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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2006-09

自力と他力、および市民と大衆

「自力」というの、自らの修行によって悟りを得ること。一方、「他力」とは、自らを放擲して、阿弥陀の本願にすがること。
「市民社会」というときの「市民」というのは、社会の中で義務と責任、およびその範囲での自由を享受する立場であるが、これは教育等により自らしかるべき教養と徳を持っている(と期待されている)。なんとなく、古代ギリシャの都市国家につながる残響を感じる。一方「大衆」は、自ら判断することなく、デマに惑わされ、その場限りの判断で行動し、自らの責任をとろうとしない。これはローマ時代というよりも、現代の特性か。

こう並べて考えたとき、「自力」と「市民」というものに、ある種の類縁性を感じた。つまり、自らを恃みながら(傲慢に陥らずに)、あるべき姿を模索するという点である。ある意味では、強者である。
では、「他力」と「大衆」を並べたとき、どうであるか。自ら悟る力のない者は、傲慢さを捨て、仏にすがるしかないのであるが、大衆は傲慢さを捨てず、しかも仏ではなく、大衆扇動者にすがったりする。
阿弥陀とはいわぬが、よき導き手が必要なのかしれない。しかし大衆に理解でき、しかも
理性、知性、徳、判断力、実行力を併せ持つような人がいるのだろうか。もちろん完璧でなくてもよいのだが。
筒井康隆が、文学作品のあるべき姿として、表層にはエンターテイメント性を出しつつ、さらによく読むと、高度の内容も読み取れるという二重構造を語っていたが、政治においても同じといってもいいのだろうか。

と、ここまで考えたが、これは、大衆民主主義を否定しかねないことである。つまり、愚者も賢者も、国政における意思表示である選挙の投票において、おなじ1票しかもっていない。賢者は自己責任で判断すればいいが、愚者はしかるべき人の判断を待って投票したほうがいいということにつながりかねないが、それじゃ困るという気もするな。とはいえ、「自力」でできる人は限られている。
しばらく、この件について粘弄しようかと思う。
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携帯電話と携帯音楽

駅の前を通りかかると、改札から出た人たちが、いっせいに形態電話を見つめながら歩いてくる。見慣れたといえば、そうもいえる光景。
あれは、いまここにいる人ではなく、別のどこかにいる人に気持ちが行っているわけで、昔風に言えば「心ここにあらず」。あまり褒められたものではない。
同様に、iPodのような、walkman的なものも同様だな。

まずは、携帯電話について。
本当かどうか知らないが、「他人を見下す若者たち」(速水敏彦)中に、携帯電話非所持者は利他的傾向が認められる、とあった(記憶がある)。なんとなくそうかなと思う。一方で、歩きながら携帯電話をかけたりする人は、なんとなくみっともないというか、見苦しい(気がする)。
禅の世界(もしくは古代の仏教でも?)、目の前にあることを一生懸命行う、ということを重視するようである。平たく言えば、現実をありのままに捉え、そこで生きるというのが大事なようである。そうなると、他者と共有している目の前の現実よりも、電話で話している遠くの人のほうが大事という状態は、褒められたものではない。というか、携帯を使っている人にとっては、目の前の現実は、あってなきごときものであり、そう見られている周囲の人にとっては不快である。逆に言えば、目の前の人と無関係に携帯で話している人は、ここにいないのと同じだから、周囲のものは、彼をそのように扱ってもいいのだろうな。

同様に携帯音楽は、目に見えているものを、音楽のバックグランドビデオのようにしてしまう傾向がある。つまり、これも、目の前の現実を受け止めないという点で同じだな。とはいうものの、満員電車のように、見たくない現実から逃避するため音楽に逃げ込むのは仕方がないので責められないが、人に道を訊くときに、ヘッドフォンをしたままでこちらの話を聞いたりする馬鹿がいると、やっぱりがっくりと疲れてしまうな。

以上、とりとめもないことを書いたが、「心ここにあらず」の人々は、別の世界で生きている(=ここでは生きていない)わけなので、一種のゾンビのようなものかもしれぬ。
ここから、シクロフスキーの異化論に話を進めたいのだが、まだ力が足りないので、進めない。

最近読んでる本

「歌」の精神史 (単行本)  山折 哲雄 中央公論新社


問題提起としては面白い。しかし市井の人の和歌にいちゃもんを付ける富岡多恵子の性格の悪さにはあきれるな。
・『平家物語』の無常観―小林秀雄、唐木順三、石母田正
・吉川英治と『平家物語』
の章における、小林秀雄の(悪)影響が興味深い。山折氏も含め、昭和の知識人たちは、かなりテキスト重視であって、音読の意味がわかっていなかったようだ。つまり、歌を「よむ」というのは、「詠む」であり「読む」であり、同時に朗詠でもあったわけだが、勉強好きの知識人たちには、それがわからなかったということか。つまり、歌には「歌魂」があるのだが、それは心中で黙読するのでは発現されないのだな。声に出し、耳で聞くことにより初めて生ずるものであるから。

ところで、小林秀雄の影響は、良しにつけ悪しきにつけ大きいものだと、改めて感じ入った。とはいうものの、安吾が言うように「小林に教えられたことによって、小林に文句を言えるようになった恩は否定できない」(大意「不良少年とキリスト」より)のは、そのとおりだと思う。現在の視点から、過去の人(とは言い切れないが)を断罪することは慎まねばならぬ。

シクロフスキイ 規範の破壊者 (単行本) 佐藤 千登勢 南雲堂フェニックス

シクロフスキーの「異化」について詳細に検討を加えている。けっこう重要な本ではないだろうか。「異化」については、大きな影響を受けたので、軽々しく内容にふれることは出来ないのであるが、手元に置くべき本と思う。冬のボーナスで買おうかな。
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