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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2020-09

リコとリタ- 続き

さて本題に入る。
新型コロナウイルス感染予防としてのマスクは、なぜ着けるのか。
一義的には、自分の唾液などを飛散させないためである。それによって相手に感染させないようにする。
普通のマスクでは、相手から発せられた飛沫などを遮る効果は薄いらしい。
だから医療行為用のマスクがあるわけで、とくにN-95マスクというのは、ウイルスを含んだ飛沫の侵入を防ぐことができる高性能なマスクだそうです。
http://www.sts-japan.com/products/n95/

整理して考えるとこうなるだろう。
・新型コロナウイルスの感染が拡大している。
・ひょっとすると、自分も感染済みかも知れない。
・そうであれば、自分以外にうつさないようにしなければならない。
※感染していた場合は、落ち着くまで(治るか、死ぬか)世間から離れる。
・「相手に」飛沫感染させないために、「自分が」マスクをしよう。
・同様に、他の人も考えてマスクしてくれれば、自分が感染する可能性は薄くなる。
・これは他者にとっても同様の効果がある。
ということで、ことわざ的にいえば、情けは人の為ならず=いずれ自分に返ってきて助けられる。普通にいえば、マスクを着けることは利他的行為であって、それが社会的に実行されれば感染者が減り、自分も助かりそうである。
実際にマスクを着けている人がこう考えているかどうかは分からず、というか、むしろ自分が感染しないためにつけているつもりの人も多かろうと思う。

さて、マスクをすること自体が耐えられないという文化?もあるようだが、そうでないのに(例えば日本で)マスクをしないのはどう考えるべきか。
いろいろな考え方や事情があるのだろうが、避けられない場合以外はマスクをすべき状況だろう(とくに東京は)。
しかし、利他的行動を他者に強要することは許されるのだろうか。
とりあえずは、それはすでに利他的行動というものではなくなっているだろう。例えば「自発性を出せ」とか「ボランティアしろ」というのは、意味が破綻しているのだが、ありがちな言葉ではある。
出させられた自発性は、ふつう自発的とは言わないし、ボランティアは言われてするものではないし。

ありがちなのは「マスク警察」とかの、自警団的行動だろうか。
これはかつての国防婦人会のようになりそうで、型通りのことを押し付けるばかりで、本義を逸脱しそうである。独りよがりになって利己的行動に紙一重になりそうな気がする。
では、行政的にマスク装着を義務付けるのだろうか。
さすがに今の日本社会では、それはできないだろう。
そうなると、一人ひとりに利他的行動を期待する(その一方で社会規範化しての締め付けもするだろう)しかなかろうかと思う。

どうも、世の中の風向きが新型コロナウイルス以来、変わってきたように感じている。制度的な面、経済的な面が取りざたされているが、その奥にある、ものの考え方自体が変わっているようにも感じている。
その時のキーワードが利己と利他なのではないか、と漠然と考えている。
ことの推移を見ながら、しばらく考えていきたい。
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リコとリタ

と書くと、女性の名前のようだが、漢字で書けば「利己と利他」となります。
新型コロナウイルスについて、マスクの是非という話題がある。

まず、マスク自体を着けるか否かというところからいくと、どうも口元をかくすのを嫌がる文化があるらしいと思い至った。
例えば、何か理由があって顔を隠したいときどうするか。
ある文化では目元を隠し、またある文化では口元を隠すようだ。
(もちろん、面をかぶって全面を隠すということもあるわけだが)
映像的には、サングラスをした黒服の男と、口元にスカーフを巻いた列車強盗を思い浮かべたりする。
もしくは仮面の忍者赤影という番組があったが、あれなんかは目元を隠していた(穴あきサングラスというかんじ)。
知人に聞いた話だが、あるアイルランド人がキャラクターのキティちゃんを嫌っていて、その理由が「口がないから」だったそうだ。
口がないということは表情がつかめないということでもあり、正体がわからないということでもあるのだろうか。
コロナ感染予防として、マスクというのは手軽で効果的な対策の一つだと思うが、頑なに拒むには理由には、やはり感情とそれを裏打ちする文化的背景があるように思う。

ちょっと話が飛ぶのだが、学生時代に西江雅之先生から聞いた話。
アフリカにカリムジョン(カリモジョン?)という部族がいて、かつては下半身丸出しで暮らしていた。そのかわり、ということでもないのであろうが小さな木の椅子を常に持っていた。
しかし、アフリカにキリスト教宣教師が来て、パンツをはかせようとした(スカートかも知れぬ)。
すると、カリムジョンの人々はそんな恥ずかしいことはできないといって、猛烈に抵抗して戦争状態になった。
今の文明社会とよばれているところから見れば、パンツをはかないのは恥ずかしいことであるが、逆にパンツをはくことこそが恥ずかしいという文化もある(あった)。
マスク着用の是非の議論で、なんとなくこの話を思い出していた。
(続く)

これが二度目になりうるのか?

太平洋戦争が終わる際、広島の原爆だけではおさまらず、長崎にも落とされてからようやく事の重大さが行きわたり、戦争継続不可能という昭和天皇の判断がなされて、8月15日の詔勅が出された。
昭和天皇は自然科学者(生物学者、南方熊楠と意気投合した)であり、原子爆弾の意味も理解していたからこそ、戦争終結の判断ができたのだろう(昭和天皇は科学者の心性と現人神=神話的存在であるという自己矛盾を生きたわけで、大変だったろうと思う)。
それにしても、二度ひどい目に合わないと行動に移せないのが日本文化の「型」というようにも見える。一度で行動できるほど、日本人も日本社会も賢くはない。

さて、2011年に大震災があり、福島原発事故は当然ながら今も現在進行形で、終息などいつ可能なのか見当もつかない状態である(最低100年はかかるか)。
この大災害と大事故で、日本の世の中は少しは変わってましになるかと思ったが、数年で元に戻った。兆し程度で終わったように思う。
経済よりも生存の確保のほうが優先されるのは当然のはずなのに、そういう意識がったのは、数年もあっただろうか。
アベノミクス、under controlでオリンピック誘致等、経済優先にすぐ戻ってしまったし、ほとんどの人はそれを当然視しているように見える。

原発事故は、原爆と同じく、当事者にとっては重大な意味があり、その前と後では世界が違うほどの意味があるだろう。
だが、広島と福島だけでは世の中は動かなかった。
ということは、考えたくはないのだが「二度目」が必要なのだろうか。しかし原発事故が再び起こったら、この狭い日本には逃げ場はなく、致命的となるだろう。
つまり二度目があったら、日本自体がその時点で破滅しており、その時に気付いても何の行動もとれない。
しかし、ひょっとして、このコロナ禍は日本社会が変わる「二度目」の意味があるのではなかろうかと思うようになった。
というのは、現状でさえ、以下のようなことが起こるのは避けがたいと思われる。
これはhttp://my.shadowcity.jp/2020/04/post-18226.htmlに書き込んだ俺のコメント。


不景気云々という段階を過ぎたのは当然として、経済崩壊というよりは、経済を含む世の中のそのものの仕組みが変わるんではないかな。
というのは、普通の人のものの考え方自体が変わってくるように思うから。
会社に行かないと仕事ができない→行かなくても仕事はある程度できる。ときどきミーティングする場所があれば、こんな大きなオフィスはいらない。
てか、会社にそんなに依存しないほうが良いんじゃないか、とか、混んだ電車に二度と乗りたくないとか。
大学のキャンパス行かなくても授業は可能→通信制にオンラインコースがあれば十分じゃね、とか。
都市部に集中すると脆弱性が増すというか冗長性(プラスの意味で)がなくなるとか。
国政よりも、目の前に相手がいる地方政治のほうがまともだとか。
国際分業なんぞ危うすぎて、臍が茶を沸かすとか。
治療法のない流行り病には、貴賤富貴を問わず儚いことは砂の城と同じだとか。


どうも、これまでの世の中のようにはいかない雲行きである。
一度の災厄では目が覚めないが、今回の災厄でやっと目が覚めるのではないかと思う一方、犠牲が大きすぎるとも思う。
とりあえず個人的にはこの疫病を何とか生き延びて、世の中がどう変わるか(関与できるか)見ていきたい。

殺人ゲーム ポケモンGO


車中よりポケモンレーダー照射して ときに人の命をゲットす

http://www.asahi.com/articles/ASJDG53YFJDGUGTB009.html
ひき逃げ死亡事故「ポケGOしながら運転」 容疑者供述 2016年12月14日17時20分

 福島県相馬市で起きたひき逃げ死亡事故で、逮捕された容疑者が県警の調べに対し、「ポケモンGOをしながら運転していた」と供述したことが分かった。福島地検は12日、この容疑者を自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死)と道路交通法違反(ひき逃げ)の罪で起訴した。
(中略)
 県警によると、被告のスマホを解析したところ、事故直前にポケモンGOを操作していた履歴が残っていたという。

United KingdomではなくてUntied Kingdomとか

ネットゲリラが落ちているようなので、暇つぶしに、雑文でも書いてみる。
(選挙前などは落ちるらしい。そういうもんか?)

さて、イギリス(UK)が国民投票によりEU脱退となるようだ。
離脱派のリーダーが嘘つきで、EU脱退が決まったとたん役職を辞任したりしていて、実際の脱退までは紆余曲折あるだろうが、それはそれでよい。
面白いと思ったのは、先だって独立騒ぎのあったスコットランドがEU残留を望んで、再度独立するような話が出ていることだ。
UKというのは、United Kingdomの略で、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国が正式名称であり、内容としては、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドによる連合であり、イングランド以外も自治政府を持つ。
歴史的にみると、この国が17世紀以来、世界を混乱させてきたことをどうしても考えてしまう。ここ最近の中東問題、イスラム問題も、遡るとイギリスのバルフォア条約やらサイクス・ピコ条約が原因である。このへんに気付いたのは、アンゲロプロスの映画で、イギリスが蛇蝎のごとくに嫌われていることを見て、ようやく分かってきた。
西江雅之先生の話だったかと思うが、アフリカの地図の国境はなぜまっずぐかというと、人がいない地域(実際にいるが)だから欧米諸国が勝手に決めたというのもあるそうだが、対立する複数グループをあえて一つの国にすることで国家が混乱しやすくなることにより、欧米の支配をよりやりやすくするということもあったそうだ。これってむしろ宮内勝典だったかな。
一言でいえば、いまだに英語が国際語であること自体が証拠であろう。
だから、今度はUKがこれまでのつけを払えばいいのではないかと思う。
イギリスがこれまで他国にやってきたように、自国が分裂して混乱するのもいいのではなかろうか。今の若い方には、責任のとりようもない話なので気の毒ではあるが。
で、United KingdomではなくUntied Kingdomになったりすると面白い。

このバンドはUKと名乗っているけれど、ドラムはザッパバンドにいたアメリカ人ww

Tweetはさえずりか、つぶやきか

TwitterというショートメッセージをベースにしたSNSがある。元になっている動詞tweetはOEDによれば、以下の通り。
a. trans. Of a bird: to communicate (something) with a brief high-pitched sound or call, or a series of such sounds. Also in extended use. Freq. with direct speech as object.
(他動詞)鳥に関するもので、短い高い音や連続音で意思伝達するとある。だからTwitterのアイコンは鳥になっている。
他の方もすでにいろいろ書いているが、Twitterは「つぶやき」ではなくて「さえずり」ではないかという話がある。
一般に「つぶやき(呟く)」は、「小さい声で独り言を言う」という意味である。
また「さえずり(さえずる)」は、「小鳥が鳴くこと」「(女子供が)ぺちゃくちゃと、(意味のあまりないことを)しゃべること」という意味である。
tweetの意味からすると、意思伝達の意味が大きいようだ。つまり一人ではなく複数のやり取りが前提となっている。そこで鳥に関係し、また複数でのやり取りが関わるという意味で「さえずる」がどちらかといえばより訳語として該当する。
「つぶやく」というのは、基本的に他者を前提していないので、言葉の趣きがだいぶ違うようだ。
よって一種の誤訳もしくは恣意的な訳ではないかという考えが出てくる。

ここでちょっと考える。
しばらく前からNHKニュースなどでtweetされたコメントを表示することがある。9割はほぼ無用無意味であり、わざわざ口にするほどでもなく、ましてSNSに書き込むようなものでもない。
しかし独り言(つぶやき)であるとすれば、もともと他者に向けた言葉ではないのだから、大した意味がないのは当然であろう。
独り言に対して、基本的にレスポンスはしないのであるが、もしするとすればやはり独り言的なものとなるだろう。
SNSにはSocialという言葉が含まれているが、「つぶやき」という言葉には社会性・socialな意味は感じられない。あるとしたらごく一部の身内、仲間内が対象になるだろう。
ところで一時、Twitter上に自分の悪ふざけを公開して、かえって自分のことを暴き立てられたということが続いた(今もか)。
あれは、発想が内向きだからとか、SNSの原理を知らないからだとか言われているが、名称の問題もあるのではなかろうか。
さえずれば遠くまで聞こえる。しかしつぶやきだったら静かにやれば誰も気づかないはず(原理的に無理だけど)。その辺の勘違いが一因のような気もする。

現代中国のジョナサン・スイフトこと遼寧師範大学の“木然” 教授

日経関係の記事を見ていたら、面白い話を見つけた。
話自体は、中国は後継ぎとして男子を偏重するため、結果として結婚適齢期の女性が激減し、独身男性は結婚できないままのものが大量に発生するという内容である。
ここに登場する“遼寧師範大学”教授の“木然”氏が実在しているのかどうか知らぬが、書きぶりからして「穏健なる提案」あたりのジョナサン・スイフトを思わせる。
気違いじみた事を書きながら、じつは非常に真摯であるように思う。

ちなみに「木然」を辞書で引くと、以下のとおり。
・木然mùrán
形容詞 (一時的に)ぼうぜんとしている,あっけにとられている.
用例:我木然地望着他们远去的背影。〔連用修〕=私はぼうぜんと彼らの遠ざかって行く後ろ姿を見ていた。(白水社 中国語辞典)

この意味からすると、当然筆名だろう。

以下引用となります。

2020年、中国未婚男性3000万人の危機 1人っ子政策35年の歪み、打つ手なしか
2015年10月16日(金)  北村 豊
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/101059/101500021/?P=1

10月7日付の香港紙「東方日報」は、“遼寧師範大学”教授の“木然”が書いた『計画出産の暴政は絶対に終結させねばならない』と題する文章を掲載した。彼は3000万人以上の独身男性が反社会的な方向に走らないようにするための解決策を、中国共産党による暴政論理の観点に立って、多数の解決策を提案するとともに、その可能性を検討した。その解決策の例を挙げると以下の通り。

(1)戦争を通じて結婚にあぶれた独身男性を始末する。但し、人口を減らすために戦争を起こしたら、世界の人々は中国共産党を唾棄し、世界の歴史上に汚名を残すことになる。
(2)移民の形で結婚にあぶれた独身男性たちを国外へ移動させる。そうなったら、移民の目的地となった国はマヒ状態に陥るだろう。
(3)現行の一夫一妻を改めて一妻多夫にする。但し、それは現行の一夫一妻を規定している婚姻法に違反するのみならず、人類の文明を破壊する行為につながる。
(4)売春を公認し、“妓院(売春宿)”の発展に力を入れて、3000万人の性的飢餓を解消させる。そうなると“紅灯区(歓楽街)”が建設されるだけでなく、独身男性の性的欲望を解消させるだけでなく、すでにある家庭までも破壊に導き、離婚によってさらに多くの独身男性を出現させることになる。
(5)結婚にあぶれた独身男性をガス室へ送り込む。これはナチスがユダヤ人に行った残酷な方法で、採用できるはずがない。
(6)結婚にあぶれた独身男性を去勢して、彼らを“太監(宦官)”にする。これは人情にもとることで、たとえ多くの人々の賛同を得ても、本人は絶対に認めないだろう。
(7)結婚にあぶれた独身男性を「動労改造強制収容所」に送り込み、彼らに飢餓を耐え忍ばせることにより、男性ホルモンを分泌し難くする。これは思想犯や政治犯にやることと同じだ。

 木然は極端で無謀な解決策を提案することにより、その愚かしさをより一層際立たせ、3000万人以上の独身男性が結婚にあぶれる原因となった1人っ子政策の撤廃を中国政府に強く要請しているのである。文章の最後に、木然は次のように述べている。

「計画出産の本質は、人を人として見ず、人を道具として見ていることにある。生命の神聖性を尊重せず、生命を児戯として見ている。生命を尊重し、生命を第一に考え、計画出産の暴政を放棄し、計画出産政策を廃止し、計画出産担当者を廃業させねばならない。人口の増減を自然に任せることによって、中国の数千万人の男性が結婚にあぶれて独身になる問題は最終的に緩和と解決を得ることができる。そうすることで中国は男女比率が“和諧的社会(調和の取れた社会)”になることができる。」

モミー@NHK、音なしの構え

NHKのモミー(籾井勝人)会長といえば、安倍総理のお仲間で、およそメディアに関わる人間とも思われぬ噴飯ものの発言で自局以外のマスコミをもにぎわせた。
曰く「総理と考えが違う内容の放送をするのはいかがなものか(大意)」。

NHKも再び大政翼賛会の一翼を担うのかと思っていたら、ここのところ反戦的な内容、というよりは平和希求的内容の番組をバンバン放映している。
こうゆうのモミー会長は、どう思っているんだろうね。
安倍さんの支持率が急落してきたので、おとなしくなってきたのだろうか。
それならば、苦境の友を助けないという卑劣漢であろう。
メディア関係者としての自覚もなく、友も助けないというなら、なんなのこの人。

晩節を汚さぬうちに辞任するのがよろしかろう。
ぼやぼやしているとオリンピックの逆流にまきこまれて、苦しむことになるぞよww

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ネタかぶりにご用心

もう先週号になったのでネタばらしにならないはずだから書くが、先週の週刊文春と週刊新潮の広告を見ていたら、同じ内容の記事が出ていた。
ひとつは、
・朝日アフロ記者、節電生活なのに「パーマは6時間の謎」(週刊文春5/21号 真相ワイド15本「そこが知りたい!」)
もうひとつは、
・電気代ゼロを目指す朝日新聞アフロの女性編集委員はそんなに偉いか?(週刊新潮5/21号特集「五月バカにつける薬」)

どちらも朝日新聞の編集委員である稲垣えみ子氏(以下、アフロ記者)をとりあげているのだが、正直言ってどうでもいい話ではある。原発事故以降、この方の節電関係の記事を読んだ記憶があるが、軽い文章であって深刻な内容のものではなかった。それはそれで別にいい。

それに対し、朝日的なものを嫌う両誌が揶揄気味に書いていたのであるが、内容は薄いものであった。
ライバル関係?と思われる両誌が事前に目次の確認をしあうことはないだろうが、それにしてもこのようなどうでもいいようなネタが、全く同じ時期にほぼ同じくらいの扱いで記事となっているのは、心ある編集者であれば、着眼点の凡庸さ、発想の貧しさ、記事内容の陳腐さをひどく恥じているはずである。

アフロ記者は原発反対という立場をストレートに主張するのではなく、自分はこのように節電していると面白おかしく書いて注目を集めていたのであるが、どうも最近テレビに出ることもあったらしく、それが両誌の琴線(逆鱗というほどでもないか)にふれる部分があったのだろう。

それはおそらく原発云々ではなくて、じつは頭髪のことだろう。
アフロヘアにするためには潤沢な頭髪が必要である(ようだ)。もしかして、両誌の編集者は発想だけではなく頭髪においても不足に苦しんでおり、頭髪richであるアフロ記者が憎くて憎くてたまらないのではなかろうか。
頭髪richで電源poor(アフロ記者)であるのと、頭髪poorで電源richであるのは、どちらが良いかは一概には比べられないが、というか頭髪と電源を結びつけて考えるのは普通はあまりないことではあるが、あり得るとしたら頭髪に強いこだわりを持つ者の心中にはあるのだろう。

と書いてしまうのは妄想が過ぎるのであるが、もしそうであれば、こういう記事はどうだろうか。
「アフロヘアは節水節電につながらないが、頭髪が薄い(我らの)ほうが節水節電に大いに資するのだから、アフロ記者はでかい顔、ではなくて頭するな」とかね。
まあ、週刊誌の発行部数は減る一方らしく、また広告を見ても、かつてほどのグレード感はない(=広告収入も減っている)。
となると内容でがんばるしかないのだから、重要な問題ならばいざ知らず、この程度の小ネタでは他誌とかぶるような事はやめてもらいたいものだ。

人のことばかり批判しても、なんだかズルイかんじがするので、自分のことも書いてみる。
しばらく前から町中でマスクをする人が増えた(原発事故以降、とも言い切れない)。
昔、栗本慎一郎の「パンツをはいたサル」という本があって、そのなかで恥ずかしい部分を隠すというのが文化であり、それが人間なのだ(大意)とあった。
ちなみに恥ずかしい部分は文化によって違い、今の社会では股間は恥ずかしい部位とされているが、カリムジョン族(ウガンダ)は下半身を隠すことをたいへん恥ずかしいことと考えて、パンツをはかせようとする西洋文明と厳しく対決して死者も出たという(西江雅之先生の話)。
要するに恥ずかしい(見せたくない)ところを隠すのがパンツであれば、必要以上に顔を隠しているあのマスクというものは、いうなれば「顔パンツ」とも言えるのではないだろうか。
と、ここまで考えていたら、やはりマスクのことを「顔のパンツ(だてマスク)」と言っている人がいた。これもネタかぶりだろう。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/iotatatsunari/20150124-00042511/

ところで、パンツの役割のひとつに、恥ずかしい部分ではなく「弱い部分」をカバーするというものがある。
股間は恥ずかしい以上に、ぶつけたりするとひどく痛い(男の場合)。神経が非常に集中しているらしく敏感な部分でもある。
なにもカバーせずにさらけ出しているのは非常に不安であるから脆弱な部分を覆いたくなるのだろう。
そう考えると顔パンツはどうなるだろうか。
俺としては原発事故以降のことを考えると、呼吸器経由の内部被爆等も懸念されるので、弱いところを隠すという意味ではマスクも仕方がない等と思っている。
そこまで言わなくても、さまざまな化学物質を含む粉塵舞い散る都市部では、マスクしたくなる気持ちもわかる。
一方で前掲URLにあるようなプライバシーを守りたいという精神面での脆弱な部分のカバーという「マスク=顔パンツ」説もあるので、それに別の視点も付け加えられたかなと思っている。

代々木ゼミナールが大規模リストラとかいうけれど。

代々木ゼミナールが大規模リストラするというニュースがあった。
しかし、あそこの経営者は、いずれこうなることを予想していたと思う。
というのは、昔、仙台に代々木ゼミナール(代ゼミ)が出来たころ、ちょうど一浪して毎日通っていた。
代ゼミの校舎は、まだあまり開発されていなかった仙台駅東口駅前に建てられた。
なぜ便利のいい西口でなかったのかという話題が出たとき、誰から聞いたか忘れたが、将来事業がうまく行かなくなったとき、駅前のビルであれば、どのようにも使える。また賑わっている西口にビルを建てるのはお金がかかるが、今はまだ寂れている東口なら、あまり費用をかけないでも駅前にビルが建てられるから、などと聞いた。

今回のリストラのニュースもいろいろ解説されているが、経営者一族はかねてタイミングを見ていただけではなかろうか。
小田実をやとっていたり、受験生向けの講演会に何故か野坂昭如を連れてきたりと、独特のセンスを持っていたようなので、そんなこともあるだろうと思う。
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