eeldogの鰻犬堂日乗(mankendo diary)

日々のよしなきことどもをつづります。 クリックすると写真が大きくなります。

2017-10

2014.1月22日付朝日新聞記事 日本版エル・システマ、福島で「進化」

この記事、震災被災地ということでエル・システマが相馬市で活動を開始して、それなりに成果が出てきたことをとりあげている。
http://www.elsistemajapan.org/index.html

それはまあいいのだが、この記事では背景になっている大事なことが抜けている。
そもそも、相双近辺はさまざまな音楽がいろいろなかたち盛んである。古いところではピアニストの荒憲一氏とか。
学校単位の活動を見ても、人口が少ないわりにはこの表のように全国レベルでの入賞も多い(とくに向陽中学校とか)。

だから、相馬の人にとっては、もともと盛んだった音楽活動のバリエーションが増えたというかんじであって、それ自体はとてもありがたいことではあるのだが、もともとなかったものがエル・システマによって実現したということではないだろう。
それは、エル・システマジャパン代表理事・菊川穣氏の言葉からも分かる。
「相馬市が選ばれた理由は主に二つあります。
災害からの復興・発展に向けた自治体の取り組みとして、子どもたちの心のケアと教育に積極的に取り組んでいたこと。
そして、もともと民謡や音楽が盛んな風土の中で、この事業についても積極的に関心を寄せてくれた市内音楽関係者が官民問わず複数いたことです」。

そのへんへの言及がないと、この記事ではあたかもエル・システマが音楽的な下地のない地域にやってきて成功したように読めるが、現実はそうではない。
ベネズエラで展開されてきた本来の趣旨からいうと、エル・システマはもっと震災の被害が大きく、しかも音楽がそれほど盛んではない地域で実施されるべきであったと思うが、成功の見込みが強いところを第一号にしたというところだろう。

まあ、ぜんたいにずいぶんテキトウに書いた記事(高久潤記者)だなと思います。
もらった資料をもとに、ちょっとコメントもらってまとめましたという程度かなと。

ところで俺の予想では、相馬市でのエル・システマの活動について小学生の時期は熱心だろうが、中学に入ると音楽好きの子はおそらく指導者もそろい、実績もあり、先輩もいて友だちとのつながりも強い、その中学校の吹奏楽部等に入ってしまい、エル・システマの活動は手薄になるだろう。ここをどう乗り越えていくかというところが今後の成否にかかわるのではないか。
記事中に「中学に入ると部活や勉強で忙しくなり1ヶ月休んだ」とあるが、人によってはこの部活が中学の吹奏楽であったりする可能性は高いと思う。

関係ないけど、一般社団法人エル・システマジャパン代表理事菊川穣 氏は、ある意味有名な?「日本ユニセフ」出身(ちなみに「ユニセフ東京事務所」のほうが国連機関であって、日本ユニセフは民間団体)なので、そのへんもちょっとアレなかんじではある。
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朝日新聞「プロメテウスの罠」山下俊一・長崎大教授に迫る。

先週からの「プロメテウスの罠」に、山下俊一という名前が出てきて、この連載の行方がどのようになるのか、気になっていた。
これまで自分なりにいろいろなものを読み、考えたところでは、この人物はどうも信用できない。
11月9日(土)の記事では、ヨウ素剤を服用させなかったことについて、取材のたびに発言がぶれていることを指摘している。国民の健康、とくに年少者の将来に関わる重大な案件に対して、このように発言がぶれるのは、本来ありうべきではない。やはり、本人も問題があったことを分かっているのだろう。※このへんは、記事を直接読んでください。

思うに、この連載の面白さは、実名主義を採っていることだ。相手が官僚・役人であれ、政治家であれ、学者であれ、発言や行動の意図や意味を取材している。官僚などは、自分の意思ではなく役職として仕事をしているので、個人名など出さないでほしいというのが本音だろうが、そうはいかんだろう。それをやると、先の大戦のように責任がうやむやになる。
例えば、役人が「それは前任者を踏襲しただけだ」と言うのならば、まず、なぜ踏襲したのかを問い、次に責任は誰にあるのか前任者を遡及して、たどれるところまで調べるべきである。もし、前任者をかばって遡及を拒む人がいたとすれば、責任はその人がせおうことになるだろう。
太平洋戦争敗戦時に、一部を除き官僚、学者はほとんど無傷であった。軍人以外にも戦争を強力に推し進めた責任があったはずなのに、官僚制は無傷であった。
その無責任体制が、今回の原発事故の遠因であろう。

だから、担当する記者に言いたい。「この調子でもっと書いてくれ」。

最近の朝日新聞を読んで

1.1月14日付けの朝日歌壇にて、朝日俳壇賞2012年の金子兜太選の入選句として、

 三月十一日去年(こぞ)となす初明り   (横浜市)猪狩 鳳保

という歌が選ばれていた。

作者の詞書として、「毎年元旦には、日帰りの旅をしている。車窓から見る初富士に、昨年は特別の想いがあった。この大震災の記憶だけは、決して風化させてはならないと」とあった。
この方は横浜在住の方のようであるが、「猪狩」という姓は、福島県双葉郡に非常に多い。震災前から横浜に居られたのか、それとも3月11日を期に横浜に移られたのか分からぬが、どうもそのへんも相俟って、なにか気になる歌であった。もっとも金子氏はそこまで考えずに選歌したと思うけれど。

2.1月15日夕刊の新聞小説「私はテレビに出たかった」の吉田戦車の挿絵は、どうも間違いのように思える。
この挿絵の中央に、パーフォレーションつきのフィルムの数コマが描かれていて、そこに蛇の絵が描いてある。このコマの向きが問題である。普通のカメラでフィルムを詰めて写真を撮ると、縦24mm、横36mmの画面となる(パーフォレーション8個分)。しかし、映画の場合、横24mm縦18mmの画面サイズ(パーフォレーション4個分)となり、コマの向きが逆になる。
吉田戦車は、エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)の馬の連続写真あたりと混同してしまったような気もするが 。「eadweard muybridge horse

ちなみに、マイブリッジというと、Philip Glass の The Photographerという作品を思い出す。
全曲はこちら。


お急ぎの方はこちらで。




それにしても、手抜き除染の問題を早く「プロメテウスの罠」で取り上げてほしい。

大西若人賛江

朝日新聞でしばらく前に編集委員になったようだが、美術関係の大西若人記者はひいきにしている。

さて、311の震災後、石巻市でお婆さんと孫が9日間家に閉じ込められながらも、無事救出されたというニュースがあった。そのとき、「将来は何になりたい?」と聞かれたお孫さんは「芸術家」と答えたという。
この件について大西記者は「大災害の中で芸術という言葉が語られたところに何かの光を感じた」(大意 記事のスクラップを忘れていたので、詳細は忘れた)と、このニュースからしばらくたってから書いていた記憶がある。

このせいもあったかどうかは分からぬが、最近は、昨年あたりよりも活発に書いているようにも見える。
記事が楽しみな方で、応援してます。

「天下の朝日新聞(自称)」様が拙blogを見に来たようで

アクセスログを見たら「atws02.asahi-np.co.jp」が「記者有論 平井良和」というキーワードで検索して閲覧しに来ていた。
この平井という記者について、俺はこう書いている。
http://eeldog.blog12.fc2.com/blog-entry-533.html

「外国人窃盗団」「雨当たれば被曝」被災地、広がるデマ という記事に対して、
>内容が別の出来事をあえて一緒にすることにより、本質的なことを無効化するというマスコミの常とう手段でしょう。
「黒い雨にうたれるな」ということをデマと断じた南出拓平、平井良和記者の罪は重いです。無知であれば、記者の資格なし。知っているのにそう書いたなら、人々に嘘をついたということになります。
>そうですね。私も当初は「黒い雨ならぬ灰色の雨」などと周囲に話していたことを思い出した。

雨に粉じんが混じっていれば被曝する。また、原発の爆発時の風向きで、粉塵がどこに飛ぶかわからない。実際、相馬市あたりより、飯館村、福島市、郡山市のほうが線量が高い。だから、やはり雨に濡れないことにこしたことはないのだが、それをデマと断じたわけだ。もし、この記事を読んで「雨にあたっても被曝しない」と考えた人が石巻市以外にも出たら、つまり福島県の人がそう思ったとしたらと、俺は考えた。その可能性は低くはない。

署名原稿なんだから、書いた記事に責任持てよ。

2011年1月10日付 朝日新聞 Globe 「写真は死んでいくのか」

記事の一部はこちら。
写真に関心があるので、期待して読んだら肩すかし。大きく振りかぶったが、後ろにこけたような風情。

フィルムからデジタルへの流れとか、デジタルデータ改変についての問題意識があるようだが、フィルム/アナログの時代から改変は付き物で、共産圏などよくやっていたな。
デジタルだとそれがやりやすくなったということで、根本的には変わらない。

そもそもこの記事では「写真」の定義があいまい。
photographを直訳すると「光の絵=光画」であり、べつに「真を写す=写真」という意味合いはない(うすい)。
定義があいまいだと、内容も散漫になる。
いろんな写真家の意見を載せているが、羅列されているだけのことで、そこには積極的な意味はない。
むしろ出汁にされた写真家が気の毒である。

また、メディア上での位置づけの変化などについてもふれているが、それをいうならグラフジャーナリズムの凋落、つまりアサヒグラフの廃刊(というかライフの休刊とか)のときからわかっていたことである。何をいまさら言っておるのだ?ヒロミックスの時から、写真はすでに特権的ではなかったのだ。それがデジカメとネットの普及で拡大表現されているわけだ。

散漫な内容だけに、こちらも散漫に書いてしまった。反省しておりまする。
アサヒカメラを刊行しているのだし、もうちょっと内容を煮詰めた、読み応えのある記事が読みたいものです。

朝日新聞 8月22日付 書評欄

1.浜田奈美記者 コラム「扉」
このなかで、ブックファースト店長によるブログ記事(http://www.ikkojin.net/blog/blog6/post-2.html)およびその余波を紹介していた。ブログのなかで、池上彰氏の著作乱発?をバブルと見て、他の例として内田樹と茂木健一郎あたりの名前が出ていた。このような話があったのは知らなかったので、紹介記事はありがたい。
さっそく、内田氏のブログを見たら、「ウチダバブルの崩壊」(http://blog.tatsuru.com/2010/08/13_0928.php)、「バブル後記」(http://blog.tatsuru.com/2010/08/14_1032.php)という文章で、真摯に受け止めていた(と思う)。武道を学ぶ方なので、セルフコントロールが上手なのではないかとも思う。「残心」という言葉も思い浮かんだ。

そういえば茂木氏は、以前4億脱税したのにあまりお咎めもなかったようで、そのことが強く印象に残っている。「忙しくて申告するの忘れた」という理由で通るなんて、税務署も寝ぼけてるのかね? 普通なら1億の申告漏れがあれば朝日新聞をはじめとするマスコミでは犯罪者扱いされて大騒ぎのはずなんだがな。
で、その茂木氏であるが、現状のまま行くそうです(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/08/post-be9f.html)。それぞれの判断だからだが、それでいいと思うが、この中の一文、「ある本がバブルだとか、浮ついているとか、そんな評価をするのは、一緒に仕事をした編集者(生活がかかっており、時には社運をかけて、一生懸命やってくださっている)に失礼」とあるが、柳の下の二匹目の泥鰌を狙うような編集者と仕事をしているのであれば、べつに失礼ということもないんじゃないか。そういう編集者は次のターゲットを探していると思うよ。自分の存在が消費されないように気をつけたほうがよかろうとは思うのだが。

2.佐々木俊尚氏 コラム「売れている本」 
今回は、塩野七生著「日本人へ リーダー篇」を取り上げている。佐々木氏は、なんとなく本の読み方が大雑把な印象があり、書くものも「言いっぱなし」(書きっぱなし)という印象がある(が、それは単に俺の思い込みだけかも)。
さて、このなかで塩野氏の「戦争には大義など、もともとない」(大意)という文章から、佐々木氏は「大儀なんて言うものは後から勝者が唱えるだけのも」と書いている。
塩野氏の独特の書き方は、ある一定層にはよくウケルだろうと思われるが、それはそれでいい。

ところで、イラク戦争開戦直前、国連安保理事会の会議では、エル・バラダイ氏は「イラクの大量破壊兵器の査察は継続すべきである」(=まだ戦争に踏み込むべきではない)と述べたが、それは受け入れられず、アメリカとイギリスは開戦に踏み切った。しかし、戦争の原因である大量破壊兵器は結局なかった(もともと存在していないことを承知の上で開戦に踏み切ったという説さえある)。
当時、テレビでその会議を見ていたが、大量破壊兵器の査察継続をすべきであるというのは俺には真っ当な意見に思えた。開戦なら、十分な査察の後でもできたはずであるし、米英の圧倒的な戦力があれば、どちらにせよ負けるわけはない。
このことを思い出すと、開戦側が「大量破壊兵器の存在」という「大義」を口にし、しかもその時点で、その大義に疑わしさがあるとすれば、やはり米英に対して疑義を示してもおかしくはない、というかそれが正常であると思う。
佐々木氏が書くように「日本では、どこにも存在しない空虚な理想に依拠し、情緒的に政治や社会を語る風潮が蔓延している」とも言える。たしかにそうだが、それは佐々木氏も属しているマスコミがその風潮を作っていることだよ。自らの足元を見よ。
また、開戦理由が薄弱であれば反対するのは、別に「空虚な理想に依拠している」わけではない。正当なことほど、正当な手続きが必要である。つまり「目的は手段を正当化しない」。これは人類が血を流しながら、やっとたどり着いた認識である。フランス革命、ロシア革命、卑近なところでは小泉改革、と例を挙げるまでもない。戦争はさけるべきだが、どうしてもやるというのなら、人が死なねばならぬのだから、せめてきちん開戦と終戦後の後始末をやってくれ、という考えもあるのだ。開戦に反対したもの全員が、「空虚な理想に依拠し、情緒的に政治や社会を語」っているわけではないのだ。
ちょっと興奮して筆が滑ったような気がするが、佐々木氏はもう一歩踏み込んで考えてほしいと思った。

さて、蛇足を少し。
塩野氏はローマ史の専門家であるはず。しかし、ローマ文明は実際的ではあるが、ギリシャは超えられないと多くの人が考えていると思う。その理由は、ギリシャは戦争においても、「理想」というか「あるべき姿」を考察しているからといえば言いすぎか。プラトンとかアリストテレスとか断片的に読みかじった印象にすぎないが。
やはり空虚であっても「理想」は大事だよ、空虚なままにしていてはいけないが。国家の規模で比べれば、ギリシャとローマは比べ物にならないはずだが、いまだにローマの師匠はギリシャといわれるのには、相応の理由があると思う。

けっこう良記事 教育欄「ウオッチ 絵馬を舞台 数学ブーム」

朝日新聞 2010.7.4(日)付、記者は花野雄太。

 冲方丁「天地明察」という江戸時代の和算についての小説が話題になっていることは知っていたが、それに関連する記事。記者が渋谷・金王八幡宮に行ったところ(何で行ったのかね、たまたまか?)、算額(の絵馬)が奉納してあり、記されたメールアドレスに連絡してみたら…という話。記者が自分の足で歩いて話題を探してみてこそ書ける記事だと思う。いわゆる「足で稼いだ記事」といいうのだろう。教育欄では建前論が多いせいか、こういう記事をなかなか目にすることがないので、目が洗われるようであった。

 ちなみに末文で、「(算額の)問題を解こうとしたが、文系の私には手も足も出なかった」とあり、軽くユーモアをまじえて終えているのもいいと思う。この方は新聞記者には珍しく、柔らかい心を持っているように思えるので、この調子で記事を書いてもらいたい。新聞によくある、図式に頼り切ったような無味乾燥な記事を書くようにはならないでほしい。

ステージ評 「北島三郎座長公演」

朝日新聞 2010.7.2(金)夕刊

 かつて新宿歌舞伎町のコマ劇場で開催されていた北島三郎の大歌謡ショー(現在は、五反田ゆうぽーとホール)についての記事。どうも大変に「ゴージャス」なショーらしく、ステージには実物大の漁船「北島丸」が登場し、廻り舞台で回転するらしい。「波しぶきを客席に浴びせたような演出」(一体どんな?)で「北の漁場」を歌い、フィナーレは「まつり」で、干支にちなんだ白虎にまたがったサブちゃんが客席にせり出すという。
 あまり関心のない分野であったが、見にいったらかなり感動しそうではある。面白い記事だった。藤崎昭子記者による記事。

2010/7/11付「天声人語」

 鳩山氏退陣からしばらくして読んだ記事(2010.6.16「ザ・コラム コザ暴動が教えること」外岡英俊編集委員)に以下の一節があった。

引用
「(鳩山総理辞任後、)沖縄の各地を歩いた。さぞや怒りや憤りが充満しているだろう。そう思って訪ねると、人々の反応は意外なものだった。「鳩山さんはよくやった。彼だけが沖縄の基地問題を、全国化、国際化してくれた。結果的には米国に押し切られたが、歴史的には、沖縄にプラスだろう」そう語るのは基地問題を全国に発信してきた音楽家・海勢頭豊さんだ」。
引用終わり

 執筆者からすれば、ほとんどの沖縄県民が鳩山氏を非難するだろうと思っていたので、「意外にも」という言葉が出たのだろうと思う。
 ところで、7/6付紙面では、小熊英二氏が沖縄基地問題について語っていたが、そのなかで、「戦後一貫して続いてきた、非対等な日米関係の延長線上でいまだに事が動いていると感じます。アメリカ政府は、在沖米軍が具体的に何の役に立っているのかは軍事機密だとして明かさない。限定的にでも情報を開示して沖縄県民や日本国民の合意をとろうともしない。それで日本の政権が危機に陥っても姿勢を変えない。いわば『問答無用』で、対等な関係とは言えません。ですが世論の関心は、鳩山政権の失策という点に集中し、そのことにはあまり目が向けられませんでした」と書いている。
 たしかに鳩山政権は「失策」といわれるように沖縄基地問題を解決できなかったが、今度の管政権ではそもそも基地を移転する話自体がどこかへ行ってしまった感がある。ならば、鳩山氏を降ろさずに、のらりくらりとアメリカと交渉を続けていたほうが、基地移転問題に関してはよほどましであった。失策はあったが、とにかく鳩山氏は基地移転を実現しようと考えて行動し、オバマ大統領をある程度は追い込んだのだから。

 そこで、本日(7/11)の天声人語を見て目を疑った。末尾に「夏草や普天間問題はや遠し」などと時事句めいたことを書いているが、「はや遠し」となるように仕向けたのは、天声人語子を含む朝日新聞にも責任があることを忘れたふりをする気だろうか。
 基地問題では、例えば「5月末には答えを出す」という鳩山氏の発言に対して、なにかといちゃもんをつけていたが、戦後65年間解決しない問題のまえで、1、2カ月の遅れについて非難するほうがおかしい。それともこのような「常識」すら記者たちに求めるのは難しいのだろうか。

 郷里の近くでは原発が多く建設されてしまった。後日、叔母が言っていたのだが、賛成派の集会には賛成派しか来ない。反対派の集会には反対派しか来ない。議論するのは、それぞれの党派に準ずる事のみ。だから、どちらにも顔を出さないようになってしまった、という。
 記者が取材する際、反対意見を得るために反対派に取材し、賛成派の意見を得るために賛成派に取材し、ということだけでは、どちらにも属さない普通の人々の意見(それが多数だったりもする)が得られないという基本的事項が分っていないならば、記者を辞めたほうが世の中のためになる。

 それにしても、天声人語子の能天気具合には驚いた。2007年4月より福島申二、冨永格という方が書いているそうだが、それなりの年齢の方だろう。しかし、もうぼけたのかな。
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