eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2005-12

くるみ割り人形

クリスマスの日には、例年のように家族で「くるみ割り人形」を見に行きました。
うちの子は、以前なら、途中であきて寝てしまったのに、今年は最後まで楽しんでいたようです。
こういうことでも成長がわかるものですな。

私自身は、今年も「花のワルツ」あたりで全身が溶け出すような感覚になり、すべてがどうでもよくなってしまって、今年一年の憂さを忘れました。

では、来年もよいお年を。
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雑談をいくつか。

・ズボンのケツについて
恥ずかしながら、私、しばらく仕事がなくてふらふらしていたことがあります。
そのとき、家人に言われたので気付いたのですが、足が地に付かないというか、ふらふらしている人、簡単にいうと、ダメな人は、ズボンのケツのところがだんだんとずり落ちてくるそうです。
自分のことを言われても、よく分からないのですが、どういうわけか、居候がうちにいたときがありまして、確かに、ダメっぽくなるとズボンのケツのところが垂れてきました。俺もそうだったのだろう。

昨今、若い人には、「コシバキ」などといって、わざとずり落ちるようにはいたりしている人が(まだ?)いますが、どうしても上記のことを思い出してしまう。あれは黒人ファッションから来ているようですが、彼らは確かにずり落ちそうではあるが、それなりになっている。
だいたいが、ゆるゆるの格好をしているその一環として、ズボンがそうなっているように思えます。
きまっている人は、私見では、ズボンのシリ部分が地面に対して垂直もしくはそれに近い角度で落ちているようである。
それだとなんだかだらしない中にもシャープ感?がある。

そうじゃない人のは、なんか見苦しいだけだな。
でも「コシバキ」がはやるのって、やっぱりダメな人が多くなってきたということだろうか。

・団塊の世代について
言いたいこともないわけではないが、まあ、よしとして。
「だから駄目なんだ 団塊の世代」という頭韻を踏んだverseが思い浮かびました。
もう、既にあるかな。よかったら誰かお使いください。

・ぬいぐるみ
先日、子供を寝かしつけたあと、その隣の自分の枕の上に、子供が貸してくれたぬいぐるみをおいてみた。
自分のかわりに、ぬいぐるみに添い寝をしてもらうような気持ちからだ。

そのとき、この子が生まれるときのことを、急に思い出した。
妻は子宮筋腫があり、大事をとって、ある大学病院の産婦人科に入院したが、部屋の空きがなく、婦人科の病室に入っていた。
その病室は、あまり状態が良くない人が多かったらしい。
ある若い方がいたが、家族や婚約者と思しき人がよくお見舞いに来ていた。
後に聞いたことだが、その人は入院中に入籍したらしい。その意味の重さを考えてしまう。
その人が、外泊するとき、ベッドの枕のところに、ゲームのキャラクターのかわいいぬいぐるみを置いていっていた。一種の留守番を頼んでいたのだろうか。
そのことを急に思い出してしまった。
あの人は、その後、どうなっただろうか、ふと考えてしまった。

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ヘキサーのありうべき(であった)進化

ろくな出来事がないから、カメラの話で憂さ晴らし。
コニカのヘキサーという名カメラがあるが、その後継機種のヘキサーRFも生産中止になってしまった。
で、以下、ヘキサー進化論の妄想を捧ぐ。

1992年 ヘキサー発売。発売と同時に大人気。

1993年 消費者からの要望にこたえ、高品位のワイド&テレコンバータ発売。
21mmと70mmでそれぞれ専用ファインダーがつく。しかし、F値が2倍になるためあまり売れず、後にプレミアがつく。

1995年 人気のあまり上位機種として35/1.4レンズを装着したヘキサーBig Eye発売。その描写力で市場を驚かす。宣伝キャラクターは、鬼太郎の目玉親父。

1996年 性懲りもなくBig Eye用のワイド&テレコンバータ発売。今回はもともとのレンズが明るいためF値の問題はあまり指摘されなかったが、カメラ本体の値段が高いため、やはりこれも売れず。やはり後にプレミアがつく。このころマグナムの公式使用カメラとなる(マグナム会員となると必ず支給される)。

1997年 ビッグミニとヘキサーの中間機、ヘキサーミニが発売される。ビッグミニのボディに、ヘキサノン28/2.8が装着され、スナップ写真家の人気を得る。

1998年 人気に押され、ヘキサーⅡ発売。オートフォーカスが2方式併用となりガラスごしの撮影も安心できるようになる。またシャッタースピードが最速1/500となる。シンクロもOKで、「小さな八ッセル」とも呼ばれる。

2000年 新世紀を迎えるべく、とうとうレンズ交換機種が発売となる。名称はヘキサーⅢ。マウントは大口径の独自マウントで、専用マウントレンズはAF。往年のコニカARマウントがコンバータで使用可能。コニカ史上初めて、レンズ交換機種で絞り優先が実現する。また、アダプターでライカマウント、コンタックスマウント等は装着可能となる。同時発売レンズは、21/2.8、28/2.8、35/1.4、35/2、50/1.4、57/1.2、85/1.8、100/2、135/2.5、200/3.5、マクロ55/3.5(等倍可能)。
ファインダーはコニカ得意の「生きているファインダー」で、28~100までをカバー。それ以外は専用ファインダーを装着する。
発売以降1年間、人気高騰のあまり、品薄が続く。

2002年 ヘキサーⅢを一眼レフに直したコニカFT-2が発売される。スペックはほぼヘキサーⅢと同様ながら、一眼レフ用のARレンズが復活する。

2005年 デジタル化への対応として、コニカFT-2のデジパックが発売される。また、中判の試作機コニカプレスⅡが発表される。これは最初から120/220フォルダーおよびデジパックが準備されている。

来年の正夢になればいいのだが。

昨今の出来事

安全な建物を作るはずの建築士と建設会社、法を守るべき法学生による窃盗と殺人、生命をもてあそぶがごとき医大生。
どの事件も、自分がテーマとしている以上絶対にやってはならないことをやっている点で共通している。

建築の本質は、風雨をしのぎ安全・安楽に暮らすためのもの。危険を生み出しては自己否定である。建築士はある宗教を信仰していたらしいが、何のための信仰だったのだろう。まさか、免罪符がほしかったのか?
法とは、世の中を良くするかどうかはよく分からないが、すくなくとも社会の安寧秩序を保つもの。それを自ら犯しているのではしょうがない。つまり、窃盗・傷害事件を犯した時点で法学部生としての資格はなかった。あの時点で退学にしなかった大学の見識が問われる。
死んだウサギを解体し、blogに載せる医大生は、生命を預かる者として期待される生命への畏敬を忘れている。

なんで、こんな世の中なんだろう。

「無題」とするしかない

子供をめぐる事件について書かねばならない(考えらなければならない)という気持ちがあるが、あまりに身に迫る問題であるため、冷静に考えられない。
子供を持つ親として、かかわってしまって方々のことを思うと、頭の中が真っ白になってしまう。

このことと、人の心のありようについて、自分なりの考えがあるのだが、まとめきれない。まとめるには第3者的視点が必要だが、自分は部外者として、考えをまとめる力がまだないような気がする。

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掲示板にて

以下、ほとんど自分の感情の落ち着けどころを得るために書くので、読み飛ばしてください。

先日、写真・カメラに関する掲示板で、(憶測だが)精神的に不安定に思える人と、屁理屈の捏ねくらべをしてしまった。言い訳だが、そのときちょうど風邪気味で、あまり判断力がなかったため、上手く対応できなかったな。

発端は「ドイツ写真って良いかなあ。 ドイツ写真やってるやつって頭弱いやつ多い気がするけど。」という書き込みに対して、俺がresしたこと。
そもそもドイツ写真とはなにかという定義もせずに話しを進めるあたり、俺も頭が弱い(もっとも、これは竹橋の近代美術館の写真展について、ということが前提になってはいる)。
それに対して、また書き込みがあるわけだけれど、一つ一つの書き込みには深読みすれば、意味があるような、ただ、俺とのやり取りと発言内容の変化を見ると、結局何を言いたい分からないという発言であった。
しまいには、「月産100本だから、余計なお気遣いは無用ですw 」「今週は数ヶ月ぶりにインターネッツというものを徘徊しているのです」「おれは偉い」等と言い出したので、どうも、本来相手をすべき人ではなかったのかもしれない(というか、俺がおちょくられているだけかもしれないが)。

発言が断片的であり断定的であること、それと前後の脈絡がないこと、しかし、その根拠は薄弱というか相手に理由がわかりにくいということ、感情が安定しないこと(書き込みからみてだが)、発言の際のハンドルネームを何度か変えること(名無し→鼠→ほそきかずちゃん)からみて、ある種の人格の持ち主ではないかと想像した。
「普通に生きられない人たち」(磯部潮)という本を以前読んだのだが、そこに出てくる例に似通っているところが無きにしも非ず。また、自分の身内にも、その種の者がいるが、それとも似通っているように感じる部分があった。

ここからは、検証も出来ないことを書くので不快と思った方は飛ばしてほしいのだが、その種の人格の持ち主は、ある意味、すごく魅力的なのだ。おそらく発言しているときは、全身でそう確信して書いているであろう。それがある瞬間、異様な迫力と説得力を持つように見せるが、しかし、持続するものではない。
だから、コンテキストを重視する対話などの場合には、最終的には無意味というか、場面ごとの印象は残るが全体的な意味ではまとまった意味のない発言となってしまう。
つまり、自分の世界が強すぎるから、またそれを確信し(すぎ)ているから、対話、コミュニケーションが成り立たちにくいのだな。
しかし、部分的には非常に光るものがあるので、つい周りの者がかかわってしまう。
例えば、少し抜き出すと「絶えず自分を自分から引き離し続けるための契機」「捏造された「本気」に安易によりかかってしまう」「写真は言語とは別の仕方で自己の存在を確証する方途」(←これには俺も賛成だな)「写真は言語により捨象されない、言葉の前段階的な像」(←これも賛成だな)「ニンゲンは生きていくためには線引きをせずにはいられない。 あなたはわたしとの間に独善的に境界を策定し、わたしを抑圧し排除しようとする」「否定的な反応をあらかじめ相殺可能なポジションに立ち、自己の尊厳を保とうなどというヤツに写真を撮る資格はないでしょう」(←正論)「被写体に向ける眼差しを自身にも向けているのか」(←そのとおり)。なんだか写しているだけでも輝いている言葉だな。
一方「ぼくはベッヒャーなんてとっくに越えてるよ」「どの世界も偏差値高い奴は少ないけどなーw 」「おれは偉い」、その他の唐突な一言の書き込みなどを見ると、どうも通常の人の理解を超えている、もしくはその範疇にないように感じられる。

でも繰り替えし言うように、魅力的な部分も多いので、つい引きずりまわされて見たくなるのだな。
正直言うと、この人が撮る写真、ちょっと見てみたい気がする。ひょっとすると天才かもしれないし。

なんか、ここまで書いて、やっと落ち着いた。まったく自分の気持ちを落ち着けるためだけに書いた文章だな、ふー。読んでくれた方には申し訳なく思います。
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