eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2006-02

「へだたり」について

「サイボーグ化する私とネットワーク化する世界」(ウィリアム・J. ミッチェル NTT出版)を読んで考えた。
ネットワークの推進者たちは「距離の死」を目指してきたという。ここでいう「距離」は、物理的な距離(その対象物間の距離を計測できる)でもあるが、時間的距離というものもある。例えば、過去とか未来とか。よくあるのが、時間的距離と空間的距離の混同で、都市から離れた田舎には、昔のものが残っている、とかね。実際には田舎の子供もTVゲームで遊んでいる。

距離というものは、いろいろなものに適応して考えられる。例えば人間関係、、欲しい物の値段と財布の中身とか、その他。
よって、さらに広がりがあると思われる「へだたり」という言葉について考え始めた。

例えば、価値について考えるとき、へだたりが大きいものほど価値が高くなる傾向がある(希少価値)。また、へだたりが大きいのに多くの人が望むことによって、かえってその価値が保障されることもある(ブランド品とか)。
いま考えたのは、ここまで。さらに考えてみるつもり。
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松屋の中古カメラ市

というわけで、今回も行きました。仕事からの逃避かな。
全体に一時よりは値段が落ち着いてきたような気がする。
それと大判は安くなってるんじゃないかな。
しかし、それを買う余裕がないのが辛い。
ところで、「つらい」と「からい」は両方とも「辛い」と書くのだが、こんないいかげんなんでいいのだろうか。

目を引いたのは、藤沢商会のヘキサノンレンズ(57/1.2とか)、それとFC-1、FT-1もありました。
キムラ?ではT-4モードラ付きがあって触らせてもらった。ACOM-1もそうだが、これも貼り皮はやっぱり縮んでいた。何でだろ。

デジカメは魂を…、以下(r

デジカメは魂(命)を吸い取るか。
整理するとこういうことだな。

フィルムというケミカルに注目すると、魔術に通じる錬金術の子孫である化学と離れれば、つまりデジタルになると魂を吸い取らない。
一方、似姿に魂が分与されると考えるならば、銀塩でもデジタルでも関係ないとなる。
さて、両者をあわせて考えるとどうなるか。

今日は疲れたので、この続きはまた明日。

と思ったが、もう少し良く考えてみます。


さて、後日、この件だが、こう考えた。
銀塩の場合、光に反応して像が残るのは、自然科学の範疇である。そして、自然科学について、人はその本質に近づくことは出来るが、本質をつかむことは出来ない。なぜなら、それは人の都合ではなく自然の都合でそうなっているのであるから。つまり人の領域を離れている。

一方、デジの場合、人が作ったもの。つまり、人の理性による被造物である(自然は、人ならぬもの(神?)の被造物)。よって、どこまでいっても理性から逃れることは出来ない。理性を超えたデーモニッシュなものにはなかなか近づけない。

ということで、デジの場合はちょっと難しいかな、と。

ただし、銀塩の場合でも、生まれたときからカメラがある環境で育つと、魂を吸い取られるとは思わなくなる。しかし、撮る人が撮れば、やはり吸い取ることもあるだろう。
同様に、デジの場合も、撮る人が撮れば、そうなるかな。
はなはだ尻すぼみで申し訳ない。というか、ちょっと考えがまだ浅いね。

さらに追加すると、写真は、奇跡であり続けるか、否かという問題だね。
奇跡は、その理由は人知でとらえがたいが、人に投げかけられるものだからね。

ヤシカFR様のメンテナンス

入手したヤシカFRだが、さわっているうちにいろいろと不具合が分かってきた。
まずは、有名なカウンター問題。時々動けど、あてにはならない。
モルトは、フィルム室側ははりなおした。あとで、ミラーボックス内にもあったので、これも昨日直した。習字の下敷きを使ったけど大丈夫かな。
それと、シャッタースピードが変化しなくなった。おそよ1/60くらいのみ。
なぜか、カメラを上向きにしたり、斜めにしたりすると、ちゃんと変化する。
思いついて電池の接触具合を確かめたら、それが原因だった。アルミ箔でスペーサーを作ってはめたら解決。
これで、コンタックス純正レンズをつけて撮影テストが出来る状態になった。

棚からぼた餅

先日、ある方からコンタックス(Y/C)レンズを2本、無期限貸与していただいた。
いきさつは、その人のところに使っていないレンズがあり、見たらゾナー135/2.8とディスタゴン35/2.8だった。
そのゾナーだが、ちょうどまんなかにきれいな放射状のカビがあったたので、「せっかくのレンズをもったいないことしたね」などと言っていたら、「カビ玉があってもしょうがないので、持って言っていいよ、ついでに広角もつけようか」という話になった。
先日入手のヤシカFRについてるレンズが入手できました。
ちなみに、カビはファインダーからは確認できない。
しらんぷりしてこのまま使うつもり。
まずは、めでたしめでたし。

デジタルカメラは、人の命を吸い取るか?

別役実の「馬に乗った丹下左膳」だったと思うが、写真を撮ることは「盗る」ことに通じ、その盗る対象は「命」であるから、昔の人は写真機の前に立つのを嫌がった、というようなことが書いてあった。
この本を読んだとき、アラーキーの「愛しのチロ」がヒットしていて、自分はこう考えた。荒木氏は、結局、陽子夫人の命をカメラで吸い取ってしまったのだな。しかし、猫は”A cat has nine lives. ”とか”Care kill the cat. ”というくらいで、死なないものの代名詞でもある。だから(?)、陽子夫人とチロの入れ替わりというのは避けられないものだったのだな、と考えた。

そこで考えたのだが、昔のカメラは命を吸い取ると思われたりしたのだが、
デジタルカメラの場合はどうだろう。やはり命を吸い取るようなものなのだろうか?
我ながら馬鹿な設問ではあるが、自分なりに考えてみた。
デジカメはやっぱり命を吸い取らないんじゃないかな。
このへん、他の人はどう考えているだろうか?
検索したけど、上手くヒットしなかった。
他の人の意見を聞いてみたい。

命を吸い取られると昔の人が考えた理由は、本物そっくりの似姿の像を人工的に作り出したからだろう。似姿にもそれなりの魂が宿るのは、「絵姿女房」の話にも片鱗が現れている。しかし、それはデジカメも同じことだな。

自分なりの理由を述べると、銀塩写真はおそらく錬金術の延長にあるが、デジカメはそうではないからだろう。
写真の歴史をごく大雑把に考えると、昔、カメラ・オブスキュラの画像を定着させたいと考えた人が、光に反応する物質を探し当て、そこからガラス乾板、そしてフィルムとなった。化学反応を利用したわけだが、化学の起源は錬金術にさかのぼる。で、錬金術はさらにある種の魔術にもつながる。
はかなく消えてしまうカメラ・オブスキュラの画像をなんとか定着させたいという執念は、魔術くらい使っても、ほんものと見まがうばかりの写し絵を作りたいということだろう。
そうなるとやっぱり命くらいは吸い取りそうだな。
別の言い方をすると、銀塩写真の背景にあるテクノロジーは、自然科学とも地続きであり、やりようによっては自分でも再現可能でないとはいえない。例えばガラス自体は古代エジプトから存在していたし、その上に塗る薬剤は、上野彦馬のように自製することもできなくはない(現実的には、牛骨を、土中に埋め、腐りはじめた頃とりだしてアンモニアを精製するなんてことは、ちょっとできないわけではある)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B9
http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/history6/history6.html

つまり銀塩写真のテクノロジーは、(ほぼ再現不可能ではあるが)ブラックボックスではない。その証拠に俺でも分かる。そして、錬金術から引き継いだ生々しさを保ちつづけている。それは、モノクロの焼付けをやったことのある人なら、現像液のバットの中で潜像が浮かび上がる瞬間を思い出せば、分かってもらえるのではないかと思う。
魔術性(錬金術と、本物そっくりの似姿を作ること)と同時に、ある種の身近さを併せ持つから、「命を吸い取られる」というような言説が出来たのではないだろうか。

しかしPCを前提にしたデジタルカメラはどうだろうか?
PCもブラックボックスであるが、それを構成するロジックは非常に論理的であるため、順を追っていけば理解可能とはいえる。一般的に言えば、ブラックボックスたらしめているのは、みんな自分で理解しようとしないからだろうね。
つまりPCは近代主義・理性主義の成果ではあるから、魔術性がない(薄い)ような気がする。
それと、デジカメで撮られた似姿は、本物のコピーがそこにあるという感じがしない。
むしろデータから生み出された画像であり、一度データ化されたものである(直接性ではなく、ある種の間接性がある、フィルムよりもワンステップ間接的という感じかな)からには置き換え可能という印象が否めない。もっと簡単にいうと「軽い」。
だから、「お葬式:カメラ付き携帯で最期の顔パチリ」という話になるんだろう。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060216k0000e040094000c.html

(以下、引用)
お葬式:カメラ付き携帯で最期の顔パチリ 困惑派・理解派

お葬式の際、亡くなった人の顔をカメラ付き携帯電話などで撮影する人が増えている。葬儀関係者には「人の死を悼む気持ちが荒廃している」と感じる人がいる一方で、「時代とともに葬儀も変わる」と受け入れる人もいる。あなたは、最期の顔を撮影されたいですか?

昨年7月、横浜市内の斎場。出棺前に花を詰め始めると、親族や友人5~6人がカメラ付き携帯で故人の姿を撮り始めた。同市の葬儀デザイナー、出口明子さんにとっては初めて見る光景だった。故人と生前から付き合い「本人の意思を尊重した葬儀」をサポートしただけに「注意すべきか」と迷ったが、親族が何も言わなかったので黙っていた。翌月、私的に出席した葬儀でも同じ場面を見た。

全国の葬儀社でつくる全国葬送支援協議会(総本部・東京都千代田区)の斎藤浩司理事長(34)は「月に1度は見ます」と話す。「中学生や高校生は『撮っていいの?』という雰囲気だが、30~40代の人は当然のように撮影する」と話す。香川県三木町の三木・長尾葬斎組合「しずかの里」職員、長尾鉄夫さん(55)も「20~30代の若い人が『記録に残す』という感じで撮る」と話す。

出口さんは「人を悼む気持ちが荒廃しているのでは、と気になる。亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくないはず。撮影の可否まで遺言を取ることも検討しなければ」と困惑。斎藤さんも「カメラが身近になり気軽に撮るのだろうが、心の写真を撮っておく(脳裏に焼き付ける)のが一番」と話す。

一方、長尾さんは「葬儀に対する考え方も時代とともに変化してきた。臓器移植が一般化し、遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄くなったのでは」と理解を示す。

メディア社会論に詳しい評論家・武田徹さんは「対象を撮影し、他者とともに確認しなければ“リアリティー”が感じられなくなっている。葬儀も焼香だけでは満足できず、故人との確かなつながりを持ちたいとの思いから撮影するのだろう」と分析。カメラ付き携帯などの普及で何でも撮影する風潮に加え、現代人の感覚や死生観の変容という社会背景を要因に挙げている。
(引用終わり)

携帯でなら撮れるが、いくら「軽い」といってもデジカメで撮るのは憚れるんじゃないかな。
さらに言えば、ヨーコ夫人の遺影はショッキングであったが、その理由は「よくぞ撮った」としか言いようがない、彼の写真家としての覚悟が感じられるからでもある。あれを見ると、自分なら撮れるだろうかと考えてしまうが、未だに答えが出てこない。

どうも上手くまとまらなくて、申し訳ない。

mixiとやら

知人から誘われて、人もすなるmixiに入ってはみたものの、なんか、閉鎖的な感じがして居心地よくねーな。つまり開かれていないわけだ。
2chなんかだと、何を言ってもいいくらい、風通しが良いわけで、ろくでもない面もあるが、魅力もある。
それと、「おすすめレビュー」を書こうとしたら、その商品が廃盤になっていてamazonにhitしない。と、そもそもレビューが書けないわけで、理由もいろいろあるだろうとは思うが、なんか息がしにくい感じ。
誘ってくれた人には悪いが、そのうち寄り付かなくなりそうだな。

コージー・コーナーという喫茶店があるが、その「cozy」の意味を見ると、「暖かくて居心地のよい」という意味(これが喫茶店の名の由来だろう)のほかに、「なれあいの」という意味もある。
mixiはcozyかも知らんが、べつにネット上でcozyを求めるほど悲しい人生ではない、と、とりあえず言ってみますた。

俺は「共犯者」じゃねぇ

堀江貴文氏が学生時代所属していたゼミの教授・船曳建夫氏へ

今朝新聞を見たら、この船曳氏が堀江氏を擁護して、「時代が共犯者だった」等と言っていた。
何を言っているのだ、こいつは。
「時代」という言葉には、その時代の風潮を含めているのだろう。言い換えれば同時代に生きる人も「共犯者」であるとも受け取れる。
教え子がかわいいのは微笑ましいが、関係ない第3者まで「共犯者」という言葉で巻き込むんじゃねぇ。
馬鹿かこいつは。

堀江氏が出てきたとき、さまざまな反応があったが、そのなかには「反応しない」という反応もあったのだ(つまり、俺)。
自分の暮らしを考えれば、恒心を保つだけの恒産があれば、それ以上は必要ない。
全然欲しくないといえば嘘になるが、それ以上を得るために、何かを大きく犠牲にするならば、そんなものはいらない。

堀江氏のようにベンチャーを起こすのも結構。
そして失敗した場合に、再起を図れるようにするのも、皮肉ではなく本当に大事なことだと思っている。
ただし、それ以外の、勝ち組でも負け組でもない、あまり物も言わぬ普通の人々がいることを忘れているのではないか。
たとえば、今日と同じような明日が続くようなことを願う庶民は昔から少なくないだろう。
船曳氏は、その人たちも「共犯者」として巻き込むつもりだろうか。

さらにいえば、堀江氏について述べること自体が、賛否を問わず堀江氏への注目を集めることにつながる。
それが嫌だから黙視していたという人もいるだろう、というか俺だけど。

まぁ、大学なんかにいて、特殊な人ばかり相手にしてるから分からんのだろうが、自分の周りだけが世界のすべてじゃないので、船曳氏はもうちょっと「世界」ではなく、「世間」を見たほうがいいんじゃないか。
まぁ、そのへんが図らずも師弟が似てしまっているのかもしれん。

新聞投書で

2月7日付の朝日新聞「ひととき」欄に、自分の郷里の人が、亡夫の好きだった銀塩カメラの退潮がさびしい、という投書をしていた。文章からすると、ニコン好きのようであるように見えたが、そうであれば、昨年末に廃業したあのカメラ屋さんで買っていたのだろうか。
投書されたご本人に会って、聞いてみたい気もする。
higasi_ikebukuro.jpg
東池袋
ここは昔、銭湯があったのだな。いまはマンションの工事中。

中井久夫 「関与と観察」

中井久夫氏「関与と観察」を読んでいる。
やっと図書館で順番が廻ってきたのだ。貧乏だから、なかなか本代にお金が廻せない。
やはり、読み応えがあるが、以前からの疑問が解けたところがある。
中井氏の、国際情勢、特に軍事に係わる部分の見識・洞察について、畑違いの分野なのに、ずいぶん鋭いものだ、と感じていたが、もともと軍人の家族であったということだ。
そういえば、子供時代に「ジェーン海軍年鑑」を見ていたという記述があったが、普通の家庭にはないような本だろう。

手元に本がないので、以下ごく大雑把な要約だが、「戦争ははじまるときは景気がいいしお祭りのようでさえある。それとくらべて平和は、地味だし、維持に手間がかかる」ということを述べている。
これは自分が前から感じていたことと似ているのだが、どうも景気のいいことを言う人が好きになれないし、信用できない。例えば、かつての小泉氏などは独特の勢いがありそういう風に見えた。
しかし自分の実感では、責任ある立場になれば、発言・行動に責任があるので、どうしても慎重になるのが普通のように思える。そうでないとしたら、よほどの人物か、単なる軽佻浮薄な人柄なのではないかと、つい疑ってしまう癖がついた。

読了前なので、再度書き足します。

写真更新

tocho
「都庁」

水神社
「水神社」

宮内勝典「焼身」読売文学賞受賞

宮内勝典氏が「焼身」で読売文学賞受賞を受賞しました。よかったな。
私もうれしいです。
機会があれば、読んでみてください。

どーも、すいません。

なんか平岡正明と上杉清文の対談集のようなタイトルですが。
アクセスログを見ると、カメラ関係の検索をしてここに来てしまった方もおられるようです。役に立つ情報がまったくないので、タイトルのような気持ちであります。

ところで、ヤシカFRですが、いじっているうちにカウンターが動き出しました。使ってなかったからかな。
しかしレンズは、50/1.9のみ。マクロプラナー60/2.8とプラナー50/1.4がほしい今日この頃です。
それとレチナⅢcのシャッター羽が粘り気味で悲しい。ベンジン+綿棒では根本的な対応にはならないようです。

それとじつは、正月早々、道端でベースギターを拾ったのですが、多少調整をしたら、ちゃんと音も出ました。
石橋楽器で出していたメイビスというブランドのプレジションベースです。
実家のヤマハのSBというベースがありますが、PBを弾くのは初めての経験です。やっぱり太い音出てるな。
今は会社に隠してあって、昼休みに弾いたりしていますが、俺、こんなんで首になんないかな。ちょっと心配。
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