eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2012-10

FUSHIKIZさん、やっちまったな(それもまたよし)。

石原都知事が辞任を表明した、が、別に驚かない。かつても国会議員として先がなくなったので、都知事に鞍替えしただけだし、今度は都知事として先が見えてきたので、国会議員に返り咲きしたいというくらいの話だろう。いつも話題の中心にいないと気がすまないのだろうか。まあ、長男・伸晃氏の予想外の不甲斐なさに焦ったのか。今度は息子が都知事に出馬などといったら、落選運動など仕掛けるべきかもしれない。

ところで、FUSHIKIZさんについては、更新をいつも楽しみにしているくらいのファンである。先日、尖閣諸島について、2本の記事があった。
・東京都尖閣諸島寄附金のナゾ 
http://www3.coara.or.jp/~tomoyaz/higaax12.html#120501
・東京都尖閣諸島寄附金のその後のナゾ
http://www3.coara.or.jp/~tomoyaz/higaax12.html#120819

頭がいい人、理性的なには往々にしてあることだが、そうでない人のことが良くわからない。頭の悪い人や情念、他人からはよくわからない思惑等で行動する人の気持ちや考えは独自すぎるので、FUSHIKIZ氏のような人にはもっとも分かりにくかろうと思う。やはりバカの気持ちはバカでないとわからない。

東京で暮らしていると石原都知事の問題点は、日々のニュースなどでちょくちょく目にする。たとえばいつかの東京マラソンの閉会式に慎太郎、伸晃 、良純、宏高氏らが勢ぞろいしたのを見て、公私混同もいい加減にしろ=北朝鮮でもあるまいし東京都で石原王朝でも作る気か、と思った。またMXテレビ等で記者会見するが、演壇までの歩き方のおぼつかなさを見ると、もう年齢的限界ではないかと思う。最近はまばたきも多くなってきたかな。
東京ではこういった現実が目に入るので、石原氏の発言、行動には、いつも一定の距離をおいてみる癖がついた。このへんは、九州にお住まいらしいFUSHIKIZ氏には分かりにくいところと思う。しかし、こういったことを除外すると、石原氏がぶち上げた尖閣諸島買い上げの件は、もっともなことに見えるかもしれない。また九州に居られると大陸方面からの圧迫感は、一定のリアリティがあるのかもしれない。

しかし、東京都の買い上げ宣言、寄付金募ったが結局購入できず、寄付金の行き先不明となり、石原氏に煽られるかたちで国が購入することになったが、それで中国との関係悪化となるという一連の経過を見ていると、やはり石原氏の言動には問題があったとしかいえない。島の持ち主には借金があり、相続税の代わりにいずれ公庫に物納されるという話もあったらしく、どうも石原氏が得意のスタンドプレーをやってしまったのを、真に受けた方が相当数居られたということなのだろう。
つまり頭のいい人、理性的な人はスタンドプレーなぞしないだろうし、だからそういうことを平気でやれる人のことは理解しにくかろうと思う。
FUSHIKIZ氏も後で思うところあったせいか(それとも単純ミスか分からないが)、「東京都尖閣諸島寄附金のその後のナゾ」は、トップからのリンクが外れているようです。

勝海舟「氷川清話」に渋田利右衛門という函館の商人の話が出てくる。渋田は海舟の非凡さを見抜き、また見識も高く、紹介した知人も一流の人であった(嘉納治郎右衛門等)。しかし地元では、早飲み込みによる失敗もありあんがい軽く見られるところもあったが、死後にその蔵書を見たら優れたものばかりだったので函館奉行が買い取った、(大意)という記述があった。
FUSHIKIZさんが、この渋田にちょっとダブって見えなくもない。

と、こう書くとまるでFUSIKIZさんを揶揄しているようでもあるが決してそうではない。これまでどおりオーバーラン気味でいいので思うことを書いてほしい。やはりある種の見識をお持ちだし、そのうえでの発言(実行付き)なので、自分なりに考える場合のガイドラインになったり補助線になったりする。たいへんありがたい。「沈香も焚かず屁もひらず」よりは、多少勇み足があってもかまわない。
論語子路篇に「子曰、不得中行而与之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不為也」とある。意味と解説は次のとおり。
[口語訳]先生が言われた。『中庸の徳を持った知己を得ることができない場合には、やむを得ずに狂者か狷者を友人にするか。』。情熱的な狂者は積極的に行動するが、偏屈な狷者は他者に妥協できないところがある。
[解説]孔子は君子たる友人を得る基準として『中庸の徳』を重視していたが、中庸の徳を持った友人がいなければ、世間の欲得と保身で動く常識人よりもそれぞれの個性が強い狂狷の人物のほうが友に相応しいと考えていたようである。
FUSHIKIZ氏も狂狷の徒かもしれないが、それで(そこが?)いいのです。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo013_3.html
http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20110206/1296975615
だから、家電品や車の修理ばかりではなく(よく書いていますな)、世の中の修理のことも考えてもらいたいと思っているのです。


ところで石原都知事については書きたいことも山々あれど(別に批判ばかりではない)、それはまた別の話だろう。
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今道友信先生 原子力と倫理

今道先生が亡くなって、なんとも気が沈んでいるが、書いておかなければならないことがあるので、それだけ書いておく。

先生の中心思想に「エコエティカ」がある。講談社学術文庫にわかりやすくまとめられた形で収められている。
このなかで、重大な指摘が三つある(ほんとはもっとあるが)。

ひとつは「目的から行為への三段論法の変化」である。この著書の149ページから多少アレンジして引用する。
古典的三段論法からすると、
・大前提:「目的定立」Aが私に望ましい
・小前提:「手段選択」①Aを実現するための可能な手段がさまざまにあるp,q,r,s,t…
→②その中からもっとも容易で美しいものを選ぶ
・結論:「行為」実行する。p→A

それが現代ではこうなる。
・大前提:「手段確認」われわれはPという力を持っている。
・小前提:「目的選択」①Pという力によって、さまざまなことが可能。
          →②そのなかで、もっとも効果的なものは何か
・結論:「行為」P→a

つまり、かつては目的達成のために手段が選択されたが、現在では手段=Powerが先行して、それをどう使えばいいのかを後で考えるという逆転が起きている。
このもっとも端的な例が原子力である。
つまり、
戦争に勝つための強力な兵器(目的)→そのための核エネルギー(手段)→原爆投下(結論)からはじまったが、平和時にはその莫大なエネルギーをどう使うか。
核エネルギー(手段)→それに見合う目的の発見(目的)→発電(行為)というかたちになった。
あり余る手段(とくにテクノロジー)をどう扱えばいいのかわからない。これが現代を貫く問題のひとつである。そして扱いに失敗したのが原発事故である。

次に、原子力を扱う者の倫理に対する指摘である。これは第6章「火のミュートス」(158ページ)にずばり書かれている。重要な部分を抜書きしてみる。
(火のミュートス=プロメテウス神話を前提として)
「すなわち、今までよりもはるかに道徳的な人間でなければ原子力は使えないと思うのです。私は、原子力のことは何も知りません。しかし、誇り高く、技術者がこの装置ならば絶対に間違いないと、人間の分際でなぜそういうことが言えるのですか。壊れるかもしれないときに、どうしたらいいかということを二重、三重に考えなくてはなりません。災害学と災害処理学がより完全に研究され、十分に整備されなくては、この恐るべき火は使ってはならないのです。
 しかも、原子力の仕事に当たる人は倫理学を一度も勉強したことがない人がほとんどです。それでいいのか(中略)
 熱心に原子力にたずさわり、まじめに研究したり、働いておられる方に、冷酷な言い方になりますが、原子力関係の事故は続発しています。稼動性や施設数に比べて極小の事故だ、と関係者はいうのですが、しかし大事故の可能性はあるし、小事故でも永続的致命性を周囲に及ぼします。しかも、その大部分は、天災ではなく、「人災」と「物災」であります。人間が過失的な存在であること、人間が不完全な、そして自己弁護的な存在であること、それを忘れて、不十分な構えのまま、利益まで得よう、と考えることは非道であります。
(中略)原子炉の事故は、世代を通して近辺の多くの人びとに病害を与えるのです。
(中略)人間の運命を、自己を中心とした三世代くらいの距離で考えていればよかった時代は過ぎました。人間は人類の運命を何百年、何千年の先に向けて、その生き残りの可能性を真剣に考えなくてはならない時代に立っています(後略)」

もうひとつは、この著書では一言しか触れられていないが、「委員会committee」の問題である(40ページ)。巨大パワーの活用、運営、管理は、すでに個人で責任を取れる範囲を超え、しかし一企業だけでは社会的影響力を考えると判断しきれず、必ずある種の「委員会」が発足されるが、しかしその委員会は責任をとる主体になりえるのか。原発事故を見る限り、ほとんどの委員会(官僚、政治家、学者、電力会社、マスコミ等からのメンバーによって構成されていた)は限りなく無責任であり、決して事態収束の主体にはなっていなかった。この部分は、別にノートがあるので今度改めて触れたい。

今道先生はさまざまな面で非常に不器用でもあったようで、その発言の真意が世に理解されていなかったようにも思う。ほんとうはもう少しいろいろな仕事をしていただきたかった。残念です。

今道友信先生のこと

今道先生が、10月13日に亡くなった。
以前聞いたお話では、治らない病を持つことになったが、とにかく書きかけの原稿を仕上げたいと言っておられたという。
科学技術、とくに原発事故についてのお考えを聞かせていただきたかった。
とても残念です。今日はワインでも飲んで早く寝たい。

以下、読売新聞より

 哲学者で、新しい倫理学「エコエティカ」を提唱した東大名誉教授の今道友信(いまみち・とものぶ)氏が13日、大腸がんで亡くなった。89歳だった。近親者で密葬を行い、告別式は後日行う。喪主は妻、クリスティネさん。

 東京都生まれ。東大で哲学を学び、渡欧して独仏の大学で教べんをとった後、九州大助教授、東大教授などを歴任した。科学技術が発達し、人間の活動の及ぶ範囲が極微な世界から宇宙にまで広がる中、人類の生活・行動圏全体をカバーする新しい倫理学が必要だとして、生活圏を意味する「エコ」と倫理学の「エティカ」を合成させた「エコエティカ(生圏倫理学)」を1970年頃から提唱した。

 82年には哲学美学比較研究国際センターを設立し、所長に就任。国際美学会会長、国際形而上学会会長など、国際学会の要職も務めた。86年に紫綬褒章。

 ラテン語やギリシャ語など、多数の言語を操る達人としても知られ、長年研究を続けてきた「ダンテ『神曲』講義」でマルコ・ポーロ賞。「美の存立と生成」で和辻哲郎文化賞を受けた。読売新聞社の調査研究本部客員研究員も務めた。

(2012年10月16日15時37分 読売新聞)

勅撰震災和歌集とはいわないが

以前、勅撰震災和歌集を編んでほしいということを書いたが、朝日俳壇2012年10月14日付けに、こういう歌があった。

ほんとうのことはほんとはわからないわからないまま談笑しており (仙台市 江川森歩)

この方の以前の作品を見ると、日常生活や恋愛っぽい歌が目に付いたので、そういう趣旨の歌かも知れず、また仙台という土地柄を見ると震災に関係あるようにも読め、またそれ以前に人間関係一般についての歌に読める。
俺としては、この文章で書いたことを一首で詠んでしまったように思えた。


実は、昨年3月以降の新聞の歌壇ページを半年分ほどコピーしたことがあった。勅撰集というのは、室町時代の新続古今和歌集以来600年絶えているので、まあ無理なのはわかっているが、昭和万葉集というのもあるので民草の歌を草莽がまとめるようなことがあってもいいと思ったのだ。しかし、実際に歌を見ると、読み方によっては震災に関係するとも、そこまで結び付けないほうがよいとも読める歌が多く、挫折してしまった。たぶん一人でできる仕事ではないのだろう。
ただ、河北新報で選者をされている佐藤通雅さんの仕事は、これに通ずるものだろう。たとえば、「ドキュメント 震災三十一文字 鎮魂と希望」(NHK出版)など。

震災、原発事故への対応は物質的、制度的なものが先立つだろうし、そのあとでカウンセリングなどもあろうが、そこからはこぼれてしまうような、とりあげきれないような心の問題が取り残されてはならない。それをするのが芸術の仕事なのではないかと思うのです。

失敗するにも才能は必要w

先日ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授は、「1回成功するために、9回ぐらい失敗しないと幸運は来ない。若い皆さんには、いっぱい失敗してほしい」と呼び掛けたという話がニュースに出ていた。

これをよく考えると、9回失敗するためには実験に値するアイディアが9個はなければならないわけで、バカだとそのアイディア自体生み出せないから、そもそも9回も失敗できない。たいてい1、2回の失敗で、他のアイディアを思いつかずに、終わってしまう。また、同じアイディアの失敗を100回繰り返しても、それは1回としかカウントできない。

失敗を続けられるのも、才能の一種なんでしょう。

北千住とか

アンゲロプロス特集を見に北千住に通っていたころ

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このへんはうちから歩いて行けるところ

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晩冬 仙台

ずいぶん前の写真です。

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渋谷-代々木

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園子温と若松丈太郎 数えること

9月30日NHK教育のETV特集「映画にできること 園子温と大震災」を見た。
この番組で取り上げた園監督の最新作「希望の国」はぜひ見たい。

ところで、この番組で園監督が自作の詩を朗読した。


「数」  園子温

  まずは何かを正確に数えなくてはならなかった。草が何本あったかでもいい。全部、数えろ。

  花が、例えば花が、桜の花びらが何枚あったか。 涙が何滴落ちたか、その数を調 べろ。今度またきっとここに来るよという小学校の張り紙の、その今度とは、今から何日目かを数えねばならない。その日はいつか、正確に数えろ。もしくは誰かが伝えていけ。

  「膨大な数」という大雑把な死とか涙、苦しみを数値に表せないとしたら、何のための「文学」だろう。季節の中に埋もれてゆくものは数えあげることが出来ないと、政治が泣き言を言うのなら、芸術がやれ。

引用:http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/133076.html


この詩では数えることに重要な意味がある。数えること=認識すること。認識したことを、あるかたちで表現し、かたちにして残すこと。この詩を見て、高校時代の恩師の若松丈太郎先生の「神隠しされた町」を思い出した。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/109863.html
http://www.youtube.com/watch?v=Zcr13_1Uk70
※詩のなかの「原町市」「小高町」というのは、現「南相馬市」のことです。

この詩も数にこだわる詩である。もっと園氏の詩はミクロ的であり、若松先生は人口、距離、年月(時間)を執拗に書き連ねるぶん、マクロ的であるかもしれない。
園氏と若松先生の対談があれば、ぜひ聞いてみたい。



「神隠しされた街」 若松丈太郎

 4万5千の人びとが2時間のあいだに消えた
 サッカーゲームが終わって競技場から立ち去ったのではない
 人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
 ラジオで避難警報があって
 「3日分の食料を準備してください」
 多くの人は3日たてば帰れると思って
 ちいさな手提げ袋をもって
 なかには仔猫だけをだいた老婆も
 入院加療中の病人も
 1100台のバスに乗って
 4万5千の人々が2時間のあいだに消えた

 鬼ごっこする子どもたちの歓声が
 隣人との垣根ごしのあいさつが
 郵便配達夫の自転車のベル音が
 ボルシチを煮るにおいが
 家々の窓の夜のあかりが
 人びとの暮らしが
 地図のうえからプリピャチ市が消えた
 チェルノブイリ事故発生40時間後のことである
 1100台のバスに乗って
 プリピャチ市民が2時間のあいだにちりぢりに
 近隣3村をあわせて4万9千人が消えた

 4万9千人といえば
 私の住む原町市の人口にひとしい
 さらに
 原子力発電所中心半径30㎞ゾーンは危険地帯とされ
 11姫の5月6日から3日の間に9万2千人が
 あわせて約15万人
 人びとは100キロメートルや150㎞先の農村にちりぢりに消えた
 半径30㎞ゾーンといえば
 東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
 双葉町 大熊町
 富岡町 楢葉町
 浪江町 広野町
 川内村 都路村 葛尾村
 小高町 いわき市北部
 そして私の住む原町市がふくまれる
 こちらもあわせて約15万人
 私たちが消えるべき先はどこか
 私たちはどこに姿を消せばいいのか
 事故6年のちに避難命令が出た村さえもある
 事故8年のちの旧プリピャチ市に
 私たちは入った

 亀裂がはいったペーヴメントの
 亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
 ツバメが飛んでいる
 ハトが胸をふくらませている
 チョウが草花に羽をやすめている
 ハエがおちつきなく動いている
 蚊柱が回転している
 街路樹の葉が風に身をゆだねている

 それなのに
 人声のしない都市
 人の歩いていない都市
 4万5千の人びとがかくれんぼしている都市
 鬼の私は捜しまわる
 幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
 台所のこんろにかけられたシチュー鍋
 オフィスの机上のひろげたままの書類

 ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
 日がもう暮れる
 鬼の私はとほうに暮れる
 友だちがみんな神隠しにあってしまって
 私は広場にひとり立ちつくす
 デパートもホテルも
 文化会館も学校も
 集合住宅も
 崩れはじめている
 すべてはほろびへと向かう
 人びとのいのちと
 人びとがつくった都市と
 ほろびをきそいあう


 ストロンチウム90 半減期 29年
 セシウム137  半減期 30年
 プルトニウム239 半減期 2万4000年
 セシウムの放射線量が8分の1に減るまでに90年
 致死量8倍のセシウムは90年後も生きものを殺しつづける

 人は100年後のことに自分の手を下せないということであれば
 人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか
 捨てられた幼稚園の広場を歩く
 雑草に踏み入れる
 雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
 肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
 神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない

 私たちの神隠しはきょうかもしれない
 うしろで子どもの声がした気がする
 ふりむいてもだれもいない
 なにかが背筋をぞくっと襲う
 広場にひとり立ちつくす


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