eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2005-11

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白猫 続き

先日の白猫ですが、昨日、そこを通ったら、若い人の股座に入り込んでなでてもらっていました。
そうやってみると、単なる甘えん坊の猫かいな。
でも、首輪がないところをみると、最近捨てられたのかもしれない。

その場所は、篤志家?が毎日交代で餌を持ってくる(どうやら、ご近所その他との協定があるらしい)ので、何とかなるだろうとは思うのだが。

それにしても、捨て猫だとすれば、気の毒也。
あれほど甘えるのであれば、溺愛していたように思えるが。
何らか事情があったのだろうか、それとも飼い主の気まぐれか。
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白猫

昨夜、心身ともに疲れて帰宅途中、神社の脇の道を通ったら、首輪のない白い猫がまとわりついてきた。
薄暗い坂道で、鳴きながら足元を離れずについてくるので、なんだか神社のなにかに関係があるような気がして怖気をふるってしまい、かまってやれなくてごめんと謝りながら、立ち去った。
なんでもないことではあるが、なんだか不思議な気持ち。
なんだったんだろう。

ベッヒャー、ザンダー、エンケン

昨日は、まず、竹橋の近代美術館のドイツ写真&ザンダー展へ。
http://www.momat.go.jp/Honkan/German_Contemporary_Photography/
http://www.bijutsukann.com/toku/gp/gp2.html


まず、「ドイツ写真の現在」。
ベッヒャーについて。
有名な「給水塔」的な構造物のシリーズもあったが、よかったのは、工場地帯を背景にした住宅地等の写真。大判で撮ってるのかな。大きなプリントでした。
これを見て思い出したのは、なぜか、ヒエロニムス・ボッシュの絵の背景にある風景にある謎の構造物だった。「快楽の園」の地獄の背景の溶鉱炉?とか、「聖アントニウスの誘惑」の奇妙な建物とか。
と思って、ネットで探してみると自分と同じようなイメージを見つけた。
http://blender.g3th.net/
のVorbilder - Nachbilder: Hieronymus Bosch
http://niklas.g3th.net/blender/bosch_klein.jpg
http://niklas.g3th.net/blender/bosch_orig.jpg

それと、グルスキーの巨大プリント、とくに、サンパウロ駅の写真がよかった。写真のすぐそばに立つと、下の階や上の階から、カメラに気づいてこちらを見ている人がいるのだが、まるで自分が見られているような気がする。
他の写真もいろいろあるが、このへんについて、ちょっと考えていることがあるので、そのうちまとめます。

ザンダーは、『時代の顔』からの写真。知っている写真も多く、見ると「お久しぶり」と挨拶したくなる。それにして、「若い農夫たち」http://www.bijutsukann.com/toku/gp/gp-img/sander4_2.jpg
から、『舞踏会に向かう三人の農夫』を書いたリチャード・パワーズは凄い。
ところで、61番目の写真、ザンダーのセルフポートレートに気付かずに帰る人がいるようで、もったいないですなぁ。

それと、他の階にも常設展示のなかに写真がありますので、見落とさずに。
私は、アルベルト=レンガー・パッチェの写真を見て、ベッヒャーはこの人の影響を受けたのかなと思いました。

で、見終えて、竹橋の夜景を撮ろうとしたら、カメラ(キヤノンT-70)のバッテリーがあがっていた。1枚しか撮れず、残念。

その足で、新宿に向かい、テアトル新宿で「不滅の男 エンケン対武道館」を見た。全編一人で演奏しているのだが、やはり、エンケンはなにをやってもいつものように「純音楽」であった。「踊ろよベイビー」でミラーボールを背に熱唱するエンケンの姿は、映画史に残る美しさだった。映画が終わったとき、誰ということもなく拍手が起こった。
うれしいことに、この日はエンケンが舞台挨拶に出てくれた。やっぱりかっこええのう。これから、全国をまわるので、ぜひ見てください。http://enken.com/topics/vsbudokan.html

仕事はあまり進まなかったが、大満足の一日だった。

今日はこれから、

金曜日なので、竹橋の近代美術館でザンダーの写真を見てきます。
http://www.momat.go.jp/Honkan/German_Contemporary_Photography/

そのあと、9時から新宿でエンケンの映画を見ます。
http://enken.com/topics/vsbudokan.html

なんか独身時代に戻ったみたいで、ちょっと楽しい気分です。
妻よ、子よ、今日は許せ、なんてね。

写真館に行った。

先日、子供の七五三の写真を撮りに、伊勢丹の写真室に行った。
うちの近所の写真館はリアリズム重視というか、なんだか生々しすぎてあまりこちらが思うような写真ではないので、ちと奮発したわけ。そこで撮ると我が家はルイス・ハインの写真のようになってしまう。

撮影の順番を待っていたら、手札程度のモノクロの家族写真がたくさん貼ってある額があった。説明を読むと、昭和20年以来、毎年欠かさず、ずっと家族写真を撮っている一家のこれまでの写真を並べたものだった。これは、今年正月の読売新聞?にも出ているそうです。
最初はご夫婦のみ。やがて子供が生まれ、その子供が結婚して家族が増え、やがて孫が生まれというように、60年以上の歴史が写真として焼き付けられていた。言葉はないけれど、大河ドラマを見ているようでもあった。

つい深瀬昌久の家族写真のシリーズを思い出したが、あのようなドラマチックさはない。しかし、普通の人の人生にドラマチックさは必要ではない。(というか普通の人生であっても十分以上にドラマチックだ。俺も年をとったかな)。いまならば、伊勢丹写真室に飾られた市井の人の写真をゆっくり見ていたい気持ちだ。
めでたいことに、ご夫婦はご健在で、ご家族にもかけた方は居られないようであった。
いい気持ちになって、写真室を出ることが出来た。
ちなみに撮影も、さすがにプロの技であった。カメラはマミヤのRZだった。照明は難しいのでよく分からんが、手前左右に一灯ずつ。背後左右に一灯ずつだったかな。

私にしては怒涛の更新

window1

window02

しいて言えば「窓」シリーズかな。

ものと情報の続き

昨日、仕事中に60センチくらいの高さのところから、背中から落ちたので体が痛い。そのときは頭を打っていないかどうか心配だったが、どうやら大丈夫だった。でも、なんか、肩とか痛いな。いまひとつ仕事に乗り切れぬまま、こんな時間になってしまったので、「ものと情報」について、さらに愚見をば。

まぁ、以下、書き飛ばしたもんです。軽く読んでください。

で、まず「もの」について考える。
「もの」とはなにか。まず、「ものそのもの」は認識可能か?カントによればどうやら不可能らしい。読んでないが、純粋理性批判で、そういってるそうだ。例の「コペルニクス的転換」というやつ。ひらたくいうと、人の目に見えるようにしか、もの、ひいては世の中、世界は見えない、ということ。例えば、赤外線フィルムというのがあるが、赤フィルターをつけてこのフィルムで写真を撮ると、独特の映像になる。人の目に赤外線が見えれば、その写真のように見えるはずだが、いつもはそうは見えていない。それは人の体の機能としてそうなっていないから。このへん、聞きかじりだが、ユクスキュルが書いているとのこと。
で、「ものそのもの」を認識できるのは、人の次元では無理。人を超えたもの、といえば神とかか?そこはわからんな。
つまり「もの」は人との関係性の中にはじめて存在する、と言い切ってみる。ここでいう「関係性」には、生物学的に持っている機能の面と文化的な面があると思うが、ここに深入りすると、一生かかるから深入りしない。

一方、日本文化の面から「もの」を考えてみる。
古語で「たま」というのがあるが、これは「たましい」に通じ、霊的、神的なものを指す言葉だと言う。「たま」より少し霊格が低いものとして「もの」があるそうで、このへんは折口信夫あたりから受け売り。「もの」とは霊的存在らしい。
霊的というと大げさだが、「もの」は「ものそのもの」として、無人の荒野に転がっていては、「もの」として成立することはなく、人とのかかわりの間に「意味」あるものとしてかかわる場合に、はじめて、ある「もの」として認識されるのではないかと思う。

飛躍があるが、結論として、「もの」とは、広い意味での認識と、現実の具体的な存在の両方の間に位置するものと考えてみた。
認識とは、この場合、五感と思考の両方にまたがっている。具体的なそれ(ものとなる前の何か)を五感を使って認識し、それを自分とのかかわりのなかで「なにものかとして」(ここで思考が係わる)認識する。
ということは、五感で感じられれば「もの」かいな。例えば「におい」はものだろうか?違うよな。「音」はものだろうか?これも違う感じだ。「味」わうためには、やっぱり口に入れるものがあるだろう。やはり、五感の中でも触覚と視覚に係わるように思える。
一方「情報」については、まだあまり考えていない。でも「もの」ではなくて、においでも音でも味でもなく、そして何かを伝えるものというくらいで考えている。「伝える」といえば、当然ながら、message、media、contextの三要素に付いては最低考えなければならないが、あっさりと割愛。言いたいことは、例えば、新聞も情報だが、新聞という「もの」があるではないか、という突込みに対し、あれは新聞の情報を載せるmediaであって、その証拠に、昨日の新聞は、古新聞という名前に変わる。また物質的に言えば、新聞「紙」ともいう、とだけ書いておく。情報についてはまだ勘弁してくれ。

で、やっと昨日の話しにたどりついたが今日も雨降り、なんか疲れたな。
俺の考えでは、情報がいくら世界を駆け巡っても、なかなか幸せになれないんじゃないのか、ということ。人が生きるのに役立つ「もの」は誰が作るのか?結局誰かが体を動かさないと、そういうものは出来ない。古くからの言い方をすれば、第1次産業、第2次産業がないと生きていけないだろ。さらに話を進めると、中沢新一的に言えば、大地に働きかける以外に人はものを作り出すことは出来ない。それがなくて情報だけが行き交ってなにが生まれるというのだろう。
ちと話がずれるが、癲癇の本質は一言でいえないようなのだが、あるとき脳波が通常とは違うパルス?があらわれて、それが脳全体、もしくは部分に広がり、その結果、身体もそれに付随してしまうことのようらしい。誤っているかと思うが、俺には脳の中であるパルスだけが異常に増幅されてしまい、それが脳の他の部分にも及んでしまうようなイメージがある。
情報も似たような部分を感じる。実体を伴わない情報(ものから派生する情報ではなく、情報から生まれた2次、3次情報とか)が世界を駆け巡り、その情報で行動を判断し、実行する。なんか、ネットの株取引のようなかんじだな。
話がずれました。

で、ネットで買う音楽だが、あれはいったいなんだろう。
まず「音楽」について考えないといけないね。エリック・ドルフィーが言ってるけど、「音楽は聴いた途端、空気のなかに消えてしまう。もう二度と取り出すことはできない」。音楽は本質的にはライブだけが音楽であろう。ではライブの際には、音楽だけが存在するのだろうか。そんなことはないわけで、祭りの一部だったり、演劇の一部だったりする。また、当然ながら演奏者もいるわけで、現実の音楽は聴覚だけに訴えかけるのではない。しかし、レコードになると、聴覚以外の部分が、かなりの部分削ぎ落とされるから、それを補完するためジャケットなどの視覚情報に訴えていたのだろう。って、これ、俺の卒論だな。小島先生お元気ですか?

ネットで音楽を買うということは、LP、CD等に残っていた視覚情報の残骸すらも削ぎ落としたという面があるだろう。つまり「音楽」そのものだけを楽しむということかな。しかし一方ネット上には、あふれんばかりの映像がある。動画も静止画もね。つーことはだ、やっぱりネットで音楽を買っても、それを補完するものも同時にたやすく入手できるということか。ネット上から収集すれば、最初についていたジャケット以上の映像を楽しむことが出来る。それによって、手に取れる「現物」は手元にないけれど、それに非常に近い感覚が生まれているのかもしれない。とは言うものの、新しいiPodは映像もあつかうらしい。なんか今書いた事情に通じるものを感じる。
とはいえね、記憶している媒体が壊れたら、はいそれまでよ。CDもLPも傷がついたら同じだが、それでも壊れた現物は手元に残っている。データは壊れれば、それでおしまい。擦り切れたLPを見て懐旧の情にひたるなんてことは、アナクロニズムだから、誰もやらんかも知れんな。とはいえ、そのぼろぼろのLPは、新しく買ってきた同じLPとは中身が同じでも、その人にとっては全く別物だ。このへん、デジカメとフィルムカメラの論争に似ているかもしれん。

で、結論が必要だろうか。それはまた考えよう。

写真を2つ。

koujimaphoto

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