eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-07

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昭和天皇は「瘠我慢の説」を読んだだろうか。

福沢諭吉に「瘠我慢の説」という文章がある。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/46826_24771.html
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20111201/1322665564

これについては以前文章を書いたことがあった。http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-863.html
福沢は勝海舟と榎本武揚の功績を認めながらも、負けると分かっていても戦をすべき時があるし、旧幕臣が明治政府の高官になったりするのはほめられたものではない。瘠我慢して、新政府には奉職すべきではなかったというような話である。
これについて、勝、榎本それぞれに反応(儀礼的な返答をした=ほぼ無視)したというところで、この話は終わっている。

勝海舟に言わせれば、徹底抗戦せずに江戸を無血開城したからこそ、西欧列強につけ込む隙を与えずに政体を変革することができたわけで、国内が決定的に分裂するよりはましだったと言いたかったのではなかろうか。
その後の田舎侍(薩長)のおぼつかない政治を見捨てておけず、徳川家の名誉回復のため、また旧幕臣の軽挙妄動を防ぐ意味もあり、乗り掛かった舟ということで新政府に出仕したようである。
また、この文章が公開されたとき、すでに彼らは高齢であり、当事者同士での本格的な議論も起こらぬまま、それぞれ世を去っていった。

ところで、福沢の以下の文章を読むと、いろいろと言いたくなる。
「左れば当時積弱(せきじゃく)の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りにあらず。いわんや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるにおいてをや。然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。これを典して彼を買う、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題にあらざるなり。」
(大意:当時、幕府に勝ち目がないのは、勝氏も自分(福沢)もよく理解していた。しかし侍の気風を守るためには、勝敗は度外視すべきである。しかし勝氏は幕府が負けるのを見越していたから、無用の犠牲を少なくするため戦う前に降伏した。死人が出たり、町が破壊されたりするのは一時のことに過ぎないのであるから、むしろ士風の維持の方が大事ではなかったか。)

文中「瘠我慢の士風」とある。
その「士風」=侍の気風を守るために江戸の町が焼ければ、侍以外の庶民が苦しむわけだが、それでいいのだろうか。これこそ「容易に断定すべき問題にあらざるなり」と言いたくなる。
また「殺人散財は一時の禍」とあるが、当事者にとっては死んでしまったらそれが全てなので「一時の禍」とはとても言えないだろう。
福沢はたしかに武士としては立派であろうが、それを他の人に押し付けたり巻き込んだりするのは承服しにくいことだと思っている。

ところで、仮定の話であるが、昭和天皇は福沢の痩せ我慢の説を読んだとしたら、どうだったろうか。
スケールの違いはあるが、江戸城無血開城と日中~太平洋戦争の無条件降伏は重なる部分があるようにも思う。
昭和天皇は、福沢のように「必敗を期して勝つの事例も少なからざる」と、本土決戦を考えただろうか(軍部はヤケクソ気味にそう考えたかもしれないが)。そうではないだろう。
ポツダム宣言、原爆投下後にも戦争継続すれば、犠牲者の増大は避けられない。
例えばその後の歴史を見れば、ベトナム戦争の北ベトナムのように本土決戦→ゲリラ戦に持ち込めば、国内の被害は甚大だろうが米軍は苦しむだろう。
しかし、昭和天皇はそれを避けたということのようだ。
つまり、士風ではないが「大和魂」のために人が死ぬことについて「殺人散財は一時の禍」とは考えなかったのではないか。

ありえないことではあるが、福沢が昭和20年に生きていたとしたら(そうならば105歳)、昭和天皇に「立国の要素たる瘠我慢の士風」を守るため、本土決戦を進めることになるはずである。
もしそうなっていたら、今の日本(というか日本国家自体)は存在していなかったのではなかろうか。

「痩我慢の説」は、いまだに論争を呼ぶ文章であり、さすがに福沢の文章はいまだに生命力を保っているのは素晴らしいことだと思う。
しかし昭和天皇と「痩我慢の説」を関係づけて考察したような文章は、なかなか見つけられなかったので、つたないながらも自分なりにまとめてみた。
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諸星大二郎とBurning Man

「Burning Man – Art On Fire」(玄光社)という本(写真集)を見ていたら、なんだか強烈に諸星大二郎のことが思い浮かんできた。

この本の内容を以下に引用する。
https://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=11600
「毎年8月の1週間、芸術的表現を賛美するために、何万人もの参加者がネバダ州の荒涼としたブラックロック砂漠に集まる。“プラヤ”と呼ばれるこの広大な荒地が、バーニングマンの会場である。世界じゅうから訪れる7万人を越す熱狂的な参加者が、そこにかりそめの街を創り出す。アートとコミュニティに捧げられた街を。参加者の多くは、自然の猛威をものともせず、人々を喜ばせ、刺激し、魅了し、驚かせるために、想像力溢れるアート作品を生み出す。1週間の終わりに、作品の多くは燃やされ、街は解体されて、圧倒的なイメージと忘れがたい記憶以外、痕跡はまったく残らない。『BURNING MAN ART ON FIRE バーニングマンアート・オン・ファイヤー』は、バーニングマンの素晴らしい作品を集めた公式アート集です。」(後略)

※1.バーニングマンについて
https://ja.wikipedia.org/wiki/バーニングマン
※2.諸星大二郎については、これが簡潔にまとまっている。
http://festy.jp/web/posts/6719

以前、テレビでこのアートイベントをとりあげていて、最後に巨大な人形が燃えるシーンが強烈であったので、この本を手にとってみた。
芸術としてみた場合、作品のレベル・内容は玉石混交だろうが、砂漠という舞台とそこにおかれた作品を見ていると、なんだか幻のように思えてくる(実際に、ほとんどの作品はそこで燃やされ、ごみも残さずに撤去されるそうだ)。

このなかで、砂嵐にかすむバーニングマン(巨大な人形)は、「カオカオ様」に見えてこないだろうか(本書27-28ページ)。

また、砂漠の中に立つ奇妙な建物や乗り物、インスタレーション等は、やはり諸星の漫画の中の風景が実体化したようにも見える。

諸星大二郎に、このイベントに参加してほしいなあ。
それとは別に、いつかぜひここに行ってみたい。あまりこういうことは思わない方なのだが。

認知症と読書

中野の早稲田通り沿いに、しばらく前に古書店できた。https://twitter.com/annaidocoro
中野といえば、ブロードウェー内にまんだらけをはじめとして、何軒か古書店があるが、そこではあまり買わずに、ここで買うことが多いような気がする。

先日入ってみたら作品社の日本の名随筆シリーズが大量に入っていた。ほぼ全冊あっただろうか(全200冊とのこと)。
さっそく手にとり値段を見たら、なんと300円だった。安すぎるように思うが。
いくつかほしいのがあって、結局6冊選んだ。あまり買い占めると他の人が楽しめなくなるから、このくらいにした。
会計のときにお店の人に、ずいぶん安いですねと聞いたら、
以前は500円が相場で、800円くらいの値付けをするものもあったのだが、最近は人気がないので、この値段だそうだ。
なにかさびしい話になったので、なぜ、今日この本を買ったのか、つい話してしまった。

母は認知症なので、短期記憶はほとんどない。しかし昔から読書は好きだったので、何か読むものを探したい、と子は思う。
いろいろ探した結果、日本の名随筆シリーズは認知症の人に向いているように思った。
理由は、一篇が短いので、忘れないうちに読み終えられる。また、ちょっと古い筆者が多いので、年寄りにはなじみがある。内容も渋めだからちょうどよい。
そもそも随筆だから、あまり重い内容ではない(そうであっても軽く書かれている)。若い人でも重い内容のものを読むには体力が必要だが、年寄りには難しい。
こんなふうに思うが、本人ではないので、どう思っているかはわからない。でも楽しんで読んでくれているようだ。

店を出てから思った。
認知症者向けの叢書をどこか出してくれないだろうか。
これからだいぶ需要があるように思うのだが。
必要な条件は上に述べてあるので、ぜひどこかでお願いしたい。

薬草まじないなしでは治らない風邪

先日、仕事中に「急激な眠気」「だるさ」「寒気」がおそってきた。さっそくネットで調べると、なんと「妊娠の兆候かもしれない」とある。もう若くはない男が妊娠することなどありえようか。
しかし、その前日、『やし酒飲み』のエイモス・チュツオーラ『薬草まじない』(岩波文庫)を読んでいたので、自分のなかで不思議な一致を感ずるところがあった。
よって俺はすぐに、挫けがちな「第一の心」(感情?)、意思的な「第二の心」(理性?)、それらを支える「記憶力」に問いかけたところ、「然り。関連はある」という答えを得た。
『薬草まじない』では、若い男が、不妊の妻のために遠くの地にいる女薬草まじない師のところまで冒険旅行をし、子供を授かる特製スープを授かって帰ってくる。しかし、帰途、絶対食べるなといわれていたのに、空腹のあまりその特製スープを口にしてしまう。帰郷後、妻は無事妊娠するが、あろうことか男もおなかがせり出してくる。つまり特製スープを食べてしまったので妊娠したのだった。
男はこの状態を打開するために、また別の行動をとるのだが、あまりネタばらししても仕方がないので、このくらいにする。

アフリカ文学の珠玉ともいわれる著者の作品を読んだ以上、何らかの影響を受けること必定ではあるが、さすがに本を読んだだけでは妊娠はしなかった。
のではあるが、それに似た症状が出たのだろう。ということはたんなる風邪ではないのかもしれない。そうであれば、俺も「さい果ての町」まで旅をして女薬草まじない師に会わなければならないのだが、なかなかそうもいかないので、夢のほうでショートカットして、薬をもらいたいと思っている。
なかなかそういう夢を見られないせいか、まだ風邪が治らない。

三四郎とはどういう話か

twitterでずいぶん書いてきたが、いずれまとめる予定。
日付はだいぶさかのぼって4月1日付とする。

福沢諭吉「瘠我慢の説」について

福沢諭吉に「瘠我慢の説」という文章があって、いまだに物議を醸したりしている。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/46826_24771.html

内容は、勝海舟と榎本武揚の功績を認めながらも、旧幕臣が明治政府に使え、高官になったりするのはほめられたものではない。
瘠我慢して、新政府には奉職すべきではなかったというような話である。

これについて、勝、榎本それぞれに反応(儀礼的な返答をした=ほぼ無視)したというところで、この話は終わっている。

以前からこの文章を読んで釈然としないところがあったのだが、最近はこう思っている。
そもそも瘦我慢というのは本人がするものであって、他人に言われてするものではない。
他人が言うのであれば「我慢しろ」であって、人を評して「瘦我慢してるな」ということはあっても、「瘦我慢しろ」とはなかなか言わない。
もともと「武士は食わねど高楊枝」というが、これは本人がプライドを守るためにやっているのであって、人に言われたからしているのではないだろう(人の視線は気にしているだろうが)。

勝にしても榎本にしても、むしろよちよち歩きの新政府の手助けをすることのほうが、我慢ではなかったのかとも思う。
とくに勝などは内憂外患のなか、無理やり新体制を作るように導いて、それが一本立ちしなかったら、何のために幕府をつぶしたのか、無意味になる。

どうも勝と福沢は咸臨丸以来、そりが合わなかったようだが、この文章は福沢の空回りというか、よけいなお世話のようにも思う。
勝は時局にあわせて軽口をたたいたりしたそうなので(氷川清話等)、それをたしなめるためならば意味はあったのかもしれないが、どうも内容的にはそうではなさそうだ。

まあ、福沢も瘦我慢して、この文章を発表しなかったほうが良かったのかもしれない。

漱石「三四郎」を熊倉千之先生風に読む。

朝日新聞で漱石の「三四郎」が連載されているのにあわせて、自分なりに精読してtwitterに書いております。
https://twitter.com/mankendoshujin

熊倉千之先生風とは銘打ってみたが、先生ならばもっと緻密且つ大胆に読むであろう。
勝手にお名前を借りて不遜ではあるが、やはり先生のまねもしてみたいので、こう名付けた。

たいして反応もないので、ほぼ自己満足のためにやってるようなもんですな。

養老孟司はなぜ終わったか、

とか書いてみたが、もちろん全然終わっているわけもなく、苗字のとおり長生きしそうで、そういえばご母堂は95歳で亡くなるまで現役の医師であった。もともと長生きの血筋かもしれない。
さて、タイトルはたんに自分の興味がうすれてきたというだけの話です。失礼なこと書いてすみません。

ところで、いつのころからか養老氏の著作に手が伸びなくなってきた。以前は新刊が出れば、一応手にし、雑誌に記事が載れば立ち読みくらいはしていた。
こうなった理由は、自分が変わった(歳をとった)からかもしれず、養老氏のほうが変わったからかもしれず、もちろん万物流転が世の習い、双方変わってしまったから接点がなくなったのかもしれない。

ただ、なんとなくこんな風にも思っている。
養老氏は、もともと非常に優秀な方であろうが、時代や社会環境によって、医学のなかでも非常に地味らしい解剖学の世界に入った。
簡単にいえば、生まれながらの天賦の才のわりには、不遇であったのかもしれない。
しかし、そのような人が毎日骸骨と向き合い、memento mori(死を忘るな)と考えていれば、やはり苦し紛れに何かを考え、表現するだろう。それが当初の著作の素晴らしさにつながったのではないか。遅咲きではあったが、最初からしっかりとした花を咲かせていたと思う。
しかし、大学を離れ、社会時評のような発言が多くなるにつれて、面白さがうすらいできたような気がしている。
大学や解剖学教室、ご遺体の解剖のような現場を離れ、手を動かしながら考えるということが減ってしまったのだろうか。また、死者の位置から、生者の世の中を逆照射して見るような独特の視点が魅力であったのだが。

原発事故に関連していえば、以前こう書いている。
けっきょくなにも言っていない。週刊新潮8月11日号 養老孟司×中川恵一対談
また、こういうことも書いている。
養老孟司という人

まあ、この人に原発事故のことをきくのは筋違いなのだろう。むしろ、もともと好きな虫の世界に没入していたいのかもしれない。
ところで原発事故後に、北大のこのような研究がある。
http://www.hokudai.ac.jp/news/140320_pr_agr.pdf
概要は
・福島県の高線量地域で,虫こぶを作るワタムシ(アブラムシの仲間)の2種に,2012 には高頻度の死亡と形態異常を検出。
・しかし,2013 年には,2種類とも健全な個体の割合が前年より増加し,集団の回復の兆しを把握した。

養老氏はオサムシがお好きだったかと思うので、阿武隈山地の谷ごとのオサムシの変異でも調べてもらったほうが、原発事故の影響をより深く考えてくれるかもしれない。

鷲田清一「パラレルな知性」(2013 晶文社)

鷲田清一はときどき読むが、それほど印象は残らなかった。しかし「パラレルな知性」(2013 晶文社)を読むと、いろいろと考えるところがあったので、抜書きをつくってみた。
以下は、適宜抜き出したもの。

・フクシマの原発事故がわたしたちに迫ったのは、もはや未来は白紙ではないということだ。未来はわたしたちの前に茫洋と広がる不定のものではなく、すでに「汚染されている」。そのことを勘案したうえでこれからの行動を決める、そういう事態にいまわたしたちは置かれている。
「トランスサイエンス時代の科学者の責任」 2011秋

欲望のこうした変容は、村上の描いているように(※小説「ラブ&ポップ」)時間感覚の変容を伴う。時を未来から現在へ流れ来るものとしてではなく、現在から過去へ流れ去るものとして感じるというセンスである。(中略)
「右肩上がり」の時代はそうではない。高度成長期以降、産業はすべて時を先駆しようとするものだった。プロジェクトの立ち上げから、そのためあらかじめなす利益(プロフィット)の見込み(プロスペクト)の計算、事業の計画(プログラム)、生産(プロダクション)工程、販売促進(プロモーション)、そして約束手形(プロミッソリー・ノート)による支払い、事業の進展(プログレス)の確認とその後のスタッフの昇進(プロモーション)というぐあいに、生産から営業まで、プロスペクティブとでもいうべき前傾姿勢で事にあたってきた。「先に」とか「予め」「前もって」を意味する接頭辞「プロ」がついた行動の、見事なまでのオンパレードである。先にトレンドを捉え、先に事業を起こした者の勝ち、というわけだ。
「工学離れの深因」(2011秋)


ドイツに留学中のフランス人の知り合いからも、いくつか興味そそられる話を聞いた。リセの必修科目「哲学の学級」のこと、上級公務員を養成する大学院では卒業要件として「哲学」の論文提出が義務づけられていることなど。公務員試験になぜ「哲学」が?…と訊けば、どうしてそんなことを訊くのかという表情でこんな答えを返してきた。「よい社会、一人でも多くの市民が幸福になるような社会を目指して働く公務員が、『よい社会』とはどのようなものか、『幸福』とは何かについての定見をもたなければ社会はめちゃくちゃになるじゃないか」というのである。
「知のパラレルキャリア」(2011夏)


1「教養」を失った専門家
いまから七〇年ほど前に、スペインの思想家、オルテガ・イ・ガゼットが大きく変貌しつつある西欧社会のありようを「大衆の反逆」と名づけ、専門性の意識というものが深く抱え込む錯誤について、きわめて厳しい批判をおこなった。ここでいう「大衆」とは、いうまでもなく「大衆社会」の「大衆」であるが、注意する必要があるのは、その典型として批判の矛先を向けられているのが、「市民」という大衆ではなく、むしろそれまで(そして当時もおなじく)精神的貴族とみなされていた知的専門職、とりわけ科学者と行政官僚だということである。
 科学者に向けての言葉はとくに辛辣であり、「今日のもっとも『教養』ある人びとが、信じられないほど歴史的無知に陥っている」としたうえで、オルテガはいう。「(一八九〇年代に)歴史上前代未聞の科学者のタイプが現れた。それは、分別ある人間になるために知っておかなければならないすべてのうち、一つの特定科学だけしか知らず、しかもその科学のうちでも、自分が積極的に研究しているごく小さな部分しか知らないという人間である。そして彼は自分が専門に研究している狭い領域に属さないいっさいのことを知らないことを美徳と公言し、総合的知識に対する興味をディレッタンティズム〔物好き、素人芸〕と呼ぶまでになったのである」(『大衆の反逆』、神吉敬三訳)と。
「専門性」という名のもとにサイエンティスト(ビューロクラート)は自己の限られたレパートリーのなかに閉じこもる。他の領域、つまりじぶんが無知である領域にまで発言するのは越権としてみずからに禁じる。裏返していえば、他の領域の専門家をじぶんの専門領域に受け容れようとしない。こうした「自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間」がはびこりつつある。そのような種族の人間は、かつて「選ばれた人間」がおのれに課していた「自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自らすすんでそれに奉仕する」という使命をもはや内に感じることはない。そのような凡俗な人が社会を牽引している。「もはや主役はいない。いるのは合唱隊(コーロ)のみである」。そうオルテガは警告した。
「専門家と市民のカルチャーギャップ」(2006春)


学問がすぐに何の役に立つかは考えなくてもよいと、わたしはおもう。けれども、それがだれの役に立つかはつねに考えておく必要がある。幾分かは恵まれたじぶんの才能を他の人のために使うのは、「名代」という言葉にもあるように、「代わりをやって」と何かを託され、それを引き受けることである。そしてだれかに当てにされているという感覚は、なによりも研究の励みになる。
「だれかの代わりに」(2013冬)

大学の学問は私利のためになされるものではない。(中略)
 学術が市民からの一定の信頼を得、一定の国家予算がそれらに投入されてきたのは、学術が国家ならびに市民にとってある「普遍的」な価値を生みだすものと認められてきたからである。「普遍的」というのは、いかなる政治的立場や利害関係にも与することなく、私的利害を超えて「客観的な真理」を追究しているという共通了解が成り立っているということである。
「<代弁>という仕事」(2011春)


何年か前に、大宅映子さんが、ある私学での講演で、文学部という組織を次のように定義しておられた。「死ぬと分かっていて、なぜ人間は生きていけるのか、 その根源的理由を考えるのが、文学部というところだ」、と。
 人文学というもののすばらしい定義だとおもう。思想も芸術も宗教も、人が「死ぬと分かっていても生きようとする」その理由を探求するところに生まれた。思想や芸術はその理由をさまざまな流儀で表現し、歴史学はそういう(広い意味での)表現の歴史を、政治や経済を含めて考察してきた。
「実業」、つまりは行政や産業活動にかかわる人たちは、それぞれのやり方で、「幸福な社会」をもたらそうと働く。が、そもそも「幸福」とは何かという吟味なしに、慣例や流行に従って活動することほど危険なことはない。舵なしで進むことにほかならないからだ。そういう舵となるフィロソフィーをもたない官僚や企業人が国際社会で信用されなくなっているのも、当然といえば当然のことである。
「実学・実業という虚像」(2007年春)


(前略)わたしがここで考えてみたいのは<技術>としての教養というものである。ただしここでいう「技術」とはテクノロジーのことではない。むしろギリシャの哲学者たちが「テクネー」の名で呼んだ知恵に近いものである。
 古代ギリシャ哲学の碩学、田中美知太郎は『哲学入門』という著作のなかで、哲学は「知の知」である以上に「技術の技術」であるとして、次のように述べている。

〔生活の実際につながりをもつ以前の〕知は、まだ知ではないわけです。医学の知識は、病をいやし、健康をもたらすのであり、建築の知識は、家をつくる。病を治さぬ医学の知識、家をつくることのできぬ建築の知識というようなものは、無意味だということになります。哲学のためには、このようなつながりが必要なわけで、そのためには哲学の求める智も、単に知られるものについてだけ考えられる知ではなくて、知る者を医者にし、建築家にする、ひとつの力としての知でなければならないでしょう。これらは、技術として存在しています。哲学は、それらの技術の技術でなければならないのです。

 この記述に強く含意されているのは、哲学とは知の使用にかかわる技術だということである。それは「見る」こと(理論)と「つくる」こと(製作)の中間にあってそれらを結びつけるもの、つまりは第三の技術としての「使用」にかかわる技術だということである。ここで「使用」の技術とは、「目的と手段をつなぐ技術」のことであり、わたしたちの行いの最終目的は、「そのために他のすべてのことがなされる」こととしての「幸福」なのであるから、そこから、哲学は、「『何のために』、『何を』ということが、いろいろに考えあわされる、大きなつながりのうちで、人を動かし、物を動かすこと」としての《政治》の技術をもふくめて、「最上の道」、最善の工夫を求める技術」であるといえる。田中はプラトンに従ってそう述べる。そして、科学・技術がその本来の目的を逸脱し、それを使いこなすはずのわたしたちを逆に支配し、統制するようなものに反転している現代にこそ、そうした「技術の技術」としての哲学がふたたび呼び戻されなければならないというのである。知の「すべてに気をくばる」ものとして。
(中略)むしろ何が人の生の真の目的かをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げていく技としての「哲学」である。(中略)それをわたしたちはここで、「教養」と名づけたいとおもうのである。
 そうすると、「教養」は高みから時代の社会を眺めるものではなく、時代の社会のなかに深く潜り込もうとするものであると言ってもよい。

 そういう視点から、わたしはいわゆる教養教育は、高年次になるほど不可欠なものになると考えている。

 人が学ぶのは、わからないという事態に耐え抜くことのできるような知性の体力、知性の耐性を身につけるためではないのかと言いたいくらいである。そういう知性の耐性を高めるジムナスティックスこそが、いま「教養教育」には強く求められているようにおもう。
「知性のジムナスティックス―大学における教養教育をめぐって」(2011冬)

 思考というものがわたしたちのうちにまずあって、それからそれが言葉にされるのではない。逆に、たいていの思考というものは、なにかよくわからないままぼそっと口にすることで、あるいは文字に書き起こすなかで、おのずと形をとってくる。言葉には思考をまとめるはたらきがあるのだ。
(略)ガブリエル・マルセルという哲学者は、「もし言葉をもたなかったら、人はじぶんが襲われている感情がどういうものか、わからなかっただろう」と書いている。
「イメージ・リテラシー」(2009年夏)

子育てについても似たことが言えるとおもう。子供に対して大人ができることは「育てる」ことではたぶんない。そこで暮らせば、人として勝手に育ってゆく、そういう場を「地域社会」として子どもたちのためにそっと用意できているかどうかというのが、その地域の成熟を測る尺度となるのではないだろうか。
「Can I help you?」(2012年冬)

(略)この「代わり」の二様、前者を<代替>、後者を<代理>と呼んでみよう。するとこの二つは、ふつう「部分」と訳される「パート」という語の二つの意味に対応することが見えてくる。
 パートという語からは、だから、パーティション(分割)とパーティシペーション(参加)という、対極的な二つの語が派生してくる。
「パートの二つの意味」(2013年春)


(略)自立というのは本当に他の人に頼らずにすむこと、つまり「依存」(ディペンデント)ではなく、「独立」(インディペンデント)であるというこというのだろうか。ちょっと考えればわかることだが、他人にまったく依存しないで生きていけるような人は存在しない。(略)とすれば、「自立」とは、いざとなったらいつでも支えあうことのできる(インターディペンデント)人的ネットワークをきちんともちえていることをいうのではないか。
「私的なもの」をめぐって(2010年冬)

ある日、もっとも年配の参加者が最後にぽつりと口にしたことばが忘れられない。司会をしていた大学院生がまとめに窮しているときに、そのご老人が口をはさんだ。「まとめんでいい。知り合いでもない孫のような歳の子とこんなに長く『家族とは何か』ということをまともに話しあったということだけで満足や」。
カフェという集い(2010年夏)

 ジャーナリズムは、ヨーロッパの近代社会の勃興期に、上流階級、支配階級の社交の場であるサロンに対抗して、中産階級の市民が、職業や階層を離れて「市民」として出会い、語り合う場であるコーヒーハウスでの自由な言論から生まれた。そこからさらに、市民による公論の形成を支えるコミュニケーションの媒体として発展してきた。その歴史を忘れたとき、メディアは耳をつんざく拡声器以上のものではなくなる。
「政治」と「政局」(2008年秋)

 柳田國男がはるか昔に予言したように、近代社会では、貧困という共通の運命に共同であたった「共同防貧」の仕組みが消えて。平均ではより豊かになれども個々の貧しい人は「説くに忍びざる孤立感」のなかでそれにさらされる「孤立貧」の時代がやってくる。
「われわれは公民として病みかつ貧しいのであった」と柳田はその著「明治大正史世相篇」を結んでいるが、彼がそれによって訴えたのは、いかなる困窮にあっても人を孤立させてはならないという一事にあった。
勤労感謝の日に(2008年秋)


新聞には「聞」という字が含まれている。「きく」である。「きく」には、「聞く」「聴く」はもちろん、さらに「訊く」という意味がある。そして「香を聞く」「利き酒」という言葉にも見られるように、嗅いで、味わって調べるという意味もある。
「時代に”添い寝”するのではなく」(2009年夏)


 明治以降、とりわけ戦後は復興から高度成長、高度消費、バブルと急激な右肩上がりが続いてきた。この急カーブの右肩上がりの時代のなかで生まれ育った人びとが、今の六〇代半ばあたりから七〇代、日本のトップを担っている世代だ。わたしは、「ああ、この人たちは未来世代のことを考えない人たち」なのだなとつくづく感じている。なぜなら、右肩上がりの時代には、どんな深刻な問題も技術の進歩によって必ず次の世代が解決してきたらからである。
 しかしながら、定常時代、停滞時代には、ひとたび大災害が起これば食べてゆけなくなるという事態が起きうる、だから昔は、孫の世代、ひ孫の世代が飢えないように蓄えておくことがあたりまえだった。
 ところが、右肩上がりの時代が骨の髄まで滲み込んでいる人びとは、きっと次の世代が何とかするだろうと信じて疑わない。そのぶん、未来の世代のために蓄えたり節制したりということをする必要を感じない。歴史のなかで、今の日本のトップ世代ほど、未来世代のことを考えずに生きてきた世代は珍しいのではないか。
 逆にいえば、このたびの震災によってわたしたちはこうしたことにやっと気づかされた。たとえば、現下の国債の増え方はだれが考えても異常だ。それを放置できてきたのは、いずれだれかが何とかするという発想があったからだ。現在さえフル回転させておけば、いずれどうにかなるだろうという感覚だ。これは個人的なエゴイズムというよりも、社会全体にある”頑張っていたら何とかなる”という空気だろう。七〇〇兆円をはるかに超える国債残高は、それを物語って余りある。
「「右肩下がりの時代」をどう生きるか」(2012年冬)

そのため(多文化共生)に必要なのは、対話である。ただし、それは「ディベート」ではなくて「ダイアローグ」としての対話だ。
 ディベートとダイアローグの違いについて、平田オリザさんが、大要次のようにわかりやすく教えてくださったことがある。
“ディベート(討論)においては、対話の前と後でじぶんの考えが変わったら負けだ。逆にダイアローグでは、対話の前と後でじぶんの考え方。感じ方が少しも変わっていなかったら、対話した意味がない“と。
「聴く力」と「待つ力」(2009年秋)

いとうせいこうの高校時代

先日、人から聞いた話。
高校時代のいとうせいこう、名前はふつうに正幸という名前だった。
真面目で、ずば抜けて成績が良いわけではなかったが、常に一定の成績(100点満点でいえば85点くらい)をキープするようなタイプで、難しいテストでクラスの平均点が下がっても、彼だけは一定の点数をとっているような学生だったという。
しかし、どうしたわけか、高校2年生のときにまったく似つかわしくないと思われる応援団に入ったので驚いた。
おそらく、優等生タイプである自分を変えたかったのではないかと、その時かんじたそうだ。

なんとなく、人柄が知れる話だと思って聞いていた。

いとうせいこうの、その後の活躍はよく知られるところだが、「妄想ラジオ」は読んでおきたいな。
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