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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2012-08

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ことさらに大声を出そうとするのものへの違和感(嫌悪感含有)

自分の滑舌が悪いせいか、それとも根っからの柔弱文系野郎のせいか、昔から大声を出す奴が嫌いである。これは老若男女貴賎都鄙を問わずそうである。子供は大目に見るべきだという人もいるでしょうが、もちろん普通の大声くらいはほほえましく見ているけれど、常軌を逸した大声(時々こういうことをやりたがる)のときには、一声かけたりした。

先週金曜日、仕事帰りにまた官邸前に行ってきてみた。文字どおり「行ってみた」というだけで、スローガンを叫んだりすることもなく、警察による姑息な道路封鎖や会場への遠回りにも文句も言わず、やはり国会記者クラブ前(ここが所謂「官邸前」だろう)にもたどり着けずに、「ファミリー・コーナー」と「スピーカーズ・コーナー」に行ってみた。
途中何箇所かで、ハンドマイクを設置して「再稼働反対」と叫ぶ(PA通しているから叫ぶ必要なし)人たちが何組かいた。あるグループは、いくつかのスローガンを若干、節をつけて繰り返していたのだが、なんだかマイクを通して語ることに酔っているようにも見えて、あまり良いものではなかった。そしてそれに賛同して声を出す人もほとんどいないようであった。
スピーカーズ・コーナーではドラム隊がリズムを合わせて叩いていたが、あれは悪いものではなかった。リズムがあっているということは統制がとれているということであり、ということは手前勝手に喚き散らすようなことはないということでもある。まあ十分にうるさいので、そうとも言えないか。

一人ひとりの、機械的に増幅されない、生の、普通の声が合わさって、結果として大きな声になるのはもちろん良い。というかそうあってほしい。
しかし、最初から大声を出そうというのは、なにやらある種の「権力」への志向、そして一人一人の意志や考えを一色に塗りつぶそうとしているようにも見えてくる。大声を出すというのは「俺の言うことを聞け」ということであり、そこから「俺の言うとおりにしろ」までは、あまり距離がない。
それに、ハンドマイクでスローガンなんて、ありきたりの組合運動みたいで嫌やではないですか。組合自体を否定するものではないけれど、別に動員かけられてここに来ているわけではない。既成の運動へいつの間にか呑みこまれてしまうようなことはあってほしくない。

やはり大声出す人ばかりが目立つのであるが、じつはごく一部である。大半を占める、ことさらに大声を出さぬ、しかしやはり何らかの意思表示をしたいと思って官邸前に来た人のほうに自分は立っていたいと思う。というか、文字どおり立っているだけだけど。

城山三郎の座右の銘(他の作家の言葉らしい)に「静かに行くものは健やかに行く。健やかに行くものは遠くまで行く」というのがあって、ときどき胸の中で繰り返している。
原発の問題は時間がかかるものだ。大声出して消耗するよりも、遠くの目標までたどり着くことが大事である。そのために健やかでなくてはならず、やはり静かに行くべきである。

それにしても、警備をする若い警察官にも一言。といって別に苦言めいたことではない(言いたいけど)。
今、再稼働反対の声がでているが、それが通らずにこのまま他の原発も再稼働したとする。しかし昨年以来、日本列島は地震が頻発する状態になってしまったようだ。再び大地震が来て稼働中の原発に何らかの問題が生じないとも限らない。原発事故が起こる確率は低いとして、しかし大事故が起きれば、いくら確率が低くても被害が極端に大きいので、確率の話は無意味である。
そのとき、福島第一原発事故のように全国から消防隊、自衛隊、警察、機動隊が招集され、原発付近に派遣されるだろう。一地方自治体の扱える問題ではない。
実際に前線に行かされるのは、ひょっとして総理官邸付近を警備している警察官たちかもしれない。仕事とはいえ、自らを害そうとするかもしれないものを警備しているように見えて、なんだか少し気の毒にも感じている。
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タルコフスキー「ストーカー」

現在、渋谷のユーロスペースで、タルコフスキー特集をやっている。「ノスタルジア」「サクリファイス」「ストーカー」と見るつもりで、まずは日程がちょうどあったので「ストーカー」を見に行った。
前回この映画を見たのは25年くらい前、高田馬場だったか。その時は風邪気味のため、また長時間の映像も相まって、朦朧としながら見ていた。あまりはっきりした記憶はなく、悲惨と奇跡、真実とそれに対する疑念、それらがないまぜになって、画面的には常時水が滴っていたような漠然とした印象しか残らなかった(が、それにしては強烈な印象ではあった)。
最近、アンゲロプロスの映画を見続けてきたせいか、長時間にもかかわらず最後まで眠らずに見ることができたw

「ストーカー(Stalker)」というタイトルの意味は「密漁者」だそうである(「狩猟管理人」という意味もあるようです)。
改めて見てみるとあんがい分かりやすい。説明的でもあるし図式的でもある。
「zone」と呼ばれる禁域に潜入する人物が3人。物理学者と作家、それと案内人である。どうも物理学者と作家の対話を聞いていると「科学」と「詩(芸術)」を象徴する人物らしい。では、役立たずで世渡りのできない案内人(主人公なのだろうな、やはり)は何者であるかと考えると、発言から察するに「宗教者」のようである。宗教者であるがゆえに世俗のことに疎いという設定なのだろう。
この案内人は陋屋に住んでいるのだが、妻と娘がいる。この娘は足が不自由らしいが、最後の場面で特殊な能力を持っていることを示す。この娘は頭にスカーフを巻いているのだが、その様子がロシアのイコンのようでもあり、なんだか聖なる存在のようである(そのためか特殊な能力をみせる前後に、騒音に交じってベートーベンの「喜びの歌」がかぶったりする)。陋屋で暮らす様子が、キリストが馬小屋で生まれた故事を思わせたりする。では、zoneからついてきた黒犬はなんであるか(冥府からつかわされた番犬-ケルベロスに近い存在、それともタルコフスキーが犬好き?)とか、言い始めると細々あるわけですが。

それもそうなのであるが、この案内人が住む地域のすぐそばに原発がある(スリーマイル島の原発のような冷却塔が見えている)という設定自体が、意図的なのか偶然なのかわからないのだが、予言的であるように思えた。

とはいえ、全体としてはキリスト教的背景が強調されている点、また図式的=分かりやすいため、以前見たほどの異様な感銘はなかった。とはいえこの映画の3時間はそれほど長くは感じない。
まあ異教徒がなに偉そうに言っているんだというご意見も御座いましょうが。

ところで、画面の質であるが、モノクロ部分(セピア色)の部分はとくに画面が汚くて、細部が良く見えなかった。カラーの場面は発色が鮮やかなのでそれに救われるせいか、それほど画面の粗が目立たない。例えて言えばVHSの映像をデジタルテレビで見たときのような画面の粗さがあった。後で見ると「デジタルリマスター」とあった。
字幕付きの上映フィルムが劣化してるので仕方がないのかもしれないが、なんだか味気ないものではあった。
画面に「雨降り」があったり、ノイズ、退色があったりしてもスクリーン上ではフィルムで見たいものです。
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