。植田氏は「アマチュアの特権として、撮りたいものしか撮らないし、撮れない」と言っていて、撮りたいもの=自分が関心があり、おなじ風土に暮らすというつながりがあり、結局は自分が好きであるということが基本にある。好きなものと自分との間柄やその距離感は、相手によってさまざまであったろうが、やはり自分と相手が近しいということが、その関係を複写した写真として作品化されており、見ている者(例えば私)もその関係性にわが身を代入するので、親密さからくる暖かさが感じられるのではないかと思う。
また、なにかさびしげなところがある。ひとつには、東京ではなく地元鳥取県で独立独歩の活動を続けたというある種の傍流としての意識があったかもしれない(自ら望んだことではあるが)。また、鳥取という土地柄(人口密度は低そうである)、風土性からくるさびしさもあるだろう。それ以上に感じられるのは、写真の作品作りは基本的に個人でやるものだから、そこからくる孤独感(とある種の全能感)があるように思う。この例えが良いのか自信がないが、バンドは一人ではできないが、写真なら一人でできる、という意味でのさびしさである。写真ではチームプレーはあまりやらない(もちろん他のジャンルでもそういうものは多い)、一人でするものだから、という意味である。あんまりさびしくないか。

それと画面構成を重視した作品群であるが、あれはいったい「空々しい」ものであろうか。
植田氏の作品の場合、画面構成=被写体の配列にリズムがある。ではリズムとは何かと考えると、それぞれのものが関係しあっているということがある。ひとつの音だけではリズムは生まれない。複数の音が連なることによりリズムとして認識される。画面上にある種のリズムをもって、人やものがそれぞれに配置されているのであるが、そのリズムが心地良いということは、その画面を構成するそれぞれの関係が心地良いということでもある。ということは、少なくとも画面内には空々しさはない。そして、その心地良いリズムを作り出した撮影者と被写体の関係もおそらくは心地良いもの(緊張感もあるのだが)ではなかったかと思う。
構成するということは知性の働きであり、近代性→モダニズムにつながり、そこからクールさにつながる。知性的であるということは冷静であり、激情ではなかろうが、情熱的でないということにはならない。クールであることは冷たさではない。そこを間違えると北澤氏のようになる。
つまり植田正治の画面構成された写真はクールで、温かみもあり、ユーモアも感じられ、なによりモダニズムの香気がただよいスタイリッシュである。つまりかっこいい。これが結論である。

また、「童暦」のように構成的ではない写真作品も非常に素晴らしくて、けっきょく植田正治はストレートな写真も撮れるし、構成的な写真も撮れるような人だったということになる。

いろいろ書いたが、その根本にあり、すべてを包み込んでいるのは、植田氏がよくいう「写真する喜び(幸せ)」である。この写真する喜びがすべてに先立ってあり、そこから生まれたものはやはり喜びに満ちている。
植田正治が写真と嬉々として戯れるようすを見ていると、やはりまわりの人もなんとなくうれしい気持ちになる。そんなかんじが、植田正治の写真の根底にあると思う。

先にあげた北澤氏の書評では、最後の部分で「植田正治は「つくる」ことが「とる」ことであるという逆説。植田正治の「つくる」が一筋縄ではないというゆえんである」等といっているが、そうではない。植田正治はおそらく「つくる」と「とる」はあまり区別がなくて、その前にある「写真する喜び」一筋のひとなのであって、それからすべてが発している。それが分からなかったので見誤ってしまったのだろう。
とはいえ、北澤氏のおかげで植田正治の写真について改めて考えることができて、若干感謝もしております(これほんと)。


さて、次回の写真評論は、「ジョセフ・クーデルカ パノラマ写真により世界視座を再構築するこころみ」の予定です、なんつってな。予定は未定www



とか言いながら、年明けに追記。
東京ステーションギャラリーに見に行ったとき、「砂丘モード」シリーズのデザイン案というか印刷指定の一歩手前のようなプリントがあった。
たしかこのへんの作品の原型になったものだと思う。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/6a/39b7f4e12747187ff582059b7e2afc95.jpg
これは、パノラマ風に広がった砂丘を背景に、スーツを着た男たちの小さな写真が切り抜かれて、いいバランスで配置されて(貼り付けられて)いた。どうもこの手の写真は合成したものもあったようだ。べつにパソコンが普及する以前でも、印刷所に頼めばそうとうの合成はやってくれた(しかし高額でもあった)。

そこで改めて考えてみた。
アラーキーがNHK日曜美術館で植田正治について話したとき、「妻のいる砂丘風景」という写真について語っていたのを思い出した。↓これですな。
http://www.tokinowasuremono.com/artist-d27-uedashoji/imagelarge/ueda_02_tuma-iii_small.jpg
曰く、植田写真はどこか不思議なところがある。例えばこの写真では奥さんの影が他の人物とは別の方向に流れているが、こんなことはあるのだろうか(大意)。
さらにいうと、右下隅の和装の奥様の写真の頭部の歪み方が以前から気になっていた。広角レンズでの歪みならば、歪曲の向きが逆になるような気がする。また髪の毛のあたりの影?の付きかたもちょっと不自然に見える。
さらに見ると、男性3人の像もなんだか平板に見える。
これはひょっとして、複数の人物像をプリントの段階で合成したものではなかろうか。詳しい方がいたらご教示いただきたいところである。よろしくお願いします。

【2014.6.15再追記】
本日、NHK教育の日曜美術館で植田正治の再放送を見て、気付いたことがいくつかあったので追記。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2013/1201/index.html

「童暦」中の「小さな工場」という作品。もともとのネガには、左右に建物があるのだが、それはプリントの際になくしてしまって、かわりに紙で山並み風のものをつくって貼ったという。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/41/025c2782755519c22c14b4bddb7222b4.jpg
http://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/053f3b694c9ae4aff9b1d28f8902c7ad

上にも書いたことではあるが、砂丘モードのタキシードの男性が切り抜かれてバランスよく貼りこんであったのと、同じである。
けっこうプリント時に遊んでいたのだろう。
そう思うと、やはり「妻のいる風景」の右下隅の植田夫人は、影の方向が違うところから見て、これも別のプリントを貼りこんだのではないかと思う。

それと植田氏が使っていたパノラマカメラはリンホフテクノラマらしい。手持ちで撮影していたが、雑にすると水平が出ないはずである。作品はきちんと水平が出ているので、基礎的テクニックは、そうとうしっかりしていたのだろうと思う(当たり前か)。

震災遺構の保存の是非、もしくは現代美術家の奮起を促す。

先日NHKで震災遺構を残すべきか否か、という問題を取り上げいていた。
「シリーズ東日本大震災 震災遺構~悲劇の教訓をどう伝えるか~」
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/1129/

大きく分けると、三つの立場に分かれるようだ。
ひとつは鎮魂の場、および亡くなった人たちを思い出すためのよすがとして保存して欲しいという立場。
もうひとつは、震災遺構を見ると、震災を思い出して辛いので、解体してほしいという立場。
そのほかに、震災の遺構、遺物があると復興の妨げとなるという考え方もある。
どれももっともな言い分であり、いい加減に扱うことはできない。

昔であれば、震災遺構を残す余裕もなく、おのずと朽ち果て、散逸し、しばらくしてその跡に神社仏閣を建てたのではなかろうか。
例えば南三陸町の防災対策庁舎であれば、潮をかぶった建物はいずれ崩壊するだろうし、そうなれば地元の篤志家らによりお寺が建てられて、避難を呼びかけながら亡くなった女性は「呼掛観音」として祀られるようになったのではないか、などと考えてみたりする。

同じような遺構の問題として広島の原爆ドームについてふれていたが、そのなかで広島の被爆者が、原爆ドームを受容するまで30年くらいかかったと語っており、なるほどそうだろうと思わされた。
(俺などは、代々木にDOCOMOビルが建ったときどうしても違和感があった。しばらくして長野重一の新宿御苑の桜ごしに写るDOCOMOビルの写真を見て、やっと心のなかに落ちつくところが出来た。)

震災の年の春に地元に帰って、海沿いを歩いたとき、一面泥だらけになった水田跡と高台にあって津波を免れた家を見て、この家の人はいったいどんな気持ちでこの風景を見ながら暮らすのだろうかと考えた。また友人と夏に会ったとき、毎日通勤途中に見る、死亡者が多かった老人介護施設がとうとう取り壊された、と言っていた。それに続く言葉は特になかったが、それは言わなくても互いに分かっているはずという感覚があった。この友人は震災と原発事故のストレスだろう、しばらく前に精密検査を受けたといっていた(問題はなかったようで安心したが)。
風景とその受容というのは、簡単には済ませられない問題である。

震災遺構を見るのが辛い人と残したい人の両方の意を満たすにはどうしたら良いか。
この番組を見て最初に思ったのは、梱包芸術のクリストのことだった。ヒトラー第三帝国の負の印象が強いベルリンの「ライヒスターク(帝国議会議事堂)」を光り輝く素材で梱包し、まったく別の視点と美しさを与えた。安直かもしれないが震災遺構も同じように考えられないだろうか。
また、平泉の中尊寺金色堂のように、外側を覆堂(さやどう)で覆ってしまってもよい。今ならば、ガラス系の透明な素材を使って、外から見ることもまた隠すことも出来るような機能は付加できるだろう。

俺ならば、震災遺構を包み込むようにして、背の高いビルを建てたい。そのビルは津波が来たときに助かるための充分な高さを持たせ、災害対策の基地となるべく整備しておいたら、いざというとき役に立つだろう。そうなれば亡くなった方も多少は浮かばれるような気もする。

俺のような凡人でさえ、いろいろ考えるのだから、現代を生きている(はずの)表現者は、もっといろいろ考え行動してもらわないと意味がない。
既存のものごとについて、意味の読み替えや新たな価値を与えるのが芸術の仕事であり、震災遺構に取り組まないのは、怠慢というか、表現者として現代に生きていないといわれても仕方がない。

先日見た藤城清治「影絵横丁」展では、その南三陸町の防災対策庁舎がしっかりと藤城ワールドとして作品化されていた。
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-750.html
藤城清治さんは御年89歳である。若い人たちはもっと奮起せねばならんのではないか。

ところで、写真家・六田知弘さんの震災遺物を撮影した写真集「時のイコン」(平凡社)が発売されました。ぜひ買ってください。
http://www.muda-photo.com/topics/index.html
http://www.muda-photo.com/publicity/index.html#T1128-2

なお、この写真集のもとになった写真展については、こちらで書いています。
六田知弘写真展「3・11 時のイコン」
六田知弘写真展「3・11 時のイコン」-2

文藝春秋2013、12月号と鷲田清一「パラレルな知性」(晶文社)

今月の文藝春秋本誌に小泉元総理の脱原発論があったので読んでみた。内容は、あの人らしく非常に明快で、放射性廃棄物の処理に10万年かかるから、それは無理なので止めようという話しである。これを総理のときになぜ気付かなかったのかとも思うが、ああいう人なので仕方がないし、強力な援軍と考えることもできる。

ところで、鷲田清一「パラレルな知性」(晶文社)を読んでいたら、次の一節があった。
「明治以降、とりわけ戦後は復興から高度成長、高度消費、バブルと急激な右肩上がりが続いてきた。この急カーブの右肩上がりの時代のなかで生まれ育った人びとが、今の六〇代半ばあたりから七〇代、日本のトップを担っている世代だ。わたしは、「ああ、この人たちは未来世代のことを考えない人たち」なのだなとつくづく感じている。なぜなら、右肩上がりの時代には、どんな深刻な問題も技術の進歩によって必ず次の世代が解決してきたらからである。
(略)右肩上がりの時代が骨の髄まで滲み込んでいる人びとは、きっと次の世代が何とかするだろうと信じて疑わない。そのぶん、未来の世代のために蓄えたり節制したりということをする必要を感じない。歴史のなかで、今の日本のトップ世代ほど、未来世代のことを考えずに生きてきた世代は珍しいのではないか。
 逆にいえば、このたびの震災によってわたしたちはこうしたことにやっと気づかされた。たとえば、現下の国債の増え方はだれが考えても異常だ。それを放置できてきたのは、いずれだれかが何とかするという発想があったからだ。現在さえフル回転させておけば、いずれどうにかなるだろうという感覚だ。これは個人的なエゴイズムというよりも、社会全体にある”頑張っていたら何とかなる”という空気だろう。七〇〇兆円をはるかに超える国債残高は、それを物語って余りある。」

 原子力を使うようになってまだ百年もたっておらず、しかもウランの埋蔵量はのこり百年程度である。
http://www.fepc.or.jp/enterprise/jigyou/world/sw_index_03/
 しかしながら、その廃棄物の処理には10万年かかる。つまりたかだか100年~150年の安楽のために10万年を質に入れたようなものだ。
 もっとも研究者、開発者の言い分もあるだろう。埋蔵量が100年程度しかないでしょ→だから増殖炉や核融合炉を。では誰が被爆の危険性を顧みずに研究するの?→それは後の世代の人が頑張ってくれるでしょう。
また、廃棄物はどうするの?→それも後の世代の人が頑張ってくれるでしょう。
 この発想はまさしく前述の鷲田氏の書いたとおりである。まあ、年金問題も似たようなもんだな。
 
ごく一般的な道徳として、まわりの人には迷惑をかけないようにする、というものがある。「まわりの人」というのは、空間を軸に考えると、大きくいえばこの地球上で同時代に生きる人びとという意味となるが、時間を軸にとると、過去と未来の人もふくめて考えられる。つまりご先祖たちが積み上げてきたものをないがしろにしない(例えば、福島県近辺の肥沃な農地や、豊かな漁場、さまざまな祭事を含む文化、伝統)と同時に、孫や子が放射性物質に苦しまないようにするということも考えあわせて良いだろうと思う。
その意味で、「六〇代半ばあたりから七〇代、日本のトップを担っている」「未来世代のことを考えない人たち」には、さっさと退場してもらいたい。お土産に放射性物質を持たせてね。
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