eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2011-08

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キヤノンのLマウントレンズのレンズフード

キヤノンのLマウントレンズ50/1.8(黒鏡胴)のフィルター径は40mmというちょっと珍しいサイズである。
40.5mmというのはよくあるが、40mmはあまりないので探すのに苦労する(が、探せば売っている)。
さて、先日キヤノンL、50/1.8を入手しました。レンズフードはどうしようか。純正のものは2500円くらいで売っていた。
そこでちょっと思いついた。以前、さるお金持ちからライカM3、沈胴ズミクロン50/2付きを借りていた。そのときにライツカナダのレンズフードを買ったのであるが、カメラは返したので、レンズフードだけ余ってしまった。こういうやつで、なかなかかっこいい。
でも使うあてがないので、大事にしまっていた。このレンズフードをこのレンズに使えないものだろうか。あてがってみると、いちおう先端にははまる。ただし、ネジとかストッパー的なものがないのですぐ取れる。そこで、中古カメラ屋に行き、40mm径のジャンクのカラーフィルターを一つ100円で買ってみた。3ケ買ったのだが、結局1個で足りたな。

まず、カラーフィルターのガラスを取り除く。カニ目で外そうとしたが外れないので、ドライバーでガラスを割ろうとしたら、けっこう硬いので割れません。再度やってみたら割れたのだが、指にガラスの破片が突き刺さり、血がけっこう出ました。罰があたったんだな。
この「枠だけフィルター」をフードの前方から押し込む。そうすると、フードの後ろ側(レンズ側)にネジが見えてくる。これをレンズ前方のフィルター用ネジにまわしこむだけ。
ただし、角度に気をつけないと、ファインダーがけられるので、何度かやってみる必要がある。
本当なら、一度外して手順を追った写真を撮ろうと思ったが、角度の調整が面倒なので、しませんでした。
この方法、40→43のアダプターリングを使ったりするともっとスマートに出来るかもしれません。また40mm径ではなく40.5mm径でも出来るかもしれませんが、これはやってみないと分らない。誰か暇な人、やってみてください。
こんなかんじになります。
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GRDの28mmで撮影したらかたちが歪んだな。ちなみに、「枠だけフィルター」にさらにキヤノンの薄型フィルターを付けてみました。
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現代の儒者を見た。

とか言ったら大袈裟すぎるか。そうでもない気がするが。

※ちなみに「儒者(儒学者)」については、wikipedeiaの記述が適切である。
「儒学者(じゅがくしゃ)は、儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことである。儒者(じゅしゃ)、儒生(じゅせい)とも呼ばれる。
日本で、儒教を研究している学者は多いが、そのほとんどが、儒教を信奉したり、儒教の説くやり方に則って生活をしたりしようとしていないため、儒学者とはいえない。こういった儒教非信奉者でありながら、儒教を研究する学者は、「儒学者」といわずに、単に「儒教研究者」と呼ぶべきであろう。」


論語「子罕第九 六」にこういう一節がある。
「吾少也賤、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也」
・吾少(わかく)して賎(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子、多ならんや。多ならざるなり。
・私は若い時には卑賤な身分だったので、色々な小さなつまらないことが得意になったのだ。君子は多芸であるべきなのだろうか、いや、多芸であるべきではないだろう。
http://kanbun.info/keibu/rongo0906.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo009.html

8月28日夜、NHK教育「ネットワークでつくる放射能汚染地図 3」を見ていた。このシリーズは欠かさず見ているが、今回は木村真三氏が二本松市で、ある住宅の除染作業をするという話であった。屋根の除染作業をする際、NHKの記者に「このような作業はやったことがないのでは」と訊かれた木村氏は、安全帯を締めながら「研究の仕事が出来ないときは、いろんな仕事をやっていたので、この手の作業の体験がないわけではない」というようなことを照れたように言っていた。それを聞いて上記の一節を思い出した。
孔子は、若い時にはいろいろと苦労してきたが、やはり道を説くことをやめなかった。木村氏も、大学や研究機関に所属できなかった時期は塗装工などやっていたこともあるというが研究の道をあきらめなかった。しかし311以降、その地位をなげうって福島県で調査を始めた。
http://www47.atwiki.jp/goyo-gakusha/pages/351.html

また、木村氏は、当初、除染作業を自分がするのは大変なのであまり気が進まなかったが、里帰り出産でその家にいる生まれたばかりの赤ん坊を見て、除染しなければやらなければならないと思い、作業することにしたといっていた。
ここを聞いて、今度は孟子の一節を思い出した。
孟子「公孫丑章句」の有名な部分である。
「今人乍見孺子將入於井、皆有怵惻隱之心」
・今、人乍(にわか)に孺子(じゅし)の将に井(せい)に入らんとするを見れば、皆怵(じゅってき)惻隠(そくいん)の心あり。
・今、子どもが井戸に落ちようとしているのを見たら、人は誰でも驚き慌てて、居ても立ってもいられない気持ち(子どもを思いやり痛ましく感じる気持ち)になる。この惻隠の心が仁の始まりである。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/moushi003.html
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius03-06.html

木村氏は、放射線の影響を受けやすい赤ん坊が線量の高いところで暮らし続けるのを見ていられなくなって、二本松市役所と一緒に、自ら除染作業のモデルケースに取り組んだのだろう。これこそ惻隠の情ではないだろうか。
木村氏自身がどのような方なのかはよく知らないのであるが、研究者として、またそれ以前に一個の人格として、立派な方なのではないかと思う。論語でも孟子でもいいのだが、言うは易く、行うは難い。このような方が存分に腕をふるうことが出来れば、福島県はまだ救われる見込みがあるかもしれない。

人によっては、除染するよりも、汚染された土地をすぐに離れたほうがよいという意見もある。そういう考えからすれば木村氏のしていることは生ぬるいのかもしれない。
しかし、福島県に限らず、東北地方、またどこの田舎でも、先祖が営々と耕してきた土地から、よそに行くのは非常につらいことであろう。土地=自分というような結びつきであれば、土地から身を離すことは文字通り自分の体を切り離すのと同じ痛みがあるのではないか。だから、住み慣れた土地に、元通りではないにしてもある程度安全が見込める状態に除染するということは、現実的にはこれ以外の方策はなく、効果的な除染は大きな意味がある。

ちなみに町全体の除染は伊達市が率先して着手し、県、国のレベルでは、それの後追いをしている。これは郡山市が校庭の除染をはじめ、あとから県と国がやり始めたという図式と同じである。
県知事と県職員、大臣と官僚は、田舎の小さな町の市長・職員らに行政の面で劣るということなのだろうか。

落語に「千早振る」というのがありますが。

以下、なんとなく思いついたので書いてみたが、別に意味はないです。

稀代の色男、在原業平の歌
 ちはやふるかみよもきかずたつたがわ からくれなゐにみずくくるとは
これを長屋のご隠居が珍解釈するという落語がある。
なんとなく俺もこの歌で妄想してみた。でもあまり面白くならなかった。
さて。

「千早振る」というエロゲ(流行っているあれではありません)があり、「神」レベルの水準であった。しかし、ひねくれた毒男が、「神よ」と世人が言うくらいの評判も聞かないで2chにスレッドを「立てた」(本来は「たてたった」)。2chにスレを立てた目的は、当然そのゲームをくさす事であった。「が」(だが)そうはならなかったので、自嘲の「www=わ」が挿入されてしまった。
たてたスレッドには誰も書き込みせずに「から」っぽ。スレ主である1が書き込んでもResも「くれない」。
1である毒男は、その理由を知りたくて「自らググった」。その結果、あまりの1の評判の悪さに「水くぐる=水潜る」、つまり入水自殺したという。
最後は落語と同じような落ちになってしまった。

高島屋カメラ市で聞いた話

ちょっと面白い話を聞きました。私はなるほどと思いましたが、他の考え方もあるでしょう。

スイング式パノラマカメラの構造的欠陥。スイングするたびに、受け側にショックがあり、だんだんスリットの位置がずれてくる。修理する際には、受け側の補強からはじめなければならない。総じていえるのは、大きなカメラ会社が手がけない機種には、構造的な問題があると考えてよい。
たしかに、スイング式パノラマカメラを出している会社は限られてはいるな、と。
※さらに考えれば、L型ライカのコピーが多かったのは、基本構造が優れていたからだと、自分なりに考えてみた。

シャッタースピードの系列。500,250,125,60…の系列と、500,200,100,50系のシャッタースピードは、現実的には差はない。理由として、誤差が20%認められていること。また、ライカM3あたりはスピードの表記が違っていても、中の機構(カムで設定しているらしい)が同じだったりする。
だから機械式シャッターの場合、クオーツ式等でない限りスピードの調整は限界がある。むしろ、ピント精度の方を重視する。

レンズに使っているガラスは、窓ガラスのようなガラスとは素材が違い、やはり曇りやすい。あるレンズは、一種のストレステスト(加湿と乾燥を短時間で繰り返し、経年劣化を人工的に起こすようなテスト)を行うと、数十時間でガラス内の成分が析出して曇り始めるとのこと。

とりあえずレンズとフィルターの買い物をしました。

で、ちょっと書き足し。
ミノルタハイマチックシリーズという名機がありますが、そのなかでもハイマチックEあたりはレンズ描写がいいといわれていたりする。
しかし、それよりもハイマチックFのレンズのほうがさらに良いという話があるそうだ。このレンズは、ミノルタAL-Fと同じ系列のレンズだそうで、ハイマチFに今は亡きコダクローム64を詰めて撮ると最高の写りだったとのこと。おそらくアメリカ輸出を念頭に置いて作られたため、そのようになっていたのではなかろうかという話だった。で、うちにあるはずのハイマチF(黒)を探したのだが出てこなかった。掃除しないと。

東電の幹部社員と、経産省(旧通産省も)の官僚が原発事故の責任を感じて、少なからず自…

以下、ちょっと小耳に挟んだのだが、
「東電の幹部社員と、経産省(旧通産省も)の官僚が原発事故の責任を感じて、少なからず失踪したり、自殺している。
また、失踪した人のなかには、家族に迷惑を掛けないように身辺整理後身、労務者となって原発収束作業に従事している人もいる。その理由は、原発収束のために何もできない自分のふがいなさに耐えられなかったということらしい、
というような話はほとんどない」と噂に聞いたのだが本当だろうか。

そんなことはあるまいと思う。日本を背負ってたつ気概(危害じゃないよ)にあふれた官僚や、日本のトップエリートたる東電社員が、そんな無責任であるわけがない。
きっと無知蒙昧、衆愚のきわみである一般国民が、エリートをうらやむあまりそのようなことを言っているのだろうと推察する。


まあ俺だったら、人的被害、兆の単位になっている物的被害、および東日本全体の将来にかかわる問題を生じさせたという責任の大きさに耐えられず、かといって自殺するのも大変そうだから、精神的に不安定になって廃人となるか、失踪して野垂れ死にするのではないかと思う。
そうはならない官僚、エリートの皆さんは、責任感が強いのか、面の皮が厚いのか、しょせん他人事だからはなから責任を感じていないので何も思わないのか。
心ある人たちもいるはずだが、どうも表に出てきていないような気がする。国民のほうを向いて仕事をすればいいだけなんだよ。
このようなこと、むしろ現場の人たちのほうが気にやんでいるのではないかと思う。でも、例えば東電の現場の人たちを責める人は、あまりいないよ。感謝の気持ちこそあれ、責任を問うような気持ちはない。
責任を取るのが仕事の人がいるわけだから。

蛇足だが、中井久夫先生の本に、太平洋戦争中、戦局が悪化してきても官僚たちは残業せず毎日定時に帰っていたので、霞ヶ関の官庁街は夕方すぎると、誰もいなかったというようなことを書いていた。国民を指導する立場にあったわけだが、本気で戦争をやったわけではなかったんだろうね。

今回、また繰り返しつつあるのかな。
でも、主だった人の名前はネット上に出てきてしまったね。前回のように逃げ切れるかどうか。

今年の野馬追-2 2011

遅ればせながら野馬追の写真を。


三の丸屋敷
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中村神社
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出陣
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騎馬行列
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お上がり
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鬼海弘雄写真展「東京ポートレイト」

東京写真美術館で開催中の鬼海弘雄写真「東京ポートレイト」展に行ってきた。
今日は強い雨で、人も少なめだった。
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写真自体は、何度か見慣れたものが多く、古い知り合いにあったような気分でもある。会場にあった鬼海氏の挨拶文中に「短編小説」という言葉があり、なるほどと思った。たしかにどの写真にもなにか物語性が感じられる。
さて、このポートレイト群の目の部分を良く見ると、どうも撮影中の鬼海氏の姿が見えるようである。他者のポートレイトであるようで、実はセルフポートレイトという部分もあるのかもしれない。

ところで、会場に高校生ぐらいの若い方がいて、なんだか笑いながら写真を見ていた。そして会場内の感想ノートを見たら、「大爆笑」という言葉がいくつかあった。
俺からすると、しみじみ、とまではいかないが、じっくりと味わうべきポートレイト群であり、見ているうちに底光りするような何かを感じることも多いので、笑いながら見る人がいるのは意外だった。どうやら「こんなおかしな人がいるんだ」というような意味の笑いらしい。これが若さゆえのものなのか、感性が?なせいなのか、判断がつかない。

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鬼海氏のまねをしてスクエアフォーマットのモノクロにしてみました。だいぶぶれてしまった。
リコーGRD

涙堂というのか涙袋というのか

涙堂というのか涙袋というのかよく分らないが、まぶたの下のあたりの部分、311の震災以来、被災地の人や被災地に縁のある人は(縁がなくても心ある人は)、この部分がふくらんだのではないかと思う。
日常的には平静であろうと努めているだろうが、やはり何かの拍子に涙がこぼれてしまうことがあるのだと思う。
今年の夏まつりは鎮魂の意味で強かったと思うが、盆踊りの歌が聞こえてきたら、なんだか胸が熱くなってしまった。

ちなみに相馬の盆踊りは、ひたすら相馬盆歌だけをライブで延々2時間ぐらい歌って、踊ります。
東京に来た時、盆踊りの演奏がライブでなかったのは驚かなかったが、炭坑節や東京音頭、しまいにはドラえもん音頭までテープで流したのには驚いた


自分でも、日常的な場面でなにかの折に涙がこぼれて困ることがある。例えば、被災地のニュースを見るとき、心では既に準備をしているから、ニュース自体では平静であったりするが、アナウンサーやキャスターが、ニュースのあとに絶句していたり、涙をこらえていたりすると、なぜかそれに釣られて目頭が熱くなったりする。
テレビはNHKのニュースくらいしか見ないのだが、まじめそうだったり、無表情にさえ見えたりするアナウンサーがそうすると、NHKという組織自体はともかく、この人たちは人間として信用できるのではないかと思ってしまう。
俺にとっては、たぶんそれで問題ない。

これについては東電の人がしゃべったあとで見比べると、良く分ると思うよ。

いがらしみきお「I」

いがらしみきおは、自慢ではないが(ほんとに自慢にならん)「ネ暗トピア」前から知っており、つい、いやらしめけお等と読み替える程度にはファンだった。
「ぼのぼの」以降はあまり漫画も見なくなり、「忍ペンまん丸」も3巻までしか見てない。
それでも、気になる作家ではあり、先日の朝日新聞の書評で「I」を取り上げていたので、買ってみた。

震災以来、神やら仏やらの存在について考えることも多いのであるが、いがらしみきおが神についてどう語るか、興味があった。
そういえば、震災後の同じく朝日新聞にいがらし氏が文章を書いていて、不思議な違和感を感じたことがあった。たしか、神とか許しとかそういう話であったが、なんでこのような話が出てくるのか、よく分からなかった。しかし、この作品を書いていたので、自然とそうなったのだろう。

ちなみに、いがらし氏の文章は、この震災を起こした神?さえも許すような内容であったが、私自身としては、こう考えている。神という存在を考えるとき、一神教的な絶対者としての神(大文字のGOD)と、ギリシャ神話や古事記のような多神教的な神がいると考えられているようだが、後者の多神教の神々は、結局は人間の延長に位置するもので、例えば今回のような大震災が起これば、一緒に流されてしまいそうではある。言い方を換えれば、神を信ずる人までも津波で押し流してしまったら、この神々は存在しなくなるであろう。
一方、絶対者的神というものは人間の知覚でとらえられる存在ではないようなので、いてもいなくても同じである。震災が起ころうと原発が爆発しようと知ったことではないのだろう。そういえば、このような神を信ずる民であるユダヤ人は、60年余り前、神と契約していたにもかかわらず救われなかった。
いろいろ考え合わせると、自分にとっては、むしろ神なき宗教である仏教(と書いてしまっていいのか)のほうが、人生の不条理に向き合ううえで意味があるというようなことを考えていた。このへん大雑把で飛躍がある考えなので、気持ちを害された方がいれば謝りたい。

しかるに、いがらしみきおの「神様」は、そのどちらでもなかった。「神」というよりは「神様」であり、むしろ漢語のにおいがうすい(=より土着的な)「かみさま」なのかもしれない。例えば、「拝み屋」やらイタコやらのような、人の上にたつでもなく、しかし異世界に繋がっているような存在として描かれている。また、イサオ(神様)には、補佐役である雅彦がペアになっているが、面白いことに卑弥呼も補佐役として弟が使えていたという。学生時代に習ったところでは、東アジア一帯の神様は、このように神様+補佐役で一組という場合が多いと聞いた。

さて、この物語、いったいどこに続いていくのか、想像がつかない。
宮城県で大震災を体験したいがらしみきおは、これから先なにを描くのか、期待のような心配のような気持ちがある。
ところで、この漫画を掲載している月間IKKI(小学館)の今号の表紙が、いがらしみきおの手になるもので、すばらしい。震災後の瓦礫のなかで、雅彦らしき人が海を見ている後姿。じかに見てもらいたいと思う。

常磐線 相馬駅

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3月11日以来、電車が走らなくなって、線路は錆付き、構内に雑草が生え、踏み切りの遮断機の棒は取り外された。
いつか再び走ることはあるのだろうか。

けっきょくなにも言っていない。週刊新潮8月11日号 養老孟司×中川恵一対談

否定的な評価をする文章を書く場合、たいていは、それなりの対価を支払って書くのが自分なりの礼儀だと考えていた。今回、この対談について書くには週刊新潮を買うべきだと思い、手に取ってみたがあまりの無内容さに、お金を払うことが出来なかった。

そのかわりにはならないのだが、古川日出夫の新しい単行本「馬たちよ、それでも光は無垢で」を買ったので勘弁してほしいと思う。ちなみに古川氏の本はハードカバーなのに1,200円という、たぶんサービス価格だと思う。「新潮」本誌に掲載されたものだが、この作品のために、新潮編集部の4人も古川氏と一緒に被災地に車を走らせている。
同じ新潮社なのに、一方は編集者として素晴らしい仕事をしているのに、もう一方では買う気のある人でさえ思わず財布を引っ込めるような本づくりをしている。
それほど世帯の大きい出版社だとは思えないが、そんなにいろいろな人がいるのだろうか。ちょっと不思議ではある。

話がずれた。
この対談について書くには、まず概要を書くべきうだろう。以下、順を追って。
・タイトル:特別対談 養老孟司(東大名誉教授)×中川恵一(東大病院放射線科準教授)
『一番体に悪いのは「放射能ストレスである」』
・リード文:原発事故から始まった放射能パニック。だが、本当に怖いのは数字ばかりが氾濫する放射能よりも放射能がもたらす「恐怖心」ではないか…以下略
・本文
中川「地震後ツイッターで放射線に対する過剰な反応は損になる場合もあると書いたら「御用学者」のレッテルを貼られた・
養老「理屈でいえば、例えば放射線による死亡率が0.1%上がったとして、日本人全体だと約13万人が死ぬ計算になる。これを「危険」という見方もあるが、日常生活にもリスクはたくさんある。ラオスの例(省略)」
中川「確率でいえば、一定量の被曝でガンになる確率は上がる。その根拠は、広島、長崎、チェルノブイリ。とくに重要なのは広島、長崎。爆心地からの距離が重要で、100ミリシーベルトで0.5%、200ミリシーベルトだと1%ガン死亡確率が増える。福島の飯館村に調査に行ったが天候や気候によって被曝量が変わり、個人の被曝量が分りにくい。でも年間100ミリシーベルトは超えないだろう。原発作業員のガンについては、タバコや酒の影響もあるのでよく分らない。酒やたばこのリスクも大きいし」
中川「日本の場合は、原発事故以前からある自然放射線量を考えると、国会議事堂、東京都庁は花崗岩により年間4ミリシーベルトを浴びることになる。
養老「でも、放射線を恐れて暮らしても事故に会う時だってある」
中川「今の日本はゼロリスク社会といわれ、リスクに対して過剰反応している。今、福島では大気中に事実上放射性物質はないにもかかわらず被曝を恐れている。東京も同様。子供が外で遊ばないほうがよっぽどリスクがある」
養老「貝原益軒の養生訓のように生きても、確率論であって架空の世界である」
中川「正直に言うと、2011年を境に将来福島や日本のガン患者は増えてくると思う。しかし、それは被曝によるものではなく、これまでの食生活を放棄したり放射性物質を恐れて家から出なくなったりするから。むしろそちらの方が不幸が大きい」
養老「放射能は感覚に訴えない。セシウム137の半減期が30年であることは変えられない。それに対する人間の無力感はすごいものがある」
中川「さらにいえば、プルトニウム239の半減期は2万4千年、一方ヨウ素131は半減期8日。人間の感覚とは全く違う。それを人間が扱えなくなっている。原子力はやはり難しい」
養老「原発そのものが、東大、とくに物理工学系に責任がある。優秀な人が集まる物理系の傲慢があった。原発は典型的左脳の世界。見えないものはないことになっている」
中川「見えないリスクは存在しないと同じ」
養老「左脳重視の典型として官僚も同じ。左脳、つまり理屈ばかりで考えると大きな欠陥があっても気付かない。だから、ミリシーベルトの数字で中川氏を責めるのも、じつは左脳中心主義。原発事故を起こした人とクレームを言う人は同じタイプの人」
中川「原発事故対策も、左脳中心で進めている」
養老「20、30年先に現在の医療が、強く非難されるかもしれない」
中川「原発も医療も同根で、all or nothing、白か黒かの二元論が人を不幸にする」

では、問題点をあげてみる。

1.養老「放射線による死亡率が0.1%上がったとして、日本人全体だと約13万人が死ぬ計算になる。これを「危険」という見方もあるが、日常生活にもリスクはたくさんある」
日常生活にリスクがあるのは確かだが、仮の計算だが、原発事故がなければ13万人死ぬ人が増えることはなかったということになる。よって、今回の原発事故と日常のリスクを同一視することは適当ではない。同じ土俵に上げるとしたら、地下鉄サリン事件や911テロ、インド・ボパールのユニオンカーバイド事故などをあげるべきだろう。
2. 中川「確率でいえば、一定量の被曝でガンになる確率は上がる。その根拠は、広島、長崎、チェルノブイリ。とくに重要なのは広島、長崎。福島の飯館村に調査に行ったが天候や気候によって被曝量が変わり、個人の被曝量が分りにくい」
原発事故の影響については、やはりホットスポット等の問題を考えると、広島・長崎の原爆よりも、むしろチェルノブイリのほうが重要なのではないか。飯舘村の場合、広島・長崎のモデルを当てはめようとするから「分りにくい」となるのではないか。というか、このくらい素人でも考えるだろ。
3.中川「原発作業員のガンについては、タバコや酒の影響もあるのでよく分らない。酒やたばこのリスクも大きいし」
中川氏は、原発稼働のための「原発ジプシー」と呼ばれるような作業者ははなから問題にならないらしい。「よく分らない」ではなくて、最初から調べる気がないのだろう。東電から言わせれば、孫請けのさらに孫請けのことなど、責任とる気はないだろうし、東大出の医者からすれば、世間のことなど分らぬから、左脳重視の人のように、原発労働者(というか労務者)を「存在しない」人たちとみなすのだろう。
4. 中川「日本の場合は、原発事故以前からある自然放射線量を考えると、国会議事堂、東京都庁は花崗岩により年間4ミリシーベルトを浴びることになる」
だから、それにどんな意味があるのだ。もともと自然界にあったものについては問題にされていない。これまでなかったものをかってにまき散らしたのが問題なのだ。
5.養老「でも、放射線を恐れて暮らしても事故に会う時だってある」
これは、なについても同じことが言える。言ってもいいけど、わざわざ言うほどのことでもない。
6. 中川「今の日本はゼロリスク社会といわれ、リスクに対して過剰反応している」
たしかに東京あたりでは、過剰とも思われる反応がある。しかし、福島県浜通り、中通りではむしろ反応が過小である。つまりパニックにもならないで、どこにも逃げようがないので半ばあきらめたようでもある。先ほどふれた古川氏の「馬たちよ…」では。相馬市内の様子を「平穏」と言いかけて、「むしろ平然としているのではないか、そうするよりしかたがないから」(大意)と書いている。
リスクへの過剰反応こそが左脳中心主義、そして都市的な発想であると養老氏は書いていた記憶があるが、それを福島県の田舎に当てはめるのは問題だろう。やはり二人とも東京にいるし、原発事故被災地のことは他人事なのだろう。それを責めるではないが、それが当たり前のように発言しないでほしい。
7.中川「今、福島では大気中に事実上放射性物質はないにもかかわらず被曝を恐れている」。
たしかに「大気中」にはない。地面に降り注いだから。それだからこそのホットスポットであり除染である。ちょっとここは認識不足ではないか、もしくはわざと間違えたのか。
8.中川「正直に言うと、2011年を境に将来福島や日本のガン患者は増えてくると思う。しかし、それは被曝によるものではなく、これまでの食生活を放棄したり放射性物質を恐れて家から出なくなったりするから。むしろそちらの方が不幸が大きい」
恐怖心からくるストレスからガン患者が増えるという理屈だろうか。しかし、原発事故がなければ恐怖心が生じることはなかったことを最初に言うべきだろう。それとも、原発事故は運命だから、ことさらにふれる必要はないということだろうか。しかし、一地方の命運をたかが一企業が握っていいものか。
勘ぐれば、中川氏の所属する放射線医学研究所あたりが、子供に対するヨード剤代用品のイソジン液を飲ませないように仕向けたことへのいいわけを準備しているのではないかと思う。このことは以前書いたので、そちらに目を通してもらえればありがたい。
9. 養老「原発そのものが、東大、とくに物理工学系に責任がある。優秀な人が集まる物理系の傲慢があった」
これは東大内部の話であって、医学部は罪はないといいたいらしいが、そんのことは東大以外の部外者にとっては、意味がない話である。なんのつもりだろうか。
10.養老「(左脳中心の対策なので)20、30年先に現在の医療が、強く非難されるかもしれない」
じつは、ここに二人の本音が出ているのかもしれない。チェルノブイリの事例から見ると、やはり福島県周辺では今後4,5年以降に放射線障害によるさまざまな病気が出てくると思われる。そのとき、初動の対策を実施しなかった医学関係者は、怨嗟の対象になるのかもしれない。

結論的なことを言えば、2点ある。ひとつは、この二人は医学者であっても医師ではなさそうだ。確率論で語るのは学問だが、病を得るのはそれぞれの人間。その人間にどう向き合うのか、養老氏ははなから無理だから聞かぬが、中川氏の立場からはどうなのだろうか。全体からすれば、0.1%は多くはない人数なのかもしれないが、原発事故による一人のガン患者にとっては、0.1%ではなくて100%である。
そして、これに関連するが、理屈中心の左脳批判をしているわりには、左脳的発想から抜け出ていない。放射性物質の半減期の長大さに打ちのめされた人、また得体のしれないものによる不安にかられる人にとって、理屈で安心を説いても伝わりにくいのではないか。しかし、彼らがやろうとしていることは、やはり理屈での説明である。
なんだか、二人で自己批判をしているようにしか見えないのは、読む側の目に歪んだプリズムが入っているからだろうか。
けっきょく、内容としては散漫で4ページ持たせるのがやっとという程度のものであった。「特別対談」と銘打つほどのものでもないし、言っていることも、この二人がよく言うようなこと。つまり、過去の発言の再トレースであって、わざわざ誌面を作るほどのものではない。

それにしても、この時期に、この二人から、いつもと同じような言葉を語らせて、週刊新潮は一体何をしたいのだろうか。実はそこが一番の疑問である。今の時期の編集長の名前は、今後10年くらい覚えていたほうがよいのかもしれない。何事も問題が起こらなければ先覚者として、問題が起これば言論による加害者として。酒井逸史氏?はどちらの側になるのだろうか。それは俺にも分らない。
正直言って、何も起こらなければ、「あの時俺はバカだった」と認めるつもりだし、失礼なことを書いたと詫びるだろう。むしろそうなることを望む。また、何かあったとしたら、言論人の責任を問い詰めても、後の祭りだろう。ただし、発言の責任は取ってもらうことになるのだろうと思う。太平洋戦争のときの無責任体制の再現は避けなければならない。

津波のあと

旧国鉄バス原釜駅近くの墓地から、相馬港と原釜の町をみる。
あちこちのお墓の墓誌には3月11日付の名前が刻まれていた。
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原釜の相馬港側の街並み。残骸はほとんど撤去されていた。けっこう建て込んでいたところだったのだが。
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相馬港
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原釜海水浴場。
この海の家は物心ついたころからこの場所にあった。今も残っている。
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松並木があったはずだが。
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原釜から松川浦にぬけるところ。
このように石灰岩の絶壁がある。大岩が崩落しているようだが、津波によるものだろうか。
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松川浦
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引き波で流された家
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旧下水処理場脇
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江戸川橋あたり

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リコーGRD

新宿あたり

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リコーGRD

原発事故と「時間」の問題

「時間の問題」というと、ふつうなら、もう終局的状況が目の前にあり、あとわずかで破滅してしまうというようなときに使う言葉である。
もちろん、東京電力による福島第一原発事故については、残念ながらそのように考えざるを得ない部分が多くある。
しかし、今回はその意味ではなく、原発事故の本質は「時間」にかかわるところにあるのではないかと思い、二点ほど考えた。ただし、以前「歴史学とインターネット」という文章に書いたことと重なる部分がある。

以前、山本夏彦だったろうか、ある本を読んでいたら「百年などほんの一昔前」と書いてあった。たしかに、30年前に80歳過ぎで亡くなった祖母が生まれたのが110年前で、そう思えばそれほど遠くない過去である。漱石の作品もおよそ100年たったが、いまだに生き続けているし、そういう意味では漱石はまだ死んではいない。

さて、先日、相馬野馬追を見たときに、「1000年の伝統を誇る伝統の行事」という言葉があった。行事としては途中途切れた時もあっただろうが、1000年というのは人間が把握できない時間的長さではない。
また、ローマにはパンテオンというドーム状の建物がある(行ってみたら、天井の真ん中に穴が開いていてびっくりした)。Wikipediaによれば、紀元118年から128年に掛けて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって建てられたものだそうで、建てられてから2000年ちかくになるが、いまでもふつうに観光客が入っている。
ということは2000年というのも、人間の想定できる時間であろう。

ということは1000年という時間は、人の一生よりは充分に長いが、歴史として考えればそれほど長い時間ではない。3月11日の地震は1000年に一度の規模であったというが、東京電力はそれを原発事故のいいわけにしている。曰く「1000年に一度の地震と大津波は想定外だった(ので、事故を起こして会津を除く福島県を壊滅させても仕方がなかった)」。しかし、既に報道されているとおり、869年の貞観大地震は311の震災と同じような規模だったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87
原発というのは、万一事故が起これば取り返しがつかないことは、チェルノブイリ事故以来分っていたはずである。また、日本は地震国であり、海岸部はたびたび津波に襲われているのは常識を持つ者であれば誰もが知っている。
たかだか1000年程度の時間感覚も持たずに、半減期20000年を超える(2000年ではないよ)プルトニウム等を扱おうというのは正気の沙汰ではない。
http://cnic.jp/modules/radioactivity/index.php/23.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB
※ちなみに「半減期」は、不安定な状態にある放射性物質が半分だけ安定するという意味で、全部安定状態になるには、その倍の時間がかかるそうです。

やはり、原子力を推進した役人、学者、政治家というのはバカのトライアングルであったか。それとも学校の勉強はできたが、歴史について我がこととして考えるという知性が欠如していたか。そうでなければ、1000年程度のスパンにもかかわらず「想定外」等という恥知らずな言葉が出るわけはない。
さらにいえば、原発事故がなかったとしても、使用済み燃料の問題は解決していない。農耕が始まって20000年くらいたっているらしいが、それと同じスパンで核廃棄物の管理が可能であろうか。およそ正気であれば考えられないことである。

さらにもう一つ、原発事故と時間の関係について。
原発事故の恐ろしさは、「ただちには影響がない」という今年の流行語大賞候補を待つまでもなく、人体への影響が遅行性であることだ。チェルノブイリでも、4、5年たったころから、子供の甲状腺障害や、白血病、癌などの問題が出てきたという。
目の前で原発が爆発し、ただちに人がバタバタ倒れたら、非常に分りやすいし、それに対する方策も素早く行われたろう。遅行性であるからこそ、勝間和代の「原発事故では人は死んでない」という発言が出てくるわけだ。
http://www.youtube.com/watch?v=Dr0cNaeNhkE
しかしこのビデオを見ると、いまだに胸がむかむかするね。勝間という人は後で謝ったようだが、5年たったときに、またこのビデオをご本人に見てもらいたい。

この件に関連して少し話ずれてしまうが、気になることを書いておく。放射性物質の人体への影響へ遅行性ではあるが、社会的死者(原発事故からおこった問題によって死に追い込まれた人)はずいぶんな人数になるのではないかと思っている。
自殺した相馬市の酪農家のような方はほかにもいるのではないかと思う。自殺まで行かなくても、故郷から切り離され、仕事を奪われ、生きる気力を無くして衰弱して死に至った方もいるであろう。また双葉郡、南相馬市の病院や老人養護施設から避難した先で亡くなった人は何人いるだろうか。しかしこれらの人の数は、なかなか表面化しにくいであろう。言い換えれば、「原発事故が直接の原因」となって「ただちに」亡くなった方は、勝間会計士がいうように「いない」のであろう。しかし、どうやってカウントすればいいのか分らない「原発事故がなければ死ななかったはずの人」の数は、それほど少なくはなかろうし、これからも増えるだろう(収束していないのに、減るはずがない)。

人体への影響が遅行性であることは、老人にとってはむしろ救いである。10年後に癌になる可能性がアップしても、いま70歳の人が、80歳に癌に罹患してもあきらめがつく。しかし、年少者の場合、罹患後の人生は長い。
また、重要なことであり何度書いても足りないが、放射性物質は遺伝子に作用し(だから原発の近くは四葉のクローバーが多いといわれている)、とくに成長期(胎児も含む)の子供~青年に大きな影響を与える。なぜなら成長期には細胞分裂が活発であり、遺伝子は細胞分裂する際に中心的役目を果たす。正常に細胞分裂が出来ないと、悪性新生物(つまり癌)が生じたりする。書き方が大雑把すぎるが、だから線量の高いところからは子供を早く逃がさないといけないわけだが、それが実施されていない。これは科学者が想定すべきであった1000年というスパンではなく、5年、10年、20年という人の一生のなかの時間である。そして、汚染された土地に住む限り、次の世代も影響を受ける。これも一人の人間の寿命のうちで把握できる時間である。

原発事故とは、この二つの種類の時間に対してどのように理解し、対応していくか、というところに本質があるのではないかと思う。つまり、長大な半減期について考え続けることを止めないというレベルと、日常生活で、東京電力がまき散らした放射性物質とどのように向き合うかというレベルの二つを生きていくことなのではないかと思っている。


ところで、除染について考えてみると、除染可能なところは今後の作業次第でなんとか元の生活に近いもの戻るかもしれないが、福島第一原発周辺の浪江、小高、大熊等は人が戻れるレベルまで除染可能なのだろうか。除染不可で、もう戻れないとしたら、その土地に人が生きてきた時間(歴史)は無意味なものとなる。その土地が、これまで住んできたようになるまでに要した時間は、古くから人が住みついた土地ならば数千年、戦後の開拓地でも数十年はかかっている。その時間の積み重ね=人間の営みの集積が、3月11日以後の原発事故で一瞬にして無意味になったとして、その償いはどう考えるべきか。金で時間は買えない。営み=生命の積み重ねである、人の生きてきた土地を殺したのであれば、本来ならば等価のもので償わなければならないはずだが、原発を推進した科学者、政治家、東京電力(の具体的な個人―現在と歴代の幹部社員たち)に、その覚悟はあるだろうか。

以上、気持ちが先走ってうまくまとまらなかったが、いまはこのようにしか書けなかった。次はもうちょっとうまく伝わるように書いてみたい。


【追記】
以上、くだくだ書いたが、簡単にいえばたかだか1000年というスパンさえ想定できない自民党政権、通産省、御用学者、東京電力が、どうして1万年単位の放射性廃棄物を扱えると考えたのか、矛盾があるとは感じなかったのか、そこが分からない。やっぱり愚かだったのだろうか。それならば、それを認めて謝るべきである。実際そうした人たちもいる。
一方、人の一生は短い。
その二つの時間について自分なりに整理して考えることが必要だと思ったので書いてみた。
他の方のお考えがあれば、それも聞いてみたいです。

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