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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2006-11

吉田元さんのこと

怒涛の更新ではあるが、最近2本はよそのblogに対してのコメントであり、ひとの褌で相撲をとっているわけで、恥ずかしい限りであります。

それとは別に。

最初に勤めた仕事でお世話になった、吉田元(よしだはじめ)さんが、昨年亡くなっていたことを、今日初めて知った。
そこの仕事は、1年半くらいで飛び出してしまったので、接した時間はごく短いものだったが、自分が写真に深く興味を持つようになったのは、この方のおかげと思っている。

これについては、またゆっくり書いてみたい。
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二宮尊徳とグラミン銀行

この方の名前を出したところ、やたらと検索されるようになったので、「IKD信夫」と表記を変えさせていただきました。2006.11.8
※「苛 政 猛 於 虎 也」という検索でこのページにたどりついた方、むしろ以下を見てください。http://kanbun.info/koji/kasei.html


FACTAの阿部重夫の文章
を見ていたら、
IKD信夫氏の文章
が紹介されていた。

そこでIKD氏のblogを見ていたら、「高利貸しが最貧国を救う」というタイトルで、グラミン銀行が紹介されていた。
「高利貸し」という言葉に違和感を持ったが、同じように感じた人が居て、トラックバックで以下のように指摘されていた。

(以下引用)
高利貸しと他称するには (名無しさん@お金いっぱい)
2006-10-15 17:36:19

従来の常識では、バングラデシュのような最貧国で金融を行うことは不可能だと考えられていたが、グラミン銀行は無担保で、年利20%という高金利であるにもかかわらず、返済率は99%だ。

外務省: 最近のバングラデシュ情勢と日本・バングラデシュ関係
最近のバングラデシュ情勢と日本・バングラデシュ関係
(5)GDP成長率:5.4%(2005年度暫定値)
(9)インフレ率:6.5%(2005年度)
貸し出し金利20%は日本では高利貸しと揶揄できても、インフレ率6.5%の国で高利貸しと言ってしまえるかどうかは微妙な気が。
(引用終わり)

これについて、IKD氏は、「まあこのタイトルは冗談だったんだけど、「はてな」では爆発的に受けたようですね」などとお茶を濁して答えているが、まぁ、あまり誠実な感じではない。

他人を「高利貸し」呼ばわりするのは、なかなか出来ないことと思うが、どうやらIKD氏は有能ではあっても、ある種の慎重さ?はあまりお持ちでないのかもしれない。



さて、グラミン銀行について以前から思っていたのだが、どうしても二宮尊徳のことが思い出される。たしか、グラミン銀行の融資相手は女性が多かったようなはずであるが、二宮尊徳も出資する場合、夫だけではなく夫婦で面接したという。これについて、「尊徳は女好きだから、他人の女房を見たがるのだ」と揶揄されたそうだが、尊徳は「その家の奥さんを見なければ、安心して出資できるかどうか分からないのだ」と答えたというのを読んだことがある。この辺の感覚は互いに似ているように思うのだが、資料を揃えて読み込んでからでないと、きちんと論証できない。その代わり、しばらく前に二宮尊徳について考えたことを簡略にまとめたことがあるので、それを載せておこうと思う。


「古典について」
(前略)
 先日、二宮尊徳の文章を読みました。中央公論社版「日本の名著」シリーズですから、文語体ではありません。このなかの「報徳記」は富田高慶、「二宮翁夜話」は福住正兄という尊徳の高弟がそれぞれ著したもの、「三才報徳金毛録」は尊徳と弟子の共著のようです。
 二宮尊徳というよりは、幼名の二宮金次郎のほうが有名かもしれません。金次郎といえば学校の片隅にある、薪を背負いながら寸暇を惜しんで本を読むという例の銅像を思い出します。もっとも物好きな人が調べたところでは、最近の小中学校では人気がなくて、この銅像自体がないそうです。「芝刈り 縄ない、わらじを作り、(中略)手本は二宮金次郎」という歌があったくらいで、尊徳の一般的なイメージは刻苦勉励、真面目一点張りのあまり面白みのない人物としてとらえられているように思います。実際の尊徳は、身長約6尺(182センチ)、体重25貫(94キロ)、足のサイズは26.5センチという、現代でもけっこう堂々たる体格で、当時なら相当の大男だったでしょう。どうも幼少のころの「金次郎」のイメージとはだいぶ違います。
 
私が尊徳の本を手にとった理由は、勝海舟の「氷川清話」を読んでいたら、「二宮尊徳には、一度会ったが、いたって正直な人だったよ。だいたいあんな時勢には、あんな人物がたくさんできるものだ。時勢が人を作る例は、おれは確かにみたよ」と書いてあったからです。これだけならば、「あぁ、そうか」と思うだけですが、なんだか「あんな時勢」というところが妙にひっかかりました。
 というのは、尊徳の活躍したのは幕末期で、小田原藩・日光神領(日光東照宮の土地)等の荒廃した農村の立て直しをするわけですが、それら諸藩の状況をあげてみると、「多額の借金」「生産の不振」「労働人口の減少」等、まるで現在の日本のような状況です。
それらの土地では、天明の大飢饉による飢餓、死亡、逃散で人口が半分以下に減り、田畑は荒廃し、収穫は3分の1以下に減るという大惨状でした。文化文政年間に多少持ち直したところに、今度は天保の大飢饉が起こり、元の木阿弥になってしまいました。
困窮状態の藩に限らず、幕藩体制も相当危うくなっており、それをさして海舟は「あんな時勢」といっているのでしょう。
ところで、2005年末で日本の国債発行残高が538兆円になり、一方、税収は44兆70億円だということです。私は、経済とか数字とかは、いたって苦手なのですが、国債というのは国の借金のことでしょうから、単純に計算すると、収入に対して約12倍の借金があるということになります(もっとも単なる借金ではなくて「意味のある借金-実り豊かな将来を作る投資のための借金」だと思いたいのですが)。先ほどあげた「多額の借金」は国債の発行残高、「生産の不振」は中国に押される製造業、「労働人口の減少」はNEETおよび社会の少子高齢化と考えれば、なんだかどこかで聞いたよう話ばかり。現代も尊徳の時代の状況に似ているな、と思って本を手にとったのでした。
もっとも私は「経済」のことはまったく疎く、「経世済民」といわれたほうがまだ分かるという程度です。「経世済民」といえば、「世を治め、民の苦しみを救うこと」ですから、それならば私にも理解できます。

 さて内容について、ごくかいつまんで言えば、尊徳の考えは「至誠」「勤労」「分度」「推譲」という言葉にあらわしても良いように思います。このなかで、「分度」「推譲」というあまり聞いたことのない言葉の説明をします。「分度」とは、まず収入の総額を算出し、実際の生活をその総額よりも小さくして暮らすということ。簡単に言うと、実際の収入に生活をあわせろということで、仕法(農村復興)を行う際にはその土地柄等を綿密に実地調査し、数年間の平均生産量を計算した上で、収入を想定していたそうです。そして収入を目いっぱい使って暮らすのではなく、そこから少し余らせておく。その余った分を公共、というよりはともに暮らす仲間のために使う。これを「推譲」というそうです。個人の生活の場合も同様で、その一家が借金を抱えている場合には、まず、低利で融資して借金を整理してやり、そこから「分度」によって生活を立て直す。余った分を持ち寄って、互いに低利で融資しあったりしたそうです。一方では藩主に年貢の取りすぎや歳費(とはいわないか)の使いすぎをいさめたり、枡の大きさを統一したりと、行政側にも努力をもとめたということです。
 尊徳のやっていることを見ると、目の前の共同体(一番小さなものは「家」)をどうやってマネジメントするか、というところから始まっているように思います。そして自分とコミュニティを切り離さずに考えるというのは、現代でも通用する考え方だと思います。私自身で言えば、自分の小遣いを「分度」し、それを次の世代や社会に「推譲」しなければならないのですが、やってみるとその「分度」からしてむずかしいのが実際のところです。
しかし、尊徳は、その仕法によって社会が平安になったあとは、どのような社会実現すべきだと構想していたのだろうと考えると、少し分からなくなります。神仏儒をそれぞれ引き合いに出したりして理想的な社会を説いていますが、いまひとつ具体的なイメージがわきません。確かに「国家盛衰の根元」とか「治国の要道」というような記述はありますが、たいていの場合、エピソードを元に自分の考えを語るというもので、それほど体系だっているようには読めませんでした。尊徳に、それ以上の構想はなかったといえるのかもしれません。あえて言えば、そのあたりが二宮尊徳の限界なのかもしれませんが、一方で、リアリストでもある彼は、そんな平安な世の中はなかなか実現しないし、また実現しても長続きしないよ、と考えていたようにも思うのです。

話がとびますが、先日、たまたまモンテスキューの「法の精神」を読みました。そのなかで「政治的自由は穏和政体にしか見いだせない」とありました。モンテスキューによれば、一般的に民主制>共和制>君主制の順に、自由があるように思われている。つまり、さまざまな種類の政体があって、その種類のなかには自由な政体もあるというふうに思われがちであるが、間違っている。実際はその政体ごとにそれぞれの(それなりの)自由がある。しかし政治的自由は、権力が濫用されない穏和政体の中にしか存在しない、ということを言っております。そして「権力を持つものはすべて、それを濫用する傾向があることは、永遠の体験である」ということから、有名な三権分立論が出てくるわけです。「穏和な政体」にこそ、政治的自由があるとモンテスキューは言っておりますが、二宮尊徳はどうでしょうか。尊徳は政治的自由よりも経済的自立を重視しているように思います。さらに言うなら、農村経済と商業経済の矛盾および封建体制の矛盾に苦しみながらも、明確な社会変革の意識はなかったと思います。ただし、「苛政は虎よりも猛し」(礼記)という言葉は当然知っていたでしょう。彼自身、当時の政治体制では自らの手腕を振るいきれないと感じていたことは確かですが、かといって別の政体を構想していたようでもない。いってみれば政体の種類は問わないが、穏和な政体を望み、そこで平安な社会が実現すればよい、というところでしょうか。しかし現実にはそれですらなかなか難しいのだよ、というのが彼の認識だったようにも思います。言い換えれば、何とか普通に暮らせるところまでは自分がやるから、そこから先は別の人が考えてくれ、と言うことかもしれません。亡くなる少し前に「余が足を開け、予が手を開け。予が書簡を見よ、予が日記を見よ、戦戦兢兢深淵に望むが如く、薄氷を踏むが如し」という言葉を日記に残しているそうですが、矛盾を抱え込みながらも自らの為すべきことをしてきたという実感がこもった言葉のように思います。
※モンテスキューについては、法と国家、市民の関係、freedomとlibertyの違い、個人と市民の違いなどふれておかなければならない事柄があるのですが、ここでは割愛します。

おそらく、古典のよさというのは、「時間」に耐えて生き残ってきたということから来るものがあるのではないかと思います。とりあえず、私よりも長生きしているのは確かです。二宮尊徳の文章などいまどき物好きしか読まないかもしれません。また、「今の常識」から見ると、おかしなことをいっているかもしれません。しかし、ここで言えるのは、「今の常識」も時代が経てば、「昔の常識」になり、未来の人から見れば「なんだか変なことを言っているな」ということになるかもしれません(というかおそらくなるでしょう。例えば15年前、携帯電話がこれほど普及するとはNTTも考えていなかったから、めぐりめぐって、電話加入権が問題になるわけです)。
しかし、一方で、時代時代の「常識」を超えて、読む価値を持つ古典が実際にあるということ、この二つは頭の隅っこにでも入れておいたらいいのではないかと思います。
(後略)

Finalventなる人の

白川静先生の事績について、ネットを見ていたら、Finalventなる人の「白川静は「と」だと思う」という記事があったので読んでみた。http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_23.html

この人、http://ja.wikipedia.org/wiki/Finalventによれば、2004年のアルファブロガーに選出されているそうだ。
※アルファブロガー【alpha blogger】とは、多くの読者に読まれている、影響力のあるブロガーとのこと。
それにしては、ちょっとお粗末かなとも思い、また先人に対する最低限の敬意さえないのはいただけないが、これだけの量の記事を書き続けるのはたいしたものではある。
とはいえ、こんなことも書いている。ちょっとは大人になったのかな。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20061101/1162390429

この件については、以下で上手にまとめているように思いました。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1098353963/134
(以下、引用)
白川静vs藤堂明保vs加藤常賢
134 :17:2005/08/04(木) 00:11:38 ID:edF8fQQD
>133

リンク先読ませていただきました。
私はソシュールの言語学については全くの素人ですので記事の内容について突っ込んだ議論はできませんが、オリエント起源のアルファベット等々の文字体系の中で生活し、思考し、組み立てた定義をそのまま極東で生まれた漢字に当てはめているのにはやはり疑問が残ります。
ソシュールの説が漢字や古代中国の思惟構造にも当てはまるということを証明するのが先ではないかと思うのです。
そうしないと、かつて中国史学者がヨーロッパ史から考察されたマルクスの唯物論をそのまま中国史にも当てはめ論理の破綻をまねいた失敗の二の舞になってしまいます。

白川先生のソシュールに対する意見は中公新書の『漢字百話』の最初に書かれてます。

まあ、何にせよリンク先の論は紀元前1100年以上前の漢字に対して紀元前3世紀末の始皇帝を持ち出して論を組み立てていることからして、中国史に対する認識不足・配慮不足が見受けられますな・・・
(引用終わり)

浅学菲才の私としては、あまり口をはさむことはできないのだが、折口信夫が、古代人が憑依したような境地になって、感じ、考え、書いたことは、「学問的に」検証しようとしても難しいが、しかし、ある種の説得力がある。このレベルまでくれば、真偽は問われなくても良いようにさえ思う。
同様に、白川先生は、文字をなぞっているうちに、やはり古代人が乗り移ったようになり、その立場から、考え、書いたように思う。ここまでくると、やはり真偽の問題ではないと思う。
古代人の心象が検証不可能なことは、古代の発音がどうであったかを検証不可能(推定は可能だろうが)なことと同じように思えるが、文字の世界を感得し、このようであったのではないかと書くによって再構築することは意味があるのではないか。

京都旅行

11/3~5の3連休中、家人と子供を連れ、家族で京都に行ってきました。
以下、さらっと備忘録として。

11月3日(金)
朝6時の新幹線に乗り、9時過ぎに京都着。
そのまま京福電鉄嵐山線(嵐電)にのり、天竜寺に向かう。
20年ほど前にはじめて嵐電に乗ったとき、民家の軒先をかすめて走るようすに、非常に驚いたが、今回改めて乗ってみると、都電荒川線と同じ程度に、軌道と家並みは離れていたのだった。思い出の中で印象が増幅されたのだろう。

嵐山に着いたが、駅を降りると、やたらと騒がしい。
天龍寺は、以前、その庭を見て感銘を受けたので再訪したのだが、見物人が騒がしく(自分もその一人だが)、若干興ざめであった。とはいえ、いい庭であった。
その後、渡月橋へ向かったが、あまりの人ごみに偏頭痛がしてきた(朝早いせいもあったが)。
その後、太秦の広隆寺へ。境内は閑散として、人影少なく、私の印象の天龍寺に重なった。偶然にも特別観覧期間で、国宝の桂宮院本堂を観ることができた。小さなお堂であるが、なんともいえぬいい形をしていた。ここで記念にどんぐりを拾った。
霊宝殿に入り、弥勒菩薩半跏思惟像をはじめとする、さまざまな仏の像を見た。薄暗いなかにたたずむ弥勒菩薩像は、いつまでも見飽きないだろうと思われた。弥勒菩薩の前に畳が置いてあり、ゆっくりと拝めるようになっていたのはありがたかった。ここはぜひ再訪したい。

このままホテルに戻ればよかったのだが、家人が欲を出し、もう一歩きということになり、嵐電を乗り換えて、龍安寺へ。ここも3連休で人手が多かったためか、赤ん坊が泣き、青年、壮年、老年は、携帯電話のカメラでパシャリパシャリとやっていた。
それでも、少し前に亡くなられた白川静先生ゆかりの地である、立命館大学近辺の衣笠あたりを歩けたのはうれしいことであった。

天龍寺、竜安寺は、人手の少ない梅雨時当たりがいいかもね。そういえば、以前来たときも、梅雨明け前であった。


夕食は、タクシーの運転手さんに聞き、先斗町に出たが、どこも満員。家人、子供とも空腹と疲れで険悪な雰囲気になりかけたが、とある蕎麦屋にあがることができ、無事食事をとることができた。その後、ホテルに戻り、早々に就寝。
大人中心の旅程で申し訳なく思ったのだが、子供ははじめてのホテル滞在で、それだけでもうれしいらしい。

11月4日(土)

朝食をたっぷりとった後、バスで清水寺へ。まず、五条坂から茶碗坂を上り境内へ。ここも大変な人出であった。さらりと見て、きつねうどんを食べて昼食とする。子供が飲み残した冷やし飴なるものも飲んだり。境内に阿弖流為の碑があった。東北出身の自分としては、見逃せないものであった。
下りは清水坂なる通りを歩いたが、あまりの混雑振りに疲れ果てた。坂を曲がり八坂通りに入り、ほっとする。五重塔が素晴らしい。
家人の母の骨を収めていただいている知恩院へ向かう。幸いにも、特別公開中の三門にのぼることができた。たいへんに急な階段を上ると、往時は極楽浄土そのものともおもわれたであろうような華麗な世界があった。中央の釈迦牟尼仏像は、いまだ金色に輝き、極彩色で書かれた内部装飾は、まだ絵の具の色も生々しく、今見るのとは違う、作られた当初の仏像の様子がありありと想像できた。
その後、歩いて青蓮院へ。疲れてきたため満喫できなかったが、いいところであった。余裕を持ってまた訪れたい。

その後、家人の遠い親戚がいる鹿ケ谷へ向かい、バスでまた知恩院前に戻り、昼間目をつけていた蓮月茶屋へ。少し待ったが、おいしい湯どうふであった。京都らしい食事ができて満足した。この日も歩きつかれて早々に就寝。

11月5日(日)

悲しいことに京都滞在最終日。まず京都駅に向かいロッカーに荷物を預け、地下鉄で四条へ。鴨川沿いを歩いて、三条方面へ抜け、三条通をあるいてイノダコーヒ本店に入る。古めかしく、なかのひろいところだった。トイレに行く途中の回廊?にはオウムらしき鳥を飼っている鳥かごがいくつも並んでいたり、なんだか、白昼夢のような空間であった。有名なビーフカツサンドを食べた。ちょっと高いが旨かった。裏通りがわの入り口から出たのだが、家人が言うには、近くにヤクザが来ていたらしい。そういえば黒塗りの車が何台か駐車してあり、男が何人か居たようではあるが、東北出身で今は東京に暮す自分には、ヤクザは身近なものではないので、まったく気付かなかった。

その後、家人と別行動とし、子供と何必館に向かったが、展示替えで休館していた。残念也。鴨川べりで、子供とお茶を飲んだり、水切りをしたりして時間をすごす。でも、これまで2日が強行軍であったので、ここでゆっくりした時間をすごせて、ちょうどよかったように思う。
15時過ぎの新幹線で東京に向かった。これで旅も終わりと思うとさびしいものだが、また京都に来たいものだ。
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