eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2011-09

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吉祥寺のディスクユニオンで、またしても「ありきたりの進歩」をご購入。

「10/9(日)ディスクユニオン吉祥寺店presents!!【突然段ボール × LOVE ME TENDER】店内LIVE開催決定!!」http://blog-kichijyouji.diskunion.net/Entry/3714/という記事を見て、入場整理券がほしくなったのだが、そのためだけにもう1枚CD買うのは、厳しいっす。
とか思ってたら、ここで買うと、おまけでDEMO-CDRがつくというので、ついついもう1枚買ってしまった。
1枚余ったがどうしよう。音楽好きの人にあげようかと思う。

ちなみにライブの入場整理券の番号は66番でした。
満員で見られなくなるかもしれない?から、ファンの人は、俺のようにもう1枚買うことをお勧めする(w。
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突然段ボール新譜「ありきたりの進歩」

なんか、知らぬ間に突然出ていたので、あせってタワーレコードに買いに行きました。あと1枚しかなかったな。追加注文かけるんでしょうか。

今回のCD、まだ聞きこんでいないけど、今回はラブソングがありますな。音の感触は、よりギターバンドらしくなっている。「D」のときのmixとは違うが、ガチャガチャしたかんじが曲調にあっているようなきもする。

曲自体は、わりといろいろ展開する傾向が強くて、もっとシンプルでもいいような気がする。そんなに1曲に要素を詰め込まなくてもいいよというか。でも、みょ~にポップなかんじでもある。12曲目「月は△」では、歌詞にCDタイトルと同じ「ありきたりの進歩」という言葉が出てくるくらいで、肝の曲だと思うけど、けっこうノリノリの一見普通で、ちょっと聞くとやっぱり変という独特の世界が広がっています。「D」もそうだったけど後半のほうが好みかもしれない。

今回なかなか聞きこめないのは、歌詞カードのデザインというか、色指定が字の読みにくいものになっていて、最近老眼になってきた俺にはなかなか詩を読みとるのが難しいのです。
それとジャケット画は根元敬画伯、でもそんなにグロくない。頭が深谷ネギの段ボール箱の男がギターを弾いている絵が笑わせてくれる。なんかリーダーに生き写しとも言える。

10月9日(日)に吉祥寺のディスクユニオンでライブがあるけど、ユニオンでCD買ったら招待券もらえたらしい。池袋でCD買ってちょっと早まったか(w。どっちにしろ行くけど。http://blog-kichijyouji.diskunion.net/Entry/3714/

で、11月4日(金)突然段ボール/ありきたりの進歩 CD発売記念ライブ
at 渋谷O-nest http://shibuya-o.com/nest/2011/09 とのこと。これも行く。
http://totsuzendanball.com/live/

ファンでなくてもCD買ってください。

立行司の懐剣と裁判官の身の処し方

大相撲の行司、第35代木村庄之助という方が引退されたhttp://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011092400261
たしか、行司さんは差し違えのときに切腹するように懐剣をしのばせているはずである。

ところで、裁判官も人を裁く仕事であるが、裁判官こそ常時、懐に短刀を帯びて、判断に過ちがあったことが判明すれば切腹するということにしたらどうだろうか。

先ほどNHK教育で、伊方原子力発電所の裁判について取り上げていたが、あの裁判では、原発設置の判断については専門家集団を持つ政府が判断すべきであり、住民はその判断の場に預かれない(意見ぐらいは聞かれるようだが、九電やらせ事件のようになる)とした。裁判長は豊永多門という方である。http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E8%B1%8A%E6%B0%B8%E5%A4%9A%E9%96%80&lr=lang_ja#sclient=psy-ab&hl=ja&lr=lang_ja&safe=off&tbs=lr:lang_1ja&source=hp&q=%E8%B1%8A%E6%B0%B8%E5%A4%9A%E9%96%80%E3%80%80%E9%AB%98%E7%9F%A5%E5%B8%82&pbx=1&oq=%E8%B1%8A%E6%B0%B8%E5%A4%9A%E9%96%80%E3%80%80%E9%AB%98%E7%9F%A5%E5%B8%82&aq=f&aqi=&aql=1&gs_sm=e&gs_upl=45666l58725l1l59516l25l14l5l0l0l2l1022l5788l3-2.5.3.0.1l14l0&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.&fp=bbff700109b102d6&biw=1400&bih=869

判決を見ると、裁判長は、
「原子炉事故等による深刻な災害が引き起こされる確率がいかに小さいといえども、重大かつ致命的な人為ミスが重なるなどして、ひとたび災害が起こった場合、直接的かつ重大な被害を受けるのは、原告らをはじめとする原子炉施設の周辺住民である。原告らの指摘する国内外の原子炉施設における事故・事象等の発生それ自体が、周辺住民に不安を抱かせる原因となっていることは否定できない事実であり、これらの不安に誠実に対応し、安全を確保するため、国や電気事業者等に対しては、今後とも厳重な安全規制と万全の運転管理の実施を図ることが強く求められる。」と付言した、とある。
しかし、結局、裁判長は住民側の訴えを退け、
「原子力発電所自体の安全性については、『兵庫県南部地震(阪神大震災)を踏まえ、同海域の断層を考慮した解析でも、原子炉には安全性があることが認められる』などとして、「安全審査全体が不合理であり許可処分が違法とはいえない」とした。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=10-05-02-04

しかし、福島第一原発事故を見るとき、「同海域の断層を考慮した解析でも、原子炉には安全性があることが認められる」というような論拠で、住民原告側を敗訴にすることが果たして正しかったか。
判決時点では、誠実とも思われる判断だったのかもしれないが、こうなってしまった以上、この判断は結果として誤りだった(=断層を考慮すると原子炉の安全性には問題がある)のは認めなければならないだろう。

簡単に言うと、司法にかかわる人が、重大な問題において結果として誤った判断をした場合、自らにどのような判断を下すのであろうか。興味がある。
行司は懐剣をしのばせているが、実際には差し違えても切腹はしない。だから、この裁判官だった人にも、当然そこまでは求めていない。だが、なんらかの責任のとり方があるのではないかと思う。
他人の人生(場合によっては生命まで)を左右する立場にある人が、その程度には自らにも厳しくあってほしいと思う。

とはいえ、やはり人間は間違える。
自分が職業としてそのような仕事を選ぶことはまずないが、個人レベルでは重大な事柄で人を裁くようなことはできるだけしたくない。なので裁判員になれと言われたら、罰金払ってばっくれる。
重大な選択をしなければならない場面もあるだろうが、それは個人で責任が取れる範囲だけにとどめたい。

裁判官も人間なので、当然間違えるだろう。判決の際、せめて間違えているかもしれないという恐れを持って判決を出してほしい。そして判断が誤った場合は、謝罪すべきだろうと思う。

司法という制度に対して、人間味のような甘っちょろいことを書いているのは自覚しているが、制度と法によって原発立地を押し通してきたのも事実である。システムより前に、人間が来るべきではないかと思う。

週刊新潮の原発事故関連記事「御用学者と呼ばれて」について

週刊新潮の原発事故関連記事「御用学者と呼ばれて」(なんか、昔の「不良少女と呼ばれて」みたいな風情ですが)を読んで、いろいろ言いたいがあるので書いてみます。
なお記事の内容は、概ね3つくらいの柱に分れるようです。
1.御用学者と呼ばれて信用されない。(その結果、これからいろいろな問題が起こるだろう)
2.政府に助言したのに、言うことを聞かなかった
3.御用学者は、普通に予算がつくだけで、見返りはない。一方、反原発派の学者には、別の意味で見返りがあるのではないか。

例として、1について。
澤田哲生(東工大助教)
・ニュース番組のコメンテーターから、「先生は大丈夫と言っていたのに最後には裏切られた」と言われた。しかしある条件下ではこうなる可能性があると、科学的知見に基づいて真摯に答えてきた。
三橋紀夫(東京女子医大教授)
・科学者として手に入る情報できちんと答えると、御用学者と呼ばれるのは心外です。
奈良林直(北大教授)
・専門家の発言を封じる社会はいけません。
松本義久(東工大準教授)
・科学者として正しいことを言うのが学者の最大の原理。

→「科学的知見に基づいて真摯に答え」ても、予想が外れたので、嘘吐きと言われても仕方がない。「科学者として手に入る情報できちんと答え」ても、手に入る情報が東電からのものであれば、情報自体の信用性は低い。実際、専門家であるはずの東電は後だしでいろいろ情報を修正しているものな。「科学者として正しいことを言」っているつもりだったのだろうが、予測が外れれば、残念ながら信用されない。それをさして、「専門家の意見を封じ」ているとはいえない。信用されていないだけです。そしてこの場合の専門家=科学者が信用されない理由を考えてないといけないのではないかな。で、私もこの件ちょっと考えましたので、後で書きます。

ところで、大学では分りませんが、普通の仕事の場合、失敗したけど一生懸命やりました、では通りません。彼らは、原発の危機的状況(今もそうだけど)の際に、ある種の予想と対応の仕方を求められたのだが、その予想は外れて福一原発は4機も爆発した。その事実を前にして、科学的根拠をもとにしているのだから信頼せよ(というか御用学者と呼ぶな)というのは世間的には(普通は)通らない。

2について
奈良林
・アメリカでは専門家が政府に助言する、それが本来の御用学者。
三橋
・個人の被曝量のモニタリングが必要だと学会として政府に進言したが、後手に回った。

→政府に助言する学者が、全て御用学者と呼ばれるわけではないだろうと思いますが、それは揚げ足取りとして。このへん、学者として仕事(進言)はしたのだが、政府が聞いてくれなかったのが悪いという、一種のアリバイ発言のようでもある。しかし、一般人が学者、専門家に期待するのは、こういう場合にこそ、あるべき方向に政府が動くよう強く働きかけることであって、「アドバイスしたけどダメでした」ではお話にならんのです。この件、ヨウ素剤服用の件を政府に進言したがダメでした、といった鈴木元・国際医療福祉大教授に通ずる無能さで、よく似ている。諌死せよとは言わないが、うまく進言が通らなかったときは自ずから恥を知って、人前に出ないようにするのが昔ながらのあり方です。

3について
今回の記事では、どうやらこのへんのことが言いたいようです。つまり、御用学者が役人から金を配られているのだろう、と思われているように、非御用学者(反原発派)もどこからか資金が出てるんだろうと言いたいわけで、御用学者だけを悪く言うなと言いたいのでしょうね。
この件については、東電から流れ出る金額、および同じく政府経由で流れる金額の多さを知ると、やはりどうも信用できかねる(どちらも私たちの税金ですけどね)。

この件について言うなら、御用学者も反原発派も「ひも付き」の発言をしてるのであれば、1.どちらも信用しない、2.学者は良心をもつので金で意見は動かないとして両方信用する。3金の出所次第で判断する、の3つの態度があろうが、この件についてはどう考えるべきか。
今回については、実績から考えたい。というか、実績があれば、普通の人は「さすがお国と一緒に仕事している人達は違う」と称賛の声をあげたはず。そうはならなかったので、こういう記事が出て、御用学者と呼ばれた人たちがぼやくわけです。
精査するとキリがないので、要点だけ。
・原子炉は爆発しない→爆発した。
・津波のせいで電源喪失したので壊れた→津波の来る前に、地震で配管が壊れて冷却不能になって壊れた。
・政府は除染が遅い→除染が遅いといって現地に向かったのは、この人たちではない。例えば木村真三氏は、放射線医学総合研究所に勤務していたわけだが、誰もこの人を(元)御用学者とか言わないでしょう。
いろいろ言えばきりがない。

以上長々書いたが、実はこれからが本論(でも短い)。
原発事故以前、国民が御用学者の言うことを信用していたのは、科学的に論拠があり、それに対して理性的に納得していたからではなく、偉そうな人が大丈夫だと言っていたのでそれを信用してみただけである。
原発事故以降は、信用していた学者の言うとおりにならなかったので信用しなくなったが、事故以前と以後のどちらも、国民の判断基準は、科学的根拠とは無関係であることは変わりがない。

しかし、今後していかなければならない除染作業、収束作業等は科学的根拠に基づいて行わなければならない。また個人の日常生活においても、何を食べ、飲み、どこで、どのように生活するかという具体的な場面で科学的根拠に基づいて判断し行動しなければならない。
私としては、原発推進派学者の信用がなくなるのは仕方がないと思うが、羹に懲りてなますを吹くの言葉通り、科学的発想自体が否定されるようなことになりはしないかと危惧する。
長期的にみれば、反科学主義的発想、論理的思考に基づかぬ感情的、もしくは前例踏襲的図式に則った考え方をする人が増えてくれば、結局は原発事故の収束および放射性物質汚染下での東日本の生活がうまく立ち行かなくなるだろう。それを最も恐れる。

とか書いていたら、今年中に原発事故を収束させるなどと日本の首相が国外で大語壮言した。収束作業を急がせること、即ち無理な作業により作業員の危険を増やすことである。急がば回れともいう。無駄にゆっくりやるのは論外であるが、作業の迅速化は可能な範囲内にとどめてほしいと思う。とくにこの方のtwitterを見るとそう思うhttp://twitter.com/#!/Happy20790。この方々には頭が下がります、一方、東電本社に対しては、頭に血が上ります(対句表現)。

また、福一原発で9月23日には「格納容器配管から水素検出=1%超、爆発の可能性低い」と言っておきながら、http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201109230040.html、9月24日には「水素を含む可燃性ガスが100%以上」で実は100%を越えていました、昨日の1%というのは100%を超えて101%という意味です、とか言ってるhttp://www.asahi.com/national/jiji/JJT201109240045.html
http://www.fnf.jp/bb10/mbbs.cgi?mode=view&no=30201&page=1

この期に及んでこのような嘘(わざと間違えるようなものの言い方)をすれば、普通はぶち殺されます。先ほどの話にもどれば、原発のデータを最も持っているのは東電だろう。しかしこのように信用できないデータをもとに推論するであろういわゆる御用学者を、科学的意味で信用せよと言われても、やっぱりちょっと無理です。
このへんのことは、頭が良い学者先生方、官僚や政治家の皆さんには、かえって分らないかもしれないが。

9月22日NHK総合「ニュースウォッチ9」ヨウ素剤はなぜ服用されなかったか。

9月22日のNHK総合テレビ「ニュースウォッチ9」にて、なぜ福一原発事故の際、子供だけでもヨウ素剤(KI)を服用させなかったのかという話題を取り上げていた。
そのなかで、原子力保安院原子力防災課長・松岡建志という人が、「あの時は通信手段がなく、混乱した状況だったので出来なかった、ごめん(大意)」等と言い訳していた。
http://blog.livedoor.jp/housyanou/archives/4550902.html
この人、テレビで名前と顔を出しているが、ある意味「勇気のある人」ではある。とりあえず、この人の顔をおぼえた福島県民に因縁つけられたり殴られたりすることもありえるわけだが、そこまでが仕事と思っているのだろう。それとも危険の予測が下手な保安院だから、そこまで考えないのかもしれぬ。
ところで、調べてみると、この松岡氏が現職についたのは今年の6月30日の人事によるもので、3月中はこの職ではなかった(前職は北海道経済産業局総務課長)。だからこの人を見てもあまり罵ったりしないほうがいいかもしれない。
ちなみに、3月11日時点で原子力防災課長だったのは奥田昌宏という人です。
http://www.meti.go.jp/policy/newmiti/mission/2010/pdf/3_02.pdf


原発事故の重大な責任者である経済産業省のなかでも原子力保安院はとりわけ責任が重い。
経済産業省のサイトを見ていくと、歴代の原子力保安員の方々の名簿が見られて、これもまたいろいろな意味で一興といえます。

もう一人、ヨウ素剤の服用を進言した学者がいたが、バカすぎて名前を忘れてしまった(後で調べたら鈴木元・国際医療福祉大教授)。バカすぎたと思った理由は、原子力関係者がシビアアクシデントについて、真剣に考えていなかったかもしれぬ、等と今更ながら言っていたことによる。それが分かっているならわが身の恥を知って、人前に顔を出せぬはずだが、こう考えるのはあまりにも古風か。

阿Q正伝のタイトルについて

魯迅の有名作品ですが、何とも妙なタイトルですな。とくに魯迅のファンでもないのに以前から不思議だと思っていたが、中国語で見てもなんとも変だそうで、魯迅自身も作品冒頭で、長々と解説している。

で、作品中に孔子や論語の話題が良く出てくる、というか阿Qは儒学者崩れなので、彼自身が良く引用する。
ところで、孔子の名は「孔丘」とも書く。「丘」の字は、中国での発音は知らぬが、現在日本では「きゅう」と読む。阿Qの「阿」の字は「~ちゃん」というような意味らしいので、阿Qは「Qちゃん」というあだ名となる。じつはQ=(孔)丘で、そのへんをからかったあだ名なのではないかと考えてみた。

「阿Q」という名前について調べてみると、Qは辮髪の頭を横から見たところという説がある。なるほど。
http://cheng2489.iza.ne.jp/blog/entry/1085890/
また、筧武雄という方の書いたものを見ると、「魯迅先生の本当の命名の意図は、Qすなわち丘(qiu)、つまり丘仲尼(孔子)を指しているのではないかと私は勝手に解釈している」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2004&d=0709&f=column_0709_001.shtml
なるほど。

ところで「阿」という接頭語?は、この場合、人を少々馬鹿にしている感じであるが、似たような語感のことばとして発音は違うようだが「亜」という字を思い出した。この場合「亜Q」は「亜丘」となり、亜流の孔子という意味に曲解することもできるような気がする。たしかに阿Qの発言は、そんなかんじのものが多い。

浅学非才の我なれば、誰か教えてくださらんかのぅ。

「死の町」はやはり「死の町」

原発の元締めである経済産業省の大臣が、うっかり原発事故被災地を「死の町」と言ってしまったために辞めさせられた。
しかし、大臣を辞めさせても、死の町は死の町であることには変わりなく、しかも二重の意味でそうである。
まず大臣発言では、「人がいなくなった」ことをさして、ゴーストタウン的意味で「死の町」と言った。これは、別におかしい感覚ではない。
しかしさらに言えば、原発被災地は、「長時間過ごせば健康に差しさわりがある土地=そこで生きていくことは難しい町」としての「死の町」になってしまっている。つまり前官房長官=次期経産大臣の迷ゼリフ「ただしに健康に影響はない」(=いずれは健康に影響がある)そのままの意味である。
この二つの意味で「死の町」としか言いようがない状況で、真実を述べたこと自体を糾弾することは誰にもできないはずだ。

孔子は正名論を言い、仏陀は正見と言った。
http://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%AD%A3%E5%90%8D%E8%AB%96&fr=dic&stype=exact
http://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E8%A6%8B

現実を正しく見ることからすべてがはじまり、それを正確に言葉にすることから、あるべき道を進む方法が開けてくる。それが正しい認識のあり方だと言える。
旧軍のように「退却」を「転進」といい、「全滅」を「玉砕」と言い換えても、現実は変わらなかったから、戦争に負けた。
同じ事をマスコミ、官僚指導で再現する愚を、今の時代で繰り返してはならない。原発事故収束のためには、まず正確な認識とその公正な表現が大前提である。

ところでNHK解約連絡者が9万件あるとか、新聞が売れないとか、テレビの視聴率が落ちてるとかは、すべては同じ原因、つまり人々が官製報道を信用しなくなってきたということだ。しかし、その勢い余って社会に対してニヒリズムに落ち込むことだけは避けなければならない。バカバカしいことだらけとは思うことは多いけどね。

鉢呂大臣に関する一連の騒動

鉢呂経済産業大臣、つまり昔でいえば通産大臣の「死の町」発言が問題視されたとき、違和感を感じた。
「(原発)周辺の市町の市街地は、人っ子一人いない。まさに死の町という形だった」(大意)という発言は別に間違ってはいない。現実的に考えれば、高濃度汚染地域は戻ることはできないだろう。ただし、大臣の口から言われると、被災者としてはとどめを刺されたように、現実を直視せよ(=諦めよ)と言われたように感じて、反発はするのは当然とは思う。
しかし、どういう言い方をしても、無理なものは無理。老い先短いご老人以外は戻るべきではないと思う。同時に線量が高いのを十分承知して、それでもそこで死にたいと願う人を止めることも難しいとは思う。本橋成一「アレクセイと泉」を思い出してしまう。

ところで、「死の町」発言が何故問題視されたかというと、やはり原発事故の張本人である経産省の大臣が言ったのがまずかったのだろう。原発を推進してきた経産省としては、「死の町」という決定的な敗北?の言葉を自分の役所の大臣が言うことだけは、やめて欲しかったろうと思う。
その経産省‐および原発利権者の意を受けて、鉢呂大臣に対することさらな攻撃がされているように思える。

さらに、記者に対する「放射能つけるぞ」発言も、毎日新聞に要旨が出ているだけであって、実際の発言もマスコミ各社ばらばらであったという。
http://matome.naver.jp/odai/2131561921606983601
真相とまではいわないが、実際の様子がはっきりしないのにもかかわらず、結局本人は辞任することにしたようだ。

鉢呂大臣が、職務にふさわしい人だったかどうかは結局わからなかった。
以上のように書いたが、べつに鉢呂氏自信を擁護しようという気持ちはない。とはいえ、あまりに性急な動きなので、一連のこの騒動に対する違和感がどうもおさまらない。

やはり原発事故の責任をまず最初に負うべき経産省としては、すぐ泣くような海江田氏のような扱いやすい人が望ましいのだろうか。

夏も終わりか

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2011090303.jpg よく見ると屋根の上に猫がいます。

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旧内務省的?福島県副知事

月刊政経東北という雑誌があって、福島市内の東邦出版というところが発行している。発行人は奥平正という方。この雑誌の背景はよく分らぬが、8月号を買って読んでみたかぎりでは、それほどおかしいことも書いておらず、除染関係など納得できる記事もいくつかあった。
このなかで、「SPEEDIの公表を妨げた二つの不備」という興味をひかれる記事があった。原発事故があった場合に、放射性物質の拡散を予測するはずのシステムであるSPEEDIが機能せず、水素爆発以降、福島県民を中心に東日本の多くの国民が放射性物質を身に浴びたわけだ。
このSPEEDIが活用されなかったかという理由として、福島県生活環境部の佐藤節夫部長(当時)が、データが古かった、信頼性が低いということにより、「佐藤部長個人の判断」で、公表を差し止めたという。たしかにニュースで以前聞いた記憶がある。
しかし、県知事を差し置いて、部長クラスがこのような判断を下すことがあるだろうか。記事によれば、生活環境部長は知事、副知事に次ぐNo.3の地位だと書いてあり、緊急時には判断を下すべき立場ではあるとは思う。地震、津波、原発事故直後の極度の混乱のなかでは、指揮系統の乱れによりそういうこともあったのかもしれないが、なんだか不自然な感じがした。
それにしても、佐藤節夫氏個人は、放射性物質の降りしきる中に県民を放置した失策に対する責任は逃れられないと思う。

さて、この記事の中で注目すべきは、現在の福島県の副知事・内堀雅雄氏は、もともと総務省の官僚であり、佐藤雄平現知事(県民にとってはいまや逆賊ともいうべき渡部恒三の甥)が、この副知事を頼りにして災害対策をしている。しかし総務省出身の副知事は国に先駆けて行動を起こすのを極度に嫌がり、常に国のお伺いを立ててから対策を実施するので、復興復旧が遅れてばかりだという。また、原発事故時に緊急対策センターにいた内堀副知事は、そこに送られてきたSPEEDIの資料を見ている可能性が高い(一緒に見たと証言している課長もいる)のであるが、見ていないと言っているという。

まあ、http://shadow-city.blogzine.jp/net/では、「カス公務員」の話題がよく出てくるのであるが、その例として、この内堀副知事もいれてもいいのかもしれぬ。
総務省の前身は旧内務省であるが、内務省といえば、官僚制の本丸ともいうべきところであった。やっぱり国民よりも、治安維持優先、国体護持のほうが大事なのか。
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