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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2012-03

オギュスタン・ベルク(Augustin BERQUE)先生講演抄録 東北大学シンポジウム 大震災と価値の創生より

・東北大学 公開シンポジウム「大震災と価値の創生」 
http://www.tohoku.ac.jp/japanese/newimg/pressimg/tohokuuniv-press20120227_03.pdf
・日時:2012年3月9日(3月10日も開催)
・場所:東北大学川内北キャンパスマルチメディア教育研究棟

・基調講演 Augustin BERQUE(オギュスタン・ベルク)先生
・演題「災害、世俗性、ものの哀れ これから日本の風土性は?」
・3月9日(金)13:30~15:00(14:30から質疑応答)


0.野家啓一氏によるベルク先生の紹介
・Augustin BERQUE 先生は1942年生まれ
・13年前に宮城大の教授(1、2年?)。その間、東北大でも半年ほど講義を持った。
・311以降も来日し被災地を回り、新聞に寄稿。宮城県・村井知事とも対談。
・その対談の中で「景観10年、風景100年、風土1000年」という言葉があった。景観は10年で変わるし、風景は100年あれば様変わりするが、風土は1000年続く、という意味である。
・今回は1000年に一度という災害(震災・津波)に襲われたが、それがわれわれの風土にどういう影響を及ぼすかについても先生にお聞きしてみたい。
※その他、経歴的な紹介あり。

1.ベルク先生 講演概略
・「風土性」という言葉は和辻哲郎から始まる。
・「風土」は1935年に刊行された。その冒頭に、「風土とは、人間存在の構造契機」とある。非常に難しい概念である。
・もう少し簡単に言い換えると、風土性は人間と自然との関係であり、歴史を通じて現れる一緒の「趣(おもむ)き」である。
・趣とは面白い言葉。中国六朝期の画家・宋炳の 「画山水序」の文章で、「至于山水質有而趨霊。山水に至っては質(=かたちの意)は有にして、霊に趣く」とある。物理的形態がありながら、而して霊に趣くという意味。そこから、「趣き」という言葉を使うようになった。※趣く→趣きの関係。
・何故、風景は人の魂に趣くか。風景は価値と意味を持っているから。
・風土は、モノというだけではなく人間との関係がある。いわばコト。モノ→コト→コトバ。
・モノがコトに働きかける。逆に、コトがモノに働きかける。物理的形態と心が、通い合いを行う。これを「通態(つうたい)」と名づけた。
・そこには主体と客体の区別はありえないで、具体的に一緒になっている=通態的に一緒になっている。これは近代の世界観とは違う。
・通態性は、モノに意味と趣き、価値を与える。
・その価値付けを、詳しく考えると4つのカテゴリーがある。二つはpositive、二つはnegativeなものである。
・positiveな二つ。
①有用性 ものは何かを実現させる資源でもあるresource
②楽しい、愉快、快いもの
・negative
③制約、邪魔をするもの
④危険、リスク
・風土のなかにこれらの四つの面がある。四つのカテゴリーの中に風土が存在している。

・与えられた環境が、人間以前にまず存在している。それはそれなりの質を持っていて、われわれの世界の土台となっている。土台は「主題」の位置にある。
・主題のとらえ方は「述語的」である。「述語的にとらえる」ところに、現実が現れてくる。
・categoryとはアリストテレスに遡り、「述語」という意味。モノについて言われる「解釈の仕方」のこと。
・主題(Subject)と述語(Predict)の間に現実があわられている。
・例えていえば、土台(subject)とは文字通り「下にあるもの」=ヒュポケイメノン(ヒュポ+ケイメノン 下に置かれたもの、基体、subjectum)。
・それについて語ることが「述語P」
・述語とは、言語的なものとしてだけではなく、「ものごとのとらえ方一般」のこととして考えている。
・では人は、どのように土台である自然をとらえているか。
・「土」は自然、地球、大地。「風」とはその「土」をどういう「風」にとらえるかということ。つまり、雰囲気、文化、人の生きている世界のこと。あわせて「風土」
・「風土」は1935年に出版されたが、そのなかに1928年の論文も入っている。ちょうどそのころ、1934年に出版された本の中でユクスキュル(Jakob Johann Baron von Uexküll)が同じようなことを考えていた(ユクスキュスルは自然科学者で動物行動学を専攻)。
・和辻は人間を取り上げ、文化論の次元を語っており、一方、ユクスキュルは動物を取り上げ、生命の次元で語っているため、語っている水準が違うが、やはり相同する(homological)ものがある。
・和辻は、「風土」の1行目でこう書いている。「環境は自然学の対象となるもので客観的であり、風土は人間の主体性が前提であるという違いがある」。
・ユクスキュルによれば、生物一般のレベルで「与えられた環境Umgebung」があるが、その中で各生物(種)は、それをもとにして特有の「Umwelt」を持っている。
・その種は、その種に最適な、一番適当な環世界を持っている。風土についても同じことが言える。
・それを一番完璧にあらわしたのがプラトン。ティマイオスで「コスモスは一番大きく、一番良く、一番美しく、一番完璧なものである」と語っている。
・コスモスは、本当にそんなに良いのか、positiveな価値だけを持っているのか。ユクスキュルから考えれば、一番人間らしいのがコスモスなのだから、人間にとって一番良い。
・では、negativeな価値はどうなったか。忘れ去られていた。無視された。
・その例として、山元健吉の歳時記の文章「歳時記はひとつの秩序(コスモス=秩序)の世界なのだ。それは真であり美であり世界である」。
・日高敏隆「動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない」。しかしこのタイトルはちょっとおかしいところがある。動物はそれぞれがそれなりの世界を持っており、イリュージョンではない。世界はイリュージョン・幻影ではない。これはまた別の話なのでここまでとする。
・筑波 常治「米食・肉食の文明」1969。日本の風土は諸外国に比べると災害もあるが問題にならないほどである。
・どうしてこのように考えるか。災害を忘れるから。怖いからこそ忘れたい。
・しかし、ある種にとっては最悪の条件であっても、その種にとっては最適になりうる。人間も同じ。日本は災害が多いが、そこに生きる日本人にとって一番住みよい風土になる。
・和辻の風土の定義に戻るが、「風土は人間存在の構造契機」。契機とは力学的momentのこと。
・人間は二重性を持つ。一方は「人」、もう一方は「間・あいだがら」。二つ合わせて「人間」になる。
・私(ベルク先生)は、風土性を「メディアンスmédiance」と翻訳した。meditasは「半分」の意味。つまり半分は「個人」で、もう半分は「社会・風土」。二つあわせて「人間」になる。
・人類学者によれば、人間の出現は、ひとつの霊長類としての動物が、身体機能を外部化したからである。ひとつは技術体系、もうひとつは象徴体系として外部化した。しかし、この二つはもとは身体の中にあった=同じ存在者に属している。つまり人の中にあった。
・これを「風物身体」と呼んでいる。つまり「風土」。和辻はこれを言っている。風土は人間の存在の一部であり、人間存在にかかわっている。我々は風土の中に自己了解している。風土は人間の肉体でもある。そこに「あいだがら」としての我々自身を見出す。
・風土性の研究において、自然と人間との間にいくつかの類型がある。日本人の特性としては「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」と和辻は語って、台風に比較している。ただしこれは環境決定論ではない。
・どの社会、どの風土にもいえることであるはずだが、とくに西洋近代では、人間存在の契機を無視しようという態度が現れた。17世紀以降にはっきり現れた。科学革命など。
・その例としてインドヨーロッパ語の「人称代名詞」。たとえば「I」はどの状況でも、どこへ行っても変わらない。Iのidentityは変わらない。状況とは関係ないものとしてある。あきらかに風土性、構造契機の考え方とは違う。
・近代日本語文法は、西欧語文法を無理に取り入れただけであって、「わたくし」を人称代名詞というが「I」と「わたくし」は使い方がまったく違う。「I」はいつでもどこでも「I」を使わなければならない。「わたくし」は、場合によっては使えるが、別の場合には使えない。それは人称代名詞とはぜんぜん違うものである。
・人称代名詞は、それ自体として存在している。環境や状況に左右されない。それをはっきり言ったのがデカルトのcogito。「われ思う故に我ありCogito ergo sum」、この場合の「われ」はどの場所、どのものにも関係なしに存在している。日本人の自己表現とは根本的に違う
・Iは主観・subjectの中心。一方、「わたし」は状況や関係によって別の表現にかわる(おれ、ぼく…)。また場合によっては表現されない。
・俳句を例に取ると、

 風鈴の小さき音の下にいる

ここでは誰が風鈴の下にいるのか言わない。「私がいる」とは言わない。誰がいるのか?もちろん話し手がいるはず。ここで最初に出てくるのは「状況」。
・西欧語の場合は「主体」、日本語の場合は「状況」が最初に出る。日本語は状況に敏感である。
・日本語では主語がはっきりしない、という批判がある。しかし、意味がない批判である。主語がないかわりに非常にはっきりしているのは、状況・季節、つまり風土がはっきりと存在している。
・万葉集でも、そのほうが非常に高く評価されている。「ものによせておもいをのぶるうた寄物陳思歌」では、ものが人間の思いをあらわす。本居宣長「もののあわれ」。あはれはどこから出るか、人の心から出る。同時にものに心がよせられる。通態的な関係がある。
・ものは人の心を表すことができる。
・例えば、東北大震災の後に残った、陸前高田の一本松。あの松は人に希望を与え、励ます。どうして一本の松にそれが可能か。ものに寄せて思いをあらわすということから考えれば、一本の松が人の思いをあらわしているから。また日本の歴史において松は特別なもの、松竹梅、能舞台にもあらわれる。
・それが今回は風土の中にあらわれた。伝統的風土のあり方は、いまだに続いている。

・これからどうなるか。近代においては特別な人間が現れた。つまり「個人」が出現した。
・「個人」は風土性を認めない、無視する。自分だけが自分として存在しようとする。これが近代文明全体を特徴付けている。特に経済は、これが元になっている。風土性を無視し、風土性と一緒に生きてきたもの(風物詩)を客体化し、つまり主体とぜんぜん違うものとし、主体から離れた。一種の「機械」として見始めた。生命をshareしたものとしてみない。
・風土は機械論的環境に還元されてしまった。このような存在論は近代合理主義であり経済学のイデオロギーの土台となっている。
・風土の価値は、人の心との共通の価値を持っていたが、経済から見ると、「数えられる」ような「量的な」「価格視」になった。
・英語の慣用句で「What gets counted gets done.数えられるものは実行できる→計量化できないものには意味はない」というものがある。このような世界では、(計量化しきれない)陸前高田の一本松はありえない。
・原則としてはありえないのであるが、近代人もやはり人間なので、じつは風土性という存在構造を基盤としている。しかしそれを見ようとしない、無視している。そういう世界観が問題になっている。
・震災以後はっきりでてきた批判(以前からあったものではあるが)として、近代的個人は自分としてしか存在していない。自分が死んだらもう終わり。ハイデガーも同じことを言っている。人間は「死に向かう存在」であるというが、実は矛盾している。存在は外に出ている(Da-sein ※Daは「そこに」、seinは「ある、いる、存在する」)。外に出ているということは風土に出ている。同時にDa-seinは死んだらもう終わりで、越えられない制限としての死を意味する。
・和辻はこれを根本的に否定した。ハイデガーの「死に向かう存在」から「生に向かう存在」として人間存在をとらえた。
・なぜなら、「人」は死んでも「間・あいだがら」は残る。名前、作品、仕事、人間関係は社会的に生き残る。
・陸前高田で亡くなった人は一本松に象徴されて、生き残った人はその松に守られている。残念ながら松は枯れるがクローン化されて生き残こる。
・このような生そのものの価値が重要である。つながり、支えあい、助け合い、人間のあいだがらを主張している。
・これからは、人間同士の「あいだから」がもっと大切になる。もっと深く、土台の、生命そのものが大事になる。
・たとえば、福島原発の事故について、放射能は何年も続き、controlできない。未来の子孫に残すしかない。
・何故こうなったか。それは近代的な個人的世界観による。個人は死んだら、すべてと無関係になる。つまり子孫は関係ないというエゴイズムによるものである。
・倫理学的に考えれば、これは悪である。このような悪は近代世界の特徴のひとつ。
・しかし、今の世界がいつまでも続くわけではない。つまり持続不可能な世界である。
・何故か。基本的な人間の価値に反している。基本的な価値とは真善美のこと。
・まず今の世界は真に反している。生態学的に見れば、今の生活は地球の生態圏をオーバーしている。
・次に善に反している。世界はどんどん不平等になっている。貧富の差。過疎化(日本もフランスも)、人間がその土地に居なくなるような世界が続くはずがない。
・そして美に反する。殺風景な世界、風景を殺す世界。
・根本的な人間の価値観・真善美に反する世界、それを変えなければならない。これから地元の人が風土に合わせて創造しなければならない。あわせて新しい価値観を創造しなければならない。自分の歴史を踏まえて、これからの歴史的偶然性にそれがあらわれるであろう、必ずあらわれる。それだけはいえる。
・何故なら、詩人ヘルダーリンの言葉にこうある。言葉を少し変えているが「危ない風土にこそ、救いになるものが生える」。だから、すでに救いになるものが生えてきているのではないだろうか。
※「危険のあるところ、救うものもまた育つ」(ヘルダーリン)

2.質疑応答
・質問1:福島原発事故の被災地の人は、土地から切り離されて生きなければならない状態になっている。風土、歴史性、土=下にあるものから切り離された。新たな土地で暮らすことになるのだろうが、移住は実際に可能なのか。またその際に何を心がけなければならないか。
・ベルク先生:人間は移民の歴史を持っている。明治時代に北海道に移民した人たちは、北海道に新しい風土を作った。それは新しい土地に独特に創造的にあらわれた。しかし、以前の風土とのつながりはあった。一番は稲作。北海道では稲作は不可能であり禁止されていたが、それでも農民は努力して半世紀の間に稲作を可能にした。人間にはどこに行ってもどんな状況におかれても、創造性があるから、移民してそこに新たな風土を生みだすことは必ず可能である。もちろんかなり時間がかかるだろう。

・質問2:人間は進歩し、近代主義に染まると、風土を破壊する。科学は進歩したが精神は貧しくなり、風土は荒廃した。それの象徴が原発事故ではないか。原発を建てる代わりに町にホールを建てたり図書館を作ったりしたが、一時的なものに過ぎず、埋め合わせになるわけではなかった。このへんについてどうお考えか。
・ベルク先生:自分はもう70歳なので、現場に行って住みながら考えることはできない。どうしても理念的話になってしまい申し訳ない。近代は、人の歴史のなかのあるひとつの段階である。近代人は抽象的な存在である。つまり具体的な風土的な基盤から、自分の存在を抽象した。だから自然と乖離している。やはり超克しなければならない。何故か。
・近代的世界観では、世界は持続不可能になった。現代は殺風景であるのと同時に殺風土的でもある。世界中が同じ傾向があり、その反発が表れているのが現在の状況である。

・質問3※省略
・質問4:真善美以外に「聖」をあげていないのは、どうしてか。
・ベルク先生:四つのカテゴリーのなかにも聖は入っていない。資源resourceについては、ブラフマンは聖が生きることのリソースになっている。制限・制約については、神聖さは制限になることもある。真善美についてはそれぞれが聖になりうる。科学にとって真はひとつの聖(一番高い価値)である。普通の人にとっては真実は大きな価値がある。侵してはいけないことをしない=善というのは聖である。美はたくさんの例がある。いま仙台に来ている尾形光琳はおかしてはいけない聖なるものである。聖はすべての価値にかかわるものという位置づけで考えている。

・質問5:ある種が、いかに最悪な環境に見えても、結果としてその種にとって最適の環世界に「なる」という話があった。ところで「なる」というのは自動詞である。そうさせる=「なる」というその力はなにか。
・ベルク先生:時間によって動く関係というものがある。動物の場合は「進化」。種と環世界が同時に進化する。主体の環境化と環境の主体化はおこり、お互いにだんだんと「適当」になっていく。それが「なる」である。人間もそう。人間は世界を作るが、作った世界の影響も受ける。たとえば、日本人は季節に敏感だから俳句を作ったりする。同時に俳句や歳時記によって、敏感になるというところもある。歴史の結果として敏感になっている。
(質疑終了)


・講演後に直接お聞きした話:福島原発事故の被災地から、別の土地に移っても風土の再生は可能である。ただし形は違って、新しい形になるだろう、環境への働きかけを行えば、そのリアクションもあるのでそれが反映される。浜通りの土地(土)から切り離されても、「風」は手元に残る。「人間」のたとえでいえば、個々の「人」ではなく、そこに通い合う「間・あいだがら」の部分が重要。これを新しい土地に持っていき、またそこに風土を作る。だから、コミュニティの維持が鍵となる。
※以下、私の感想をまじえて。
・以前のコミュニティがあれば、これまでの人間関係のなかに祭りも生き残るだろうし、文化も残る。そのコミュニティによって環境に働きかけて風土としていく。ということは、集落ごとに移転していない被災者(住宅)は重大な危機にあるともいえる。集団移転の前に、部落集落単位で生活できるよう、早急に引越しをしなければならないのではないか。そうしないと、孤独死、自殺はなくならない。

かなり駆け足でまとめたため、ところどころ分かりにくいところもあると思う。原因は私自身が理解しきれていないからだろう。しかし、今だからこそ、この土地だからこそ聞くべき、大きな意味のある講演だった。

※東京での講演抄録は毎日新聞に掲載されていた(3/27付け朝日にも記事があったが扱いは小さかった)。
http://mainichi.jp/select/weathernews/archive/news/2012/03/16/20120316ddm003040071000c.html

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今年はじめての帰郷

2012年3月7日
勤務を終えて帰宅。子供は昨日より発熱、ただしインフルエンザではないとのこと。
家人帰宅、みやげ物を買いに新宿へ。伊勢丹にて姉、叔父、友人への土産を買う。
夕食後、blogを時間ぎりぎりまで書く。
22時40分過ぎに家を出て大手町へ。東京駅八重洲口に向かう。高速バス乗り場であるヤンマービル前に、大勢の人、たくさんのバス。あるバスの運転手さんが、受付をしなければ乗れないと教えてくれた。
それらしい人何人かに尋ね、やっと仙台行きのバスの受付を済ます。しばらく待って乗車。バスは3列席。乗り込んでからワインを飲むがあまり寝付けない。午前2時に佐野サービスエリア、午前4時過ぎ国見サービスエリア。それから急に眠くなり、少し寝るともう仙台であった。午前6時半。まず、コインロッカーに荷物を入れ、広瀬川に向かう。途中、東北学院大などある。
広瀬川に出てしばらく河岸を歩く。パノラマカメラで撮影。広瀬橋には、人柱の悲しい話があった。常磐線線路高架下の川原に降りる。常磐線からいつも見ていた風景はここだった。
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ここから仙台駅方面に戻る。多少の疲労と眠気。地下鉄駅を見つけ、乗る。2駅で仙台。もし歩けば、けっこう遠かったはず。
9時を過ぎていたので、駅地下の喫茶エビアンにてモーニングセットを食べる。河北新報を読んでいたら、明日東北大にてオギュスタン・ベルク先生が講演するという記事を見つけた。行くべきか。この偶然には意味があると思い、行くことに決めた。
東北大の場所がわからないので、一度行ってみることにする。観光案内所で大学への行き方を聞き、バス停に向かう。
バスは市街地を抜け、西の山側に向かう。東北大は、山に向かう途中にあった。会場を確認して、またバスで町に戻る。駅の手前でバスを降り、仙台の町を歩いた。
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昼食がまだだったので、常磐線の切符を買い、改札を通った。駅ソバがあったので入ってみたが、大変な混雑でなかなか食券を受け取って注文を聞いてくれなかった。ソバは可もなく不可もなし。
列車に乗り、亘理まではいつもどおり。そこから先は津波のためいまだに線路がないのでバスに乗り換え。途中、新地町役場前後、津波のあとが残る。夏来た時は瓦礫が山積みになっていたが、片付けられていた。
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相馬着。震災被害の建物を壊したためか、更地が多い。町並みがさびしくなった。
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帰宅。姉と夕食。9時過ぎまでいろいろと話。天気は終日悪し。夜から雪。

3月9日
引き続き雪模様。高速バスにて仙台へ向かう。亘理近辺、津波のあと、やはりまじまじと見つめてしまう。泥に埋もれた田んぼ。なかにはあぜを切りなおしたらしいところもあるようだが。仙台近くに、また津波のあと。はじめてみたところ。場所はわからず(後で調べたら「鳥の海」という汽水湖らしい)。
11時過ぎに仙台着。電池とノートを駅周辺で探すがなかなかない。結局、書店で大きめのメモ帳を買い、電池は駅前のツタヤで買った。
12時半過ぎのバスに乗り、東北大学へ。13時を少し過ぎていた。会場に入ると、挨拶が始まっていた。やがてベルク先生の講演。これは別途記す。
講演後、先生と少しお話をした。何が一番大切か。やはりコミュニティ、あいだがら=人のつながり、それが基盤となってはじめて新しい風土を生み出すことができる。
ベルク先生の講演後、まだシンポジウムは続いていたが、仙台駅に戻り、再び高速バスで相馬へ向かう。バスに乗ったら前の席の女性から、海が見えるのはどちら側かと尋ねられ、進行方向左側のはずと答える。バスが、新地を過ぎたあたりの津波のあとに差し掛かると、その女性は携帯でその景色を何枚も撮影した。携帯の人工的シャッター音が車内に響いていた。
帰宅し、夕食。
後片付け後、ベルク先生講演のまとめを作成した。午前2時ごろ、一通りまとまった。結局終日雪と雨。


3月10日
本日も雪。洗濯をしてから、叔父夫妻の家に向かう。タクシー車中で、運転手さんと話。浜の水揚げがないので、景気が悪いという。
11時過ぎに叔父の家に着いた。叔父叔母とお茶を飲みながら近況を話し合う。浪江出身のおばの話。浪江近辺に親しい友人5人組がいて、4人は小高に住んでいる。原発事故以前のことだが、叔母が、東電勝俣社長はいつもテレビで県知事に謝っているので(東京ではニュースにならないが福島ではけっこうこういうことがあったらしい)、あんなにちょくちょく事故があるのなら、そのうち大事故があるに違いないといった。しかし、友人たちは何も言わなかった。あとで聞いた話では、原発周辺の自治体では、医療費が無料で、そのほかに年間1万円がなんらかについての保証金(詳細は不明)として、賛成派にも反対派にも一律に振り込んでくる。だから、小高にいる人は、真意は別として東電のことを悪くはいえなかっただろうとのこと。
伯父宅付近も地盤沈下していて、近所のコンビニの前は潮が満ちてくるといまだに冠水する。今度防波堤を直したので、収まるらしいが。
浜で水揚げがないと景気が悪いという話に関連して、叔母が小名浜で聞いた話。家にいると、高額なハンドバックの行商が来る。またその他衣類(高額)の訪問販売も来る。理由は、北洋漁船団が寄港すると、奥さんたちがばっと大きな買い物をする。そういう家では、訪問販売のハンドバックをぱっと買ったりするという。また、町の気風の話。福島市は役人の町で、万事がつましく控えめ。小学校のPTA役員も、互いに譲り合ってなかなか決まらない。小名浜では、先生が誰かを指名すると、「ハイいいですよ」とすぐに決まる。福島市では父母が総出で学校の近辺の清掃をすると、お疲れ様といって、キャラメル一個(一箱ではない)くれるくらい。小名浜では、別室に導かれると、カルピスが入った薬缶がたくさんあって、お菓子が山積みになっている。それをどうぞどうぞとすすめられる。
亘理漁港で漁を再開するというニュースがあったが、感心しない。放射性物質は福島県仲通りに向かって飛んだ。そこを流れるのは阿武隈川。阿武隈川の河口はどこか、それを考えたら、できないはずという。

話をするときりがないので、1時間ほどで退出。祖父母の墓参をして、歩いて浜に向かった。
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二小前の松田商店、津波の被害を受けていたが、更地になっていた。
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コンビニ前、津波のあと残る。ここでカツサンドを買って昼食とした。
そのまま松川浦に進む。
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浦のなかに流された住宅は撤去されていた。旅館「かんのや」のバスももう海の中にはない。海沿いの津波で壊れた家は、更地になっていた。その更地が思った以上に多かった。大きな瓦礫は撤去されたようだが、ところどころ片付けきれていない残骸が残っている。ふと思い立って、供養のため酒を海に注ごうと思ったが、酒屋は看板だけでもう営業していない。自販機で水を買い、松川浦の港の突端から海に注いだ。
さらに原釜方面に浜辺を歩こうと思って向かったが、ふと松川浦大橋を渡ってみようという気になった。車は通行止めであるが、徒歩ならば脇の階段から橋にあがれる。
雪の中、橋を渡って鵜の尾崎トンネルに向かう。トンネルの向こう側で堤防が途切れているらしい。そこまで行ってみよう。鵜の尾崎灯台は、遠目からは以前と変らぬように見えた。
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歩いていると、頭上の橋梁から時折雪の固まりが落ちて大きい音がする。渡っていると、なんだか足元がふわふわして心もとなかった。ゆれているのかと思って立ち止まったがそうではなかった。橋からは、津波で寸断された外洋側の堤防がよく見えた。
橋を渡りきると、トンネルに向かう道が続き、左手の海からは、大きな波が防波堤にあたって、白いしぶきを立ち上げていた。なんだか海が盛り上がって見え、津波がまた来るような錯覚を覚えた。思わず右手にある断崖を見て、どこから登れば助かるだろうかと考えながら歩いた。
トンネルの前までつくと、なんだか恐ろしいような気がして、トンネルに入っていくのが少しためらわれた。思い切って入り、しばらく歩くと出口が見えた。なんだかそこから先は新しい世界があるような気がして、写真を撮ろうかと思い、もう少し歩くと、トンネル出口の左手にお地蔵様が何体も立っているのが見え、心が急に静まりかえった。ここで写真を撮るのはなんだか不敬である気がして、トンネルから撮影するのはやめた。傘を置き、お地蔵様それぞれに手を合わせた。お地蔵様の中には首がとれていたものもいくつかあった。波の衝撃波がそれほど強かったのだろう。線香なりお神酒なりジュースなり、お供えするものを何も持って来なかったことを後悔した。
トンネルの出口まで来て、手を合わせ終えると、左手からなにか強烈なものを感じた。見ると、崖の小高いあたりの岩肌をくりぬいたところに、摩崖仏のように何十体もお地蔵様が並んでいた。そこから、なにかの大きな衝撃を感じたからのようだ。そのお地蔵様に向かって手を合わせ、亡くなった方への冥福と、生き残っている者を見守ってくださるようにお祈りした。
そして、心の中で手をあわせながら、撮影させていただきますと小さく口に出して、左手に見える外洋と、左手の荒れた松川浦、中央の防波堤の道路をそれぞれ撮影した。お地蔵さまを撮影することはどうしてもできなかった。篠山紀信や週刊新潮のカメラマンなら撮影したかもしれないが。
撮影したあと、港町ブルースを歌った。
 背伸びして見る海峡を、今夜も汽笛が遠ざかる。あなたにあげた夜をかえして。港みなと函館、通り雨。

もう一度お地蔵様に向かい合い、今度来るときは何か供養になるものを持ってきますよ、と言いながら、来た道を引き返した。トンネルをくぐりぬけたとき、あちら側は、やはり異界だったのだろうかと思った。そういえば、トンネルのこちら側は風が強く、雪が激しい。しかし、トンネルの向こう側は風も静かで不思議に静かな印象だった。
波が叩く防波堤脇の道を橋に向かって戻って行く。
橋のたもとについたとき、トンネルのほうを向いて一礼した。そして、橋の真ん中あたりに来たとき、雪の固まりが傘にどさりと落ちてきた。このときは本当に魂が飛び出そうになった。一体これはどういう意味だろうか。行っては行けないところに来たことへの警告なのか、浜の漁師風の少し手荒い礼なのか、それともここに来たことを忘れるなというためなのか、それは分からなかった。
橋を渡り終え、また一礼した。古来、橋の向こうには異界があるというが、それは真実なのだろうと思った。異界は少し恐ろしいが、しかし、少し不思議な懐かしさのようなものも感じた。何故だろうか。このときのことは、まだ言葉になおして書くことが難しい。
再び、松川浦の町中に戻って時計を見た。バスまではまだ時間がだいぶある。タクシーを呼んで帰ることにした。雨宿りをした民宿は、いまは普通の営業はしていないようだが、テーブルの並んだホールで、兄弟が仲良さそうに過ごしているのを見ながら車がつくのを待った。
10分ほどだろうか、車が来て、市内に戻った。口数の少ない運転手さんで、ほとんど会話はなかった。

家に帰って、濡れた衣類を乾かしていると、姉が、近所のホールでやっている蓮池薫氏とジャズの催し物をぜひ見に行けと勧めるので、断るのも悪いと思い、整理券をもってホールに向かった。
すでに主催者が挨拶を始めていた。ホールの入りは八分どおりだろうか。主催者によれば、東京や広島からツアーを組んでこの講演会に来た人もいるという。なんだか不思議な話ではある。
蓮池氏の講演は途中で出た。

そのあと喫茶サントップへ、やはりアイリッシュコーヒーはない。訊くと震災以降作れなくなったという。以前注文した時は震災でそれ用のグラスがなくなったので作れないといっていたが、グラスなら買うことが出来るはず。作りたくないわけがほかにあるのかもしれない、などと考えてみた。
店内に初老の女性がいて、お店の人と話していた。話の様子では、あの日に亡くなった方がいるらしい。「もう一年になったね」と言われると、その女性は「これで1年たったから、もういいんだ」と笑いながら言ったが、相馬の人らしいと思った。深刻なこと、つらいことでも、自分を突き放したように笑い交じりに話すのであるが、本当ならそのような口調で言えるはずがない内容である。母が東京に避難してきた時も、同じような口調で自らも他もかるく笑うような感じで話していた。ドライというよりはプライドが高いからなのか、それとも泣いてもしかたがないので、せめて笑いをまじえて話しているのか。マスコミでは「被災地ではときに明るい笑顔も見られ」などと言っているが、ほんとうはそんなわけがないだろう。
コーヒーを飲みながら見ていた福島民友に県内で亡くなった人の一覧が載っていた。帰る途中、コンビニでこの新聞を買った。何人か、知っている人の名前があるはずだ。
広文堂に向かい、高校時代に現代国語を学んだ若松丈太郎先生とアーサー・ビナード氏の共著「ひとのあかし」を買う。友人の分も買いたかったが、懐に余裕がなかった。
家に戻り、姉の味噌おでんを夕食とする。おいしい。

今日の松川浦大橋の向こうのことを書かねばならぬような気がして、PCを起動して、文章をここまで書き進めた。そのために、今回の帰郷の始まりのところから書き起こして、ここまで文を進めた。

夜になって思い返してみると、松川浦大橋を渡って帰るときに、橋げたから落ちてきた雪の意味は、こういうことではないか。
以前、若くして亡くなった方を偲ぶ会に参加した。その方は優れたグラフィックデザイナーで人望も厚く、いろいろな分野から人が集まっていた。その会は、お酒を飲みながら進められていたが、会の途中で、主賓の場所に据えられたその方の写真が急にガタリとずれ落ちた。居合わせたみんなは、「ああ、あの人はここにいるんだな」「私はここにいるよと言いたくてガタリと動いたのだろう」と語り合った。同じように、あの雪が傘にぶつかってきたのは、「私たちはここにいるよ、私たちを忘れるなよ」というサインではなかったかと思う。

明日は3月11日である。もう寝なければならない。でも明かりを消して寝るのが少し怖い気がする。どうしようか。買い置きのワインを飲んで、今日は寝てしまおう。明日は父の墓参に行かねば。


3月11日
昨夜は遅かったが、8時過ぎには朝食。まず神棚の榊を替えて、その後、墓参りに行った。
お寺に行くと、まだ倒れたままの墓石がいくつもあった。うちのお墓に行き、掃除し、花を替え、線香をあげた。また、親戚の墓に行き、同じように線香をあげた。
いったん家に戻って昼食、その後、慰霊祭の会場である市民ホールに行ってみた。ホールの前に行くと、まだだいぶ時間があるのに喪服を着た人が続々と入っていく。やはりここは自分の来る場所ではないと思い、長友グランドへ向かった。昨日広文堂書店で見たのだが、ここで「東日本大震災罹災者供養、復興成就祈願 紫燈大護摩供養」というのをやるらしい。題は長いが、護摩を焚くということ。自分にはこちらがふさわしいと思い、開式を待った。グランドの東隅に縄で結界が張られ、祭壇と護摩壇が設けられていた。なんだか修験者のようにも見える僧侶が30人ほども居たろうか。法螺貝を抱えている人も10人近くいた。
2時30分過ぎに式が始まり、2時46分にサイレンとともに黙とう。周りからは鼻をすすりあげる音が聞こえた。自分の目も熱くなった。そのあとに、天皇陛下からの言葉の中継。昨年以来、苦楽を共にしてくれる今上陛下と皇后陛下(皇后陛下は昔からファンだが)に、これまでとは違ったなにかある種の紐帯(といったら不遜か、そうではないと思うが)を強く感じるようになった。以前、祖母が、うちの母に対して、「戦争であれほどひどい目にあったのに、それでも天皇陛下(昭和天皇)が好きな私たちをバカにするかもしれないが、言葉ではいえない気持ちがあるのだ」と言っていたのを聞いたのだが、その祖母の気持ちが少しわかる気がする。
その後、護摩を焚く儀式が始まると思ったら、司会者が延々と協賛した会社の名前を読み上げ始めた。それが済むと、やなせたかしが今回の件に非常に協力してくれたらしく、そのせいか、なぜかみんなで「手のひらに太陽を」を歌うことになった。付き合いきれなくなって、相馬城跡の崩れた土塁と石垣を見に行った。

2012082910.jpg

しばらくして戻ると、やっと本当の式が始まるようであった。いくつかの所作、祝詞のようなお経のような言葉、ただし意味はとてもよくわかる。死者を悼むとともに護摩によってさまざまなものを焚き上げようということであった。
やがて、火がつけられ、煙が上がり始めた。その煙は、柴の水気を含んでいるせいだろうか、とても濃密な煙で、風によって動くさまはなんだか生きもののようにも見えた。

2012031208.jpg

「家内安全」やら「津波が来ないように」などと思い思いに書いた護摩木が焚き上げられ、やがて炎が落ち着いた。
この日、藩主相馬家の菩提寺である歓喜寺より秘仏が特別に寺から運び出され、祭壇にあげられていた。しかし、帳は最後まで開かなかった。そういうものだろうか、そういうものなのかもしれない。
なんとなく、何かがひとつ済んだような気持がして、家に帰った。

2012031209.jpg

姉と夕食をとり、夜食用に鳥九のコロッケをパンにはさんで弁当にした。
またもバスにて相馬駅から仙台へ。窓の外は暗くて何も見えない。仙台には20時30分ごろ着いた。またも雨模様。駅のあたりを少し歩いたが店も閉じる時間。駅の地下の喫茶エビアンに行き22時まで1時間ほど暇をつぶす。その後、長距離バスの待合室に移動しまた30分ほど所在なく過ごす。というか、いろいろあったためか、何もする気が起こらない。時間近くなってバスのターミナルへ向かう。すでに受付が始まっており、予約を確認して、そのままバスに乗り込んだ。行きは3列シートで余裕があったが、今度は4列シートで、なかなか狭い。仕方がないので、そのまま目をつぶる。
寝るともなく時間を過ごし、朝5時に新宿に着いた。こんな時間から電車があるだろうかと思ったが、地下鉄はすでに動いていた。始発電車に乗って帰宅。シャワーをして髭をそり、1時間ほど仮眠。その後、会社に向かった。

さすがに疲れたな。
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