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eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2018-12

こういう映画もあるんでしょうな ホドロフスキー賛江-3

早稲田松竹ホドロフスキー祭の最後というわけで、「サンタ・サングレ」と「ホドロフスキーの虹泥棒」の2本立てを見た。
いろいろ見方はあると思うが、「虹泥棒」は、破綻寸前のストーリーを無理やり体裁を整えたかんじで、悪くないが、特別面白いわけでもなかった。
というか、特異な設定なので、いつか面白くなるだろうと思ったらそうなる前に終わったというか。
べつにホドロフスキー風味を期待していたわけではないが、そうでなくても、もうちょっとストーリーを整理したらよかったのではないかと思う。
最後の場面は救いはあるけどね。
見どころとしては、貧民集えるパブのおやじがイアン・デューリーで、これがはまり役だった。もともとパブロックから出てきた人なので、役柄にぴったりだった。
しいていえば、パブのハウスバンドをブロックヘッズにしたら、個人的には傑作になったんだが。

「サンタ・サングレ」は、予想以上によくできた映画。
ストーリーも卓抜で、設定もホドロフスキーらしさがあふれているわりに、破綻なく(というか普通の映画よりは設定自体相当破綻しているが)、結末にむけてお話が進んでいく。
起承転結がはっきりしています。
とはいえ、最後の場面、普通に逮捕される=現実(世俗)世界に引き戻されるように思えるが、もうちょっと飛躍があってもよかったような。

というわけで、6本見たが、今のところ「エンドレス・ポエトリー」がいちばん好みだった。勢いあまって、ホドロフスキーのタロットの本を借りてきたが、考えてみると、タロットカードも持っていないので、これは図書館にすぐに返そうと思う。
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詩の話 ホドロフスキー賛江-2

引き続き、ホドロフスキー映画の話を。
今回初めてみた「エンドレス・ポエトリー」はかなり気に入った。併映は「リアリティのダンス」で、これも良かったが、前者のほうが好きである(というか、結局エンドレス・ポエトリーは2回見た)。
ちょっと驚いたが、主人公をはじめ、いろいろな役柄でホドロフスキーの息子(複数)が出演していて、家内制手工業のような映画作りだと思った。

それは良いとしてどうもホドロフスキー自身は、一義的には自分は詩人だと思っているようだ。
では詩および詩人とは何だろうか。日本ではそれほどではないが、たいていの国では文芸の最高峰が詩であり、詩人の社会的存在は意味が大きい。
日本の場合は、定型詩(俳句、短歌)は案外にしぶとくて、人気も実作者も少なからずある/いる。ただし、社会的影響力は必ずしも大きくないような印象がある(とはいえ、人の心に入り込んで、思わぬ時に影響する)。
現代詩(定型的リズムがないものと言えばよいか)はどうだろうか。
人気のある詩人もいて、ときどき話題になるが、文芸の最高峰という位置づけではなかろう。
しかし世界レベルでは、(俗っぽい例ではあるが)ノーベル文学賞はけっこう詩人に授与されている。

まあ、そのへんは別にいいのであるが、なぜ詩が重視されるのだろうか。
ホドロフスキーを例に考えると、詩として口から出た、日常の言葉とは違う、一連の言葉は、単なる言葉の意味の連なりと音の響きの連続ではなく、かなり実体感のあるもののようだった。
詩を黙読するのは、ナンセンな話で、そもそも音の響きが現実世界に放たれ、それが相手に届いて特別な意味を生ずる。
映画を見ていると、詩は詩人の口から語られ、聞き手に届き、確実に相手(という現実)を変えるもののようであった。さらに言えば、そのまま現実世界に働きかける=世界を変える力があるという確信があるようであった。
むしろ、そのような確信を持つ者だけが、詩人となる資格を持つのだろうか。
ホドロフスキーの場合、まず詩の世界があり、それを現実化すると、ある場合には映画になったというように見た。
つまり、詩という特別な言葉による一種の世界創造である。こうなると、旧約聖書の創世記を思い出す。
神が「光あれ」と言えば、光があるようになった。そのあとも、「神は言われた」という言葉とともに、空ができたり、植物ができたり、月ができたり、動物ができたりする。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html
詩人の言葉=詩は、それを再現とまではいかなくても、それをなぞる力、もしくは再度世界を生まれ変わらせる力を持つ、という含意が共有されているのではなかろうか。

ちなみに、歌、音楽、踊りのシーンもふんだんにあり、ホドロフスキーはかなり関心があるのだろう。
これは当然のことで、詩があれば自然と歌が生まれ、歌があれば音楽とダンスがはじまり、それだけでも日常とは別の世界がその場で生まれる。
そういえば、若きホドロフスキーが友人たちと別れてパリに旅立つときに歌う歌(僕は船で旅立つ、云々)は、チリあたりでは有名な曲のようで、別の映画(「サンタ・サングレ」だったかな)でも、歌われていた。
いろいろ書いたが、「エンドレス・ポエトリー」は何度でも見たい。
こんなことを思いついたのは、やはり早稲田松竹で先日見た、ジャームッシュの「パターソン」がやはり詩と詩人についての映画だったので、いろいろ考えてしまった。しみじみとした、いい映画でした。
http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/2018/jarmusch2018.html
ちなみに、このときの併映は、Iggy Popの「Gimme Danger」で、彼の詩がシンプルなのは、子供時代に見ていたテレビの司会者が「ファンレターは20語以内にしようね」というのを今でも守っているからとか言ってたな。

で、「リアリティのダンス」は、ユダヤ移民のお父さんは苦労しすぎて性格が歪んだが、幼少期のホドロフスキーもとばっちりで苦しんだ(でも、それによって現在のようになった)という話でした。
早稲田松竹で見たときは、たまたま「エンドレス・ポエトリー」、「リアリティのダンス」の順番で見たが、密接につながっている映画なので、先行作である「リアリティのダンス」から見たほうが、より楽しめると思います。

カルト映画は時代を乗り越えるか(ちょっと無理っぽかった) ホドロフスキー賛江-1 

早稲田松竹でアレハンドロ・ホドロフスキー特集をしていて、30年ぶりくらいで「エル・トポ」と「ホーリー・マウンテン」を見た。
この2本は、映画版諸星大二郎などと呼ばれることもあり、いわゆるカルト映画といわれているようだ。
当時はそれなりにショッキングだったり、意図が分からないなりに意味ありげだったりしたシーンが、いま見てみると「あるよね、これ」という印象となってしまっていた。
もちろん、当時は十分に常軌を逸した、これまで見たこともないような映画だったのだろうが、先達者の悲しさか、自らが切り開いた世界に他の映画が追い付いてしまって、もともとのものがかえって陳腐化してしまうという悲劇?に陥っているように見えてしまった。
「エル・トポ」を俺のようなおじさんが見ると、最初は子連れ狼、途中はブルース・リーが謎のアジトで順番に敵を倒す映画(ドラゴン危機一髪?)のようで、でもここでライバルを倒す手口が卑怯なのが面白い。その後、地下の洞窟に暮らす人々との出会いは、手塚治虫「火の鳥」黎明編のようである。で、洞窟と地上の町をつなぐトンネルを作るところは「恩讐のかなたに」のようである。最後に自ら身を焼くところは、ベトナム戦争に反対した僧侶を思い出す。
このように、他の作品等を連想しながら見てしまう自分が悲しいのであった。

「ホーリー・マウンテン」は、キリストになり損ねた青年(マグダラのマリア風の女性もいる)が狂言回し的な役回りで登場するが、彼は途中で離脱する。他の登場人物は、どうもホドロフスキーの故国チリのピノチェト政権下の成功者たちを思わせ、それはいまだに他の国にも続いている通俗的にして普遍的な腐敗した人間像として描かれている。
とはいえ、青年が導師に出会って、自分の大便を錬金術風に金にかえるなど、「あるよね、こういうの」という感は否めない。

ということで、いまでも面白いとはいえ、さすがに時代を乗り越えられない部分も多々感じられたのだった。

タルコフスキー「サクリファイス」を見たら、「アンドレイ・ルブリョフ」が見たくなった。

2011年の震災後、はじめて「サクリファイス」を見てみた。
この映画は世界の終末の話で、ミサイルが飛び交う描写があり、核戦争が起こったらしいことが分かる。
主人公は、世界の破滅を避けるべく何とか奇跡を起こそうとし、「魔女」とうわさされる女により、時間を巻き戻そうとする。どうやらそれは成功したらしく、しかしその代りに主人公は捧げものをしなければならない。
そういえば、主人公はアンゲロプロスの映画にも出てたな。

2011年の震災は、核戦争ではなかったが原発事故が起こり、俺にとってはサクリファイスの内容と非常に重なる部分がある。
それもあって、今回のタルコフスキー特集では、この映画を見るのがためらわれた。
しかし、上映時間に合わせたようにたまたま時間が空き、それにもなにか意味があるのではないかとも思え、見ることにした。

見た感想であるが、映画自体にケチをつけるつもりはない。しかし、この主人公には魔女/マリア(聖母でもあるか?)がいたので、世界は救われた。では魔女がいない俺(もしくは我々)はどうすればいいのだろうか。
魔女を探すべきであろうか(というか宗教的救済のことを言っているわけだが)。
それとも奇跡は起きないと思い定めるべきか。
しかし先日の福島原発二号炉の探索ロボットのニュースを見ても、およそ奇跡でもなければ廃炉は難しいだろう。
人間はそもそも活動できない放射線量であるが、ロボットさえ満足に使えないのであれば、何をもって廃炉を進めるのか。

そんなことを考えていたら、先日見た「アンドレイ・ルブリョフ」を思い出した。
あの映画の最後で、鐘作り職人の息子が巨大な鐘を鋳造するのだが、じつは父親から鐘作りの秘訣は教わっていなかった。
しかし見事にやり遂げて、泥の中に倒れ伏し「親父は肝心なことは何も教えてくれなった」と泣くその息子に、アンドレイは「お前は見事にやり遂げたのだ。お前は鐘を作れ、俺は絵筆をとる」と語りかける。
この鐘作りのことが、どうも頭から離れない。
今回の原発事故の収束と廃炉は、誰もやり方を知らない。チェルノブイリに比すべき事故であるが、あそこはとりあえず巨大なカバーを掛けた状態になっているだけである


実際のところ、誰も何も分からないのであるが、それでも廃炉を成功させなければ未来はないだろう。
そこで、ほぼ徒手空拳で鐘を作った息子の姿(とそれを助ける民衆)が、これからの廃炉作業にダブってくる。
もうタルコフスキー映画特集は終わってしまうので、「アンドレイ・ルブリョフ」を今回再度見るのは難しいのだが、なんとか近いうちにまた見たいものだ。

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一度じゃ分からん、タルコフスキー(一度でたくさん、タルコフスキー)

新宿で二度目の「アンドレイ・ルブリョフ」を見た。
とにかく強烈な印象の映画で、とくに教会の巨大な鐘を作るシーンが記憶に残っていたが、二度目に見ると、なかなかそのシーンが出てこない。
というか自分がストーリーの混同をしているのかと思って見ていたが、最後にやっぱり鐘を鋳造する場面が出てきて、記憶が誤っていなかったことが分かった。
そんなことはどうでもいいのだが、この映画では、泥にまみれた農奴の生活や、タタール人がロシア人と組んで村を襲うシーン、また教会がタタール人に打ち壊され、殺戮が繰り広げられる場面など、白黒の画面があたかもドキュメンタリー映画のような迫真性をもって迫ってくる。
最初に見たときは、その迫力にのまれて圧倒されるだけだったが、二度目になると圧倒されながらも、ある程度落ち着いて見ることができた。
構成としては、年代ごとの出来事を並べていくために断片的なエピソードが羅列されているかんじで、最後までなかなか全体像が見えてこないところがあるのだが、今回はアンドレイ・ルビュリョフが沈黙の行をとき、再び絵筆をとるのがよく納得できた。
ところが、Wikipediaでこの映画について読んでみたら、さらに驚くべきことがあった。

映画中に狂女が出てきて、主人公の人生にかかわってくるのだが、最初はまったくの精神薄弱的人格であるのが、途中でタタール人の妻になり、最後の場面では貴婦人のなりで騎乗している。
このへんのいきさつがよく分からなかったが、wikiで「佯狂の女」と記されている。詳細は以下の通り。
そもそも、本作の脚本では、女をюро́дивая(ユロージヴァヤ)と表現していた。この語について、落合東朗は次のように解説した。「東方キリスト教では、修行のために完全に孤独な生活を実現することをひとつの理想とした。そのために狂人をよそおって孤独を得るものがあらわれた。それを男性名詞ではユロージヴィ、女性名詞ではユロージヴァヤといい、佯狂とか聖愚者と訳されている。」
つまり、女は宗教的発心により狂者のふりをしていたのであって、まともであった。だからこそ最後の場面では貴婦人になってもおかしくはなかったわけである。
しかし、そういった文化的背景が分からないと、なんだかよく分からない女としか見えなかった。
どうも二度見たくらいでは分からないようだ。

ところで、佯狂といえば論語の狂接輿を思い出すので、引用だけしておく。
論語 微子第十八 5
楚狂接輿。歌而過孔子曰。鳳兮鳳兮。何徳之衰。往者不可諫。來者猶可追。已而已而。今之從政者殆而。孔子下欲與之言。趨而辟之。不得與之言。
楚の狂接輿、歌いて孔子を過ぐ、曰わく、鳳よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし。已みなん已みなん。今の政に従う者は殆うし。孔子下りてこれと言わんと欲す。趨りてこれを辟く。これを言うことを得ず。
https://kanbun.info/keibu/rongo1805.html
http://blog.mage8.com/rongo-18-05

そのあとで、「鏡」も見た。
これはタルコフスキーの自伝的映画といわれていて、たしかに子供時代のことなどが映像化されていたが、これはさらに断片的で、映像詩とはいえるが、一度見ればもう充分という印象を持った。
しかし、タルコフスキーに関心のない人にとって、タルコフスキーのほとんどの映画が、「断片的」で「やたらと水のシーンがある」「訳が分からない」映画で、一度見ればもうたくさんというように受けとめられているのではなかろうか。

子供にゃわからんタルコフスキー、もしくは人生はメロドラマ

新宿でタルコフスキー特集を上映している。
http://www.ks-cinema.com/movie/tarkovsky/

さっそく土曜日に行って、「ノスタルジア」と「惑星ソラリス」を見てきた。
「ノスタルジア」は何度目だろうか。
今回気付いたのは、天井の落ちた廃墟の教会をよく見ていると、非常にシンプルな装飾(というよりは装飾性を排除している)ところが、六田知弘さんの写真にあった、シトー会の教会(ル・トロネ修道院等)に似ているように見えた。
http://muda-photo.com/gallery/citeaux/

調べてみると、イタリア中部のシエナのそばにある「サン・ガルガーノ修道院」というそうで、やはり清貧を旨とし、虚飾を排すシトー会の建物であった。
http://www.tabitoscana.com/s.galgano.html

それは良いとして、「ソラリス」は数十年前に見たっきりで、なんとなくモノクロっぽいような、首都高速の映像が目に残るような映画だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%82%BD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9
しかし大人になってから見てみると、SFの枠組みを使いながら中身はまったくのメロドラマで、そこが格別に良かった。
ソラリスという不思議な惑星の作用で、亡くなった妻(らしきもの)がよみがえり、主人公は激しく感情移入してしまう。宇宙飛行士であり科学者である主人公は、それが妻であるわけはないことは理解しているのだが、感情は抑えられない。
そのあたりが、失われたものへの悔恨とか執着とか愛惜とかが入り乱れて、やっぱり子供のころはそのへんが分からなかったなー、とつくづく思った。
それと記憶ではかなりモノクロ映像が多かったように覚えていたが、改めて見ると、タルコフスキー得意の水の映像や、鮮やかな緑に目をとられた。
また、未来都市のイメージとして使われた東京の首都高速の映像であるが、いま見ると昔の町の様子が見られて、なんだか懐かしいばかりだった。
ちなみに、ノスタルジアの場合は、回想シーン等現実ではない場面はモノクロになるようであるが、ソラリスの場合は、回想と現実と幻覚が入り乱れるような趣であるが、モノクロになる場面は、回想ではなくて夜または暗くなったという意味のようである。
ちなみに疑似夜景の技法については、「アメリカの夜」というトリフォーの映画の開設に詳しい。
※タイトルの『アメリカの夜』(フランス語の原題「La Nuit américaine」の和訳)とは、カメラのレンズに暖色系の光を遮断するフィルターをかけて、夜のシーンを昼間に撮る「擬似夜景」のこと。モノクロ時代に開発されハリウッドから広まった撮影スタイルであるため、こう呼ばれた。英語では "day for night" と呼び、この映画の英語タイトルも「Day for Night」となっている。映画のカラー化により使えるシーンが減少し、機材やフィルムの感度が上がって夜間撮影が難しいものではなくなった現在では、この撮影方法はほとんど使われないことになっているが、丁寧に見ていればときどき見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%A4%9C#.E6.A6.82.E8.AA.AC

そういえば、アンゲロプロスも壮大ではあるが、けっきょくはメロドラマだった。だからこそ良かったのではないかと思う。

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THE SALT OF THE EARTH

早稲田松竹でヴェンダース監督の2本立て「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」と「セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター」を見てきた。
ブエナ・ビスタは封切のときに見ているから17年ぶりか。お目当てはサルガドの映画だった。
邦題は「地球へのラブレター」という意味不明なタイトルであったが、原題は「THE SALT OF THE EARTH」、つまり「地の塩」である。
「地の塩」という言葉はさすがに聞いたことがあったが、よく考えてみるとはっきりした意味は知らない。
さっそく調べてみたが、もともとはキリストの「山上の垂訓」にある言葉で「地の塩、世の光」と続くらしい。
英英辞典では、以下のようにあった。
1.(idiomatic) A most worthy person.
2.(idiomatic) A decent, dependable, unpretentious person.
さらに見ていくと、塩には腐敗防止・清めの作用がある。また塩というのは生存に必要なものであり、調味に欠かせないものであることから英英辞典の意味につながることが理解できた。
このへん、字幕でもさらっと触れてくれたらありがたかったのだが。

映画の内容は、サルガドが写真家として、またエコロジー的活動家としてまさにA most worthy personであることを示していた。
ブエナ・ビスタと違って何度でも見たい映画ではないが、良い映画です。

早稲田松竹、タルコフスキー「僕の村は戦場だった」「アンドレイ・ルブリョフ」は5日まで。

名作の誉れも高きタルコフスキーの「僕の村は戦場だった」と「アンドレイ・ルブリョフ」をやっと見ることが出来た。
やはりどちらも傑作。
「僕の村は」の主人公の少年は、「アンドレイ」の鐘造りの若き親方の役をやっていた。
ところで、「アンドレイ」はモノクロ映画なのだが、最後の部分はカラーになって、アンドレイ・ルブリョフが描いたイコンをなめるように写している。しかし、フィルムの劣化によって、赤かぶりの画面になっているのが残念だ。

どちらの映画にも、白樺の森が写されているが、美しさに驚いた。
モノクロの良さにあらためて気付いて、カメラにモノクロフィルムをつめた。

「エレニの帰郷」(新宿バルト9)、見てよかった。

今日は雪なのであるが、急に思い立って「エレニの帰郷」を見に出かけた。
アンゲロプロス監督の映画を封切で見ることはこれまでもなかったし、これで最後だろうから、やはり行かねばと思ったのだった。
映画館に着いたときには予告編が始まっていてかなり焦った。切符売りのお姉さんからひったくるようにお釣とチケットを持ってきたが、席を決めるときに的確にアドバイスしてくれたおかげで、よい席で見られました。ありがとう、そしてごめんなさい。

映画の内容は、現在上映中なので詳しく書かないが、やはり見てよかった。前作である「エレニの旅」は、かなりメロドラマになっていて、今作もおそらくそうなので、それでためらうところもあったのだが、それはそれでよい。
アンゲロプロスの特徴である時間の移動(遡ったり、現代にもどったり)も整理されていて戸惑うところはなかった。
終わり方も、なにか救いがあるようであれでよかったと思う。
アンゲロプロスはこの次の作品を制作中に交通事故死したのであるが、この作品も最終作にふさわしいと思う。
そのうち「エレニの旅」と「エレニの帰郷」を二本立てで見たいが、また熱を出すかもしれぬ。

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アンゲロプロスで知恵熱発症、映画週間は不発。もしくはなぜアンゲロプロスを見るのか。

「エレニの帰郷」にあわせて、アンゲロプロス監督の旧作が一挙上映されることになり、個人的にひじょうに意気込んでいたのだが、結局見たい映画はあまり見られなかった。
まず、予定通りに「旅芸人の記録」を見て、翌日は「アレクサンダー大王」。
この二本の大作を目いっぱい見た
疲れからだろうか、その後からなんとなく寒気がしてきて、週末から発熱。
以前から楽しみだった、というか未見でじれったい思いをしていた「狩人」と、ジョセフ・クーデルカ展回顧展を正月に見た以上、どうしても外せない「ユリシーズの瞳」をあきらめたのだった。
もちろん、早稲田松竹でやっていた「ブリキの太鼓 ディレクターズカット版」もあきらめた。

ここでも書いたが、やはりあれだけのボリュームの映画を二日続けて見るのは、俺には少々体力的に無理だったのか。
一本だけでもずっしり重いうえに、どうしてもいろいろなことを考えずにはおれなくなるので、頭がついていかず、熱が出てしまったのだろう。まあ、PCが熱暴走して壊れたというかんじ。
脆弱な脳みそを持つと、悲しいものです。

とはいいながら、床に臥せりながら、なぜこんなにアンゲロプロスを見たいと思うのか、我ながら不思議であったのだが、このことについていろいろと考えてみた。
とくに、2012年は、ずいぶん見たものだと思う。
この年4月、アンゲロプロスが事故で急逝して、早稲田松竹で「旅芸人」が追悼上映された。最終日の前日に映画館に行ったら立ち見が出るような込み具合だった。
このときはストーリーを追うこともままならず、とはいいながら映像と音楽に圧倒されて、もっとよく理解したいと思ったのがきっかけだった。
その後、上映館を求めて北千住に行ったり、大森に行ったりしながら、とくに「旅芸人」を何度も繰り返し見てきた。関連書籍もずいぶん読んだな。

なんで、あんなに見たのかと考えると、やはり震災のことが関係しているだろう。
アンゲロプロスは、どうしようもない状態の祖国ギリシャを何とかしようという問題意識から映画を撮っていたという話があるが、けっきょくギリシャは政治的にも経済的にもますます混乱するばかりでどうにもならなかった。それでもアンゲロプロスは、どうしてこうなってしまったのかと考え続け、時代をさかのぼり、また下り、周辺国を移動し、さまざまな立場の人々の視線から映画を作り続けた(中期からはA≒アンゲロプロスという映画監督が狂言回し的に出演している)。
アンゲロプロスは、祖国の惨状から決して目を離すことなく、映画をつくり続けた。晩年はメロドラマ的でもあったが、ギリシャのとくに現代史からは決して離れなかった。そこが強く惹かれるところではないかと思っている。

2011の大震災と原発事故。
どちらも個人が考えるには大きすぎる。
大震災は自然現象だからとあきらめるという態度もありうるが、現実に知人が犠牲になっていることを考えると、そうはなれない。仕方がなかったとあきらめるほうが楽になれるだろうが、そうすることもできない。
原発事故については、世界史的事件であり、個人が考え続けるには大きすぎる対象ではある。だからもう思考停止してしまって、現政府・官僚や御用学者がいうことを信じて、東京にいる限りは心配せずに、原発近くでも政府が大丈夫な場所だというかぎり、そのとおりに暮らしたほうがたぶん悩まなくて楽になれそうである。
でもそうするなと誰かがいう。しかし、ほとんど心が折れそうになる。そういうときにアンゲロプロスが安易なほうに流れるな、現実から目を背けるなと映画を通じてメッセージを発しているから見続けずにはいられないのではないかと思い当たった。

だから、やっぱりこれからも何度も気が済むまで見るんだろうと思う。
ちなみに今は新宿バルト9で「エレニの帰郷」を上映中。今度鎌倉で「旅芸人」をやる(けど、これは1月に見たばかりだから行かないだろう)。
とりあえず、「エレニ」を見にいくだろう。
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