eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2010-07

幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはいうけれど。

 先日、仕事で外泊していた日(7/19ごろだったか)、午前3時か4時、いわゆる丑三つ時を過ぎたくらいだったろうか。なにか、ただならぬ気配がして目を覚ました。
 はっとして暗闇に目を見張ると、先ごろ亡くなった父の姿が見えた、ような気がした。非常に焦ったが、その時は怖いというよりもびっくりしたという気持ちが強かったと思う。やっぱり身内だからね。
明かりをつけてみると、父と思ったのはハンガーに掛けた自分のシャツと上着であった。それでもなんだか、びくびくした気持ちが残っていたので、明かりをつけたまま寝ようと思いながら、まぶしいので結局明かりは消して寝た(笑。

 幽霊の正体見たり枯れ尾花という。枯れ「尾花」とは何か、よく考えると知らなかったが、漠然と思っていたとおりススキのことらしい。
 ことわざの意味自体は、幽霊を恐れる気持ちがあると、ススキの穂を見てさえ、そう思ってしまうということだが、また別の意味で考えてもいいように思えてきた。
 亡くなった人は、幽霊のかたちでもいいから、この世の人に何か伝えたいことがあったりするのかもしれない。もしくは、ただ顔を見に来たいのかもしれない。しかし、よほど強力な霊でない限り、幽霊のかたちをとるのは難しかろうと思う。そこで、ススキやハンガーにかかった服などのかたちを借りて、かろうじて幽霊のすがたをなしえたのかもしれない。
 ちなみに、父は、うちの子(つまり孫だね)の通信簿を見るのをたいへん楽しみにしていた、たいした成績でもないのにね。子供が夏休み間近になったので、ちょっと早めに通信簿を見に来てしまったのかもしれない。そう思えば、せっかちだった父らしいように思えてくる。

しかし暑いですね。夏バテのせいか口内炎が3か所くらいありまする。

 太陽が殺人者となる大暑かな

 なんてね。
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けっこう良記事 教育欄「ウオッチ 絵馬を舞台 数学ブーム」

朝日新聞 2010.7.4(日)付、記者は花野雄太。

 冲方丁「天地明察」という江戸時代の和算についての小説が話題になっていることは知っていたが、それに関連する記事。記者が渋谷・金王八幡宮に行ったところ(何で行ったのかね、たまたまか?)、算額(の絵馬)が奉納してあり、記されたメールアドレスに連絡してみたら…という話。記者が自分の足で歩いて話題を探してみてこそ書ける記事だと思う。いわゆる「足で稼いだ記事」といいうのだろう。教育欄では建前論が多いせいか、こういう記事をなかなか目にすることがないので、目が洗われるようであった。

 ちなみに末文で、「(算額の)問題を解こうとしたが、文系の私には手も足も出なかった」とあり、軽くユーモアをまじえて終えているのもいいと思う。この方は新聞記者には珍しく、柔らかい心を持っているように思えるので、この調子で記事を書いてもらいたい。新聞によくある、図式に頼り切ったような無味乾燥な記事を書くようにはならないでほしい。

ステージ評 「北島三郎座長公演」

朝日新聞 2010.7.2(金)夕刊

 かつて新宿歌舞伎町のコマ劇場で開催されていた北島三郎の大歌謡ショー(現在は、五反田ゆうぽーとホール)についての記事。どうも大変に「ゴージャス」なショーらしく、ステージには実物大の漁船「北島丸」が登場し、廻り舞台で回転するらしい。「波しぶきを客席に浴びせたような演出」(一体どんな?)で「北の漁場」を歌い、フィナーレは「まつり」で、干支にちなんだ白虎にまたがったサブちゃんが客席にせり出すという。
 あまり関心のない分野であったが、見にいったらかなり感動しそうではある。面白い記事だった。藤崎昭子記者による記事。

清水義範「漱石先生大いに悩む」

あとがきに「本当は明るい人だった、漱石」とあったので、手にしてみた。このところ何作か漱石の小説を読んでいたのだが、世にいうように「生きることの苦悩」とかをテーマにした小説ではないように思えてきた。この本でも、そのようなことが書いてあるかと思って読み進めたが、どうも清水氏のいう「上機嫌の漱石」のまま最後まで貫き通せなかったようだ。作中、美禰(イネ)が自殺するあたりから、結局は人生の苦悩に直面するという、よくある漱石像になってしまっている。目の付けどころはよかったと思うが、今一歩及ばずというところか。

山田風太郎「幻燈辻馬車」

朝日新聞読書欄の筒井康隆の連載で勧められていたので読んでみました。どうも一部、私の郷里のことも出てくるらしいし。
ページを繰るのが惜しいくらい面白いです。この本の面白さについては多くの方が書いておられるので、私はごく簡単なところを。

・魅力的な登場人物が多いが、心ひかれたのは老儒者の晩香先生。昼行燈のようなふりをして、じつはよく分かってらっしゃる。とくに最終章で、娘婿である赤井青年が、密告を恐れて罪なき車夫を殺したとき、赤井に対して謀反に参加する資格は失ったと宣告してからが格好いい。主人公である干兵衛のセリフに「自分の目的をとげるためには、他人を虫ケラ扱いにする人間はきらいでね」とあるが、これは「目的は手段を正当化しない」という著者自身の確信のあらわれであろう。フランス革命、ロシア革命、大東亜戦争、いずれも大義のないものはないが、そのために命をなくした者も数知れずいる。
また赤井が加波山に行けない以上、誰かが爆裂弾を運んでやらなければならぬが、それを晩香先生が持って行くつもりであったというのが格好よい。「まさか、わしが鉄砲を撃つわけにはわけにもゆかんが、ちょっといって、檄とか斬奸状とかの文章など、案じてやろうと思うての」といって娘たちの位牌二つを抱いて、少々おどけた口をききながら死地に向かうのであるが、儒者として生涯をかけて思想にかかわった者の最後の姿としてふさわしい。
・最後の部分、干兵衛と晩香先生を乗せた辻馬車が、亡霊と同じ燐光に包まれて疾走していく場面は、目からちょっとなにかの汁が出ます。
・私も子供が小さい時は「とと」と呼ばれていたので、お雛がそういって亡き父の亡霊を呼び出すときはグッときます。
・ところで、この作品では女性がどんどん死んでしまうが、かわいそうです。このへんはエンターテイメントとして、受けを狙ってしたのかもしれないが。
・作品中に出てくる、足尾鉱毒問題と旧相馬藩の関係であるが、wikipediaによれば、創業者・古河市兵衛は、旧幕藩時代から縁があった旧相馬藩主を名義人にして鉱山を買収し、相馬家家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者になったそうで、相馬家が直接鉱山経営をしたのではないらしい。すこしほっとしました。

2010/7/11付「天声人語」

 鳩山氏退陣からしばらくして読んだ記事(2010.6.16「ザ・コラム コザ暴動が教えること」外岡英俊編集委員)に以下の一節があった。

引用
「(鳩山総理辞任後、)沖縄の各地を歩いた。さぞや怒りや憤りが充満しているだろう。そう思って訪ねると、人々の反応は意外なものだった。「鳩山さんはよくやった。彼だけが沖縄の基地問題を、全国化、国際化してくれた。結果的には米国に押し切られたが、歴史的には、沖縄にプラスだろう」そう語るのは基地問題を全国に発信してきた音楽家・海勢頭豊さんだ」。
引用終わり

 執筆者からすれば、ほとんどの沖縄県民が鳩山氏を非難するだろうと思っていたので、「意外にも」という言葉が出たのだろうと思う。
 ところで、7/6付紙面では、小熊英二氏が沖縄基地問題について語っていたが、そのなかで、「戦後一貫して続いてきた、非対等な日米関係の延長線上でいまだに事が動いていると感じます。アメリカ政府は、在沖米軍が具体的に何の役に立っているのかは軍事機密だとして明かさない。限定的にでも情報を開示して沖縄県民や日本国民の合意をとろうともしない。それで日本の政権が危機に陥っても姿勢を変えない。いわば『問答無用』で、対等な関係とは言えません。ですが世論の関心は、鳩山政権の失策という点に集中し、そのことにはあまり目が向けられませんでした」と書いている。
 たしかに鳩山政権は「失策」といわれるように沖縄基地問題を解決できなかったが、今度の管政権ではそもそも基地を移転する話自体がどこかへ行ってしまった感がある。ならば、鳩山氏を降ろさずに、のらりくらりとアメリカと交渉を続けていたほうが、基地移転問題に関してはよほどましであった。失策はあったが、とにかく鳩山氏は基地移転を実現しようと考えて行動し、オバマ大統領をある程度は追い込んだのだから。

 そこで、本日(7/11)の天声人語を見て目を疑った。末尾に「夏草や普天間問題はや遠し」などと時事句めいたことを書いているが、「はや遠し」となるように仕向けたのは、天声人語子を含む朝日新聞にも責任があることを忘れたふりをする気だろうか。
 基地問題では、例えば「5月末には答えを出す」という鳩山氏の発言に対して、なにかといちゃもんをつけていたが、戦後65年間解決しない問題のまえで、1、2カ月の遅れについて非難するほうがおかしい。それともこのような「常識」すら記者たちに求めるのは難しいのだろうか。

 郷里の近くでは原発が多く建設されてしまった。後日、叔母が言っていたのだが、賛成派の集会には賛成派しか来ない。反対派の集会には反対派しか来ない。議論するのは、それぞれの党派に準ずる事のみ。だから、どちらにも顔を出さないようになってしまった、という。
 記者が取材する際、反対意見を得るために反対派に取材し、賛成派の意見を得るために賛成派に取材し、ということだけでは、どちらにも属さない普通の人々の意見(それが多数だったりもする)が得られないという基本的事項が分っていないならば、記者を辞めたほうが世の中のためになる。

 それにしても、天声人語子の能天気具合には驚いた。2007年4月より福島申二、冨永格という方が書いているそうだが、それなりの年齢の方だろう。しかし、もうぼけたのかな。

山田君の話-マイルスとか

今を去ること20数年前、山田大介君というsax吹きと友達でして、いろいろと良い事を教えてもらいました。
その頃、Miles Davisがしばらくぶりに沈黙を破ってアルバムを出したのですが、シンディ・ローパーとかマイケル・ジャクソンの曲を取り上げたりしていて、世間の反応はいま一つだった記憶があります。
しかし山田君は、そんなに悪くない、というかむしろかなり良いといっておりました。
今、Mailes最後のライブらしい「Live Around the World」というCDを聞いていますが、非常に良いです。
昔テレビ東京で「ZAPP ZONE」という番組でアメリカのTV番組「Night MUsic」の演奏を流していましたが、それに出ていたMilesバンドが、その時期だったようです。

そういえば、Dallar BrandとCarlos Wardのデュオを教えてくれたのも山田君でした。
いま何やってるかな。

オルセー美術館展2010「ポスト印象派」展

昨日は、夕刻より国立新美術館へ行った。乃木坂駅で降りると、直接館内に入れるので便利でした。
見に来たのは、オルセー美術館展2010「ポスト印象派」というもの。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどの作品が来ているというので行ってみたわけ。
だいぶ込んでいるという噂があり、20時まで開館する金曜日を狙ってみた。17時過ぎに行くと、ある程度すいている(というか混んでいない、という程度)。しかし、18時以降はまた込みだした。会社帰りの人が来るからね。

さて、作品ですが、印象派が出てきたとき、旧来の重厚で技巧的な作品を見てきた人からは、相手にされなかったというのが納得できます。今回はポスト印象派(昔は、後期印象派などともいったが)ですが、印象派の作品ももちろん来ている。やっぱり、全体に描き込みが少ないし、デッサンも下手っぽいし(わざと下手にやってる人もいるわけですが)、なんというか「油絵の具で描いたイラスト」的な作品がけっこうあるように思えて、当時の人からしたら、非常に違和感があったでしょう。以下、良かった作品についてメモ的に書いていきます。ご笑覧ください。

・モネ「日傘の女性」。薄塗り?の絵の具と風の吹いている感じがマッチして、好きな作品です。作者と女性との距離感が心地よい。
・モネ「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」。これは見る角度によって、たしかに光がさして見える。霧に浮かぶ太陽と水面の反射の具合がよい。
・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」。このへんの山の連作は名高いのだが、これまで良さがわからなかった。少し離れてみると、たしかに山が立体的に見えてくる。うまく言えないのだが、遠くにあるはずの山が、ものすごく存在感がある場合、近景や中景よりもせり出して見えるときがある。例えば、秋や冬の晴天の日、空気が澄んで視界が遠くまで広がるとき、遠くにあるはずの巨大な建築などが、みょうに近くに見えるようにかんじるときがあるが、その感覚に近いかも。不思議な絵です。でも、あんまり近寄って見ても面白くないんじゃないか(と他の方に言いたいが、言えません)。もう少し、他のサント・ヴィクトワール山の絵が見たいですな。
・セザンヌ「台所のテーブル(籠のある静物)」。これも不思議な立体感(実在感?)を感じる。とくに画面中央左の「壺」。パースが狂っているというか、あの角度で見えるのはおかしいだろうと思うが、みょうに生々しい。あの壺の中、なにが入れてあるんだろうね(空っぽなのは知ってるけど)。
・セザンヌ「ギュスターブ・ジェフロア」。知り合いの画商の肖像画とのこと。「サント・ヴィクトワール山」で、少し離れてみると良いことが分かると、この作品の立体感も良く分かる。というか、そのようにみると胸板厚すぎないか? それとも厚手のジャケットか?
・セザンヌ「セザンヌ夫人」。ぱっと見ると、ちょっと描きかけのようにも見えるくらいであるが、他人の頭の間からぱっと見えたりすると、妙に現実感がある。さすがにものを球体や円筒として捉えていただけのことはあるような立体感がある。
・ゴッホ「アルルのゴッホの寝室」。これって、ベッドやイスの存在感があるのだが、よくみると、この家具類、床から宙に浮かんでいるんではないか?この時点で、ご本人はだいぶヤバい状態なのではないかと思う。
・ゴッホ「自画像」。これは塗ったという面がなくて、全て絵の具を短い線で置いていっているが、あたかも人間が分子レベルに分解しそうな勢いである。点描の画家たちは、光学的知識を背景に、点で描くことによってものの姿を構築したわけだが、この作品では、(点描ではないが)短い線で絵の具を置くことによって、むしろ自己の分解を描いているようにも見える。
・ゴッホ「星降る夜」。これは面白い絵。見ていると絵の中の物語が妄想として浮かんできた。辻邦夫「十二の風景画への十二の旅」というわけではないが。その話はこんな話。
 ある画家が、女性(恋人?)と夜の街に散歩に出た。画家は、もともと視覚が尋常ではなく過敏であり、いろいろな光の変容があるとその場に立ちすくんでしまうようなところがあった。二人が散歩に出た夜は、空には星が瞬いており、画家は全天の星を感じることができるような感覚にとらわれていた。また、それに呼応するように川沿いのガス灯が光り、その光が水面に反射して、星、ガス灯、川面の反射の3つの光が互いに呼応しているようであった。画家はその光の光景に魅入られ、また、その光の源に近づきたい気持ちになった。ちょうど河口には二隻の船があり、画家にはまさしくこの船に乗って、光に近づくべきように思われた。もちろん、画家は狂人ではなかったので、船に乗ったところで、ガス灯のそばに行くのが関の山、星空には近づけないことは理解していたが、船に乗り込みたい気持ちを抑えるのが難しかった。画家は黙って、その場に立ちすくんでいたが、ただならぬ様子を感じ取った女性は、画家に手を差し出し、夜もだいぶふけたのだから今夜は帰ろうと話しかけた。画家はそれを聞いて正気に戻り、家に帰ったらこの光の様子をもう一度作品として再現しようと思った。
…というような話を妄想しました。
・ゴッホ「銅の花器のフリティラリア」。これは花よりも、銅製の花器のほうが気にかかる。たしかにこの花器は銅製だし、丸っこいという実感がある。
・ゴーギャン「レ・ザリスカン」。これは左奥に教会の鐘楼らしき建物、右手には並木があって、中央には、道とそこに2、3人の人の姿。脇に流れるのは川らしい。そう書けば普通の風景画のように思えるのだが、穏やかな絵になってもおかしくないのに、荒々しい、狂気じみたものが染み出しているように思える。とくに画面右側の燃えるようなオレンジの低木と、中央後ろの立木の色には、なんだか胸をざわつかせるものを感じた。
・ゴーギャン「牛のいる海景」。これ、手前の牛と後ろの船がなければ抽象画である。なんだかエロチックな印象です。なんでだろ。
・フェリックス・ヴァロットン「自画像」。これはすごく上手な絵です。でもこの人の他の作品は、みょうに平面的というか、意図した下手ウマ的かんじです。こういうストレートな絵のほうがいいように思うが。
・ピュヴィ・ド・シャバンヌ「貧しき漁夫」。この絵、すでに涅槃の世界である。祈る漁夫は、まだかろうじて現世にいるが、右手で遊ぶ子供二人と、地面に咲く花の様子はこの世のものではないようである。また、画面左上の海のようすは、みょうに光っていて、あちらに行くともう戻って来られないところのようである。スーラの作品に、この絵を画中画としているものがあったが、それくらいの強い影響を与える作品だと思う。
・クノップフ「マリー・モノン」。クノップフといえば幻想画と思ってしまうが、これは普通に見えるポートレート。ある種のソフトフォーカスレンズで撮影した写真のように、中央部の顔のところは、ピントが来ていて、あとはぼやけている。その中央部の顔の部分、非常によく書けていて、肌の感じなど現実のようである。そう思ってみると、なにも不思議なものは描かれていないのだが、全体としてみると、なにやら現実的ではないように見えてくる。知らない作品でしたが、好きになりました。

ところで、印象派およびポスト印象派の絵は、少し離れてみたほうがいいのではないかと思う。そんなに近寄っても、点々とか、筆のタッチしか見えません(笑。むしろ、少し離れて、全体の量感とかを感じ取ったほうがいいように思うが、混んでくると離れてみることができない(間に人がいるから)のがつらいです。
それとイヤホンガイドで説明を聞くばかりで、絵を自分の目で見ない人が多いのが気になる。本物を目の前にして、解説付きのテレビのように見るのはもったいないと思う。
これから行く人のご参考になれば幸甚に存じます(笑。
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