eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2010-02

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帰郷

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EOS-RT+EF50/1.8+EF24/2.8

飯田橋から、九段下、水道橋あたり

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EOS-RT+EF50/1.8+EF24/2.8+distagon35/2.8

長崎県知事のお話

前長崎県知事の方ですが、松浦のほうのご出身とのこと。実は松浦水軍の末裔といううわさがあるそうです。
今回の長崎県知事選の結果というのは、そのへんの関係(古来からの有力者が推薦する後釜としての新知事)というのも、あるかもしれませんね~。

神保町、秋

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アラーキーの「東京は秋」のパクリのようなタイトルですが。
EOS-RT+EF50/1.8(旧型), EF24/2.8, LEITZ COLORPLAN 2.5/90 (プロジェクター用レンズを改造)など

最近の写真

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3番目の写真はフォクトレンダーのvitomatic、ウルトロン50/2.0で撮影したものですが、なんだか独特の発色でした(この画面ではわからないと思いますが)。

鹿島茂氏のデパート論

手元に記事がないのだが、2/11?の鹿島茂氏のデパート衰退の原因論は面白かった。というか、よくあの手のことを書いていたとは思う。

さて、たしかにデパートの美術館が一斉になくなった時期があった。西武池袋なんて、イメージ勝負だったのに、あとでボディ・ブローのように効いてきたのではないか。最後の展覧会は、アルバー・アアルトだったような記憶がある。で、美術館わきの道路の見える喫茶室でコーヒーを飲んだりするのが、田舎から来た貧乏学生の自分には、たいへんいい気持であった。

デパートには、「ちょっといいもの」で、「頑張れば買えるもの」があるのが魅力だったが、バブル以降か、「とても良いもので、とても高いものばかり」になったので、足が遠のいた。それでも、面白い催し物があれば足を向けるが、それもないと行く理由はないな。
まぁ、デパートは自業自得ということです。実際、有名ブランドにテナントを貸しているだけで、あれは一種の不動産賃貸業ではないかと。
といって、他の店に魅力があるかというと、そうではないのがつらいところ。

中流の市民が、たまに贅沢するような、そんなお店がほしいですな。そうしないと、お金が動きません。

フードつきの服はECOクゾク

フードつきの服というのがあるが、あのフード、実際にはどのくらい使われているのだろうか。おそらくそれほど寒くない土地柄の場合、日常的にはほとんど使われてないだろう。強いて言えば、防犯カメラに顔を写されたくない人くらいか。

あのフードの分の生地を節約すれば、どれほど地球環境の保全に役立つだろう。
概算では、10着分のフードで、フードなしの服を1着作れるという(当研究所調べ)。
よって、フードつきの服を必要もなく着るものは、ecoに関する国賊、つまりECOクゾク(pat.pend)として、街角でつるしあげられるべきである。
そろそろ愛国婦人会ならぬエコクフジンカイの発足が待たれる。

アグネスちゃんが真に受けたりしてw。
※アグネス・チャン・さんのことではありません。

コニカFT-1 お買い上げ

なんか目がしばしばしますが、花粉ですかね。
以前はそういうことはなかったのだが、年をとったせいか、そういう反応が出るようになってきた。

さて、松屋銀座の中古カメラショーをひやかしに行きまして、とくに買い物をする気はなかったのですが(軍資金もないし)、とある店で、コニカFT-1+50/1.4(カビ玉)を現状ままで12,600円というのを見つけました。
その時、ちょうどFC-1に50/1.4をつけていたので、レンズなしでお願いできないか交渉して、ボディのみ10,500円にしてもらいまして、ぶじご購入のあかつきを迎えましたってか。お店の方、わがまま言って、すみませんでした。
さて、このボディ、連続巻き上げの切り替えスイッチがバカになっている以外、とりたてて問題ないようです。
どうせ、連射なんてしないし、全く問題なし。ファインダーをのぞいたら、FC-1よりクリアでびっくりした。もっともFS-1、FC-1、FT-1とファインダー周りはそれほど変わっていないらしいので、FC-1は経年劣化だろうと思う。

それにしても質感いいです。貧乏なのでなかなか買えなかったが、以前からほしいと思っていたものなのでうれしい。
AEロックはありがたいが、少々クセがあるようで、35-70/3.5のズームをつけてAEロックを使ったら、F2というファインダー表示が出た。おそらく、設定のシャッタースピードでは、それだけの明るさが必要ということで、2段アンダーになるという意味だと思うが、まだちょっとよくわからない。

これからテスト撮影です。

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最近のカメライフ

このところ、コニカFC-1+50/1.4を中心に、35/2.8やら35-70/3.5などを組み合わせて撮影しております。以前は40/1.8やら、57/1.4やらを使っていましたが、この50/1.4が気に入ってこればかり使っています。というか最近コニカばかり使うのは、このレンズがあるからかもしれません。
フィルムはもっぱらフジのリアラ。先日のフジフィルムの発表ではかなり焦りましたが、とにかくフィルムの消費量を伸ばさなくては、と思っています。

ところで、この35-70/3.5は、中野の有名カメラ店のジャンクショップで1000円で入手しました。前玉ちょっとカビありかな、でも実用十分といったところ。人気のないマウントなので捨て値なのでしょうか。
このレンズ、ちょっと面白いところがあって、70ミリ時だと、レンズが奥に引っ込み、鏡銅が一種のフード様になります。一方35ミリ時には、レンズが鏡銅よりもかなり前に出ます。レンズフードをどうすべきか悩んでいたら、このサイトでフードの写真が出ていました。で、中古の62ミリ径フードを300円で買って、ちゃんと使えるようになりました。当時としては、描写の良いズームだったらしいです。テスト撮影中なので、仕上がりが楽しみ。
貧乏自慢ですみませんw。

「かぎられた財産のイメージ」について

「ファウスト伝説 悪魔と魔法の西洋文化史」(溝井裕一 文理閣2009)を読んでみました。

このなかで書かれている、「かぎられた財産のイメージ」(image of limited good)という考え方が面白い。というか自分の考え方とほぼ同じである。

以下、本文中128~154pを適宜引用(じつはこの本の著者が引用しているところを更に引用している部分もある)

アーレント=シュルテはつぎのように述べている。

その背後には農村社会で普及していた「財はその総量が一定である」という概念があった。自由にできる土地および土地の収穫や畜産物などは限度があり、それに応じて財の総量は一定であるということが体験から知られていた。この社会では人より多くの物を手に入れた人は、その分、誰かに損害を押し付けたことになる。つまり、増産は他人の減産の上に達成した行為であった。要するに、ある人の富は他の人の貧困を引き起こしたことになる。
(『魔女にされた女性たち』野口芳子ほか訳)
(※中略)
(*)「かぎられた財産のイメージ」(image of limited good)は、アメリカの人類学者ジョージ・フォスターが、1958-1963年にメキシコの農村でおこなったフィールドワークを踏まえてとなえたもの。かれは、農耕社会に生きる人びとには、農耕地、健康、権力といったあらゆるタイプの財産がかぎられた量しかないと考える傾向があるとした。この考え方では、一部の者が多くの財産を占有することは、他人に犠牲を強いることになる。
(※中略)

すでに述べたとおり、近世ヨーロッパの農耕社会では、共同の財産や健康は、つねに一定量であり続けると想定されていた。すなわち、誰かが裕福になるということは、おなじ共同体の誰かが貧乏になるということであった。裕福になることは、誰かから富を吸いとるということであり、悪徳だったのである。

引用終わり

あまり細かく検証はしないが、農村という限られた社会の中で、生産技術の進歩もあまり望めないのであれば、このような考え方に行きついても不思議ではない。誰かが(理不尽なほど?)多くを得れば、割をくう者が出る。農業にかぎらず、栗の木があったとして、誰かが実を独り占めすれば、他の者が得るものはなくなる。
 この状態を脱却するには、技術革新によって生産量自体をふやす以外に方法はない。では、がんばりましょうというのが、近世~近代までの流れといったら言いすぎか。

ところで、じつはお金に関しても、同じような感覚がある。実際に社会に流通する貨幣の量は、一定なのではなかろうか。貨幣量が多すぎればインフレ、少なすぎればデフレとなるので、通貨当局は経済の実態に合わせて、貨幣量を調整しているようである(このへん、新聞とテレビから得た漠然とした印象に基づいている)。ということは、ある特定のところに富が偏在すれば、お金が足りなくて困る人が出てくる。まして、本来流通して遍在すべき貨幣が、長期間偏在(=滞留)していれば、貧富の差が固定化し、社会の活力が失われるだろう。
同様に、「農村という限られた社会」といいながら、現代では、世界自体が有限のものであるという認識がある。地球自体が小さな農村と変わりはない。そこでは様々な資源、自然環境、その他のものにおいて、すべての「よきもの=good」は量が一定である。日本で紙を大量消費すれば、熱帯雨林と寒帯の森林が消滅するわけで、必ず誰かがツケを払わなければならない。
というよりも、そのツケは巡りめぐって自分のところに戻ってくるというのが、現代社会のように思える。安いコットンの服を買うと、ロシアの綿花畑が水を大量に消費するので、カスピ海が干上がる。カスピ海が消滅すれば、砂漠が広がり、耕作地も減る。となると、食料生産が減り、日本のような輸入国は飢餓に苦しむ(かもしれない)。

現代というのは、あらたな中世~近世を迎えつつあるのかな、と。
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