eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-09

荒木経惟「センチメンタルな旅」

荒木経惟の「センチメンタルな旅」が完全復刻された。
予約制だということだが、たまたま書店にあったので買ってみた。
原版になったのはアラーキーの手元にあった1冊だということで、表紙の縦位置の写真には、インクのかすれか汚れのようなものがついていた(印刷として表現されていた)。年月を経るうちに、いつの間にかついてしまった汚れなんだろう。

これまでは「センチメンタルな旅・冬の旅」で部分的にしか見られなかったので分からなかったのだが、思ったよりも町や水路の風景写真が多かった。
陽子夫人と新婚旅行に柳川に行ったはずであるが、途中で京都に一泊しているようだ。川沿いの中華料理屋のビル(東華菜館)が写っている。
旅程をたんたんを撮っているだけのような写真集だが、毎晩寝る前に、最初から最後までページを繰って見ている。

ところで、表紙を開いた最初の見開きに、アラーキーの写真家宣言が書かれている。内容は有名なので割愛するが、左手で書いたものだそうだが、それでも俺が右手で書いた字よりも読みやすかったので、へんなところだがちょっとショックを受けた。
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六田知弘「水ノ貌」3

若い友人H君と加島画廊へ。最終日間近、これで3回目。
H君と前日に、特定の宗教をさすのではないが、しかし現実を超越したなにものかがあって、特定の宗教・宗派ではない「それ」をどう名付けるべきか、という話をしていた。
ところで、現実を超越してしまうと、現実世界からは把握できなくなるのであるが、美というものは現実を超越しつつありながら、現実にとどまっていて認識可能なものである。
今回の六田さんの写真には、それに通ずるものが現れているのではないかという話をしたら、見に行きたいということになり、一緒に出かけた。

加島画廊にいったところ六田さんがおられて、若い友人と3人で話したのだが、以下記憶に残るところを。例によってまとまりはないが。
私見では今回の写真では、現実に具体的に存在するものをストレートに撮影しただけなのに、その背後というか、対象以外のものの気配まで写り込んでしまっている気がするという話をしたら、六田さんが、今回写真を見に来た人のなかに「拝み屋さん」がいて、写真を見ながら「ここにも、あそこにもカミサマが写っている」と言っていたそうだ。とはいえ六田さん自身は別にオカルト的なものを狙って撮影したわけではない。
でも、画廊の入り口には盛り塩がしてある、といっていた。帰るときに見たらたしかに盛り塩があった。

では、カミサマ的なもの、異界に属するものについてはどうか。
六田さんの最初の写真集「ひかりの素足」はネパールで撮影で撮影したものだが、そこでの生活では、日常生活と異界が継ぎ目なくつながったような生活であった。そのなかに入りこんだ生活をおくるうちに、異界が近しいような感覚になったそうだ。そのなかでハシシをつかったときに見た夢の話が出てきた。

※以前、このblogに書いたような気がしたが、確認するとまだだったので、概要を書いておく。
六田さんがネパールのとある村に入って生活しながら写真を撮影しているとき、ハシシを進められたことがあった。ハシシの服用にはタバコにして吸うやり方と少量を食べるやり方があるそうだが、そのときは食べる方法で服用したらある夢を見た。
その夢では、地平線のかなたまで白い紙が広がっていて、自分は一本の鉛筆もしくはパステル様のものになっている。
そのなかで六田さんは、なんらかの真理を悟っていて、それを白い紙の上に自らの体=鉛筆を使って描いている。しかし描いているうちに自分の体は磨り減ってしまうことは分かっているが、描き続けることをやめることが出来ない、という夢だったそうだ。ちなみに、そのとき書いていた字は思い出せない、ひょっとして梵字のようなものだったかもしれない、というはなしであった。

そういえば、加島美術の入り口のウインドウには、梵字の写真があったが、それに通ずるものだろうか。

六田さんはロマネスク教会の写真を撮っているが、西欧中世のものを撮影する際はゴシックよりロマネスクを好むという。ゴシックの時代になると、すべてが秩序付けられており、怪物など異界に属するもその整然とした秩序になかに位置づけられ、組み込まれてしまう。
ロマネスクの写真では素朴な彫刻(怪物もふくむ)が面白いという声があるが、素朴な造形のおもしろさだけを狙っているのではない。フランスの田舎に行くと、キリスト教国のはずではあるが、いまだにあの手の怪物の類するものが家の中にあったり、生活のなかで仄見えたりする。ロマネスクの教会を見ると、怪物と人間が地続きで存在していることがわかる。混沌としているようであるが、そこが魅力である。
フランスの田舎では、じつはその混沌とした渾然としたところの生活が残っている。つまり生活のなかに、怪物に通じるような、理性主義や近代主義的ではない、それらに切り落とされてきたものごとがまだ生きている。
それが一種の豊かさにつながっているのではないか。事実、フランスでは田舎に若い人が多い。例えばパリなど都市部ですごしてた人たちが、やはり田舎のほうが豊かである、魅力的であるということで帰ってくるということがある。
都市は、基本的にはいわば理性主義がかたちになったものであろうが、そうではない原理が田舎には残っているということであろうか。

その後、六田さんから、杉本博のプラチナプリントの写真展をやっているので、見てきたらいいといわれて、銀座のギャラリー小柳に行った。
しかし、写っている対象からすると、あまりプラチナプリントである必要はないと思われた。
とはいえ、水平線のシリーズが3枚あり、じっと見ていると、海のかなたの異界にひきこされそうな印象を持った。

その後、加島画廊に戻ってきて、六田さんと少し話をして帰った。
本当は、そのとき小さな写真を買いたかったのだが、やはり貧乏なのでお金を動かす決心が出来なかった。その写真は、蜘蛛の巣を撮影したもので、8万前後だったか。
写真は引き伸ばす際に、どのような大きさにも出来るのであるが、やはり内容に応じて適切なサイズがあると思う。
この蜘蛛の巣の写真は、サイズは小さかったが、このサイズに見合う内容で、しかもある種の小宇宙のような印象もあり、家に帰った後も頭から離れなかったのだ。

けっきょく同行したH君の思った感想はよく聞けなかったので、分からなかった。

六田知弘「水ノ貌」2

前回は興奮して見ていたから、ちゃんと見ていなかったのだろう。今回は2回目なので落ちついてみることが出来た。その分、ひどく疲れた。
一方、2階の展示会場の片隅にある田んぼの写真と浜辺の写真を見るととても落ち着く。何故だろうか。
おそらく人為のあるものを撮影しているから、人間味が感じられるからか。
ひるがえって考えると、それ以外の写真は自然がむき出しになっていて、だから直面すると疲れるのだろうか。
またも六田さんと話す機会があって、作家本人も1階にいると疲れるから2階で話をしようということになった。以下、まとめ切れないので、断片的に書き綴ってみる。

・六田さんによると、今回は写真が売れてないそうだ。たしかに、個人の家には置きにくいと思う。とくに狭い日本家屋では難しいのではないだろうか。金満家のアメリカ人富豪の家ならば、ちょうど良さそうではある(なんとなく、若冲で有名なプライス氏の家の様子を思い浮かべたりしている)。
購入するとしたら、美術館等のコレクションとしてではなかろうか。そういえば六田さんは、国立西洋美術館で初めて写真展をやった人ではある。
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/past/2007_207.html


・さて、今回の写真はよくみると怖い、だから田んぼの写真等を見ると落ち着くという話をした。
1階の写真はもちろんそうだが、2階の写真も一見美しく、きれいなものが写っているようだが、どうもそれだけではない。
それはなにか。
実は2階の美しい写真も、やっぱり剥き出しの自然である。だからよく見ると怖くなってくる。日本人の思う自然は、たいてい里山的自然であって、それは自然と人間の合作のようなものである。そうでない自然にはなじみがないのではないか。

また、こういう風にも考えられる。たいていの写真は、ある種の意図のもとに撮影する。見る側はその意図を読み取って鑑賞する。
今回は、その意図が分からない。読み取れない。だから居心地が悪い。不気味で怖い。見ていて対応に困る。
やっぱりあまり売れなさそうである。


・抽象性と具象性について。
前回見てから家に帰って反芻していたら、なぜかマーク・ロスコを思い浮かべた。川村美術館で見たロスコは抽象画といわれているが、実際には非常に具体的で生々しい。じっと見ていると画面がうごめいてくるので驚いた。
今回の写真展はちょうどその逆のようでもある。具体的なものが写っているはずだが、生々しさの反面、現世のものとはちょっと違う次元にいってしまったような印象を受けた。

・六田さんの話では、写真家以外に日本画家、抽象画家が見に来たそうだ。
ある人いわく、写真でここまで出来るのかと漏らしたそうである。またある人いわく、今回の作品は、世間よりちょっと前に行ってしまっている。だから今のところ、ついてこられる人がいない。しかし、大きく前に進みすぎているわけでもないので、いずれ追いついてくるだろう。

・カメラ=機械の目という特性について。
六田さんが撮影しているときは、冷静さとトランス状態が両立している。トランス状態だけでは写真は撮れない。
そして意図を持たずに撮影しているという。例えば美しい風景を撮ろうとか、荘厳な瀧を撮ろうとかは考えない。意図があると、それに写真が制約される。むしろそれを逃れて撮りたい。
そうすると、ジャンル分けできないような、見た人が意図をつかめないような、撮影者の思惑を超えたような(もともと意図を排除しようというわけであるが)、機械の目が写しとった、対象がむき出しになった写真が出来上がる。
撮影のときは、ただ対象に向き合うだけ、それ機械の目で写しとるだけである。以前は、無心になろうとして、かえって考え込んだりしていた。今はひらきなおって、そのまま撮影している。それが今回の写真につながっている。


・石の写真を撮影するときは、清めの塩を持っていく。やはりなにかがあるらしい。霊的なものか?

・宗教性。具体的な宗教や宗派ではないが、ある種の宗教性がかんじられる。

・雪の写真を見ると、撮影していたときの音を思い出すという話であった。他の写真でも撮影したときの音を思い出す。それはなぜか。
俺の考えでは、たぶん「切り取った」写真ではないからではないか。たいていの写真(とくに風景)は、美しい部分を切り取って、意味付けして提示する。
しかしそれをやらない。対象に向き合ったとき、いちばんそれがそれらしくあるところで撮影する。切り取ろうという意識ではないから全体性(の余韻)が残っている。
だから撮影者は映像から音を聞き、見る人は、全体として写っているので、写っている個別のものを取り出して、名付けられない。

・意図と制約。
人はたいてい見たいものだけを見ている。機械の目は、それとは別にただ前にあるものを写しとるだけ。それをそのまま提示すると見る側は困惑する。
だから、ふつう撮影するときはある種の意図をもったうえで撮影する。その意図を見る側は読み取って、その写真を了解する。
しかしそうではない場合どうなるか。
それが今回の写真。
撮影者の意図自体が写真を制約する。撮影者個人の制約、日本文化の制約、そういった二重三重の制約が、撮影者にも見る側にもある。
六田さんは、それとは無関係に、機械の目の特性に素直に従って撮影したい。以前はいろいろ考えすぎてなかなか難しかったが、今は出来ている。

・機材と写真の関係
今回の写真はデジタルだから撮れた部分がある。
フィルムだとやはり制作費(フィルム代、現像代等)を考える。そうなると、1枚1枚を無駄にしないため、画面の隅々まで完璧にコントロールする。
しかしデジタルカメラはフィルム代がかからないので、完璧にコントロールしようという意識が薄くなる。
つまり、フィルムであれば意図したものを完璧に撮ろうとするが、デジタルでは、そうではなく、何も考えず(フィルム代も考えず)、どんどん撮っていくことができる(思う存分、気が済むまで撮影するのでしょうな)。その結果、意図を超えた写真が生まれてくる
とはいうものの、数打てば当たる式でやっているわけではない。
20年間、時事画報社(私もそこにいたことがある)でカチッとした写真を撮る訓練をして鍛えられたからこそ、無作為、意図なしであっても、作品として成立するものが撮れるそうだ。
(そう思うと、俺自身は、緊張感を保つためにフィルムで撮ったほうがよさそうである。デジカメだと、手軽さが先にたってなんとなく弛緩した写真になってしまっているような気がする。)

たぶん、もう1回くらい行くだろう。何回も行くのはちょっと恥ずかしい気もするが。

耳は節穴、目はガラス玉

というのが世間ではあるが、六田知弘「水ノ貌」展についての論評があまりにすくないようなので、驚いた。
http://www.kashima-arts.co.jp/events/mizu_no_bo/index.html

おれは、変なところで勘が働くところがあって、昔ジャズトリオのフェダイン(のちに発展的に解消して、渋さ知らズになったりしている)を見ているときに、これはメールスのフリージャズフェス(山下トリオも出ていた)に行くべきだと思うといったが、本人たちは笑っていた。しかしその1年後くらいに出演して大喝采を浴び、ライブレコーディングも残した。
また、昔四谷にmoleという写真ギャラリーがあったが、再評価される前の牛腸茂雄のネガを、「日々」の関口正夫がプリントしたものを数万円で売っていたが、なんだかほしくてしょうがなかった(金がなくて買えなかったが)。

なんだかしらないが、自分の手が届かなくなりそうになってくると、妙な勘が働いてくるのかもしれない。

今回の写真展は、ひょっとすると写真史に残るかもしれないが、まだ語るべき言葉を見つけられなくて、誰も語っていないような気がする。
それならば、写真が好きで、写真について真剣に考える人であれば、自分の目で確かめるべきであると思う。
会期が迫っているので書いてみました。
東京駅前すぐ、京橋・加島美術、9月30日まで。

おれはすでに2回行っているが、まだ咀嚼できないところが多くて、また行く予定。

ちなみにプリントもあまり売れていないそうなので、金満家は買うといい。たぶん将来いい値段になります。
おれならば金が余ってたら、とりあえず屏風を買いたい。
常時見ていると疲れるが、あれならば見たいときに広げればいいし、内容的にあるていどの大きさが必要なプリントだと思うが、屏風ならばかさばらない。

それにつけても金のほしさよwww

六田知弘「水ノ貌」展1。別次元の写真。

今、東京京橋の加島美術で、写真家・六田知弘さんの「水ノ貌」展が開催されている。
http://www.kashima-arts.co.jp/events/mizu_no_bo/index.html

先日見に行ったところ、六田さんとお話しすることが出来た。
それもふまえて、自分も考えなどもいろいろ書きたいが、まだ整理がつかないので箇条書きに。

・今回の写真展は、瀧を中心に写したものであった。那智の瀧とのこと。でもそれは重要ではあるが、本質的ではないことが後でわかってきた。
・最初の感想。実際に瀧を見ていると、動いているはずなのに、時間がたつと止まっているように見えてくる。その不思議さが写真として捉えられているような。
・例えば、瀧のそばによると轟音が聞こえてくる。しかし時間がたつと、その轟音は聞こえてこなくなってくる(意識に立ち上らない状態になってくる)。それと似ているようにも思える。
・芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を思い出した。

・瀧の周囲だろうか。雪景色の写真。モノクロのようだが、よく見るとカラーであった。
・池のハスの大判の写真。パンフォオーカスで、白、グレー、黒によって構成された抽象表現に近くなっているが、しかしその寸前で戻ってきているような印象。その間合いが面白い。
・瀧の写真の屏風仕立て。画廊の人が言うには、もともとある程度時代を経た屏風に、現代の六田さんの写真を貼ったもの。なるほど銀箔が貼ってあるが、酸化している。屏風としては日本間に合わせるのは難しそうだが、モダンアート的な作品として楽しむ人もいそうである(アメリカ人の富豪とか)。
・これと対になる屏風があったほうがいい。六曲二双という考え方。そちらは瀧の動に対して、静的な写真、カラーも良い。この件、六田さんと話したら、すでにある(頭のなかに?)と言っていた。
・1階は、瀧を中心にした作品であった。

・2階にあがると、まずはハスのつぼみの写真。水滴のついたクモの巣。緑の水面のうえのすこし枯れたようなハスの葉。好きな写真である。森の雪景色の写真は抽象表現の一歩手前で戻ってきているような。
・このへんで、六田さんと話をはじめた。
・まずは全体を見た感想。瀧を中心に、そのまわりの事象、時間の動きをとらえたひとつの小宇宙のように見えた。しかし後で話しこんでいくと、それだけのものではなかった。
・2階には水滴のビデオもある。1分前後のもの2本。はじめて撮ったビデオだったそう。見ていると頭がぼうっとするような、ある種のドラッグ的トリップ感。
・1階に下りて話の続き。

・この写真群は何か。抽象表現に肉薄しているが、しかしやはり具象である。さらにいえば、概念芸術に走らず、しかし具象的にただ写しとったという段階ではない。おそらく抽象と具象に分かれる以前、主観と客観に分かれる以前、そこに近づいているような印象。
・それは名付け不能なものであるが、しかし、確実に存在するものでもある。言葉にすることは難しいのであるが、それを機械の目としてのカメラで捉えている。
・六田さんは「それ」のしっぽを掴んだ感触があるという。しかし一緒にひっぱってくれる人が必要。今回の画廊の若いスタッフが一緒に引っ張ってくれた。六田さんのいろいろな引き出しから、本人も気付かないようなものを見つけてきて、これまでにない見せ方をしてくれた。
・六田さんの昔からのファンには、変わったように思われるかもしれないが、本人としては一貫している。
・私から言えば、「時のイコン」で写された瓦礫とは何か。もとは生活のなかに位置づけられ、ものとしての意味があったが、震災の津波で押し流され、意味を剥奪されたもの。たしかにそこにあるが名称不可能になったもの。それを捉えていた。その点で、やはり「それ」のしっぽのようなものは見えていたのかもしれない。
※見ようによっては単なる瓦礫でもあるが、それだけでは片付けられないものがあるゆえに、写真として撮られ、作品として成立している。
・同じように、今回の作品もたしかに存在するが、名付けられないような、安易な意味付けを拒否する(=名付けると大切なものが逃げてしまう)ようなものを捉えている。

・それにしても昔からの六田さんの写真のファンは戸惑うらしい。たしかに、「写されたものがはなんであるか」とは言葉にしにくい写真、わかりやすくはない写真である。同時に感情移入、情緒を排するような作品でもある。
・件の屏風、年配の方からは、写真が強すぎて置けないという声があったそうだ。感情移入しにくいからか。
・しかしそういうファンの方たちでも2階に行くと落ち着く。おそらく両方が必要なのだろう。

・六田さんには「宇宙を構成する五大原素 - 地水火風空」という全体計画がある。いずれはもっと大きいところでやりたいが、今回は五元素のうちのひとつである「水」を扱った。いずれすべてをそろえて、大きいところでやりたい。
・情緒、感情移入の問題、スティーグリッツ「等価物 Equivalent」は、雲を撮影したものであるが、撮影者の感情、意識と等価物という意味でそう名付けられている。しかし六田さんはそうではなく撮りたい。
・五大元素それぞれの対象は大きい。撮影する自分は部分であり、全体は部分より必ず大きいので、等価ではない。スティーグリッツ的雲、また荒木的雲ではないかたちで追及したい。

・それにしても、いずれは石に帰る。
・ただしストーンヘンジ(的なもの)ではない。あれは石そのものではなく、むしろ建築である。
・むしろ石をそのように用いたくなった古代人の気持ち、そう行動させた、その石自体の力に意味がある。それを撮りたい。

・撮影のためのこれからの時間を考えると、現在57歳である。潤沢に時間があるわけではない。そのため頼まれた仕事(美術品撮影)にはためらいがある。なぜなら撮影に集中しすぎて体力が消耗するから。
・しかし、瀧の撮影などはむしろ楽だった。つまり自分自身が一種の感光体になって、対象に向き合って、撮れるものが撮れれば良いと考えているから。いわばカメラを媒介にした依り代のようなものでもある。
・ある意味、現代写真の最先端にいるとの自負があるとのことだった。たしかに理念にも、既成の概念にも、宗教にもたよらず、カメラという機械の目だけを頼りに、ものの本質にせまっている。そしてあるレベルの達成があるように思う。
・たぶんもう海外に打ってでたほうがよい。世界レベルの写真にになっているのではないかと思う。

写真について真剣に考える人ならば必見です。
私としては、「五元素」という大きなテーマを最後までやり遂げてほしいと思う。
時間はかかりそうですが。


ちょっと俗っぽい話をすれば、今作品を買っておけば、将来コレクターに売れんじゃないかな。
お金のある人は写真を買って応援し、ない人は写真展にまめに行って見るといいと思う。
私は後者です。残念だな。

桑原甲子雄「トーキョー・スケッチ60年」展(世田谷美術館)

6月8日まで、桑原甲子雄が暮らしていた世田谷の世田谷美術館で写真展を開催している。住んでいたのは馬事公苑近くらしい。
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html

いろいろ情報は出ていると思うので、気付いたことをいくつか。
・図録には出ていないようだが、子供が二人、上野不忍池端の柳が風に吹かれているところで、丸いものが付いた棒状のものの前でたたずんでいる写真がある。
以前から気になっていたので、ちょっと学芸員さんに確認してみた。すると思ったとおり、街頭体重計であろうとのことだった。この写真が撮られた年代に多少流行ったらしいとのこと。
https://www.google.co.jp/search?q=%E8%A1%97%E9%A0%AD%E4%BD%93%E9%87%8D%E8%A8%88&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=-2iHU5TDB4SbkgXQkYG4AQ&ved=0CAYQ_AUoAQ&biw=1024&bih=664
・図録63ページ、仕立て屋のディスプレイになっている、上半身だけの眠りこけた男の蝋人形について。
直接は関係ないのだが、たまたま古い「暮らしの手帳」(1975年)を読んでいたら、この年は桑原氏の「東京昭和11年」が刊行された年で、読者が感想を投稿していた。このなかで、そのころ本郷あたりには人体模型を作る会社があったという一節があった。昔は人体模型を蝋で作ったらしい。
写真が撮影されたのは浅草で、この辺には見世物用の蝋人形を作る工場(こうば)があったのかもしれないが、本郷、上野、浅草はそれほど遠くない距離である。そのような工場はいくつもあったのかもしれないが、なんとなく関係あるように思ったりもする。
なんで仕立て屋のディスプレイに蝋人形なのか。しかもそれがどういうわけか酔っ払いが眠っている像というのもどうにも不思議で、以前から気になって仕方がない写真だ。
・世田谷美術館へは、小田急線で千歳船橋で降りて、ほこりっぽい環八をしばらく歩いて行った。
途中、スーパーのサミットがいくつかあったのだが、桑原氏の撮影風景のビデオを見ると、帰宅する場面で、サミットの前で桑原氏が車を降りている。
どうも都内でも世田谷にはとくにサミットが多いようで(16店もある)、この場面は桑原氏の地元である世田谷らしさをかんじる。
http://www.summitstore.co.jp/tirashi/m_t_23.html
ちなみに、うちの近所の新宿区には一軒もありません。
撮影行のビデオを見ると、桑原氏の声はけっこう張りがある甲高いかんじの声だった。お元気な方だったんだろうと思う。

今回の写真展では、パリで撮影されたものがまとまって見られるのが目玉の一つだろう。以前、麹町のボンカラーで見て以来である。
やっぱりいいですね。

アンドレアス・グルスキー展

国立新美術館で開催中なので、行ってみた。http://gursky.jp/
以前から、独特の大画面での細密描写に魅かれていたので期待して行ったのだが、ちょっと違ったかな、と。

フィルムのカメラをプリントするとき、それなりにいろいろなテクニックがあり、それらを駆使して自らの追い求めるイメージを定着させるということをしてきた。コンピュータの画像処理もその延長上にあるといえるだろう(ただし、いずれにせよ修正をやりすぎるのは良くないと思う)。

解説を読むまで知らなかったが、グルスキーはかなり画像処理をしているという。例えば代表先の一つである「モンパルナスのアパルトマン」であるが、二つの視点で撮影した画像を合成しているそうだ。ただし、これは歪みなく撮影することがおそらく無理なので、許容範囲内と思う。
http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2001/gursky/montparnasse_pop.html

しかし、「ライン川」のように河岸の建物を消し去ってしまうようになると、なんだか不動産広告の写真(みっともないものは消されている)とどれだけ違うのか、とも思う。たしかに本人としてはいつも川の流ればかりが目に入るので、素直にそうしたのだろうが。
http://www.tate.org.uk/art/artworks/gursky-the-rhine-ii-p78372

いろいろと見ていくと、写真作品というよりは次第に現代アート的な傾向が強くなるようで(プラダ、フランクフルト(空港)オーシャン等)、そこが良いという人もいるだろうが、やはりストレートな写真作品のほうが好みである。
例えば、
「ルール渓谷」
http://www.kgi.ruhr-uni-bochum.de/archphot/gursky/ruhrtal.htm
「エンガディン地方」
http://2.bp.blogspot.com/_Hc505W05IxM/TSCyEYyyjyI/AAAAAAAADHk/wTtJJQ5a7DU/s1600/Gursky%252C%2BAndreas%2B-%2BEngadine%252C%2B1995.jpg
あとは、北朝鮮のマスゲームやらマドンナのライブの様子やらカミオカンデやら人を驚かすのに十分な作品なのではあるが、このへんになるとなんとなくあざとさも感じてくる。

残念なのは、かつての名作がごく小さいプリントだったことだ。
「図書館」
http://www.guggenheim.org/index.php?option=com_content&view=article&id=3467&Itemid=1438
「サンパウロ、セー駅」
http://www.voyantes.net/blog/?p=187

それにしても、「99セント」を見ていると、消費社会のなれの果てというか、けばけばしさの裏のさみしさ・貧しさが見えてきて悲しくなる。
http://www.c4gallery.com/artist/database/andreas-gursky/andreas-gursky.html

ところで近年は「バンコク」等のシリーズで水面の描写に取り組んでいるようだが、これはすでにいろいろな人がやっているうえに、そこからさらに新しいところに進んでいるようでもないので、あまり面白くないです。

好きな作家なのだが、1300円はちょっと高いかなというかんじでした。写真自体にすでに十分力があり、作家が語りたいことは十分表現可能と思うのだが、コンセプト重視になってしまったように思えた。でも館内は涼しいし居心地が良いので、酷暑を避けながら頭を冷やして考えるのに良いと思う。
それとも俺が期待しすぎであったか。

石元泰博死去

写真家の石元泰博先生が亡くなった。
タイトルで敬称を略したのは、写真史に残る人物なので、不要と判断した。

石元先生の作品で最初に出会ったのは、8×10の大判カメラで東京を撮影したシリーズだった(いまgoogleで探したが、ほとんどヒットしないね、どうしたんだろう)。
その後で、Chicago時代の作品や桂離宮の写真を知った。最近、もう写真を撮らないということで機材を処分されたような話も聞いていたが、予感するところがあったんだろうか。

ところで、田中長徳氏が、石元氏について書いている。
http://chotoku.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9c4e.html
この人、余技であったはずのカメラ雑文が本職になったようで、ちょっとさびしいのだが、さすがに写真を見る目はしっかりしている(そういえば吉田元さんの写真も評価していたのには驚いた)。
「我々には石元さんの仕事がある。これからが石元さんの本当の仕事の始まる時間なのだ」という末文には、写真に対する愛情と石元氏に対する尊敬とが感じられて、良いと思う。カメラ雑文は控えめにして、こういうものを書いてもらいたい。

Sudek氏のSad Landscapeについて

josef sudek sad landscape というキーワードでこのサイトにお見えになる方がけっこう多いようです。
人気のある写真集らしいですが、なかなか手に入らないようですね。
ちょっと気になって調べましたが、ebayで買えるようです。
173ドルというと、手数料込みで2万円くらいになるのかな。海外オークションは試したことがないのでわかりません。
もし、その気がある方はトライしたらいかがでしょうか。
URLは貼りますが、リンクはしません。
http://cgi.ebay.com/New-Sealed-JOSEF-SUDEK-SAD-LANDSCAPE-Smutna-Krajina-/190344880797?cmd=ViewItem&pt=Antiquarian_Collectible&hash=item2c5170629d
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