六田知弘さんとの対話
茂木計一郎氏コレクションの仏頭と写真家・六田知弘さんの写真による「ガンダーラ彫刻と蓮の花」を見に行ったら、六田さんが居られて、いろいろとお話させていただいた。大昔に仕事をご一緒させていただいたので、私の事情も一通り知ってくれています。
・まずは震災以降の我が家の状況を聞かれたので、そのへんの話から始まった。
・震災とはなんであったか自分なりに考えている。しかし被災した当事者でないかぎり(ただし当事者にもそれぞれいろいろな被災のあり方がある)、震災がどうだったかは結局は分からないだろう。阪神大震災のとき、東日本に住んでいた自分は、気の毒には思ったけれどそれがどのようなものなのか分からなかった(=もしくは、報道レベルでのみ分かった、つもりであった)。しかし、今回の震災を体験してはじめて、阪神大震災について具体的に想像することが可能になった(分かったわけではない)。おなじように911の際のアメリカの人の衝撃は、同じようなレベルで「分かっていなかった」ということが、やっと分かった。
・震災後、4月終わりに郷里の海岸沿いに行った。津波の跡を見たが、目の前の光景がどういうことか分からなかった。どうしてこうなったのか、なぜこうならなければならなかったのか、何も分からない。ずっと分からないだろう。実際のところ言葉にすることも出来ない(今のように何かを書いてはいるが)。
・ただし、和歌に詠むということは出来るようだ(NHK出版「震災三十一文字」など)。
溶けた鉄を鋳型に流し込むと鉄製品が出来るように、かたちにならないものを「型」に流し込むと「形」になる。言葉にならないことを定型詩という型に流し込めることによって、はじめて歌という言葉になる。それが自分のそとに表れ出ると、心の中でなにか落ち着く部分があるようだ。
・それにしても、震災の意味、震災についての言葉、表現活動は、10年くらいたたないと実際のところは分からないのではないか
・六田さんは3週間後に被災地に行ったが何も撮れなかったという。
・9ヶ月たって、やり始めたこと。瓦礫のなかに埋もれている様々な物を白バックの上に置き、陰の出ないフラットな光線にして物撮りしている。
・六田さんとしては自分が出来るのは写真撮影だけ、それによって記録すべきものを自分なりに撮影するとしたら、こうなった。
・それらの品々は、3月11日以前は生活のなかでちゃんと意味づけされていた。しかし3月11日以降、それまでの意味が剥ぎ取られ、別の種類の時間が堆積されてきた。http://www.muda-photo.com/topics/index.html#T120517-1
・(このへん俺なりの考えを出して聞いてみた)それは、Richard Avedon “In the American West”的ではないか。その写真集ではさまざまな職種(といえないものもあるが)の人々が白バックの前で撮影されている。白バックのためかそれぞれの個性がむき出しで撮影されている。最小限の肩書き(属性)は記されているが、しかし写真自体はその属性の奥にある存在そのものに肉薄しているようにも思える。
※http://www.richardavedon.com/ → ARCHIVE → PORTRAITS → Portfolio: In the American West
・同じように、被災地での瓦礫の物撮りは、それまでの意味を剥ぎ取られており、ものそのもの/things itselfの次元にあるように思う。
・六田さんによれば、この撮影での写真は、もちろん発表のあてもなく、これからどのように進めていくのか、まとまるのかどうかも分からない。やはり10年以上たたないと、やってきたことの意味が分からないだろう。
・帰宅してからさらに自分なりに考えた。それらのものにおいて311以降別の時間が堆積してきたということは、それ以前の時間が無意味になったということでもある。つまり生活のなかで意味づけされていたものが、一瞬にしてまったく無意味になったという恐ろしさでもある。六田さんが撮影している写真は、ご本人の言うとおり一般的な意味で震災の記録と認識されるのかどうか分からないが、はやく見てみたいと強く思った。
※広島の原爆についての石内都さんの仕事を、関連付けて考えることが出来るかもしれない。http://d.hatena.ne.jp/photographica/20120123/1327336383
・まずは震災以降の我が家の状況を聞かれたので、そのへんの話から始まった。
・震災とはなんであったか自分なりに考えている。しかし被災した当事者でないかぎり(ただし当事者にもそれぞれいろいろな被災のあり方がある)、震災がどうだったかは結局は分からないだろう。阪神大震災のとき、東日本に住んでいた自分は、気の毒には思ったけれどそれがどのようなものなのか分からなかった(=もしくは、報道レベルでのみ分かった、つもりであった)。しかし、今回の震災を体験してはじめて、阪神大震災について具体的に想像することが可能になった(分かったわけではない)。おなじように911の際のアメリカの人の衝撃は、同じようなレベルで「分かっていなかった」ということが、やっと分かった。
・震災後、4月終わりに郷里の海岸沿いに行った。津波の跡を見たが、目の前の光景がどういうことか分からなかった。どうしてこうなったのか、なぜこうならなければならなかったのか、何も分からない。ずっと分からないだろう。実際のところ言葉にすることも出来ない(今のように何かを書いてはいるが)。
・ただし、和歌に詠むということは出来るようだ(NHK出版「震災三十一文字」など)。
溶けた鉄を鋳型に流し込むと鉄製品が出来るように、かたちにならないものを「型」に流し込むと「形」になる。言葉にならないことを定型詩という型に流し込めることによって、はじめて歌という言葉になる。それが自分のそとに表れ出ると、心の中でなにか落ち着く部分があるようだ。
・それにしても、震災の意味、震災についての言葉、表現活動は、10年くらいたたないと実際のところは分からないのではないか
・六田さんは3週間後に被災地に行ったが何も撮れなかったという。
・9ヶ月たって、やり始めたこと。瓦礫のなかに埋もれている様々な物を白バックの上に置き、陰の出ないフラットな光線にして物撮りしている。
・六田さんとしては自分が出来るのは写真撮影だけ、それによって記録すべきものを自分なりに撮影するとしたら、こうなった。
・それらの品々は、3月11日以前は生活のなかでちゃんと意味づけされていた。しかし3月11日以降、それまでの意味が剥ぎ取られ、別の種類の時間が堆積されてきた。http://www.muda-photo.com/topics/index.html#T120517-1
・(このへん俺なりの考えを出して聞いてみた)それは、Richard Avedon “In the American West”的ではないか。その写真集ではさまざまな職種(といえないものもあるが)の人々が白バックの前で撮影されている。白バックのためかそれぞれの個性がむき出しで撮影されている。最小限の肩書き(属性)は記されているが、しかし写真自体はその属性の奥にある存在そのものに肉薄しているようにも思える。
※http://www.richardavedon.com/ → ARCHIVE → PORTRAITS → Portfolio: In the American West
・同じように、被災地での瓦礫の物撮りは、それまでの意味を剥ぎ取られており、ものそのもの/things itselfの次元にあるように思う。
・六田さんによれば、この撮影での写真は、もちろん発表のあてもなく、これからどのように進めていくのか、まとまるのかどうかも分からない。やはり10年以上たたないと、やってきたことの意味が分からないだろう。
・帰宅してからさらに自分なりに考えた。それらのものにおいて311以降別の時間が堆積してきたということは、それ以前の時間が無意味になったということでもある。つまり生活のなかで意味づけされていたものが、一瞬にしてまったく無意味になったという恐ろしさでもある。六田さんが撮影している写真は、ご本人の言うとおり一般的な意味で震災の記録と認識されるのかどうか分からないが、はやく見てみたいと強く思った。
※広島の原爆についての石内都さんの仕事を、関連付けて考えることが出来るかもしれない。http://d.hatena.ne.jp/photographica/20120123/1327336383
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アンゲロプロス監督「アレクサンダー大王」と「クリトン」
先日、早稲田松竹にてアンゲロプロス監督追悼特集ということで「旅芸人の記録」を見てきた。神話と現代、ギリシャの近現代史、政治抗争史等が重層的にストーリーを構成していて、感想めいたことをいうのさえなかなか難しい。一度ではあらすじを追いかける程度のことしかできなかったので、何度か見ないといけないとは思うのだが、上映時間が休憩なしで4時間(実はあっという間だった)なので、なかなか思い切りがつかない。
さて、「旅芸人」を見たからには、他の作品も見たい。早稲田松竹では今週「永遠と一日」「霧のなかの風景」の二本立てだが、時間が作れないので、これは無理。
調べると北千住の東京芸術センターhttp://www.art-center.jp/tokyo/ でアンゲロプロス追悼特集をしているhttp://www.art-center.jp/tokyo/bluestudio/schedule.html。
さっそく、「アレクサンダー大王」を見に行った。びっくりするほど人が入っていないので悲しくなった。この作品も一言では何も言えないのだが、ちょっと気付いたことを。
冒頭、20世紀を迎えるためのパーティ会場で、ギリシャに来たイギリス公使が、ギリシャの政治家にプラトン「クリトン」の一節を口にする。「おそかったな、クリトン」とかなんとか。でもギリシャ人はその出典を知らないという皮肉めいたシーンがある。
※こちらhttp://www.e-freetext.net/critoj.htmlでは冒頭の「なんで今ごろ来たんだい、クリトン」 にあたるか。
ストーリーとしては、政治犯のような山賊の親玉でもあるような「アレクサンダー大王」と呼ばれる男が、イギリス公使たちを誘拐し山に幽閉するというものだが、そのあいだにもイギリス貴族である公使が「クリトン」の一節を口にしている場面がある。
そのときは漠然と見ていたのであまり考えなかったのだが、なぜ「クリトン」を引用するのか改めて考えると、なるほどと思うところがあった。
「クリトン」はプラトン初期の作品で、「ソクラテスの弁明」(=ソクラテス裁判)のあとで、古い友人であるクリトンが、ソクラテスを脱獄させようと説得するがソクラテスが断るという話。ちょっと人情話的でもある。クリトンが骨を折って牢番も買収済みだったのに、ソクラテスは獄を出ず、結局毒杯を仰いで死ぬ。なぜ脱獄できるのに、そうしないのかという問答がこの著作の目玉であるが、詳細は実際に読んでみてもらいたい。短いですが面白いです。
※なお、このあと映画のストーリーを書くので、映画を見るつもりの人は以降を読まないほうがいいでしょう。
誘拐されたイギリス貴族は、イギリス政府の圧力とギリシャ政府の努力にもかかわらず結局助からない。つまり、「クリトン」のように牢から出ることなくそのまま死んでしまう。
アンゲルプロス監督はクリトンを引用することによって、この囚われ人は結局は脱出できないことを冒頭から暗示していたのだろう。といって、アンゲロプロス監督としては、ギリシャをひっかきまわしたイギリスが憎くてしょうがないはずなので、ソクラテスやクリトン的人物としてまでは描かれていない。
このように、アンゲルプロス監督の映画は、それぞれの画面にいろいろな意味が込められている気配があって、それが濃密な映像になっていると同時に、普通に見ただけでは明かしきれない謎があるようで、それが強烈な魅力になっているように今は思っている。
とりあえず、「ユリシーズの瞳」は写真家のクーデルカがスチルを担当していることもあって、これだけは見逃せない。
お時間がある方は、ぜひ一度見たらいかがだろうか。
さて、「旅芸人」を見たからには、他の作品も見たい。早稲田松竹では今週「永遠と一日」「霧のなかの風景」の二本立てだが、時間が作れないので、これは無理。
調べると北千住の東京芸術センターhttp://www.art-center.jp/tokyo/ でアンゲロプロス追悼特集をしているhttp://www.art-center.jp/tokyo/bluestudio/schedule.html。
さっそく、「アレクサンダー大王」を見に行った。びっくりするほど人が入っていないので悲しくなった。この作品も一言では何も言えないのだが、ちょっと気付いたことを。
冒頭、20世紀を迎えるためのパーティ会場で、ギリシャに来たイギリス公使が、ギリシャの政治家にプラトン「クリトン」の一節を口にする。「おそかったな、クリトン」とかなんとか。でもギリシャ人はその出典を知らないという皮肉めいたシーンがある。
※こちらhttp://www.e-freetext.net/critoj.htmlでは冒頭の「なんで今ごろ来たんだい、クリトン」 にあたるか。
ストーリーとしては、政治犯のような山賊の親玉でもあるような「アレクサンダー大王」と呼ばれる男が、イギリス公使たちを誘拐し山に幽閉するというものだが、そのあいだにもイギリス貴族である公使が「クリトン」の一節を口にしている場面がある。
そのときは漠然と見ていたのであまり考えなかったのだが、なぜ「クリトン」を引用するのか改めて考えると、なるほどと思うところがあった。
「クリトン」はプラトン初期の作品で、「ソクラテスの弁明」(=ソクラテス裁判)のあとで、古い友人であるクリトンが、ソクラテスを脱獄させようと説得するがソクラテスが断るという話。ちょっと人情話的でもある。クリトンが骨を折って牢番も買収済みだったのに、ソクラテスは獄を出ず、結局毒杯を仰いで死ぬ。なぜ脱獄できるのに、そうしないのかという問答がこの著作の目玉であるが、詳細は実際に読んでみてもらいたい。短いですが面白いです。
※なお、このあと映画のストーリーを書くので、映画を見るつもりの人は以降を読まないほうがいいでしょう。
誘拐されたイギリス貴族は、イギリス政府の圧力とギリシャ政府の努力にもかかわらず結局助からない。つまり、「クリトン」のように牢から出ることなくそのまま死んでしまう。
アンゲルプロス監督はクリトンを引用することによって、この囚われ人は結局は脱出できないことを冒頭から暗示していたのだろう。といって、アンゲロプロス監督としては、ギリシャをひっかきまわしたイギリスが憎くてしょうがないはずなので、ソクラテスやクリトン的人物としてまでは描かれていない。
このように、アンゲルプロス監督の映画は、それぞれの画面にいろいろな意味が込められている気配があって、それが濃密な映像になっていると同時に、普通に見ただけでは明かしきれない謎があるようで、それが強烈な魅力になっているように今は思っている。
とりあえず、「ユリシーズの瞳」は写真家のクーデルカがスチルを担当していることもあって、これだけは見逃せない。
お時間がある方は、ぜひ一度見たらいかがだろうか。